今朝のA.M.5:00前でしたか…テレビのスイッチを入れますと、NHKの番組「時論公論」で、画面に『地下鉄サロン事件26年失われる記録“次”への備えは』のタイトルが…
そぅなんですねぇ~あの地下鉄サリン事件から、早や26年を経ますのですねぇ~
この事件が発生しました時には、GONsan一家は徳山市(現・周南市)に暮らしておりましたでしょうか…
事件発生以降は、連日のテレビ報道で、毎晩テレビに食いついて、進展を見守っておりましたGONsanです。
◆地下鉄サリン事件
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)は、1995年(平成7年)3月20日に東京都で発生した同時多発テロ事件である。警察庁による正式名称は、地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件(ちかてつえきこうないどくぶつしようたすうさつじんじけん)。日本国外では「英:Tokyo Sarin Attack」と呼ばれることがある。世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。
宗教団体のオウム真理教によって、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)で営業運転中の地下鉄車両内で神経ガスのサリンが散布され、乗客及び乗務員、係員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出た。1995年当時としては、平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界にも類例のないテロリズムであったため、世界的に大きな衝撃を与えた。毎日新聞では、坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件と並んで『オウム3大事件』と表現されている。
死傷者数で見ると2021年3月20日現在、日本最悪の大量殺人事件である。
★事件当日
1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現東京メトロ、以下営団地下鉄)、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガス・サリンが散布され、乗客や駅員ら14人が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。
営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定どおりのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。
1995年(平成7年)3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。これは村井秀夫と井上嘉浩が乗客数及び官公庁の通勤のピークが8時10分頃であると考えたためである。各実行犯は500-600gの溶液(内サリンは35%程度)の袋詰めを2つ、林泰男だけは3つ運び、犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いて下車。それぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走した。これらの路線ではラッシュ時には非常に混雑するため、車両間を移動することは大変困難であった。
この事件は教祖の麻原彰晃が首謀、村井が総括指揮を担当、そして井上が現場調整役を務めた。サリンは土谷正実・遠藤誠一・中川智正が生成したものが使われた。
★オウムの関与判明後
事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教団教祖の麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。
リムジン謀議(後述)には、麻原・村井・遠藤・井上・青山吉伸・石川公一の6人がいた。謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。
東京地方裁判所は、首謀者の麻原彰晃を始め、サリン製造に関与した3人(土谷正実・遠藤誠一・中川智正)、散布実行犯5人のうち林郁夫を除く4人と、送迎役5人のうち新実智光に死刑を言い渡した一方、新実と逃走中の高橋克也を除く送迎役3人(いずれも求刑は無期懲役)と井上嘉浩(求刑:死刑)には無期懲役が言い渡された。東京高等裁判所の控訴審では、井上にも死刑判決が言い渡された。サリン製造役3人および実行役4人、新実・井上の計9人に言い渡された死刑判決はいずれも最高裁判所で、2011年に遠藤の上告が棄却されたことをもって確定した。
2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして特別指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた容疑者は全員逮捕された。高橋が逮捕されるまでに、前述した新実を除く送迎役は全員求刑通り無期懲役判決が確定しており、高橋も他の送迎役同様一・二審で無期懲役判決(求刑:同)を受け、最高裁に上告中であったが、上告が退けられた。
2018年(平成30年)7月に、事件に関与した死刑囚たちの死刑が執行された。
当事件を受けて、サリン等による人身被害の防止に関する法律が制定される運びとなった。
既に26年経てしまいましても、まだまだ記憶に鮮明に残っていますこの事件。
この事件の首謀者の一人『村井秀夫』の両親は、徳山市(現・周南市)櫛ヶ浜のご出身で大変な資産家でしたとか…
JR山陽本線「徳山駅」~「櫛ヶ浜」の土地は、凡て村井家の所有で、櫛ヶ浜から徳山に出掛けますのに、他人の土地を通ること無く行く事が出来ましたとか(^.-)☆
当時も、櫛ヶ浜~徳山間の沿岸はコンビナートの建物・設備がズラッと並んでおりましたけど、広大な所有不動産を売却されましたのでしょうねぇ~
地下鉄サリン事件の首謀者「村井秀夫」の名前はスッカリGONsanの脳裏に刻み込まれてしまいましたけど、まさかGONsanが暮らしています徳山に縁があります人物とは…随分驚きましたネ。
