山頂にと上がって来ますと、中央部に「北条早雲生誕の地」の石碑が存在です。
そして、休憩所には『北条早雲』の足跡を記しましたパンフレットが置かれてありました。
◆高越城
高越城は小田原北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が青年期まで過ごした城として知られています。伊勢氏没落後は宍戸隆家の持城となりましたが、毛利氏の転封にともない廃城となりました。現在は高越城址公園として整備されており、山頂には「北条早雲生誕の地」の石碑が建てられています。また毎年4月には高越城址顕彰会を中心に「北条早雲まつり」が開催されます。
◆北条早雲の名言です
少しでも暇があらば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。
後北条氏の祖で、戦国大名の先駆けとも言われる北条早雲(伊勢盛時)の名言です。早雲は大器晩成タイプの武将で人生五十年が当たり前だった時代に、五十七歳で一城の主となりました。六十四歳のときに小田原城を手に入れ、相模一国を掌握したのは八十五歳になってからでした。
内政に優れ減税政策などを行い、小田原北条家の基礎を作りました。八十七歳にして、ようやく、嫡男・氏綱に家督を譲ります。最終的に北条氏は、秀吉台頭まで関東一円を百年にわたって治めています。
早雲は晩年、家臣の心がけを『早雲寺殿廿一箇条』として記しました。その中で早雲は少しでも暇があらば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。と、読書の必要性を説きました。また同時に手紙を書くことも促しています。
これは、優れた書物を読むことで己の教養を高めると共に文字を忘れないようにするためでした。
使い慣れた文字でも使わないでいると忘れてしまいますが、頭も鍛えることを怠らなかった早雲は、八十八歳まで現役を続けたといいます。
(早雲の年齢関して享年六十四歳説もありますが、どちらにしても当時としては長く現役を続けている武将です)
目標を立てて努力を怠らなければ実現できる。老いの壁を越えるお手本だと思います。
八十歳でエベレストの頂に立った三浦雄一郎さんの「八十歳は四度目の二十歳。限界まで頑張ってみたい」と登頂前に語った言葉。自らを奮い立たせ、自らの限界に挑戦できる、若々しい心に頭が下がります。
文武弓馬の事については、武士たる以上、常の道であるから、とくに書き記すまでもない次第である。
文を左にし武を右にするのは、古から伝わっている武士の道であって、文武はともに兼ねそなえなくてはならぬものである。
◆北条早雲の格言・名言
室町時代中後期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖。伊勢宗瑞(いせそうずい)とも呼ばれる。兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、重い税制を廃すなどの内政に優れ小田原北条家の基礎を作った。
生 永享4年(1432年)又は康正2年(1456年)
死 永正16年8月15日(1519年9月8日)
・自己の才能のある点をほのめかして申しのべたりしてはならぬ。事柄によって自分一人では計りかねるような御返事は、分別ある人に相談した上で(上司に)申しあげるようにするがよい。どこまでも自己というものを念頭に置いてはならぬ。
・神仏を礼拝することは、身の行ないというものである。神仏に対して拝む気持ちがあるならば、ただひたすらに心を正しくおだやかに持ち、正直一途に暮らし、上なる人を敬い、下なる者を燐み、包み隠しなく、有るをば有るとし、無きをば無いとして、ありのままの心持ちで生活することが、天意にも仏意にも叶うというものである。このような心持ちでいるならば、たとえ祈らなくとも神明の御加護はあるものであり、たとえ祈ったとしても心が曲がっていたならば、天道からも見はなされるものであることを、肝に銘じて、深く慎まなくてはならないのである。
・主人の所へ御出仕申し上げるときは無論のことだが、その他の場合、あるいは少々の用事があって今日は出仕せず宿所にいるのだがと思っても、とにかく髪を早く結わなくてはならぬ。ふしだらな格好をして人の面前へ出ることは、不作法で嗜みのない態度といわなくてはならない。もしもそのように、わが身に油断がちであるならば、使用している召使いまでがすぐにそれを見習って、他家の人たちが訪問してきた場合など、一家中でうろたえ騒いで、非常に見苦しいものである。
