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 金魚岩とお別れしますと、井原ゴルフ倶楽部の真ん中を抜けます市道を走行し「高越城址」にと向かいます。
 ナビに眼を移しますと、高越城址への途中には「マリア観音像」の表示が…「マリア観音像」の案内表示板が有りましたけど、駐まることはなく、「マリア観音像」を横目に通過となりました(^.-)☆
 後で、WEB上で調べてみますと、こんな『マリア観音像』でありました。

 ◆井原のマリア観音像 -- 井原市指定重要文化財 --

 この観音像は、石で組まれた高さ1.2m、幅0.7mの箱に安置されています像自体は座像で、右手に持つ花枝が右肩上にのびています。頭上には、下にのびる線が短い十字架を刻んでいます。また、台石には、「聖母マリア東江原 田中忠蔵」の銘があります。
 田中忠蔵は、明治42年(1909)に亡くなった人物で、洗礼を受けていた熱心なキリシタンであったと伝えられています。
 時代は、明治時代と思われますが、この地域のキリスト教信仰を知る上での貴重な資料です。

 ◆マリア観音像(まりあかんのんぞう)

 市指定 有形文化財【指定年1975年】分類/石造美術

 ・解説 -- 石で組まれた高さ120.0cm、幅70.0cmの祠(ほこら)に安置されている。像自体は坐像(ざそう)で、高さ60.0cm、幅32.0cmの木の葉状の花崗岩(かこうがん)に彫られている。頭上には、下に伸びる線が短い十字架を刻んでおり、台石には、「東江原 聖母マリア 立田中忠蔵(たりゅうなかちゅうぞう)」の銘がある。
 ・所有者 -- 個人
 ・所在地 -- 井原市東江原町

 …と、こんな「マリア観音像」でありました。
 ナビに従い走行しておりますと、難なく「高越城址」駐車場にと到着です。

 ◆高越城址(たかこしじょうし)

 高越山城は北条早雲の出自と備中伊勢氏の盛衰を見、後に毛利氏による支配を伝える戦国の山城です。
 備中における山陽道の要害地としては、猿掛山城(矢掛町)に次ぐ要害地です。
 城は山陽道と小田川を足下に見下ろす高越山(172m)に築かれ、東は山陽道を矢掛から猿掛山城辺りまで、南は毛利氏の軍港であった笠岡から矢掛方面に北上する人馬の行き来が山陽道に合流する地点を俯瞰することができます。
 高越山城は山陽道を東上する軍勢だけでなく、瀬戸内海を船で下り笠岡の港へ上陸した毛利勢が、備中・備前の境界地点に展開する上で重要な補給基地でした。

 ◆高越城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 高越城(たかこしじょう)は備中国荏原荘、現在の岡山県井原市に存在した日本の城。戦国時代には備中伊勢氏の城で、北条早雲こと伊勢盛時の出生地である。井原市指定史跡。

 ・概要
 高越城から井原市(荏原荘)を望む、手前の山には出丸があった

 ・城跡碑と宇垣一成揮毫の忠魂碑
 旧山陽道を見下ろす標高172メートルの高越山山頂に築かれた山城で、山頂の主郭を中心に5つ程度の郭を配置し、南側の尾根にも出丸を備え、主郭背部には堀切を設けて防御設備として利用した階郭式の縄張りとなっている。この地は旧山陽道と南側の笠岡の港が合流する要地であった。

