猿掛城跡から下山後は、せっかく近くに来たのだから…と、小田川を挟んで対面に存在します「吉備真備公園」を散策となりました(^.-)☆
吉備真備(きびのまきび)公園(矢掛町東三成)は、奈良時代の政治家・学者吉備真備(六九五-七七五)を顕彰する目的で、吉備公ゆかりの下道氏(しもつみちしの)館址(かんし)と伝えられる地に整備。中央は吉備真備公像、右の建物は館址亭(吉備真備公園入口からの眺め)であります(^-^)
吉備真備公園に到着しますと、まず眼に入りますのが駐車場前に設置されています忠魂碑。
そして、「吉備公館址」の石柱と「吉備公ゆかりの地」の説明板が設置されてありました。説明板には、こんな記載が…
◆吉備公ゆかりの地
--- 矢掛町重要文化財(史跡)---
所 在 地:矢掛町東三成
指定年月日:昭和48年4月11日指定
管 理 者:吉備保存会
この吉備公ゆかりの地には屋敷跡とみられる土塁に囲まれた「だんのうち」と呼ばれる平地があり、このあたりから奈良時代の瓦片が出土している。(平瓦--平城宮六六六三型式、軒瓦--平城宮六六二五型式など)そのためか、この辺りの字は瓦谷という。
地元では、吉備公館址と称され、下道氏の館址と伝えられているが、ここに下道氏墓所を祀る寺院があったとする瓦谷廃寺跡説もある。現在、吉備大臣宮として祭祀されている。また、この宮の西に阿藤大簡(現浅口市鴨方町出身)の「吉備公館址詩」を刻む石碑がある。
毎年五月には吉備保光会による吉備公祭が行われている。
--- 矢掛町教育委員会 ---
倉敷市真備町(旧吉備郡真備町)の地名は、郷土の偉人吉備真備(きびのまきび)が生まれたところとしてつけられたようであります。
「吉備大臣宮」の参道入口付近には、「吉備真備公園」についての説明板と、「選定証」の説明板も…
◆吉備真備公園
旧山陽道の北側の平地三万平方メートルは、古代の布目瓦を出土すること等により古来から「壇の内」と呼ばれ、正二位右大臣吉備真備公の居館跡と伝承され、遺跡に指定されています。
遣唐留学生の吉備公が天平七年(七三五)当時世界最高といわれた貴重な文物をもって帰国して以来一、二五〇年になるのを記念して、県民有志により中国西安市へ日中友交のしるしの記念碑を建立しました。これを承けて吉備公の地元矢掛町ではこの館址に記念公園を建設いたしました。
公園は八〇メートルの石敷参道の正面に、上下二段になった基壇を造り、古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、上壇中央に総高六・四五メートルの吉備公の銅像を安置し、周囲に絵巻石屏風、大碁盤、日時計を配置し、広場に館址亭、産湯の井戸を整備しました。また背後の林地を古代の丘として前方後円墳を形どった広場に環状列石風にオブジェを建て、四方を守る方位石、古代風俗を示す風物石、吉備公の功績を示す歴史石を配置、周囲は森林浴を満喫できる憩いの場とし、県下唯一の古代オブジェ公園を造成いたしました。どうぞ林間を散策しながら古代の文化に親しんでください。
-- (文と平面図は現地解説板より) --
◆選定証
--- 吉備真備公園 ---
本公園は、わが国を代表する歴史公園として都市公園法施行五十周年等記念事業実行委員会が全国から公募した「日本の歴史公園百選」の一つに剪定されました。
平成19年2月16日
都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会 委員長 田邊 昇学
「吉備真備」をWEB上で検索して見ますと、こんな記載もありました(^.-)☆
◆吉備真備という人
吉備真備は、奈良時代、真備町あたりで勢力のあった氏族下道国勝(しもつみちくにかつ)の子として生まれました。早くから「一を聞いて十を知る」という大変な神童だったそうで、22歳のとき遣唐留学生として中国に渡り儒学をはじめ天文学や兵学を修め、学者として知識人として重用されるようになります。
57歳のとき再び遣唐副使として中国入りして多くの文物を学び、帰朝後は武勲をあげるなどして政治的にも活躍し、ついに右大臣にまでのぼりつめます。
つまり、吉備真備は、当時の一級の学者・知識人であり政治家でもあった人で、地元の人たちは奈良時代の大昔、小さな寒村から中央政界の大臣にまで上った吉備真備を大変誇らしく思い、『真備公』と親しみを込めて呼んでいます。
それではまず、「吉備大臣宮」にお詣りしてみます事に(^-^)//"
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