吉備真備公銅像に上がりますと、此処には、像の右側に「吉備大臣入唐絵詞」「絵巻石屏風」が…
絵巻石屏風下に刻まれた説明文には、こんな記載がありました(^.-)☆
《絵巻石屏風下に刻まれた説明文》
◆絵巻石屏風
・吉備大臣入唐絵詞
奈良時代正二位右大臣に昇り軍制を改め、新暦を定め、農産を奨め、民訴を聴き、律令を定め、内乱を除き、人倫を諭し、片仮名を創始する等、善政を布いた吉備真備は朱鳥九(六九五)年下道圀勝の長男として此処に誕生した。そして留学生又遣唐副使として再度唐に行き先進の文物を日本に請来し、国政に大きな功績を遺し吉備朝臣の姓を勅許され、後には正二位勲二等右大臣中衛大将兼備中国下道郡大領に累進し、宝亀六(七七五)年八十一歳で薨去(こうきょ)した。この吉備真備が遣唐副使として渡唐した時現わした才智に感じ玄宗皇帝が帰国させなかった逸話を絵巻物にしたものがこの吉備大臣入唐絵詞である。
・吉備大臣唐に着く
吉備大臣の乗った遣唐船が唐へ入港しついで群臣に守られながら迎えの馬で唐の都長安へ向かった。
・大臣知識を試される
唐人は吉備大臣の才智を恐れて高い御殿に閉じこめたが大臣は平気でいた。そこで唐人は、日本にまだ無い本で試すことを計画した。従者の知らせでこの事を知った大臣は博士の講義を従者に暗記させ文選の文章と判ったので、古い暦の裏へその文章を書き散らした。それから三日たって来た勅使は文選が書いてあるのに驚いた上に日本では誰でも知っていると言われ慌てて皇帝に知らせた。皇帝は大変口惜しがった。
・囲碁のためし
唐人達は大臣を囲碁で試す事にし名人と対戦させた。しかし持碁になりそうなので大臣は相手の黒石を一個飲みこんだ。後に石を数えた処名人は一目の負になった。占いで調べたら大臣の腹中にあると判ったので吐出薬を飲ませたが大臣は秘術を使って薬だけ吐いて碁石は吐出さなかったのでとうとう大臣の勝となった。
・野馬台の詩
絵にないが蜘蛛の糸に導かれて野馬台の詩の謎を解いて唐人を感心させた。
・日月をかくす事
又幽閉されたので大臣は呪文で双六の筒の中に日と月をかくした為に天地が暗闇になったが慌てた玄宗皇帝が帰国を許したので大臣は日月を元へ戻し再び空が明るくなった。吉備真備はこのように知識が広く深い人だった。
それでは、次に「古代の丘」へと向かってみます事に。
「古代の丘」への入口辺りには、「古代の丘」と「囲碁発祥之地」の石碑というか記念碑が(^.-)☆
「古代の丘」の記念碑には、こんな記載がありました(^-^)//"
◆古代の丘
古代の丘は飛鳥・天平時代を中心に古代の文化と知恵をモチーフとしたオブジェを配置し歴史を通じて生き続ける賢者の知恵や宇宙観にふれられる場を創作しました。金形は前方後円墳を形どり前方部のお立台は易の八卦に通ずる八角とし舞台にもなります。後円部は径三〇メートルの円形を玉石で縁どりここにつぎの三種のオブジェを古代祭祀遺跡の環状列石のように建てました。
一、方位石 四神と星座で表現しました。
二、風物石 唐の風俗、文化を表現しました。
三、歴史石 吉備公の生涯と功績をオブジェで表現しました。
--- (現地解説板より) ---
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