「琴弾岩」は、「下道氏公園」入口近くの橋(福頼橋)を渡り、対岸を川下方向(倉敷市方向)に走行しますと到着です。
それなりに大きな岩で、上部がほぼ平らですから、晩年故郷に戻った真備が、中秋の名月を眺めながらこの岩の上で琴を弾じた様子は、何となく想像は出来ますネ(^.-)☆
琴弾岩に上がり河岸を見下ろしますと、小舟が一艘駐まっておりました。ノンビリとした景観であります(^_^)v
近くに案内板がありますので、眼を通してみますと、こんな記載が…
◆琴弾岩
奈良時代に右大臣として中央政界で活躍した吉備真備公が、晩年父祖の地に帰り、中秋の名月の夜に、小田川に臨むこの岩の上で琴を弾かれたと伝えられているところから琴弾岩と呼ばれている。
昭和24年以来、町民は毎年中秋の名月の夜にこの岩に集い、真備公の故事にちなんで弾琴祭(ざんきんさい)を催し、岩上で琴・尺ハを演奏して公の遺徳をしのんでいる。
--- 倉敷市教育委員会 ---
そして、その隣りには「猿掛城跡」の案内板が…
◆猿掛城跡
小田川の右岸にそびえる猿掛山(標高230m)に築かれていた中世の連郭式山城遺構である。山頂の本丸跡には六壇からなる郭が南北に連なり、石垣・土塁・井戸・掘切・出丸などの遺構とともに、備中有数の山城の威容をよくとどめている。
山陽道の要衝に位置するこの城は、南北朝時代から室町時代にかけて備中で最も有力な国衆として活躍し、備中守護細川氏のもとで守護代をつとめた庄氏の居城であった。その後、天文22年(1553)頃から成羽城主三村氏の支配するところてなったが、天正3年(1575)に起こった備中兵乱で三村氏が滅ぶと、毛利元就の六男元清が在城した。同10年、羽柴秀吉による高松城攻めのときには、毛利勢の総大将毛利輝元が本陣を置いたこともある。その後、元清は茶臼山城(矢掛町東三成)を築いて移り、この城には重臣宍戸隆家を置いて守らせていたが、慶長5年(1600)関ヶ原の役後まもなく廃城となった。
琴弾岩の下に小径がありますので降りてみました。
小径から琴弾岩を眺めますと、こんな感じでありました。琴弾岩の下部には小さな石仏が(^.-)☆
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