顕政寺を出ますと、お隣りは「法昌山 妙蓮寺」ですネ。
妙蓮寺sanでは、特にアート作品の展示もありませんから、本堂のみ拝観です(^-^)
山門を入りますと、庭園の手入れをしておられます方が…きっと、この方がご住職sanなのでしょうけど、会釈して擦れ違いです(^-^)
WEB上で検索しますと、こんな記載が…
◆広島県福山市鞆の浦 法昌山妙蓮寺 本堂
--- https://omairi.club/spots/106437/point ---
ご本尊は釈迦如来様で、鬼子母神と日像菩薩が両脇に祀られています。本堂内には立ち入ることが出来、書置き御首題が置かれています。
この日は、御首題箱には1枚もなく、再訪して頂く事にしました。
◆散歩道:妙蓮寺(広島県福山市鞆町)
--- https://kattinwalk.com/2020/11/12/s-tomo-myouren/ ---
広島県福山市鞆町にある「法昌山 妙蓮寺(みょうれんじ)」です。JR福山駅から鞆港までバスで約30分。その後、各社は殆どが隣り合ってるような近さなので、所要時間は省略します。
鞆の町の西側(山側)の南北に沿って寺院が集中している通りがあります。正式名が有るのか無いのかも分かりませんので、勝手に「古寺通り」と呼ばせて貰います。
古寺通りで少しクランク状になってる辺り、静観寺の隣、ささやき橋に接する所に建っていました。道を挟んだ向が公園になっていました。
当初予定に無かったのですが、現地で頂いたご朱印マップでご朱印があると分かったので、帰りに寄って見ました。
山門入ってすぐ、御住職と思われる方が庭いじりをされていたので聞いてみたら、「本堂の前においてあるので、ご自由にどうぞ」との事でした。本堂の入口前に長テーブルが置かれていて左端の木箱の中にご朱印が入っていました。
…と、こんなお寺でありました。
そして、山門を出て静観寺に向かっておりますと、手前に「ささやき橋・山中鹿之助首塚」が…
◆ささやき橋
--- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12659/ ---
静観寺のすぐ近くに、ささやかに盛り上がった小さな橋があります。ほんの1、2歩で渡れてしまう、橋ともつかない、橋—「ささやき橋」。ここに、悲恋の伝説があるのです。
1500年以上も昔のこと。応神天皇の招きで、百済から王仁博士(わにはかせ)が、大陸の進んだ文化や技術を伝える渡来人の一行と共に来日してきました。さて、その一行が鞆の浦に寄港した時のことです。大和朝廷は、“接待官”として武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)を、“官妓”として江の浦(えのうら)を派遣。この出逢いが、悲劇の始まりでした。
・今も昔も、忍び難きは恋心
渡来人の接待役として派遣された和多利と江の浦でしたが、ふたりは役目を忘れるほどの恋に落ちました。当時の鞆の浦は“七島(ななしま)”と呼ばれる、橋で繋がれた中州でした。その橋のたもとで、夜ごと、ふたりは逢瀬を重ねます。
しかし、間もなく上官の知るところとなり、結果、もはや抱き合えぬようにと後ろ手に縛られて、ふたりは海に沈められてしまったのです。
◇昔の鞆は7つの島から成っていたんですね
・ささやかれる、悲恋の伝説
ふたりが海中に没して、いつしか、ひとつの噂が実しやかに流れるようになりました。橋のたもとで、毎夜、和多利と江の浦の“ささやき声”が聞こえるというのです。そして、誰ともなしに、この橋を「ささやき橋」と呼ぶようになりました。
時は過ぎ、鞆の“七島”も地続きになりましたが、地元の人たちは、この悲恋を語り継ごうと、橋のあった場所に碑を建てました。それが現在の「ささやき橋」です。
◇今も昔も恋心は、変わらず…
◆ささやき橋
--- 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/hirosima/sasayaki.html ---
