これは、8/11(火)に撮りましたでしょうか…所用で、たまたま霞町4丁目を走行し信号待ちの際の一コマなんです。
何気なく前方に眼を向けておりまして、眼が止まりましたのが、『左トモツ道・右ヲノミチ道』の道標です。
GONsanが幼少時には、福山~鞆の浦間を結びます鞆鉄道バスは、この前方からヤッて来まして、この四つ角を、画像で言えば左に進み、霞町商店街を抜け駅前通りに出ておりました。
ですから、ここは鞆鉄バスの路線でありました。
それが、いつの頃でしたか、福山駅前通りが、以前の野上町交番以南が競馬場方向に延伸され、それからはバス路線がこの霞町4丁目を通らずに、野上町交番前の交差点を芦田川方向に走行する経路に変更となりました。
ですから、こんな道標を眼にしますと、何となく小学生時代に想いが向かい懐かしさが生じます。
ですけど、この道標…昔からここに有ったのかなぁ~GONsanの記憶にはありません(^-^;
で、WEB上で『霞町の道標』を検索してみましたら、うん、うん、こんな道標について綴っておられます方がおられました\(^o^)/
◆福山市霞町4丁目交差点角の追分道標(前編)
--- 2012年09月20日 郷土史 https://blog.goo.ne.jp/tanezaka/e/626f737a11e093bca4b2daf1966dd1e1 ---
昨日鞆鉄道・野上駅跡を紹介したが、少し寄り道することをお許し願いたい。備後国(の本流である福山)に近代的な鉄道が敷かれるまで住民はどんな道を通って城下を離れていたのだろうか。私と同じく素朴な疑問を抱いた人はかなりいるはずだ。
謎が解けるきっかけとなったのが平成22年(2010)年7月21日(水)の毎日新聞朝刊の記事である。高山梓氏が書いた全文と現在の霞町4丁目交差点から西を望む写真を掲載する。
◇尾道、鞆への「道しるべ」福山・霞に〝里帰り〟
福山市霞町の福山霞三丁目商店街に明治時代から第二次大戦後まで「道しるべ」として設置され、その後の土地区画整理事業で移転を余儀なくされた石柱がこのほど、里帰りした。
石柱は1900(明治33)年、地元の衆議院議員が寄贈した。江戸時代から街道として多くの旅人らでにぎわった一帯で、石柱は西の尾道と南の鞆への分岐を示す存在だったという。戦時中の空襲で辺り一面は焼け野原になったが、石柱は無傷で残った。
しかし、54年の土地区画整理事業に伴い撤去され、約500㍍離れた中央公園(同町)の敷地内に移された。
4年前、移転の経緯を知った同商店街の吉山征一理事長(72)が「あるべき場所に道しるべを帰してあげたい」と考え、56年ぶりの里帰りが決まった。
今月17日、商店街関係者や市立霞小の児童らが台車を使い石柱を運び、元の場所に設置した。高さ約1.8㍍、重さ約300㌔の御影石製の石柱には、「左トモツ道」「右ヲノミチ道」と当時から残る文字で方向が示されている。
吉山理事長は「やっと戻ってくれたなあ、と感激。街の歴史の証人として、これからも大切にしたい。にぎわい復活につながってくれれば」と話した。
…と、こんな記載がありました。
ふ~ん、そぅでしたか…ここに道標が戻されましたのは、「今月17日」との事ですから『2010年7月17日』なのでしょうネ(^-^)
…と言うことは、ここに戻されまして既に10年経ておりますか…う~ん、GONsanは気付きませんでしたねぇ~
たまたま信号待ちで、前方を見つめておりまして、何気なく眼に入りました道標ですけど、こぅして元に戻りました道標の経緯を知りますと、一層、感慨深い気持ちに浸ってしまいますGONsanなのでありました(^-^)//"
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