 ・沿革
 弘安4年(1281年)、弘安の役に際して、幕府軍の総大将として九州に出陣した宇都宮貞綱が築いたとされる。その後、備中国荏原郷を得た那須氏の城となる。室町時代になると備中国荏原郷や井原荘、笠岡村等を領した伊勢氏の持城となり、伊勢盛綱の四男である盛定が所領分割で荏原荘を得たため、その居城となった。
 盛定は庶流ではあったが申次衆として、同じく申次衆で備中伊勢氏惣領であった兄の伊勢盛富とともに京都に在住しており、所領は嫡男に任せていた(嘉吉3年(1443年)5月12日「伊勢盛経寺領寄進状」)。この嫡男が後に北条早雲と称される伊勢新九郎盛時である。
 盛時は後に京都伊勢氏の伊勢貞道(伊勢貞高?)の養子となり京都へと向かい、最終的には今川氏の後継者問題に絡んで伊豆国に所領を得て、北条五代の礎を築くことになった。
 その後の高越城は引き続き備中伊勢氏によって維持されるが、伊勢貞勝の頃に毛利氏に臣従し、高越城は宍戸隆家の持城となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、高越城も廃城となったと推測される。

 ◆北条早雲(ほうじょうそううん)

 戦国時代には京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、この高越山城を居城にしていました。伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享(えいきょう)4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。
 新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺(ほうせんじ)で学んだといわれています。
 その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕えました。
 応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。
 新九郎はこの今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。
 その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、88歳で亡くなるまで、後北条氏5代100年の関東支配の基礎を作り、戦国大名の魁(さきがけ)となりました。

 …と、こんな歴史があります「高越城址」。

 駐車場の一角には、『夏草の 中に起すや 古石仏 - 杜天』と刻まれました句碑が…
 残念ながら、この句がどなたの作なのか、「杜天」がどなたなのか、分かりませんでしたねぇ~
 ここには遺跡も有りますようで、こんな『高越遺跡』の説明板もありました(^-^)//"

 ◆高越遺跡

 この遺跡は、高越城址の北側丘陵にある標高約150メートルの丘陵上に位置します。この場所に高越城址整備事業が計画されたため、工事予定区域内に所在する高越遺跡の発掘調査を実施しました。
 調査の結果、弥生時代後期から終末期(今から約1700年~1800年前)にかけてつくられた竪穴住居16軒以上及び貯蔵穴80基以上が確認され、集落跡であることが明らかになりました。竪穴住居のうち、2軒は、焼失住居でこの時期の住居の構造を考える上で貴重な資料となりました。また、南東斜面に出土した住居は、この集落最大のもので、直径10メートル以上を測り、県内でも大型の住居とされ、この集落の首長が居住していたと考えられます。
 今回の調査によって、井原市内において初めての弥生時代の集落を確認しました。井原の弥生時代を知る上で貴重な資料となりました。今回確認された集落は、標高約150メートルで、平野との比高差は約100メートルを測り、非常に高い所に集落を営んでいたことが分かりました。この時期(弥生時代後期)、ほとんどの集落が平野におりて集落を形成しており、このような高い所で集落を形成しているのは非常に珍しいと言えます。丘陵上に形成される集落は一般的に高地性集落と呼ばれ、県南部では、弥生時代中期後半から後期前半に瀬戸内沿岸を中心に営まれています。この高地性集落は、見張りの役割と防御の役割があり、当時の情勢が緊張していたことが伺える軍事的な集落で、弥生時代後期後半になり、緊張がなくなると平地におりていったといわれています。その頃の村によく似た高地性集落であるこの高越遺跡は、やはり見張りと防御の役割を備えた軍事的な村との想定ができます。
 出土品については、豊富な弥生土器と鉄器が注目されます。この時期の鉄器は、市内では初めての出土になります。鉄器は弥生時代に大陸から伝わってきますが、当時貴重品であった鉄器は再利用され、一般的にはほとんど残りません。しかしながら、この高越遺跡で、鎌2点、鉇(やりがんな)数点、鉄鏃(てつぞく)数10点と数多く出土しています。中でも弥生時代の鉄鎌は、県内において出土例がわずか8例しかなく、そのほとんどが県北部であり、破損品が多い。今回発見された鉄鎌は、2点ともほぼ完全な形で発見されており、時期も弥生時代後期後半と確定できる貴重な発見といえます。

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