【ささやきばし】
鞆の浦にある石畳の道の途中にある橋である。ただし2歩もあれば渡りきってしまうほどの短さであり、おそらく欄干がなければ全く道の一部と思って通り過ぎてしまうような橋である。
第15代応神天皇の頃、百済より王仁博士が来日。一行を乗せた船が鞆の浦に到着した。朝廷はこの賓客をもてなすため、接待官として武内臣和多利、官妓として江の浦を当地に派遣した。ところが、この二人は仕事で何度も会ううちにすっかり恋仲となってしまったのである。橋のたもとで逢瀬を重ねる二人の仲はやがて上官の知るところとなり、密会を止めるように忠告された。しかしそれを止めることが出来なかった二人は罪を問われ、お互いが抱き合えないように後ろ手に縄で縛られると、そのまま海に沈められてしまったのである。
ところが、和多利と江の浦が密会していた橋のたもとで、夜ごと二人がささやきあう声が聞こえるという噂が立った。そしてその橋はやがて“ささやき橋”と呼ばれるようにあったという。
<用語解説>
・鞆の浦
古代より潮待ちの港として栄える。『万葉集』にも鞆の浦を詠んだ歌が残されている。
・王仁
『日本書紀』によると、応神天皇15年に百済より日本に来る。また『古事記』によると、『論語』と『千字文』を日本にもたらしたとされ、日本に漢字と儒教を持ち込んだ最初の人物であるとされる。
◆山中鹿之助首塚
--- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/13528/ ---
山中鹿之助は、毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士の1人。
天正六(1578)年7月3日、尼子勝久、氏久兄弟は切腹し、山中鹿之助は囚われの身になりました。7月17日の護送中、高梁川と成羽川の合流点にある「阿井の渡し」で殺害され、備中松山城に在陣していた毛利輝元は、そこで首実検をする。鹿之助の首は備中松山城から鞆城へ送られ、当時の将軍・足利義昭も首実検したと伝えられています。鹿之助の首は、この首塚の近くに埋葬されたと伝えられており、現在でも静観寺では毎年7月17日に「首塚祭」の供養が行なわれている。
◆山中鹿之助首塚
--- 観光スポット https://www.fukuyama-kanko.com/travel/tourist/detail.php?id=27 ---
山中鹿之助は、毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士の1人です。高梁川の阿井の渡で討たれた鹿之助の首は鞆城に送られ、鞆にいた室町幕府最後の将軍・足利義明が首実験したと伝えられています。
◆静観寺の前に立つ、山中鹿介の供養塔、と、ささやき橋
--- http://www.sawasen.jp/tomonoura/annai/yamanaka/index.html ---
戦国時代の武将・山中鹿介は尼子氏の再興に生涯をかけ、織田信長の援助をのもとに、毛利氏と対決していた。
美作・備前の国境にある播磨の佐用郡上月城に、尼子勝久を将として、鹿介は立て籠もりました。山陰道から吉川元春、山陽道から小早川隆景の毛利氏の軍勢三万に取り囲まれ、秀吉の援軍は三木城攻撃で手いっぱいもあって、孤立無援の上月城は落城しました。1578(天正6)年7月3日、尼子勝久、氏久兄弟は切腹し、鹿介は囚われの身になりました。
7月17日護送中、高梁川と成羽川の合流点にある「阿井の渡し」で殺害された。
備中松山城に在陣していた毛利輝元は、そこで首実検をした。鹿介の首は備中松山城より鞆城へ送られ、その時、鞆にいた最後の将軍・足利義昭も首実検したと伝えられる。
鹿介の首は、この首塚の近くに埋葬されたと伝えられる。今でも静観寺では毎年7月17日に「首塚祭」の供養が行なわれている。
首塚の右手に見える小さな橋が「ささやき橋」。
