神社の境内に鐘楼がありますのは大変珍しいのですけど、明治新政府の神仏習合の際に、鐘楼のみ神社の境内に取り残されましたとか(^-^)
案内表示板には、こんな記載が…
◆南宮神社の鐘楼
鐘楼は神仏習合時代の名残りで、当社が大社であったことを示している。方一間切妻造り、箕甲本瓦葺、四方吹き放ちの形式の鐘楼は、全国的にもかなり古い遺構であり、四本の角柱を内転びに建ててあり、虹染形頭貫と台輪を設け、下部に二本の貫を入れて、軸部を固めている。
初代の鐘楼は、福島政則が広島に持ち帰ろうとして尾道沖で沈没。二代目は安政二年(一八五五年)ペルリー来朝の際、外国船に対する海防の目的で、幕府の命により、鐘楼を大砲に改鋳する事になり徴発されました。由来、一五〇年程、梵鐘の無い鐘楼となっていましたが、神社に鐘楼があるのは、全国で二百余り社、うち広島県は当社を含み二社で珍しいとされている。三代目の梵鐘として京都の岩澤鋳造㈱にて鋳造し、平成十六年七月に釣り下げることが出来たのである。
…と、こんな記載がありました。
南宮神社から退散しようとしましたら、こんな案内表示『孝霊天皇御陵伝説地 ⇒』が有りましたので、案内表示に従って進んでみます事に。
でも、「孝霊天皇」とは、どんな方なのでしょうネ。
◆孝霊天皇
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
孝霊天皇(こうれいてんのう、正字体:孝靈天皇、孝安天皇51年-孝霊天皇76年2月8日)は、日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日-孝霊天皇76年2月8日)。『日本書紀』での名は大日本根子彦太瓊天皇。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。
・略歴
日本足彦国押人天皇(孝安天皇)の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。26才で皇太子となる。
父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。それまでの山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する。翌年の1月に即位。即位2年、磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、倭国香媛らを妃にしている。倭国香媛との間には御間城天皇(崇神天皇)の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命、疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。即位76年、崩御。
WEB上で検索しますと、こんな方のようですけど、第三皇子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)が伝説上の桃太郎のモデルであると言われているようですネ。
『孝霊天皇御陵伝説地』で検索しますと、WEB上にはこんな記載もありました。
◆神宮寺と市宮神社と孝霊天皇御陵伝説地
南宮神社は備後ゆかりの孝霊天皇とその皇子吉備津彦命を主たる祭神とする大社で創建は、大同2年(807)です。現在の建物は寛文9年(669)の建立で市指定文化財になっています。神宮寺は市宮神社の別当寺で、寺が宮から分離した時、鐘っき堂だけは神社に残したので、今でも神社の境内に鐘楼があります。神宮寺には県の重要文化財である鎌倉時代の春日版600巻の「大般若経」と絹本暑色釈迦十六善神 があリ郷土館に展示してあります。寺のすぐ裏山に孝霊天皇御陵伝説地といわれる古墳かあります。
--- 府中商工会議所 ---
◆南宮神社の別当寺
--- 2008年07月01日 https://blog.goo.ne.jp/rit3918/e/aec671dc6a53ccce02c8cb840485a488 ---
“あじさい寺”の神宮寺は、面白い寺だった。裏山にある南宮神社の別当寺だったそうで、その境内にお寺の鐘楼があるのだ!
本来なら、明治新政府の施策で神仏を分離させられる筈だったのだが、何故か鐘楼だけ神社の境内に取り残されたらしい。
説明文を読むと、
初代の梵鐘は、広島藩主・福島正則が広島へ持ち帰ろうとして尾道沖で沈没し、2代目は、1855年のペリー来朝の際、外国船に備えて大砲に改鋳する為に徴発され、それ以来平成16年に至るまで梵鐘が無かったと言う。
流石に明治新政府も、空っぽになった鐘楼を「境内から移動しろ!」とはいい難かったのだろうか?今となっては定かではないが、いずれにしても150年も梵鐘の無い鐘楼はさぞや寂しかったであろうと同情する!
孝霊天皇を祀った南宮神社の近くには孝霊塚という古墳もあった。
古墳には宝筐印塔(供養塔)が立っていて、孝霊天皇の御陵(天皇のお墓)と言い伝えられているそうだ。
息子は四道将軍として山陽道を制圧した吉備津彦命で、備前・備中・備後にある吉備津神社の祭神として祀られている。父子共に神話の世界の人達で、実在したかどうかについてははっきりしないらしいのだが、こうして神社に祀られていると嘗て実在した人物と感じてしまう。
宗教とは不思議なものだ!
・(南宮神社)
主祭神は第7代孝霊天皇などで創建は807年。昔は新市の吉備津神社と肩を並べる備後三大社のひとつであった。神社に鐘楼があるのは神仏習合時代の名残りで、広島県内には二社、全国でも二百余社しかなくて珍しい。
・(孝霊塚)
孝霊天皇の御陵と伝えられる古墳で、孝霊天皇が退位後、仙洞(退位した天皇の御所)として住んでいたが、死後そこに御陵が築かれた…と言う説や、息子の吉備津彦命が四道将軍として吉備国に滞在中、孝霊天皇を偲んで分霊を祀る御陵を築いた、と言う説がある。
それでは、「孝霊天皇御陵伝説地」に向かってみます事に(^-^)//"
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