正法寺とお別れしますと、次は「慈徳院」を訪問です(^.-)☆
WEB上で「慈徳院」を検索してみますと、こんな記載が…
◆慈徳院
臨済宗妙心寺派、山号は大悲山、院号は慈徳院。
慶長年間、備後国を領有した福島正則によって、鞆の浦の寺々はほぼ一直線に結ばれ、寺町が形成されました。その寺町筋に位置するお寺のひとつが、この慈徳院です。福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し、現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。
・思わず息を飲む、山門の見事な意匠、鬼瓦
慈徳院の山門は、寺伝によると昭和17年ごろに再建されたものだといいます。この山門は薬医門の形式をとっており、屋根には立派な鬼瓦が見られます。その山門をくぐると、ふわりとした空気が流れる静かなお庭が迎えてくれます。四季折々で表情を変えるお寺さんのお庭、鞆っこにとっての癒しの空間です。
・静かに佇む薬師堂、先進的な国際的商業港のなごりが、ふわり
国際的な港町の先取の気風、宗派問わない薬師堂。
境内には薬師堂がしんと佇んでいます。当時の芸備藩主・福島正則がキリスト教に対し寛容であり、また、国際的な商業港としての開放的な鞆の浦の気質も相まって、この薬師堂には、宗派を超えた信仰が集まっています。いかにも、鞆の浦らしい、大らかにして開明的な、信仰の“かたち”ですね。
◆慈徳院 御縁起
慈徳院の開創由来は、口伝によると戦国時代に韓国の釜山港から伝来の薬師如来仏に帰依し信者となった数十人が小舎な薬師堂を建設し安置したことから始まりました。
そのまとめ役となった梅雪得松禅師は、浄財を集め本堂庫裡を建立、時を同じく芸備藩主となられた福島正則公の帰依を受け、本尊として聖観世音菩薩像を安置、慶長六年(1601年)福島正則公を開基(大檀越)とし梅雪得松禅師を開山として創建されました。
薬師如来仏は仏の悟りを感じ生まれつきの体の障害や様々な病気を治すとされ、慈徳院の本尊である聖観世音菩薩像は、苦難除去、病気平癒、厄除け、極楽往生、現世利益など幅広いご利益があると伝えられています。
--- 慈徳寺公式ホームページより ---
◆臨済宗 慈徳院
大悲山慈徳院。慶長6年(1602)、福島正則を大檀越として松雪得松が開山すると伝えられる。
その芸備藩主の福島正則は、キリシタンに対して友好的であり、妻子は洗礼を受けたと言われる。
海駅であった鞆には、そうした藩主の中でキリシタン文化が広まった。元禄3年(1690)の文書には「備後国沼隈郡鞆商売人切支丹宗信次女本人…旦那寺同所禅宗慈徳院ニ而土葬ニ取置…」『芸備キリシタン史料』とあり、慈徳院とキリシタンの関係は深かったのである。
こうした新しい文化、宗教を受容したのが港町鞆の特徴の一つである。
境内には、薬師堂があり、宗派を問わない信者がある。現在は京都・妙心寺派に属する。
…と、こんなお寺のようであります(^_^)v
早速、中に入ってみます。ここには、片岡幸夫sanの作品が(^-^)
作品のタイトルは『たたずむ』(素材:万成石)で、片岡幸夫sanのFacebookには、こんな自己紹介が…
◆片岡幸夫
--- https://www.facebook.com/dandy.ishiya1027/ ---
・自己紹介
児島高校 美術教師、出身校:東京造形大学 彫刻科、岡山大安寺高校に在学していました
本業は、高校の先生なんですねぇ~
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日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)