官妓「江の浦」と都から来た役人が恋に落ち、人目を忍んで愛をささやいたが、それが噂となり、罪を問われた悲恋の舞台だと言い伝えられてます。
◆山中鹿之助首塚(やまなかしかのすけくびづか)
--- 幕末トラベラーズ https://www.japanserve.com/bakumatsu/spt-tomo-shikanosuke.html ---
お家再興をめざす尼子家の遺臣・山中鹿之助は、毛利家打倒のため織田信長の支配下にはいって奮戦したが、播磨国上月城の戦いで毛利方に捕らえられ殺されてしまった。その首が鞆の浦に運ばれ、(前)将軍の足利義昭、毛利輝元がこれを確認(首実検)したあと、現地に葬られた。これが現在首塚として残っている。
・山中鹿之助首塚
戦国時代、中国地方の覇権を目指した毛利家と尼子家の争いは、永禄9年(1566年)第二次月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いで毛利側が勝利したことで決着がついた。しかし、尼子家の忠臣・山中鹿之助は何とか主家を再興させようと、織田信長に助力を依頼した。信長が毛利を滅ぼせば尼子家は復活できると考えたのだ。
織田家中で中国戦線担当だった羽柴秀吉は、天正5年(1577年)に獲った播磨国上月城(こうづきじょう)の守備を山中鹿之助らにまかせた。ところが翌天正6年(1578年)に毛利軍は3万の兵力で上月城を攻囲、鹿之助の奮戦もむなしく上月城は落城。鹿之助は捕らえられ、護送される途中、備中国阿井の渡しで殺されてしまった。
当時毛利家は対信長戦のため、本陣を鞆に置いていた。また信長に京都を追放された室町幕府15代将軍足利義昭も鞆にあって毛利家の庇護を受けていた。山中鹿之助の首は鞆の毛利本陣に送られ、足利義昭、毛利輝元の首実検を経て、静観寺住職により当地に葬られたのだった。
ちなみに山中鹿之助は、正しくは「山中鹿介(本名・山中幸盛(ゆきもり))」。
…と、こんな「ささやき橋」と「山中鹿之助首塚」であります。
山中鹿之助首塚を通り過ぎますと、静観寺の山門が…
◆静観寺
--- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12660/ ---
鞆の浦で最も古く、そして最も多難なお寺「静観寺」。創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7,000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
ところが、相次ぐ戦乱や火災によって、多くの文化財は焼失。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。
・松上げ地蔵尊、奇跡の脱出劇
江戸中期、「静観寺」で大火災が発生しました。風強く、火の回りが早すぎて、時のご住職は身一つで避難。ああ、ご本尊を焼いてしまった…そう嘆きながら、ふと庭の松の木を見上げてみると、何とそこには、ご本尊である「お地蔵さん」が座っているではありませんか!そういう顛末から、ご本尊は「松上げ地蔵」と称され、現在でも守りの菩薩として信仰を集めているのです。
◇ご本尊の頬には、その時のヤケドの痕が残っているとか…
・鞆ねこも寄りつく、ご住職のお人柄
この「静観寺」には、積もった歴史以外にも、注目ポイントがあります。それが、ご住職のざっくばらんな“鞆語り”。ご住職が洒脱な口調で、鞆の歴史を教えてくれるんです。そのご住職のお人柄は、人間だけでなく、ねこも呼びよせちゃう。にゃあと鳴いて、いつの間にか境内に居ついてしまった、このねこ君。きみにも、ここは居心地がいいんだね。
◇静観寺、鞆ねこもお気に入りの癒しのスポットです
◆静観寺
--- https://nipponianippon.or.jp/story/scene1/1341.html ---
・住職に教わる歴史 静観寺の物語り
かつて、商業港として華々しく栄えた港町。長い歴史を経てもなお、色濃く残る独自の文化がある。鞆でもっとも古い寺の住職に聞く、鞆の歴史の物語り。
