法宣寺の次は、「南禅坊」を訪問です(^.-)☆
ここも、アート作品の展示はありませんので、本堂・山門を拝見です。
◆南禅坊本堂(なんぜんぼうほんどう)・南禅坊山門(なんぜんぼうさんもん)
--- 登録有形文化財 平成26年(2014年)12月19日登録 ---
南禅坊は浄土真宗本願寺派の寺院で、天正年間(1573~1591年)創建。当初は福禅寺の南隣にあったが、江戸時代中期(正徳六年・1716年)現在地に移転した。『福山志料』には延享五年(1748年)、朝鮮通信使(第10回)の学士・書記と福山藩の学者伊藤大佐が南禅坊で接会し、漢詩文を唱和したことが記されており、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われた。本堂は、文政五年(1822年)火災にあったが、万延元年(1860年)再建した。
本堂は、内部を内陣(ないじん)・余間(よま)・外陣(げじん)に区分し、前面に吹き放ちの広縁(ひろえん)、三方に落縁(おちえん)をめぐらしている。要所に組物を多用し、豪華な彫刻を用いるなど、幕末以降に流行する装飾的な真宗本堂である。
山門は、一間一戸の四脚門の上部に、方一間で入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の上層を増築し、鐘楼とする。木部には全体にベンガラが塗られ、上層正背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓(えんまど)がある。軒先には強い反りがあり、異国情緒を漂わせる。上層の懸魚に文化七年(1810年)の墨書があり、朝鮮通信使(第12回)の来朝予定に備えて増築され、現在の姿になったと考えられる。
所在地:鞆町後地 南禅坊
員 数:2棟
構造・年代:
<本堂> -- 木造平屋建、入母屋造、本瓦葺、一間向背を付している・<山門> -- 木造二階建、本瓦葺、一間一戸の四脚門の上部に、方一間で入母屋造本瓦葺の上層を増築、鐘楼門
<本堂> -- 江戸末期、昭和40年・平成7年改修
<山門> -- 江戸中期、文化7年(1810年)改修
規模・法量:<本堂> -- 桁行14m、梁間17m・<山門> -- 桁行2.3m、梁間2.1m
◆広島県の文化財 -- 南禅坊山門
・【解説】
一間一戸(いっけんいっこ)四脚門(しきゃくもん、よつあしもん)の上部に、一間四方で入母屋造本瓦葺の上層が増築され、鐘楼を吊る構造。※ 現在梵鐘は無い。
福山藩の命令により安政5(1858)年に供出されたことが寺の文書『梵鐘一件記録』から分かっている。
懸魚(げぎょ)に文化7(1810)年の墨書があることから、上層は1811年の第12回通信使を迎える予定で増築工事を行ったものと考えられている。
木部には全体に弁柄が塗られ、上層正面及び背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓がある。隅棟(すみむね)の鬼瓦にそれぞれ異なる形態の猿が彫られているのも特徴的。
軒先の強い反りなど随所に、異国情緒を漂わせ、朝鮮通信使寄港地である鞆の浦の情景を彩る。
◆南禅坊(なんぜんぼう)
天正年間(1573~1592)に創建。江戸中期に現在地に移転。異国情緒を漂わせる鐘楼山門は、国の登録有形文化財です。本堂も国の登録有形文化財となっており、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われています。境内には、筝曲「春の海」で有名な宮城道雄の先祖墓があります。
…と、WEB上で確認しますと、こんなお寺でありました。
次に、お隣りの「阿彌陀寺(あみだいじ)」を訪問です。ここもまた、アート作品の展示はありませんようです。
◆阿彌陀寺
--- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12658/ ---
1565(永禄8)年に創建された阿彌陀寺は、鞆の人たちからは「あみだいじ」と呼ばれ親しまれています。
江戸時代の前~中期、10代目・雲洞上人の頃に中興を見ました。山門はとても立派で、鞆の浦の中でも随一。
