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 ふ~ん、昭和天皇の行幸では、その見晴らしから陸軍特別大演習の視察統監の場所にここが選ばれ、その経緯から「御幸」の地名の由来となりましたのですか…
 昭和5(1930)年11月14日、陸軍特別大演習の際、昭和天皇が愛馬吹雪号から下馬され、ここから徒歩で山頂へ行かれたのですねぇ~で、参道の左手の「御下馬所跡」に、この白馬の像を設置と言う訳なんですネ。納得(^.-)☆

 そして、参道の右手には立派な句碑が…『みゆき野の よすが 淡墨桜(うすずみざくら) かな 照海』と、刻まれておりました(^_^)v
 作者の『照海』sanは何者なんだろう?…と思いましたら、その答えは近くの掲示板にありましたネ(^.-)☆

 ◆和田照海

 福山市の俳人で元中学校長の和田照海さん(86)の句碑が、同市御幸町の正戸山に建立された。…
 句碑は、幅約1m、高さ約1.2mで、和田さんが詠んだ「みゆき野の よすが 淡墨桜(うすずみざくら) かな」の句が刻まれている。
 淡墨桜は、岐阜県にある日本3大桜の一つで国の天然記念物。2年前に和田さんと門井さんは句碑のそばに淡墨桜の苗木を植えている。
 淡墨桜の樹齢は1,500年以上とされ、和田さんは「正戸山にしっかり根を下ろして平和で住みよい御幸町をいつまでも見守って欲しい」と話している。

 …との、こんな朝日新聞記事の写しが掲示板に(^.-)☆
 門井善敬sanは、「正戸山を愛する会」の代表者のようであります。

 ◆淡墨桜

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) ---

 淡墨桜(うすずみざくら)とは、岐阜県本巣市の根尾谷・淡墨公園にある一本桜。樹齢1,500年以上のエドヒガンの古木である。日本五大桜または三大巨桜のひとつ。国の天然記念物である。

 ・特徴

 淡墨桜は蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。樹高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張りは東西26.90m、南北20.20m。樹齢は1,500余年と推定され、継体天皇お手植えという伝承がある。
 近年では幹の老化が著しく、幹内部にできた空洞も広がりつつあるが、樹木医や地元の人々の手厚い看護によって守られている。作家の宇野千代がその保護を訴えて、活動したこともよく知られる。苗木を分けて、岐阜県や愛知県内あちこちに子孫が植えられている。
 日本五大桜または三大巨桜の1つであり、1922年(大正11年)10月12日には国の天然記念物に指定された。毎年の開花の季節には多くの観光客が訪れる。淡墨公園内には淡墨桜の資料を展示するさくら資料館がある。近くに財団法人NEO桜交流ランドが管理運営のうすずみ温泉と宿泊施設四季彩館がある。

 ・沿革

 伝承によると、467年(雄略天皇11年)頃に男大迹王(後の継体天皇)がこの地を去る時、檜隈高田皇子(宣化天皇)の産殿を焼き払い、その跡に1本の桜の苗木を植えたという。
 1913年(大正2年)には大雪のために幹の一部に亀裂が発生し、樹勢が衰えだした。1922年(大正11年)10月12日には国の天然記念物に指定された。
 1948年(昭和23年)には文部省により調査が行なわれ、3年以内に枯死と判断された。1949年(昭和24年)3月10日から4月5日には、岐阜市の歯科医師・前田利行が山桜の根を接木した。前田は人間を診る歯科医師であるが、梅など古木の再生でも評判であった。1950年(昭和25年)には再生して開花した。
 1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風により被害を受け、1967年(昭和42年)4月11日には宇野千代が訪れて惨状を憂いた。1968年(昭和43年)には雑誌『太陽』4月号に宇野による寄稿文「淡墨桜」が掲載され、岐阜県知事の平野三郎が県文化財審議会に保護再生を諮った。その後生物学者の堀武義(岐阜大学)により診断が行われ、再生策がまとめられた。
 2003年(平成15年)には飛騨・美濃さくら三十三選に選定された。2008年(平成20年)には本桜を含む14種の花の種を国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」に8カ月半滞在させた後に地球へ戻し、無重力状態が発育に与える影響などを調べるという実験が行なわれた。

 ・所在地

 所在地:岐阜県本巣市根尾板所字上段995 淡墨公園内
 アクセス:樽見鉄道樽見線樽見駅下車後徒歩15分
 花見客の便宜を図るために、樽見鉄道は4月1日から15日頃に特別ダイヤ(桜ダイヤ)で運行している。本巣地域では淡墨桜に向かう国道157号が「淡墨街道」と呼ばれる。