ただ、静謐、鞆の町の静かな古刹・静観寺の物語り。鞆湾から鞆町後地に向かって、北に伸びる一本の通り。
この「寺町通り」と呼ばれる南北の筋には、その呼び名に相応しく、各宗派のお寺さんが軒を連ねている。
その「寺町通り」のちょうど真ん中あたり、山中鹿之助の首塚を正面に見て、それから、左に視線を移す。すると、年を経た本瓦葺きの山門が、さわりと目に映じる。臨済宗・正覚山静観寺の表門。
門をくぐると、空気の流れが、しんと変わった。時をぴたりと留めたかのような清閑な境内には、わずかな葉擦れの音があるばかりだった。ただ、静謐。
ぼくは、陽の光に透けた桜若葉を眺めながら、古刹の佇まいを見せる本堂へと、足を進めた。
・ご住職の洒脱な「鞆の寺町語り」
時代の趨勢と共に歩んだ、鞆の寺町の歴史。本堂に入ると、ご住職が迎えてくれた。その福相に浮かぶ笑顔は、とても大らかだ。居室に通してもらい、そこでお話を伺う。
「ここの山門を境に雰囲気が、しんと変わったような気がしました。なんだか、境内の空気が止まっているみたいな。」
ぼくがそう言うと、ご住職は放胆に答える。「この町自体が止まってるようなものだからね」あははと笑い、それから、ご住職の「鞆の寺町語り」が、はじまる。
「この静観寺は鞆で一番古いお寺で、八〇六年に最澄が開基したと伝えられています。それまでの仏教ってのは、政治、つまりは貴族のものだったんだけど、最澄、空海あたりから、庶民にも拡まっていった。
そうすると、この鞆の町にも、あれよあれよとお寺が増えてね、最盛期、江戸中期には四十数軒のお寺さんが建っていた」
ぼくは、「この小さな町に?」と驚いて聞く。「そう、猫の額のような、この鞆の町の中に」
ご住職は笑いながら続ける。「檀家のために建てられた寺っていうよりも、豪商や大名のマイテンプルっていうかね」
マイテンプル?
「昔の鞆港は、今で言うと横浜並みの港湾機能を持った港でね。補給もメンテナンスも出来た。で、船乗りが遊ぶ場所もいっぱいあると。鞆は、そういう商業港として、発展を遂げたところだった」
ぼくは、多くの商人や船乗りたちが活発に行き交う、往時の鞆港の喧騒を思い浮かべた。
「でも、当時はまだ、入船の詳細なタイムスケジュールなんてなかった時代で、『待ち船は、どうも桜の散るころには来そうだ』なんてね」
ご住職はかんらと笑いながら、続ける。「しかも、支店や出張所なんて概念もなかった。そうすると、地方から鞆港に出張ってくる商人なんかは、今と違って車があるわけでもなし、だから、前もって宿に泊まり込んでなきゃしょうがないと」
なるほど、だからマイテンプルなんだ。
「そう。自分のお寺を建てとけば、そこを根城に出来る。あるいは西国あたりの大名が、参勤交代の中継基地として使う。また、朝鮮通信使が江戸に向かう途中に、大使はどこ、副使はどこ、通訳はどこ、って按配で役職ごとに分宿させたりね。そういうふうに、ホテルとか旅館みたいな機能が、その頃のお寺にはあったわけ」
さすがは、当時の国際的商業都市だ。そういったお寺さんの宿泊サービスからは、からっとした開放的な合理精神が感じられる。
「でも、明治に入って以降、海運から陸運へと物流のあり方が変わって、いっしょに商業の考え方も変わっていった。そうして、いわゆる豪商はみんなこけた。加えて、廃仏毀釈(きしゃく)。
まあ、仏教弾圧って言うと少し語弊があるけれど、そういったことによって、鞆の寺院の数はいっぺんに減って、二十数軒に。後に、さらに統廃合されて、今残ってる寺は、十九軒」
十九軒―減ったとはいえ、町の面積あたりの数を考えると、まだまだ十分に多い。
「まったく、四十軒もお寺が建ってた頃は、庶民はどこに住んでたんだっていうね」
ご住職は、そう言って、また気持ちよく笑った。
それでは、静観寺の山門を潜ってみます事に(^-^)//"
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