01-720
02-720

 中国新聞sanの朝刊の「コラム・連載・特集」の『生きて』…欠かさず読んでいますけど、どなたが登場しましても、毎回、楽しく拝読させて頂いておりますGONsanです。
 先月からは、元プロ野球選手「広瀬叔功」sanの足跡が綴られております。
 どなたの場合もそぅなんですげと、各界にシッカリと名前を残され、先人の歩んで来られました力強い人生は、仲々面白いですし、学ぶべきところ多々ありますネ(^.-)☆
 GONsanが20代の頃には、広島出身の広瀬叔功sanが、何で南海に所属し活躍しているのだ…と不思議でしたけど、ふ~ん、色んな事情がありましたのですねぇ~

 ◆広瀬 叔功

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 広瀬 叔功(ひろせ よしのり、1936年8月27日- )は、広島県佐伯郡大野町(現:廿日市市)出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・監督、野球解説者。
 南海ホークスがパ・リーグの盟主として君臨した1950年代後半-1960年代に「鷹の爪」とも呼ばれたリードオフマン。愛称は「チョロ」。通算盗塁数では歴代2位、通算盗塁成功率.829とシーズン626打数は歴代1位の記録を保持している。パ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。

 ・経歴

 --- プロ入り前 ---

 大工の父・千代治と母・マツ子の間に、7人兄弟の6番目に生まれた。小学生だった1945年8月、学校での朝礼中に広島市への原子爆弾投下を目撃している。
 7歳上の姉は中学校教師で、嫁ぎ相手も中学校教師、次の姉の嫁ぎ相手も広島大学教授という教員一家に育った。広瀬自身も大野小学校・大野中学校では教員になることを目指し、普通科のある広島県立大竹高等学校に進学した。父、二人の姉は広瀬が高校で野球を続けることに反対し、「野球をやらない」という一礼を広瀬本人から取っていた。父は「広大にでも入ってもらいたい」と思っていたが、入学後に野球部から熱心に勧誘され、広瀬はついに家族に黙って「とうとう野球部に入ってしまった」という。
 高校時代は2年秋から投手を務め、3年夏にはエース・4番として活躍した。二塁走者を牽制しようとするが野手が動かないため、自分でマウンドから二塁へ向かって走って走者を刺した、という逸話を残している。高校の後輩には後にプロでも活躍した簑田浩二がいる。
 2年生の頃、先輩だった森内勝巳に誘われて地元・広島東洋カープの入団テストを受験し、森内と共に合格したが、卒業と同時に入団した森内に対し、広瀬は遊び半分で受験したために入団しなかった。広瀬が在籍していた大竹高校は全国高等学校野球選手権大会の予選でも勝利できない弱小高校で、広島の入団テストを受験して合格したとはいえ、広瀬への注目は集まらなかった。

 しかし1954年の広島大会予選で敗れた際、南海ホークス監督の鶴岡一人の知人で広島商業高校時代の同期だった上原清治の強い勧めで、南海ホークスの入団テストを受験した。上原は、広島県内の有望な高校生を次から次へと南海へ送り込んでおり、弱小高校ながら広瀬の活躍が上原の眼に留まったものだった。テストでは中百舌鳥球場での二軍練習へ参加し、翌日に大阪スタヂアムで行われた対近鉄パールス(二軍)戦へ先発登板したが、広瀬は3回を投げて1被本塁打3失点と結果を出せなかった。ネット裏で見守った鶴岡は「大したピッチャーとちゃうで。法政(鶴岡の母校)に行かせとけ」と言ったが、上原は広瀬を推薦し、高校卒業後の南海ホークスへの入団が決まった。
 南海の入団テストを受験後、高校を卒業するまでは陸上競技に手を染め、走幅跳で広島県2位になったのを始め、円盤投・砲丸投でも表彰状を受け取り、早稲田大学・順天堂大学から陸上選手として勧誘された。教員志望だったため早稲田に心が傾いたが、高校の教師から「(南海ホークスは)あの鶴岡さんが監督をされている名門チームだから」と入団を勧められた。

 ・各人の評価

 野村は広瀬について、「野球の天才は(自分は)二人しか知らない。長嶋茂雄と広瀬や。彼らは何も考えないでも凄いプレーが出来た」「野球生活で出会った天才が三人いる。一人は長嶋、一人は広瀬、そしてイチロー」「彼(広瀬)は来た球を自在に打ち返せる技術を持っていた」「(広瀬が)バットの素振りしてるのなんて見たこと無いですよ」「バッティングに関しては天才肌。ピッチャーから野手へ転向した時も素振りくらいするだろうと思っていたら、全体練習でバッティングをちらほらする程度」などと語っている。
 南海ホークス一筋で選手からコーチまで務めた堀井数男は、「ちょっと特殊で他の選手は真似出来ない。ああいう選手はもう出てこないだろう」「足が速い。肩が良い。(野球の)勘が良い。人の打てないボールを打つ。そういう特殊な技能を持っていた」と述べ、1953年に首位打者およびMVPを獲得した岡本伊三美は「初めて対戦するピッチャーだったとしても、ストライクであれば初球からバットの芯で捉えてヒットを打つことが出来た。残念ながら私には出来ないことだった」と述懐している。エースだった杉浦忠は「(走塁だけでなく)打撃も天才的」としたうえで、広瀬が1964年に腱鞘炎で打席に立てない際に代走で起用され、味方の攻撃が続いて広瀬に打席が回って来た際に「(通常右打者の広瀬が)なんと左打席に立ってセンター前へヒットを打った」と驚愕したが、監督だった鶴岡一人は広瀬を「天才的だが、ちょっと軽はずみな所がある」と評し、森下整鎮、国貞泰汎と共にチームを引き締めるための「叱られ役」としていた。

 広瀬が打率4割をキープしていた1964年当時、近鉄バファローズ監督だった別当薫は、「日本一の選手は誰か」との問いに対し、「みんな長嶋、王と騒ぐが、本当の意味の日本一ということなら、それは広瀬をおいて他にない」と言い切っていた。
 全盛期を過ぎてから南海へ入団した門田博光、藤原満は、天才としての広瀬を「選手としてはとにかく別格」(門田)、「とにかく半端じゃなかった。もうあんな選手は出てこんかもしれんね」(藤原)と表現している。

 …と、WEB上には、こんな記載がありましたけど、「広瀬叔功」san…本当に凄い選手でしたようですねぇ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)