01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
03-720-555

 WEB上で「那須与一公墳」を検索してみますと、色んな記載がありました。

 ◆那須与一公墳(なすのよいちこうふん)

 元暦2年(1185)2月、源義経は四国屋島に陣をしいていた平氏を背後から攻めたて、あわてた平氏は船で海に逃れ、海辺の源氏と対陣することになった。
 夕暮れになったころ、沖から立派に飾った小舟が近づいて来る。見ると美しく着飾った18~9歳の女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っていた。
 義経は、弓の名手那須与一を呼びよせ、「あの扇の真ん中を射て」と命じた。与一は、意を決して馬を海中に乗り入れた。
 与一は鏑矢を十分に引き絞って放った。約90m離れた扇の中央を正確に射切った。沖の平氏も陸の源氏も、これには等しく感動していた。
 与一は扇の的を射た褒美として、源頼朝より那須氏の総領(跡継ぎ)の地位と、領地として五カ国内の荘園を与えられたと伝えらる。
 ここにある那須公墳は、荏原那須氏がその祖与一公をしのんで建てた墓です。

 ◇那須与一が頼朝より与えられた、と伝えられる荘園

 ・丹波国 五賀庄(京都府船井郡日吉町)
 ・信濃国 角豆庄(長野県松本市、塩尻市)
 ・若狭国 東宮河原庄(福井県小浜市)
 ・武蔵国 太田庄(埼玉県行田市、羽生市)
 ・備中国 絵原庄(岡山県井原市)

 ◆那須与一の墓(なすのよいちのはか)

 元暦2年(1185)2月19日、四国屋島の合戦で弱冠17才の那須与一は、扇の的を見事一矢で射落とした軍功により備中荏原荘など5ヵ所の領地を賜りました。
 ここ井原市西江原町にある「与一公墳」は、荏原那須氏がその祖与一公をしのんで建てた供養墓です。この墓は古くから扇の的一射必中の故事にあやかって願い事がかなうと伝えられてきました。
 近頃、特に高校・大学受験の合格を祈願すれば直ちにかなえられるといわれ、受験生や親たちのお参りが絶えません。
 また、与一公を「公に一(志望校)を与える」と名の示すとおりに読めば大願成就するとも言われています。

 ◆那須与一(なすのよいち)

 那須与一は歴史上よく登場する「謎の多い人物」の1人です。生年も没年も正確なものは分かっておらず、与一の事跡は平家物語や源平盛衰記に書かれている事柄から想像するしかないのが実情です。
 それによると、治承・寿永の乱(源平の合戦)において、源頼朝方に加わり源義経に従軍したそうです。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、源頼朝から5か所に荘園を賜ったそうです。
 その5か所とは丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘(現在の井原市)です。
 与一は、残念なことに山城の国で病没して当地に来ることはなかったそうですが、その一族がこの地を支配していたことは事実であり、その居城である小菅城址、下向の途中に武事神・農事神として尊崇されている信濃の諏訪大社に参拝して、武運長久を祈願し、分霊勧請して建立した諏訪宮、那須与一の菩提寺永祥寺、扇の的を弓で射たときに「邪魔になる」と破り捨てた片袖を祀った袖神稲荷、一族の墓、そして那須与一公墓などが残されています。

 ◆那須与一

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 那須 与一(なす の よいち)は、平安時代末期の武将・御家人。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。一般的に宗隆と紹介されることも多いが、家督を相続した後は資隆と名乗ったと伝えられる(この項目での呼称は「与一」で統一する)。

 ・名の由来

 与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称である。なお、与一を称した同時代人としては佐奈田義忠・浅利義遠がいる。彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。

 ・略歴

 『吾妻鏡』など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、与一の事跡は軍記物である『平家物語』や『源平盛衰記』に伝えるところが大きい。『平家物語』の記述から逆算すると、嘉応元年(1169年)・永万2年/仁安元年(1166年)・仁安3年(1168年)頃、那須資隆の子として誕生した。誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。

 治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、頼朝より5カ国に荘園を賜った。また、為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆も後に罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。

 死亡時期は諸説あるが山城国伏見において死去。家督は兄・五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の子・頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、建久4年(1193年)に源頼朝の那須巻狩の際に饗応役を務めた(『吾妻鏡』による)光資である。

 ・異説・伝承

 幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。『平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。
 また扇の的を射た功名で得たと伝えられている荘園のうち1つの備中荏原荘がある。この伝承が事実であるかどうかは不明であるが、少なくとも鎌倉時代中期の段階で那須氏の一族(荏原那須氏・備中那須氏)がこの地域を支配していたことを示す記録が残されている。
 弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている。

 …と、色んな記載がありますネ。
 井原市では、毎年8月に『与一まつり(よいちまつり)』を開催しておられますようであります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)