暫く上がって行きますと、スグに「乃木将軍腰掛の岩」に到着です(^.-)☆
◆乃木希典
乃木希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。
ここには、説明板に、
『明治39年5月 乃木将軍忠海重砲大隊 特名検閲のため来忠、内海眺望絶賛腰掛の岩』の記載がありました(^.-)☆
WEB上で「乃木将軍」を検索してみますと、こんな記載もありました。
◆敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ
・古今随一の陸の名将
日本人の最も誇るべき物語の一つ、日本が世界に貢献した最も偉大なる歴史の一つが日露戦争である。日本国民が血と涙を流した民族の存亡をわけたこの戦いの主役が、明治天皇、東郷平八郎そして乃木希典である。
国民作家とまでいわれた司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響により乃木愚将論が永らく世を覆ったが、もうそれは過去のものと言ってよい。たとえば『歴史街道』平成二十四年一月号の特集「乃木希典と日露戦争の真実」ではこう記している。
「旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦…。日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいてそのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握ったキーマンともいうべき人物が存在する。満洲軍第三軍司令官・乃木希典だ。…数々の不利な条件を撥ねのけたそれらの敢闘はもはや『奇跡』といっても過言ではない」
乃木は決して頑迷な愚将、拙劣極りなき戦下手ではなく、日露戦争の奇跡的勝利を導いた古今に比類なき名将であることを私は既に『乃木希典―高貴なる明治』(平成十三年、展転社)で論じた。ロシア軍総司令官クロパトキンが日本軍諸将のうち誰よりも畏怖したのが乃木であった。「いかなる敵を引き受けても断じて三年は支えることができる」と自負していた難攻不落の鉄壁の堅城を、五カ月で落とした乃木とその部下将兵の戦いは、クロパトキンにとり想像を絶する人間の力を超えた鬼神(キリスト教流に言えば悪魔)の為せる業であった。
この人間ならぬ鬼神の如き乃木及び第三軍が最後の奉天会戦(明治三十八年二―三月、それまでの世界陸戦上最大の会戦)において、数倍のロシア軍を相手に各軍中最大の犠牲を払いつつ攻めに攻め続けたことが、遂にクロパトキンの心臓を打ち貫き恐怖のどん底に陥れ、日本軍の逆転勝利をもたらしたのである。
結局、旅順要塞戦が日露両国の命運を決した天王山、真の決勝戦であり、最後の会戦・奉天会戦の勝利は乃木軍の死戦ともいうべき一大奮戦なくしてあり得なかったのである。東郷平八郎が世界一の海将として仰がれるのであれば、同様に乃木希典もまた古今随一の陸将として称えられるべきである。
・花も実もある真の武人 -- 水師営の会見 --
鬼神の強さをもつ軍神乃木は、ただ剛勇だけの将帥ではなかった。「武士の情(なさけ)」をあわせもつ「花も実もある」真の武人であった。それを示す戦争中の佳話が敵将ステッセル(旅順要塞司令官・陸軍中将)との「水師営の会見」である。
「古今の最難戦」であった旅順攻囲戦が終った明治三十八年一月五日、旅順要塞近くの水師営で会見は行われた。乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。
この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。
会見で乃木はまず明治天皇のステッセルに対する仁慈に溢(あふ)れるお言葉を伝えた。
「わが天皇陛下は閣下が祖国のために尽くされた忠勤を嘉賞(かしよう)し給い、武士の体面を保持せしむべく、私に勅命あらせられました」
この言葉にステッセルはいたく感銘してこう答えた。
「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき優遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります。願わくは閣下から私の衷心よりする深厚なる謝意を電奏せられたい」
このあと両者は打ち解けてなごやかに語り合った。ステッセルは日本軍の不屈(ふくつ)不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木もロシア軍の頑強無類の守備の堅固さを称えた。続いてステッセルは乃木がこのたびの戦いにおいて二人の息子を戦死させたことを哀悼した。すると乃木はこうのべた。
