「二子塚古墳」は公園として整備され、入口付近には、こんな案内板が設けられておりました。
◆史跡 二子塚古墳
--- 福山市駅家町中島・新山 ---
二子塚古墳は広島県の東部(備後地域)の標高約50mの丘陵上に造られた前方後円墳です。丘陵の南裾には古代山陽道が通り、東西交通の要衝に位置しています。この古墳は、墳丘、石室共に大規模であることから1948(昭和23)年、広島県史跡に指定されました。福山市教育委員会はこの古墳を保存し活用することを目的に、2002(平成14)年度から内容を確認するための発掘調査を実施しました。
その結果、墳丘長68m、後円部直径41m、前方部幅27mで墳丘の周辺には幅1.6~4m、最大深さ1.8m程度の周溝が全周し、それらを含めた総長は73mになることが明らかとなりました。墳丘は、自然地形を整地したのち、盛土部分は何種類かの土が交互に積まれていました。後円部墳丘なかばに平坦地がある、二段築成の古墳と考えられています。
埋葬施設は前方部と後円部に横穴式石室が1基ずつあります。後円部の石室は両袖式で、全長14.9mと吉備地域有数の規模を誇ります。石棺は播磨の竜山石製の組み合わせ式石棺でした。副葬品としては須恵器などの土器をはじめ、金属製の武器や、馬具があり、中でも大刀の飾りである金銅製双龍環頭大刀柄頭が出土し注目されました。瀬戸内沿岸では初の出土で、立体的な表現の二頭の龍がそれぞれ玉をくわえ、せびれがつくという意匠は全国的に例がないものです。
前方部の石室も両袖式で、奥壁から羨道入り口までの長さは12.6mでした。玄室の側壁は2段目から一段4段目の石まで残っていましたが、大部分の石材が抜き取られていました。
副葬品の内容から古墳は、今から約1,400年前、6世紀末から7世紀初頭頃の築造と考えられます。
備前・備中地域においては、古墳時代前期から後期後半にかけて巨大な前方後円墳が築造されたのに対し、備後地域では古墳時代中期から後期後半にかけて目立った前方後円墳は築かれませんでしたが、この時期にこの二子塚古墳が突如として出現します。また後円部の横穴式石室は特に大型で、玄室内の石棺は備中で採れる波形石ではなく畿内地域の前方後円墳の石棺に採用された竜山石を用い、石室構造や出土遺物からも畿内地域と関係があったことを示します。
二子塚古墳は、前方後円墳が消滅する時期において、日日本では最も新しい時期に築造された前方後円墳の一つで、7世紀前後のヤマト政権と吉備との政治状況を知ることができる点で、きわめて重要な古墳です。
--- 福山市・福山市教育委員会 ---
…と、こんな案内板のほか、「史跡二子塚古墳と周辺の主な後期・終末期古墳」の案内板も(^.-)☆
この近辺には、結構な数の古墳が存在しますけど、時間が許せば順番に巡ってみますのも楽しいものと思います。
それでは、前方部から拝見です。
前方部の羨道入り口には、「前方部石室」のこんな案内板がありました(^-^)//"
◆前方部石室
2013(平成25)年度の第5次調査で、石室の規模と平面形が明らかになりました。玄室は長さ5.1m、幅2.0m、羨道は長さ7.5m、幅1.6~2.0mの両袖式の横穴式石室です。玄室と羨道を合わせた石室全長は12.6mで、規模の大きいものです。
天井石は凡て抜き取られ、石材の大部分が失われていましたが、最も残りの良い奥壁寄りで4段(高さ2.6m)の石積が残っていました。
床面は保存のため部分的な調査に止めていますが、玄室の床面まで調査した第1次調査1トレンチでは、床面に敷かれた河原石や十数点の土器が出土しました。玄室は全面に河原石が敷かれていたと考えられます。前方部石室では、後円部でみられるような墓道はありませんでした。
現在、石室は埋め戻して保存しており、羨道の入り口の側石のみを見ることが出来ます。
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