「二の丸跡」を過ぎますともヤッと「本丸跡」に到着です。
本丸は約300坪の広さで、南端は深い堀切により弥高山系と完全に分離され、その掘りあげた土により本南端は土塁を築いて三日月形に囲まれています。ご覧の画像の通り、南端には土塁が築かれています。この南側は大堀切。
「史跡 猿掛城」の案内表示板と共に、こんな説明板がありました(^.-)☆
◆備中猿掛城址
猿掛城は真備町妹(せ)と矢掛町横谷にまたがる中世以来の山城である。猿掛城築城のはじまりは東国の武将・庄太郎家長がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城(こうざんじょう)(山手村所在)へ入ったが、防禦(ぼうぎょ)に不便として、元久2年(1205年)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによる。
猿掛城は庄氏が366年間にわたり備中支配の拠点として利用した後、天正3年(1575年)に毛利元清が五千貫の領主として入城した。また、この城は天正10年(1582年)の高松城水攻めの際に毛利輝元の本陣となったことでも有名である。
関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、元清のあとを継承した毛利秀元が長府へ帰った後、慶長9年(1604年)、猿掛城に花房志摩守正成が五千石で入城したが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり、元久以来の名城も410年間で終局を迎えたといわれている。
--- 矢掛町教育委員会・猿掛城へ登る会実行委員会 ---
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