その山門の右の方に、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)を合わせた鞆独特のお墓です。お大名でなければお墓が建てられなかった時代に、庶民がこれだけの供養塔を造るんですから、鞆商人の財力のすごさが窺い知れるというものですね。
・鞆の大仏、きらきらひかる
本堂には、「鞆の大仏」と称される「丈六阿彌陀如来坐像」が鎮座しています。光背までの高さは、なんと約5メートル。
中興第10世の雲洞上人が現(うつつ)に阿彌陀如来のお姿を拝み、その尊容を京都の仏師・安清に伝え、5年かけて完成させたものです。きらきらひかる、その威容、息を呑みます。
◇一流の名工の作、そこに漂う心地よい緊張
・鞆にもふたつだけ―江戸時代の梵鐘
境内には釣鐘もあります。この梵鐘は、1652(慶安5)年に「有磯町奈良屋」によって寄進されたものです。
江戸時代から残っている梵鐘は、鞆でもとても珍しく、ここ阿彌陀寺のほかには、明圓寺に残るばかり。緑青の深い風合いが、歴史の深さを雄弁に物語っています。
◇美しい釣鐘、どんな深い声を出してくれるのかな
◆阿弥陀寺
--- 釈迦・弥陀を拝む鞆の大仏 ---
阿弥陀寺がある鞆(とも)は瀬戸内山陽道の中央に位置し、古代から行き交う船の潮待ちの港として栄えてきた。寺社も多く、「鞆の浦古寺めぐり」があるほどで、港町と古都の魅力を兼ねそなえた町である。
阿弥陀寺は永禄8年(1565)に開かれた古刹。寺に参ってまず驚かされるのが本尊の阿弥陀さまで「鞆の大仏」と呼ばれる丈6(約2.6メートル)の座像、元禄時代の作という。造像を発願した中興(ちゅうこう=寺を興隆したことに対して贈られる称号)雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったという。
仏像には恵心僧都作の御首をいただき、生地は当時の高僧の袈裟に経文を書き記して着せたのちに黒漆を塗り、眉間の白亳には唐の鑑真和尚招来の仏舎利(お釈迦さまの遺骨)を、胸中に経文、胎内には当時の念仏講の過去帳と信者の手によって描かれた百万遍念仏図説が収められているという。
それにより、この像を拝むことにより、釈迦、阿弥陀さま、そして経典までも1度に拝めるということで多く信者を集めている。また、以上のことを何も知らない外国人及び若者でも、接すれば美しい慈悲のお相に心うたれる仏様です。
◆阿彌陀寺(あみだいじ)
永禄年間(1558~1570)の創建。本堂には「鞆の大仏」と称される阿弥陀如来坐像が鎮座しています。江戸時代から残る梵鐘もあります。山門の右の方には、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは鞆独特のお墓で、大名でないとお墓が建てられなかった時代の庶民のお墓です。
◆阿彌陀寺
心光山阿彌陀寺。永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。
・木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏)
光背までの高さ約4m、雲洞住職の代の元禄16年(1703)に作られた丈六の大仏。
江戸中期の都仏師による実に堂々とした優作で、これ程の大きさの仏像は地方においては極めて珍しく、鞆の経済力を如実に示している。
・鞆の津塔群
江戸前期に鞆の商人が建立した鞆独特の大規模な石塔で町人階級のものとしては格段に立派なものである。
この「鞆の津塔」が阿彌陀寺境内には、12基もまとまって現存し、当時の鞆の商人の隆盛振りを如実に示している。
・石造地蔵菩薩坐像 像高67cm 総高219.3cm
延宝3年(1675)に、わざわざ遠方の名石工・肥前州小城郡の富永仁右衛門に製作を依頼したもの。
鞆の商人が先祖の供養につくったもので、その豊かな経済力もみてとれる。木彫仏に迫る細密な表現で、また精神性の込もった近世日本で屈指の石仏に入ると思われる傑作である。
…と、こんな「阿彌陀寺(あみだいじ)」であります(^-^)//"
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