この「村井秀夫」sanも、地下鉄サリン事件後に、刺殺されてしまいましたけど…
これも、結構ショックな刺殺事件でありました。
◆村井 秀夫
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
村井 秀夫(むらい ひでお、1958年12月5日- 1995年4月24日)は、オウム真理教幹部。大阪府吹田市出身。ホーリーネームはマンジュシュリー・ミトラ、ステージは正大師。省庁制が採用された後は科学技術省大臣だった。教団では麻原に次ぐナンバー2、科学技術部門最高幹部と見られていた。
・人物
-- 青年時代 --
子供の頃は内向的でSF少年であり、動物や望遠鏡で星を観察したり、グッピーやミジンコを養殖するのが趣味、勉強は得意で体は丈夫だった。城みちるに似ていたため、ついたあだ名は「ジョー君」。
テレビの影響で超能力や精神世界、仙道、ヨガなどに興味があり超人願望があったという。また、1972年に友人の兄がトラックへ飛び込み自殺する光景を目撃している。
大阪府立千里高等学校ではただ1人無遅刻無欠席を成し遂げ表彰された。その後、「歩いて通えるから」という理由で大阪大学理学部物理学科にトップ合格しX線天文学を専攻。大阪大学大学院理学研究科修士課程修了、理学修士となる。
◆村井秀夫刺殺事件
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
村井秀夫刺殺事件(むらいひでおしさつじけん)とは、1995年(平成7年)4月23日に発生した殺人事件。オウム真理教の幹部であった村井秀夫が、200人を超えるマスコミ関係者が集まる衆人環視のなか東京都港区南青山にあった教団東京総本部前で、山口組傘下の右翼団体「神州士衛館」構成員を名乗る、在日韓国人の徐裕行(ソ・ユヘン)に殺害された事件である。
・犯行
1995年4月23日午後8時35分、教団東京総本部ビル前において、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)のサティアン群から戻ってきた村井が、犯人によって刃物で左腕と右脇腹を続けざまに刺された。
村井ら教団幹部は、東京総本部に出入りする際は地下通用口を使用していたが、事件当夜はなぜか施錠されており、村井が外階段を引き返し1階出入口に向かおうとした際に襲われた(後述の通り教団の事件関与を疑う見方もあったが裁判では認定されていない)。この様子は、TVニュースで繰り返し放映され、日本中に衝撃を与えた。刺された後、直ちに村井は東京都立広尾病院に救急車で搬送されたが、右脇腹に受けた深さ13cmの刺し傷が致命傷となり、出血性ショックによる急性循環不全のため、翌4月24日午前2時33分に亡くなった。実行犯は事件後直ちに逮捕された。
…と、これまたショックな事件でありました。
それから暫くしまして、今度は連日『村岡 達子』の名前がマスコミに登場ですから、当時のGONsanには、これは絶句しますほどの衝撃でありました。
◆村岡 達子
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
村岡 達子(むらおか たつこ、1950年3月3日- )は、日本の宗教家。オウム真理教の元幹部。宗教団体Aleph元副代表および元会長。ホーリーネームはウッタマー。
★人物・来歴
広島県福山市出身。高等学校卒業後,上智大学外国語学部に進学する.上智大学中退後、早稲田大学第二文学部仏文専修卒業。ロサンゼルスに進出した大手日本企業に勤務するが、倒産のため帰国。1988年7月にオウム真理教に入信。同年12月に出家。
英訳仏典の日本語への翻訳や教祖麻原彰晃の海外渡航の際の通訳などを務める。
1995年のオウム真理教事件の発覚後に教団代表である麻原や代表代行である松本知子の逮捕により、同年6月に代表代行に就任。教団の宗教法人としての解散後も引き続き代表代行の地位にあり、2000年2月4日のアレフ発足において代表となる。
2002年1月29日、上祐史浩の教団代表就任に伴い、アレフ会長となる。
野田成人によれば、上祐の脱会直前の2007年3月1日に、2月10日の役員会の決議で副代表に就任したとされるが、野田と対立し教団を実効支配しているアーレフA派は同決議を有効と認めていない旨を、教団広報部を通して発表している。
また、村岡はアーレフの会計責任者を勤めてきたが、教団内の内紛によって2007年7月下旬に辞任した。
2011年6月、アレフを脱会した。また、8月には週刊誌のインタビューに「麻原尊師のことは好きで仕方がない。その気持ちは変えようがない」と応えている。
オウム真理教の元幹部だった村岡達子さんは、麻原彰晃さんの海外に同行しており、通訳なども務めていました。麻原彰晃さんや幹部らが逮捕された時には、教団の代表代行としても務めていました。
村岡達子さんは、現在関西で暮らしているそうです。オウム真理教とは離れており、現在では翻訳や英文の添削などの仕事をしているそうです。
こんな村岡達子sanで、中学3年時にはクラスも同じでした同級生ですから、これはもぅ大ビックリでしたねぇ~
福山に暮らしておりましたら色んな情報も入って来たのかも分かりませんけど、数年毎に転々としていますGONsanてすから、テレビ報道で「オウム真理教の幹部」と知りまして、本当に大きな衝撃を受けてしまいましたネ。
もぅ2年前になりますか…村岡達子sanのごく限られた親しい方のお話しでは、近年は福山に戻られ、英文翻訳の業務に就いておられますとか…
10年ばかり前に、私も購入して手にしましたけど、週刊誌のインタビューの中で、『麻原尊師のことは好きで仕方がない。その気持ちは変えようがない』との想いは、やっぱりGONsanには理解出来ません面でした。
お寺に親戚がありますにも関わらず信心深くありませんGONsanですから、麻原sanの思想はとても受け入れられませんし、村岡達子sanの想いは、今までも、これからも、ズッと理解できませんのでしょうねぇ(^-^)//"
今朝のNHKの「時論公論」を観ましたばっかりに、26年も昔に想いが飛んでしまいましたねぇ(^-^)//"
GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)