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 暫く登って行きまして、登り初めて1/3ぐらいの所に「寺丸跡」の標識が…
 延徳4年(1492)、細川勝久が猿掛城を攻めた時、庄氏を支援した香西氏が奮闘したすえに切腹しました。庄元資はその慰霊の為に、この寺丸に位牌塔を建て冥福を祈りました。
 のち、山麓の見性寺にその位牌を移して祀っています。
 「寺丸跡」に向かってみますと、こんな案内板が設置されておりました(^.-)☆

 ◆寺丸の由来

 延徳4年(1492年)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資はかろうじて退避したが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門一統は孤軍奮闘したすえ、城中にて切腹して果ててしまった。庄元資は香西五郎右衛門一統の功績を称え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈った。寺丸には今でも柱礎石、石垣基礎が残っている。
 のち、庄氏は永正5年(1508年)に山麓の椿原に洞松寺の末寺・見性寺を建立し、寺丸の位牌を移してまつり、永く供養を怠らなかったという。

 --- 矢掛町教育委員会・猿掛城へ登る会実行委員会 ---

 寺丸跡で、暫し当時に想いを馳せまして、再び登り続行です。
 暫く登って行きますと、次の曲輪が…ここにも案内板が設置されておりまして、遠くから見ますと「大夫丸の由来」と読めるような…

 本丸まで、まだ半分程度の場所に「大夫丸(たゆうまる)」。三村元親と庄為資が麓で激突した時、毛利元春の調停で講和しました。その後、三村家親の長男・元祐が庄為資の養子となり、のち猿掛城主になっています。
 その時、元々の城主・庄実近は隠居してこの「大夫丸」に移ったそうです。後で、「大夫丸の由来」にジックリ眼を通してみたいと思います(^-^)//"

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