それでは、「ききなの峠(たわ)」をノンビリと上って、案内表示板に眼を向けながら「長福寺裏山古墳群」を楽しむ事に致します(^.-)☆
◆ききなの峠(たわ)
笠岡市走出字木々名(ききな)と山口字聞名(ききな)にまたがるこの峠は、古くから笠岡方面と高梁方面を結ぶ交通路として利用されていました。特に、道路が整備される明治の初年頃までは、ここは物資の重要な輸送路であり、また山口の大名領を通らずにすむ山道にも通じていました。このため旅人や行商人達がこの峠を越えて盛んに行き交っていたといわれています。明治時代には金浦の鮮魚を高梁まで運ぶ「魚荷(うおに)」の中継点にもなっていました。
--- 笠岡市教育委員会 ---
◆長福寺裏山古墳群
【市指定史跡 昭和38年12月25日指定】
笠岡市走出と山口地区の境界をなす標高90mほどの丘陵が、南西から北東へと伸びています。古墳群はこの尾根線上の約600mの区間の列をなして築かれており、前方後円墳、造出付の円墳、方墳、円墳で構成されています。
これらの古墳は、出土遺物などから5世紀代に次々と築造されたものと考えられています。特に双つ塚古墳は備中西部で最大の古墳であり、吉備中枢をやや離れたこの地域で、この時期、急速に台頭した勢力の存在がうかがわれます。
出土品は笠岡市立郷土館に展示しています。
--- 笠岡市教育委員会 ---
◆七つ塚古墳群(ななつづかこふんぐん)
所在地:笠岡市走出字木々名
時 期:5世紀前半
一辺10mにも満たない小さな方墳4基が並んでいます。東端の2号墳は一辺約8m、高さ1.5mで、1号墳より先に築かれたものと思います。内部主体は木棺で、墳丘の裾からは須恵器の壺と甕(かめ)の破片が出土しています。
1号墳は一辺約9m、高さ1m弱で、内部主体は長さ2.2m、幅約0.5mの箱式石棺です。この箱式石棺には小さな副室がついており、その中には須恵器の壺と𤭯(はそう)、土師器の椀が収められていました。また、主室からは刀・剣・鏃(やじり)・斧・鍬先などの鉄器や、滑石製勾玉・臼玉も出土しています。
3号墳と4号墳は、1号墳に先行して築かれたと思われますが、墳丘盛土がほとんど失われています。4号墳の内部主体は木棺で、棺内からは鉄刀が出土しています。
七つ塚の古墳は、規模こそ小さいものの、出土した須恵器は朝鮮半島との関わりをうかがわせるものであり、古墳群の正確を考える上でも重要な意味を持っています。
--- 笠岡市教育委員会 ---
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