 …と、こんな「淡墨桜」のようであります(^_^)v

 ◆正戸山を愛する会

 団体名称:正戸山を愛する会
 主な活動分野:まちづくり 団体会員数:88人 設立年月:2010年09月 まちサポ登録年月:2017年09月
 登録番号:164
 目的:本会は、正戸山城跡公園(仮称)をふれあいの場、歴史教育の場、健康づくりの場など市民の共有財産と位置づけ、市民が参加協働し、憩い、集う場とするため、地域住民主体による正戸山環境整備を行うことを目的とする。
 活動内容
  ・環境整備「除草・伐採・植栽」(随時)
  ・俳句句碑整備(随時) ・学区イベントに出店参加(年1回) ・元日歩け歩け運動(年1回)
 主な活動地域:市内・北部 活動時期:不定期 活動曜日・入会条件なし
 代表者名:門井 善敬
 団体所在地:広島県福山市御幸町大字上岩成12番地
 電話/Fax:(電話)084-972-2079 (Fax)084-972-2079

 正戸山(しょうとやま)は、御幸町上岩成に位置する標高49mの小さな山です。南北朝時代から戦国時代まで山城があり、この地域を治める重要な役割を果たしてきました。
 また、御幸という地名の由来となった昭和天皇の行幸では、その見晴らしから陸軍特別大演習の視察統監の場所に選ばれました。現在は,行幸記念石碑「御統監之趾」や石槌神社等があり、城跡公園として維持管理しています。
 多くの方が憩い集える場所として、実物大の白馬(竹細工)や御幸小学校児童、京鹿子の皆さん等の俳句句碑(灌木再利用)が皆さんをお待ちしています。福山市の北部地域が一望できる山頂からの展望も魅力です。
 是非一度お立ち寄りください。

 ◆正戸山

 ・正戸山
 所在地:広島県福山市御幸町
 正戸山は、神辺平野の中央部、御幸町上岩成の北東部に位置し、標高49メートル、平野部からの高さは34メートルで山頂からは神辺平野を一望に見渡すことができます。

 ・正戸山城
 南北朝時代に、足利尊氏から備後国守護として下向された岩松頼宥によって、正戸山の山頂に築かれたと伝えられる山城が正戸山城です。戦国時代には、尼子方の宮氏が居城していましたが、1552年(天文21年)、毛利元就の軍勢の攻撃を受け落城し、
毛利軍の城となりました。江戸時代に入り、一国一城令により廃城となりました。

 ・昭和天皇行幸
 1930年(昭和5年)昭和天皇が行幸され、正戸山の山頂から視察統監される中、岡山方面から来る東軍と広島方面から来る西軍が正戸山南方で決戦する想定で、陸軍特別大演習が行われました。昭和天皇の行幸を仰ぐため、当時の両備軽便鉄道(現JR福塩線)では、正戸山臨時駅を設置しました。
 大演習から5年後の1935年(昭和10年)、昭和天皇の御野立所となった正戸山の山頂に記念の石碑「御統監之跡」が建てられました。

 ・四ヶ村合併
 1938年(昭和13年)深安郡上岩成村、下岩成村、森脇村、中津原村の四ヶ村が合併し、昭和天皇の行幸を記念して村名を御幸村と名付けました。これが御幸という地名の由来です。

 ・正戸山城跡公園
 御幸町の住民は、正戸山城跡を、ふれあいの場、歴史教育の場、健康づくりの場など市民の共有の財産と位置付け、市民が参加協働し、憩い集うことが出来る公園として環境整備をしています。
 そして、御幸町や周辺地域の人々が心の豊かさと相互の交流を築いていける場として、後世へ伝え残しています。

 ・活動団体
 正戸山を愛する会

 ◆備後・正戸山城

 ・別名:小藤山城、勝戸山城、勝渡山城、正渡山城
 ・形態:丘城(49m/34m)

 ・歴史
 築城年代は定かではないが貞和年間(1345年~1350年)に岩松頼宥によって築かれたと云われる。岩松頼宥は足利尊氏の家臣で備後守護として下向し正戸山城を築いて居城としたという。
 足利尊氏と弟義直が争った観応の擾乱が勃発すると備後守護であった上杉顕能は義直方となり、尊氏はこの上杉氏を押える為に岩松頼宥を備後守護として下向させた。頼宥は正戸山城を居城とすると岩成周辺の諸城を打ち破り、8月には尾道の城に籠る義直方を攻めた。観応の擾乱は尊氏方の勝利となると足利尊氏は義直方であった足利直冬を討伐するため細川頼元を備後守護とした。
 天文年間(1532年~1555年)には亀寿山城主宮氏の支城として宮氏の一族が城主となった。天文21年(1552年)毛利元就が宮氏を攻めた時、正戸山城も落城して城主宮正味父子は討死し、その後毛利氏の武将栗原左衛門尉信教が城主となって城は大改修されたという。

 ・説明:正戸山城は比高30m余りの独立丘陵に築かれているが、かつては三方を沼地で囲まれた要害であったという。山頂には石鎚神社が祀られ、めぼしい遺構は残っていないが山頂から東側一帯に削平地がある。手持の縄張図では主郭の東側にわずかに石垣が用いられた虎口があるとされるが、本当に虎口なのかどうか見てもわからない。

 ・城主:岩松氏、宮氏、栗原信教

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