こんな案内表示板もありました。
◆大浜埼船舶通航・潮流信号所
瀬戸内海の三原瀬戸(布刈瀬戸)、来島海峡、関門海峡は水路が狭く、屈折しており潮の干潮の時は潮流が速いため、船の操船が大変難しいところで知られていました。今日のようにレーダーもなく、エンジンの馬力も小さく船の性能が良くない時代には、出来るだけ早く海峡付近を航行している船の状況や潮流の方向を確認する必要がありました。
明治43年4月、この布刈瀬戸を航行する船舶のため、大浜埼船舶通航信号所(布刈瀬戸の船舶交通の状況を昼間は建物の上にある三つの塔の横画に○、△及び□の印を出して、夜間は塔の上から光を出して船に知らせる。)と大浜埼潮流信号所(布刈瀬戸の潮流の方向を形象を掲げて知らせる)が設置され、この管理を行ったのがこの建物です。
三原瀬戸の高根島、来島海峡の中渡島、関門海峡の部埼、台場鼻、火ノ山下、赤坂に、同じ頃このような業務を行う施設が設置されましたが、現在は、中渡島、火ノ山下、台場鼻のほかは航海技術の発達により、その必要性がなくなり大浜埼船舶通航、潮流信号所は、昭和29年に廃止になりました。
木造の建物として残っているのは、大浜埼だけで、重要な文化遺産ともいえます。
「←灯台へ」の標識に従って、大浜埼灯台へ向かおうとしますと、また案内板が眼に入りましたので拝見です(^.-)☆
◆長太夫灯標旧灯ろう
因島市細島の北方にある長太夫灯標に使用されていた灯ろうです。灯ろうは、内部に設置されるレンズ、灯器を保護する役目をしています。
-- 長太夫灯標の経緯 --
明治13年02月05日-- 長太夫灯標設置(石造・紅黒横線塗)
明治27年05月15日-- 不動白色灯(揮発油)を設置
長太夫灯標となる(百貫島灯台の管理)
明治34年12月08日-- 塗色変更(紅色)
大正10年02月28日-- 光源変更(アセチレンガス)点滅灯となる
大正10年04月01日--大浜埼信号所の管理となる
昭和49年11月25日-- 光源変更(蓄電池)
昭和61年03月15日-- (浮標式変更に伴い北方位標識となる)
塗色変更(上部黒・下部黄)
ふ~ん、この放置されました紅い灯ろうは、お役御免となりましたものを保存しておられますのですねぇ~
近くには、「←検潮所・大浜埼灯台→」の案内標識もありましたけど、今回は「検潮所」行きははパス。次回の機会に行ってみようと思いますので大浜埼灯台へ。
海岸方向に少し下って行きますと、またまた案内表示板が…
◆大浜埼灯台
「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関の関(関門)」ということばがあります。これは全国でも潮流の速い海峡を示しています。
瀬戸内海を航行する船舶は、潮流が一番速く危険が多い来島海峡を通る必要がありました。このため、ひうち灘から布刈瀬戸、三原瀬戸を通過して周防灘に出れば、比較的潮流の影響を受けないで航行することができます。
この航路のため、明治27年5月、百貫島灯台、大浜埼灯台、長太夫灯標、小佐木島灯台、高根島灯台、大久野島灯台、鮴埼灯台、中ノ鼻灯台、大下志摩灯台等がほぼ同時に建設され点灯しました。
-- 灯台の要目 --
位置 -- 因島市(布刈瀬戸因島北端)北緯34度21分17秒 東経133度10分36秒
構造 -- 円形 石造 灯質--等明暗白光 明3秒暗3秒
光度 -- 3,500カンデラ
光達距離 -- 13.5海里
高さ -- 基礎上から灯台の頭部まで9.3m 平均水面から灯火中心まで18.0m
…と、こんな記載でありました(^.-)☆
この案内表示板から、今度は少し上がって行きますと、また案内表示板です。
◆大浜埼灯台
~三原瀬戸の玄関口~
大浜埼灯台は、三原瀬戸を航行する船舶の安全を図るため、明治27年(1894年)5月15日に点灯を開始しました。三原瀬戸は、強潮流で知られる来島海峡の迂回路として、備後灘から安芸灘に至る水路に百貫島灯台、小佐木島灯台や高根島灯台など8基の灯台とともに同時期に建設されています。
この灯台は、明治43年(1910年)4月に業務を停止し、運航船の状況や潮流の速さを船舶に通知する「大浜埼船舶通航信号所」として新たに業務を開始しましたが、昭和29年(1954年)4月に業務を停止し、灯台の業務を再開しています。
位置 -- 北緯34度21分28秒
東経133度10分24秒
光り方 -- 等明暗白光 明3秒暗3秒
光の強さ -- 3千5百カンデラ
光の届く距離 -- 11.5海里(約21km)
高さ -- 地上から灯台頭部 約9.3m 水面から灯火 約18m
管理事務所 -- 尾道海上保安部 電話 0848-22-2109
…と、こんな「大浜埼灯台」であります(^-^)//"
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