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 阿部正方公墓所にヤッて来ますと、周辺は「鷹の羽会」のメンバーの皆様により、大変キレイに清掃されておりました。

 ◆福山藩 歴代藩主一覧

 1代 水野 勝成(かつなり) 1619(元和05)~1639(寛永16)1564(永禄07)~1651(慶安04) 福山藩初代藩主 奈良県大和郡山より移封
 2代 水野 勝俊(かつとし) 1639(寛永16)~1655(明暦01)1598(慶長03)~1655(明暦01)
 3代 水野 勝貞(かつさだ) 1655(明暦01)~1662(寛文02)1625(寛永02)~1662(寛文02)
 4代 水野 勝種(かつたね) 1663(寛文03)~1697(元禄10)1661(寛文01)~1697(元禄10)
 5代 水野 勝岑(かつみね) 1697(元禄10)~1698(元禄11)1697(元禄10)~1698(元禄11) 跡継ぎ不在の為 水野家断絶
 6代 松平 忠雅(ただまさ) 1700(元禄13)~1710(宝永07)1683(天和03)~1746(延享03) 出羽山形から入封 11年で伊勢桑名へ
 7代 阿部 正邦(まさくに) 1710(宝永07)~1715(正徳05)1658(万治01)~1715(正徳05) 宇都宮から移封
 8代 阿部 正福(まさよし) 1715(正徳05)~1748(寛永01)1700(元禄13)~1769(明和06) 大阪城代
 9代 阿部 正右(まさすけ) 1748(寛永01)~1769(明和06)1724(享保09)~1769(明和06) 総者番・寺社奉行 京都所司代・老中
 10代 阿部 正倫(まさとも) 1769(明和06)~1803(享和03)1745(延享02)~1805(文化02) 奏者番・寺社奉行・老中
 11代 阿部 正精(まさきよ) 1803(享和03)~1826(文政09)1774(安永03)~1826(文政09) 奏者番・寺社奉行・老中
 12代 阿部 正寧(まさやす) 1826(文政09)~1836(天保07)1809(文化06)~1870(明治03)
 13代 阿部 正弘(まさひろ) 1836(天保07)~1857(安政04)1819(文政02)~1857(安政04) 奏者番・寺社奉行・老中 日米和親条約の締結
 14代 阿部 正教(まさのり) 1857(安政04)~1861(文久01)1839(天保10)~1861(文久01)
 15代 阿部 正方(まさかた) 1861(文久01)~1868(慶応04)1848(嘉永01)~1867(慶応03) 京都守護・長州征伐 実は1867年没
 16代 阿部 正桓(まさたけ) 1868(慶応04)~1869(明治02)1851(嘉永04)~1914(大正03) 1869~1871 福山藩知事

 福山藩主として著名なのが第7代藩主「阿部正弘公」なんですけど、WEB上にこんな内容で綴っておられます方が…

 ◆老中阿部正弘公と徳川斉昭公の関わり、正弘公の墓所について

 --- 2017.3.13 https://iineiineiine.net/110.html ---

 ・徳川斉昭公との関わり

 阿部正弘(まさひろ)公は江戸幕府の非常に高い地位である「老中」のトップ、老中首座となった方ですが、海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)という役職を強化しました。この役職は外交や国防に対応するために作られていたものだそうです。
 正弘公はこの役職の参与(組織、この場合は海岸防禦御用掛、のトップを補助する立場のようです)として水戸藩の前藩主である徳川斉昭(なりあき)公を参加させています。これは越前藩の松平慶永(よしなが)公や薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)公の意見を取り入れた人事だったそうです。しかし日米和親条約が結ばれた後に斉昭公は参与を辞めています。斉昭公は和親条約を結ぶことに反対の立場だったそうです。
 斉昭公は異国の要求に屈して開国することに反対する攘夷派の方で、幕府内の開国論者の方々と対立関係にあったようです。正弘公は老中のトップという立場上攘夷派、開国派の政争が激化しないよう調整をしなければなりませんでした。
 また第13代将軍徳川家定(いえさだ)公の跡継ぎ問題が出てきたとき正弘公は一橋慶喜(よしのぶ)さんを推す立場、一橋派だったと言われています。一橋慶喜さんは第15代将軍徳川慶喜公ですがこの方の父親は徳川斉昭公です。

 ・阿部正弘公の墓所

 阿部正弘公は老中在職中に亡くなられました。亡くなられたのは39歳の時です。非常に若いですね。正弘公のお墓は東京都台東区谷中7丁目にある都立の霊園、谷中霊園の中に存在しているそうです。
 霊園内に寛永寺の敷地がありその敷地内に正弘公のお墓があるそうです。寛永寺というお寺は徳川将軍家と関わりの深いお寺という事で有名らしいですね。

 ・正弘公がおこなった事

 ペリー提督が初めて来航した時には老中のトップとなっていた正弘公ですが、米国が求めてきた開国要求にどのように対応したらよいか幕府内での相談だけで決めるという方針をとりませんでした。それまでは幕府のお偉方の中で重要事項を決めていたそうです。
 しかし非常に重大な事件だったからなのでしょうか、朝廷に報告し、幕府のお偉方だけではなく普通の幕臣やいわゆる外様大名にまでアメリカの対日要求に関しどのような意見を持っているか問い合わせるという行動に出ました。これによって大名の発言力が大きくなったと言われています。幕府の立場からするとこの振る舞いは不利益だったという事なのでしょうか。
 他に江戸湾に砲台を築いたり、海軍力を増強するため500石以上の船を持たせないように江戸幕府の初期から作られていた「大船建造の禁」という規制を撤廃しています。これによって幕府だけではなく他の大名も海軍を持つことが出来るようになりました。
 また洋式の砲術などを学ぶことのできる訓練所である講武所や海軍教育機関の長崎海軍伝習所を作っています。国防力増強に熱心だったようです。
 他の大名などに広く意見を募るという行為が幕府の足元をぐらつかせるという結果となったのは非常に有名なことのようです。
 正弘公としてはより良い意見が無いだろうかという考えからとった行動だったかもしれませんが、その後幕府内から相当な反発があったようですね。
 しかし幕府内だけで決めて和親条約を結ぶようなことをしたら、それはそれで朝廷をないがしろにしたという理由で他の藩からの批判は非常に強まったのではないでしょうか。いずれの方針をとってもどこかから強い反発が出る非常に大変な立場だったということなのかもしれません。
 先ほども書きましたが正弘公は39歳という若さで亡くなられています。死因はわかりませんが老中在任中になくなったのですから重い病気で療養していたわけでもないですよね。この時期に日本のかじ取りをするというのは本当に厳しかったのだろうなぁと感じた次第です。

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