円通寺境内に下りて来ますと、まず眼に入りますのが「良寛堂(衆寮)」、そして良寛sanの像と、その後方の「白雲関(坐禅堂)」であります(^.-)☆
これらの建物の詳細は何にも分かりませんから、また、WEB上で記事を拾いご紹介です(^_^)v
◆良寛さん修行の寺
子供達と手鞠で夕暮れ時まで遊ぶイメージは誰しもの心の中に浮かび、俳句やてまり歌の風情から「良寛さん」と親しみを込めて呼ばれます。
民衆に寄り添い、多くの人達に親しまる「日本人の心のふるさとのような人」。円通寺は、そんな良寛さんが若いころ修行した寺として知られます。
石組の庭と葦屋根の荘重な伽藍が配置された境内や隣接する円通寺公園では、四季折々の花々を楽しむことができます。
円通寺の山上、石組の庭と葦屋根の荘重な伽藍が配置された境内は、訪れる者に、精神世界への自らなる敬仰の念を抱かせる場として久しく伝えられております。昭和43年には名勝地として岡山県の史跡指定をうけ、また全山は倉敷市営の円通寺公園として近隣諸県にその名を知られております。
円通寺の歴史は古く約,1200年前、現在の倉敷市玉島の地に行基菩薩によって星浦観音の霊場が開創され、その後、元禄11年(1698年)徳翁良高禅師によって曹同宗寺院として開山されました。
爾来300年、代々の住職には名僧多く特に第十世大忍国仙和尚の代、若き日の聖僧良寛様が22才から十数年 修行された禅寺として、当山は生地越後(潟県)のみならず全国崇敬者の間に広く知られております。
◆円通寺(倉敷市)
円通寺(えんつうじ)は、岡山県倉敷市西部の玉島にある曹洞宗の寺院。山号は補陀落山。本尊は聖観音菩薩。中国三十三観音霊場7番札所、山陽花の寺二十四か寺17番札所、備中国浅口三十三観音霊場一番札所、百八観音霊場第九番札所。
御詠歌:ひび一に まるいこころは えんつうじ みちびきたまえ ひとりゆくみち
・歴史
この寺の創建年代等については不詳であるが、奈良時代の僧行基によって開かれたと伝えられる。江戸時代に入り元禄11年(1698年)に徳翁良高禅師によって再興されて円通庵と号した。正徳年間(1711年~1716年)現在の寺号となった。江戸時代後期には歌人としても知られる僧良寛(1758年-1831年)がこの寺で20年ほど修行している。
・文化財
岡山県指定史跡:円通寺境内
岡山県指定名勝:円通寺公園--公園内にある「童と良寛」像は平田郷陽原作(オリジナルは熊本県立美術館蔵)
倉敷市指定文化財:青銅露座地蔵菩薩坐像
◆良寛
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日(1758年11月2日)--天保2年1月6日(1831年2月18日))は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。
・人物
良寛は越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた(しかし、その生涯をたどる手立ては極めて少ない)。四男三女の長子。生家はこの地区の名主・橘屋であり、父・以南は名主の傍ら石井神社の祠職を務め、俳人でもあった。良寛は跡を継ぐために名主見習いをしていたが、見習いを始めて2年目の18歳の時、突如出家し、子供の頃に勉学を積んだ曹洞宗海嶽山光照寺(出雲崎町尼瀬)にて修行をする。
この時全国各地に米騒動が頻発した。越後にも天災・悪疫が襲い、凶作により餓死者を出した。村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった良寛が見たものは、救いのない人間の哀れな世界であった。両親の説得にも関わらず、良寛は頑なに修行を続けた。
出家後、安永8年(1779年)22歳の時、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を“生涯の師”と定め、師事する。良寛は故郷を捨てたが、この世にあらん限りは父母の言葉を身に包み生きよう、と誓った。円通寺の格式は高く、その入門には厳しい戒律を通過しなければならなかった。そして経を学ぶことより、勤労に励むことを第一としていた。「一日作らざる者は、一日食わず」国仙和尚は日を変え言葉を変えて良寛に説いた。その教えは後の良寛の生き方に強い影響を与える。修行4年目の春、良寛は母の訃報に接する。しかし帰郷は許されるはずもなく円通寺の修行は12年も重ねた(この円通寺の修行時代の良寛を記すものはほとんど残っていない)。
寛政2年(1790年)印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を賜る。翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。父の訃報を受けても放浪の旅は続け、義提尼より和歌の影響を受ける。48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い受けたことからこの名が付けられた)にて書を学ぶ。『秋萩帖』はその手本として自ら選んだ。五合庵の良寛は何事にもとらわれず、何者にも煩わせることもない、といった生活だった。筍が顔を覗かせれば居間を譲り、子供にせがまれれば、日が落ちるまで鞠付きに興じるのだった。良寛は歌に「この子らと
手鞠付きつつ遊ぶ春
日はくれずともよし」と残している。書は良寛にとって己が鬱勃たる心情の吐露だった。また書を学ぶうち、従来の書法では自身の心情を表せることが出来ず、良寛独自の書法を編み出す。それは、上手に見せようとするのではなく、「一つの点を打つ」「一つの棒を引く」その位置の僅かなズレが文字の命を奪う。そんな際どい瀬戸際に筆を運んで良寛の書は出来上がる。五合庵での階段の昇り降りが辛くなり、61歳の時、乙子神社境内の草庵に居を構えた。円熟期に達した良寛の書はこの時に生まれている。
70歳の時、島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。
・隆泉寺(新潟県長岡市島崎)にある良寛の墓
最期を看取った弟子の貞心尼が『蓮の露』に良寛の和歌を集めた。良寛は他に漢詩、狂歌、俳句、俗謡に巧みで、書の達人でもあった(故に後世の贋作が多い)。新潟県長岡市(旧和島村)の(西證院)隆泉寺に眠る。
良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや手毬をついたりしてよく遊んだという(懐には常に手毬を入れていたという)。名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書いた(現在でもその凧は残っている)。
ある日の夕暮れ時にも、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいて、自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得た。しかし、日が暮れて暗くなり子供達は良寛だけを探し出せないまま家に帰ってしまった。翌朝早くにある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので驚いて問い質すと良寛は「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったという。このような類いの話が伝えられ子供向けの童話などとして紹介されることで良寛に対する親しみ深い印象が現在にまで伝えられている。
◇良寛堂(衆寮)
良寛堂の解説板に次のとおり記されている
「この建物はもと円通寺へ修行にきた者たちが寝起きする衆寮であった 昔時は数十人の若き修行者が常時いたとのことである 良寛も二十二才の時
遠く玉島から越後の出雲崎へ請せられて光照寺に来た国仙和尚の弟子となり はるばる西国玉島の円通寺にきて この建物で寝起きして修行した
騰々任運の特色ある良寛禅の境地はこゝで生れた 円通寺出身の絶世の高僧のゆかりを以て いまでは良寛堂と呼ばれることになった」
◇白雲関(坐禅堂)
白雲関(坐禅堂)は、良寛が修行した坐禅堂跡地に、良寛堂裏手高所にあった普門閣を1963年に移築したもので、本堂の左手、良寛堂の右手にある。
毎日曜日に早朝坐禅会が白雲会により開催されており、希望者は参加できるが、円通寺に事前連絡が好ましい。
GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)