・言葉について常に慎んでいなくてはならない。一言聞かれても、その人の心は他に知られるものだから、注意せねばならぬ。
・刀や衣装は他人のように、ことに立派なのをつけようとしてはならぬ。見苦しくない程度で満足し、決して華美に流れるようなことがあってはならぬ。もしそれを無い物まで他人から借り求めたりなどして、無力な奴だと思われるようになったならば、世間の人から嘲笑を買うばかりである。
・たとえたくさんの者を召使っていても、すべての事柄をそれらの人に申し付けるのが当り前だと考えないで、自分自身でまず万事をやってみて、十分に様子を知り抜いた上で、それから人にやらせてもよいものである、と考えなくてはならぬ。
・文武弓馬の事については、武士たる以上、常の道であるから、とくに書き記すまでもない次第である。文を左にし武を右にするのは、古から伝わっている武士の道であって、文武はともに兼ねそなえなくてはならぬものである。
・わずかの時間でも暇があるならば、何かの本で文字の書き記されているのを懐中に入れておいて、人目を遠慮しながら読めばよいのである。文字というものは、寝ても覚めても常に手慣れるようにせねば、すぐに忘れてしまうものだからである。読むだけでなく、書く点においては、なおさらのことである。
・夕刻には、台所や茶の間その他の火の置いてある場所を自分で見回って、火の用心を家人に対してかたく申し付けておかなくてはならぬ。また、よそから火が出た場合、類火にならぬようにつねに注意して警戒することを毎夜のように申し付けて、習慣にさせなくてはならぬ。女房というものは、いかように育ってきたものであっても、そのような注意は少しもなくて、家財道具や衣裳などを取り散らかして油断しがちなものである。
・朝は常に早く起きるように心がけねばならない。遅く起きるならば、下の者までが気持ちを緩めてしまって、公務の大切な用事にも事欠くようになる。その結果は必ず主君からも見離されてしまうものと思って、深く慎まなくてはならない。
・古語に、「子の刻(午前0時)に寝て寅の刻(午前4時)には起きよ」と言っているが、そのようなことは、人によって当てはまるのである。つねに寅の刻に起きるのがよろしく、辰巳(八時から十時まで)の刻までも寝ていたのでは、主人への出仕も叶わず、御奉公にも事欠くことになるのみならず、また、自分の用事をもすることができず、全くつまらない次第であって、毎日暮らしているのも無駄なことである。
・「多人数の者と交わっては、差出がましくして事を起こすようなことがあってはならぬ」という言葉があるが、何事もしなくてよいことは、他人に任せればよい。
・上下万民すべての人々に対して、言半句たりとも嘘を言うようなことがあってはならない。いかなる場合でも、ありのままに申しのべることが大切である。嘘を言っていると、それが習慣となって、ついには信用をも失ってしまい、物笑いの種となるのである。己れが言った言葉について信が置けず、他人から聞きただされるようになっては、一生の恥と考えて、かりそめにも嘘は言わぬように心掛けなくてはならぬ。
・御奉公申し上げる用事の間には、乗馬の練習をするがよい。乗り歩く基礎を十分練習して、手綱のさばき具合や、その他の妙技について、稽古を積んで習得すべきである。
・友を選ぶ場合、良友として求むべきは、手習いや学問の友である。悪友として除くべきは、碁・将棋・笛・尺八などの遊び友だちである。これらの遊びは、知らぬといって決して恥にはならぬものであり、また、たとえ習ったからといっても悪事とまでは呼はれぬものである。これは、他になす事のない連中が、空しい時間をいかにしてすごそうかと考えて行なうものといえよう。
・夕方になったならば、六ツ時(午後六時)には門をぴったりと閉ざしてしまって、人が出入りをする場合だけ開くようにさせるがよい。そのようにさせなくては、やがては必ず何かの悪事がひき起こってくるものである。
…と、早雲は晩年、家臣の心がけを『早雲寺殿廿一箇条』として、事細かく記しておられますけど、最終的に北条氏は、秀吉台頭まで関東一円を百年にわたって治めています。早雲の教えは、ごく普通の当たり前の事ではあるのですけど、代々の北条氏の皆様も大変優れていましたのでしょうねぇ~
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