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 石段を上がりきりますと、まず眼に入りますのが梵鐘です。傍らには石碑がありましたけど、文字の判読は不能でした(^-^)
 鐘楼からお寺のようにも感じますけど、ここが「吉備大明神」、そして「吉備公廟」と思われます。
 WEB上で、「吉備大明神・鐘楼」を検索しますと、

 ◆備真備の偉大さを梵鐘をついてたたえることができます。
 その昔、地元の人々が「吉備さま」と崇める宝きょう印塔がありました。江戸時代、岡田藩主伊東長貞が吉備真備のものと確認して以来、吉備公廟として広く信仰を集めています。拝殿右側に吉備公墓碑、奥に廟が鎮座。今も時を告げる梵鐘は自由につくことも。また、吉備真備が学問の神様として信仰されていることから、毎年1月第二日曜の合格祈願祭は多くの受験生でにぎわいます。

 …と、この程度の記載がありました。
 右側から建物の奥に向かってみますと、「吉備公墓碑」の説明板が。これには、こんな記載がありました。

 ◆吉備公墓碑

 備中国下道郡八田村は我が封内にかかわる。村に吉備公の墳あり。年祀綿藐、何人のたてたる所なるを知らず。今ここに弘化丁末、厳君長之に命じて曰く「公の文学功勲古今に照映するは天下の知る所なり、ただこの墳その久しうして湮滅するを恐るる故に、いしぶみにして之を明章せんと欲す、汝それ之を銘せよ」と。長之辞する能わず、謹んで接するに公のいみなは真備、父は右衛士の少将下道の朝臣圀勝たり、その先は吉備津彦命より出で代々吉備に居る。
 霊亀中、従八位の下をもって遣唐留学生となる、時に齢わずかに弱冠を超ゆ。経支に通名し、かたがた衆技に達す。我が朝の学生にして文名を異朝に馳する者公をもって先となす。孝嫌帝太子たるの時、召して学士となし恩寵特にあつし。天平十八年十月吉備の朝臣の姓を賜い、右大臣に累遷す。
 初め大学釈典の儀未だ備わらず、公すなわち礼典を考え器物初めて備わる。ここに於いて礼容燦然観るべし。藤原の仲麻呂の反するや、公その必ず走るをはかり、兵を遣わして之をむかえうつ。その策略指揮みな機宜に合し、旬を経ずして賊すでに平ぐ、その天下に勳労有るかくの如し。ああ公の文学功勲赫然照映、今に至って朽ちず、もとより言を假るなし。今厳君の命、それ銘して之を表せざる可けんや。公は持統帝七年癸巳三月二十八日に生まれ、實亀六年乙卯十月二日薨ず、年八十三。進退去就の義に至ってはすなわち世おのずから公論ありまた議せず。銘に曰く、王道を尊崇し礼楽を経緯す、文運をもって盛んに武功また卓たり、これ公の郷、流風永く存す。ここに石碑に刻み民をして忘れざらしむ。
 弘化四年歳次丁未冬十月
 領主 伊東播磨守藤原朝臣長寛立石 男 長之恭撰 長生敬書

 そして、その隣りには、「備中岡田藩第八代藩主 伊東長寛 揮毫 吉備公墓碑」が。

 ◆備中岡田藩第八代藩主 伊東長寛 揮毫 吉備公墓碑

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 伊東 長寛(いとう ながとも)は、備中国岡田藩8代藩主。第7代藩主・伊東長詮の長男。

 ・略歴
 安永7年(1778年)閏7月24日、父長詮の死去により家督を継いだ。天明2年(1782年)2月18日、将軍徳川家治に拝謁する。天明3年12月18日、従五位下播磨守に叙任する。
 父の才を受け継いだ人物で、重臣の浦池九淵を重用して藩政改革を行なった。その結果、財政は再建され、寛政6年(1794年)には演武場、寛政7年(1795年)には藩校である敬学館を創設するなど、大いなる成功を収めた。
 はじめ五男・長禎(早世)、のち十一男・長之を世子としていたが、長之は病弱だったために廃嫡し、長禎の長男・長裕を世子とした。
 嘉永3年(1850年)6月11日に死去した。享年87。跡を長裕が継いだ。

 ◆吉備公廟

 石段を上れば吉備公廟。吉備真備を祀った廟で、地元では「吉備様」と呼ばれて親しまれているそうです。
 まきび公園の南側、急な石段の参道を上ると神社のような拝殿があり(しかしながら梵鐘もありお寺のようでもあります)、その奥に吉備真備(きびのまきび:奈良時代の学者)の吉備公廟が鎮座しています。
 廟の右手には、たくさんの絵馬が奉納されています。吉備真備は学問の神様として信仰されているので、合格祈願祭が行われる1月中旬には、たくさんの受験生が訪れるそうです。

 そして、建物の裏側には、吉備真備のお墓(吉備公墳)がありました(^-^)//" 

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