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 イノシシ除けのフェンスから入り真っすぐ登っていくと「←猿掛城本丸方面」の案内表示板有り。
 この分岐を標示に従い左折し進みますと、仏像が祀られています。
 この仏像に手を合わせ真っ直ぐ進んで行きますと、また「猿掛城本丸方面」の案内表示が…いよいよ、ここから本丸方面への山登りが開始です(^-^)//"

 ◆猿掛城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ・概要

 現在の倉敷市から矢掛町にまたがる標高243メートルの猿掛山に存在した連郭式の山城である。
 その歴史は平安時代末期に遡るといわれ、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭であった庄家長が備中国に領地を与えられ、ここに城と居館を築いたことに始まると伝えられている。以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となった。
 南北朝時代初期には南朝の北畠親房に属し、足利尊氏配下の高師直と戦火を交えた。
 戦国時代中期の天文2年(1533年)当時の城主であった庄為資は、松山城の上野頼氏を攻め滅ぼし備中半国を配下に収め、為資は松山城に移った。猿掛城には一族の穂田(穂井田)実近が入った。天文22年(1553年)尼子氏と結んでいた庄氏に対し、鶴首城主で備中に覇を争っていた三村家親は毛利氏と結び猿掛城を攻略した。為資と家親は家親の長男の元祐を穂田実近の養子とし猿掛城主に据えることで和睦した。永禄11年(1568年)為資の子・庄高資は備中に侵攻した宇喜多直家に呼応したため、宇喜多氏が一時猿掛城を落とした。これに危惧を感じた毛利元就は四男の元清を遣わし猿掛城を奪取する。この年、毛利氏の援軍により家親の子の元親が高資を追い落として松山城主となり備中に覇を唱えた。

 天正2年(1574年)元親が織田信長と結んだため、毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こり猿掛城は三村氏攻略の前線基地となった。天正3年(1575年)5月に松山城が陥落し備中兵乱は終結、元親は自刃した。この時の戦功と元清の愁訴によって、元清は猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中国小田郡を中心に5千貫の知行地を与えられた。元清はそれまでの居城であった安芸桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。また、この際に元清は在城した猿掛城のあった穂田郷という在名から穂田(穂井田)を名字とした。

 天正10年(1582年)には羽柴秀吉による高松城水攻めの際、毛利輝元の本陣となった。天正11年(1583年)元清は猿掛城の西部にある茶臼山に中山城を築いて移った。猿掛城には重臣の宍戸隆家を城代として置いた。天正17年(1589年)、広島城の建設が始まると元清は普請奉行として広島に常住するようになった。
 慶長5年(1600年)毛利輝元が関ヶ原の戦いにおいて西軍総大将として敗将となったため、防長2国に大幅に減封された。城の周辺は幕府領となり、猿掛城は廃城となった。
 城跡は、矢掛町側が1996年(平成8年)4月1日に町の史跡に指定され、倉敷市側が10年後の2006年(平成18年)7月28日に市の史跡に指定された。

 ◆備中 猿掛城

 ・歴史

 築城年代は定かではないが南北朝時代初期に庄資政によって築かれたといわれる。庄氏は武蔵国児玉党の出自で源平合戦の功により地頭職を得て下向し、幸山城を拠点としたが、資政の時に猿掛城を築き拠点を移した。
 室町時代には守護代となるなど勢力を拡げ、天文2年(1533年)庄為資は上野伊豆守を攻め滅ぼして松山城主となり、猿掛城には一族の庄実近を置いた。
 天文22年(1553年)鶴首城主三村家親が毛利氏の支援を受けて猿掛城に攻め寄せるが勝敗はつかず、家親の子元祐を庄為資の養子とすることで和議が整い、元祐が城主となった。
 元亀2年(1571年)三村家親と毛利元清の連合軍が松山城を攻め落とし庄高資を討つと三村氏は松山城を拠点とするようになる。しかし三村家親が宇喜多氏に暗殺され、毛利氏が宇喜多氏と結んだことで、必然的に三村氏と毛利氏は敵対するようになる。

 天正2年(1574年)毛利氏が松山城の三村元親を攻め落とすと猿掛城も毛利氏の手に落ち、毛利元就の四男元清が穂井田家を継ぎ五千貫をもって城主となる。天正10年(1582年)羽柴秀吉による高松城の水攻めの際には毛利輝元がここまで出陣して本陣を構えたが、本能寺の変によって羽柴氏と和睦による。その後、元清は矢掛茶臼山城に移り、毛利元就の娘婿である宍戸隆家が入る。
 関ヶ原合戦後、毛利氏が防長に転封となると天領となり廃城となる。

 ・説明

 猿掛城は小田川南岸に聳える標高234mの猿掛山に築かれている。北の眼下には山陽道が通っている。
 猿掛城は山頂の主郭部と標高180m程の所にある太夫丸、そして北西山腹にある寺丸からなる。

 主郭は南端にあり南背後を土塁と大堀切、側面には畝状竪堀群と大きな竪堀を設けている。この主郭から北へ曲輪と低い段差で続いている。曲輪の東に大手門跡とされる虎口があり、その脇に井戸跡が残る。この辺りに東西に分断するように石が並べられているが、これは後世のもので土地の境界線を示したものである。この石はおそらく城内にあった石垣のものを転用したのであろう。石積はいくつか点在しているが、主郭の東側面にある石積の部分が比較的残存度が高い。一段下がって曲輪から曲輪へと北へ続き、曲輪の東にも虎口がある。
 標高180m付近にある太夫丸は南端に石積の段があり、北東端に虎口がある。さらに北東の側面には畝状竪堀群を設けている。
 北西山腹標高110m付近にあるのが寺丸で、庄氏が家臣の香西五郎右衛門一党の功績をたたえて位牌堂を建立したのに由来するという。

 ◆猿掛城

 猿掛城は、岡山県小田郡矢掛町と倉敷市真備町の境にある標高239メートルの猿掛山に築かれた山城です。
 源平合戦の功績により、建久三年(1192)に東国の部将・庄家長は、この地の荘園の地頭に任じられました。家長は幸山城に入りましたが、防御に不便があったため、元久二年(1205)頃に猿掛山に城を築きました。以来、戦国時代まで庄氏は、備中国中部の豪族として繁栄しました。
 天文二年(1533)、庄為資は備中松山城へ本拠を移し、猿掛城には城代として一族の庄実近を置きました。天文二十二年(1553)、吉川元春の援助を受けた三村元親軍と庄為資軍が猿掛城の麓で大合戦を繰り広げました。そして元春の調停により庄と三村は講和し、翌天文二十三年(1554)に、三村元祐が庄為資の養子となり、猿掛城主として入城しました。
 天正三年(1575)、備中松山城の三村元親を討った毛利元就は、六男・元清を猿掛城主に任じました。天正十年(1582)、備中高松城が水攻めを受けた際には、毛利輝元の本陣がこちらに置かれました。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦に敗北したことにより毛利氏が長州に移ると、慶長九年(1604)に花房正成が入城しました。しかし、元和元年(1615)の一国一城令によって猿掛城は廃城となりました。
 猿掛山は小田川に向かって北にせり出しており、小田川流域の関門となっています。山頂にある主郭部は、南から北へ下がる一の丸から六の丸までの曲輪で成り立っています。山の北側斜面には、大夫丸や寺丸といった曲輪が設けられていました。

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