「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所(ししよ)を得たるを悦(よろこ)んでおります。両人がともに国家の犠牲になったことは一人私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います」
ステッセルは愕然として言った。
「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして少しも愁嘆の色なく、かえって二子が死所を得られたことを満足とされる。真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」
そこにはもはや仇敵同士の姿はなく藹々(あいあい)たる和気が漂った。乃木の人物に深く打たれたステッセルは白色の愛馬を乃木に献じた。この両者の会見は唱歌「水師営の会見」として小学校で教えられるなど、永らく人々に愛唱された。
・敵将の不遇知り救済の手尽くす
ステッセルは戦後、ロシアで軍法会議にかけられ、旅順開城の責任を問われ死刑の判決を受けた。旅順の陥落がロシアにとりいかに致命的であったかがわかる。それを知った乃木はいたたまれず、当時パリにいた元第三軍参謀津野田是重少佐に種々の資料を送り、ステッセルを極力弁護する様依頼した。
津野田は直ちにパリ、ロンドン、ベルリン等の諸新聞に投書、ステッセルとロシア軍がいかに粘り強く抗戦したか、日本軍の猛攻に開城はやむなきものであったことを強く訴えた。この元第三軍参謀の説得力ある主張は効を奏し、ステッセルは特赦となり刑を免れ出獄、モスクワ近郊の農村で余生を送った。
ところがしばらくの間、生活に窮した。それを伝えきいた乃木は、名前を伏せてかなりの期間少くない生活費を送り続けた。ステッセルと彼の部下の激烈な抗戦を骨身に知る者は乃木である。それは世界一の陸軍国といわれたロシア軍の名に恥じぬ戦いであった。その守将が死刑を免れたものの生活に窮すると聞いて乃木は深く同情しつつ、相手の名誉を重んずる方法で手を差し伸べたのである。
だが、ステッセルにはその送り主が乃木であることはすぐわかった。
大正元年乃木が殉死した時、「モスクワの一僧侶」という名のみで、皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔意金が送られてきた。ステッセルであった。乃木の厚意に涙したステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」とくり返し語った。
--- https://ironna.jp/article/4767?p=1 ---
…と、こんな記載がありましたけど、う~ん、乃木将軍…凄い人でしたのですねぇ(^-^)/"
コンクリートで舗装されました参道を進んで行きますと、「霊水池」に到着です。小さな池(井戸?)で、湧き水のようには見えないのですけど、年中涸れないのだそうです(^.-)☆
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管理人様、お邪魔致します。
改憲の議論が進まぬ中、中国が連日 日本の領海侵犯を強化し、尖閣奪取を狙っている現状を、中国に侵略されたチベット等の姿と重ねて、多くの皆様に今どうか知って頂きたく思い、恐れながら書き込ませて頂きました。
戦後日本を弱体化させる為、アメリカが作成した日本国憲法施行後、韓国が竹島を不法占拠し、その際日本の漁船を機関銃で襲撃し、多くの船員が死傷しました。
北朝鮮は国民を拉致し、日本全土を射程に入れるミサイルを数百発配備しており、尖閣には連日中国艦艇が侵犯する現状でも、憲法の縛りで日本は国を守る為の手出しが何一つ出来ません。
現在まで自衛隊と米軍の前に、中国や北朝鮮の侵攻は抑えられて来ましたが、米軍がいつまでも守ってくれる保証は無く、
時の政権により米軍が撤退してしまえば、攻撃されても憲法により敵基地攻撃能力が無い自衛隊のみでは、
日本はチベットと同じ道を辿りかねません。
9条の様に非武装中立を宣言しても、平和的で軍事力の低かったチベットウイグルを武力で侵略虐殺し、現在進行形で覇権拡大を行い「日本の領海を力で取る」と明言している中国や
核ミサイルで日本を狙う北朝鮮が、 沖縄尖閣等から侵略の触手を進めているからこそ、GHQの画策により戦う手足をもがれた現憲法を改正し、
自立した戦力と抑止力を持たなければ国民の命と領土は守れないという事を
中韓側に立ち国民を煽動する野党やメディアの姿と共に 一人でも多くの方に知って頂きたいと切に思い貼らせて頂きます。
https://pachitou.com
長文、大変申し訳ありません。