公園内を上に上がって行きますと、こんな文学碑が…
★井手訶六文学碑案内
人類が根源的な愛によって統一される究極の理想を思いえがきつつ、病苦と家庭的不幸のただ中から小説「新しき生へ」を創作、天下に発表したのは井手訶六が二十四才、大阪朝日新聞紙上であった。
懸賞小説当選者としての彼の文名は言うに及ばず、郷土水島灘の美しい風光があまねく知られることになったのである。
苦闘は苦闘からのがれるためであり、今日の不合理に甘んじているのは、明日の真理へ達せんがための準備であるとした彼の作家精神は、その後発表した小説「炬を翳す人々」「十字路の乙女」にも貫かれている。
彗星の如くその若く美しい光芒を放って消えた郷土作家井手訶六は、永く私達の胸に記憶されることであろう。彼は明治三十一年に生れ昭和三年、玉島勇崎西浦の生家で、三十才の短い生涯を孤独のうちに病歿した。
--- 玉島文化協会 ---
…と、井手訶六文学碑案内には記載がありました。早速、WEB上で「井手訶六」を検索してみますと、残念ながら何も出ては来ません。
で、『小説 新しき生へ』で検索してみましたら、ふ~ん、福山市とも縁があります方でした(^.-)☆
■井手訶六(いで・かろく)
☆・生い立ちと学業、業績
・生い立ちと学業
岡山県浅口郡玉島(現倉敷市玉島)の生まれ。号は蹄霜。井手鐵處の弟である。
父は県会議員をつとめたリ、地方銀行の頭取にもなった名土だったが、放埒な生活のすえ没落。一家は離散し、父は再起をはかって朝鮮半島へ渡った。
訶六は福山市会議員の某家へ養子となって、誠之館中学へ進み、各学年とも首席で通すほどの秀才ぶりであったが、のちには井手家へ戻り、金光中学へ転校する。
文章を書くのが好きで、誠之館4年生の時、数百ぺージの日本歴史を書いて教師をおどろかせたという。大正6年(1917年)、肺結核で金光中学を中退。
・業績
大正8年(1919年)には「落日讃」と題する作品を朝日新聞懸賞小説に応募して選外佳作まで行く。
翌々大正10年(1921年)、再び同懸賞に「霹靂(へきれき)」を送ってついに一等入選となった(新聞連載の時は「新しき生へ」と改題)。
おりからの大正デモクラシーの潮流にのって新しい杜会をめざす青年像をえがいて好評、続いて「炬(ひ)を翳す(かざす)人々」「十宇路の乙女」と長篇2本を発表したが、流行性感冒で病没。
長篇作家誕生を期待されたが、今やどんな文学事典にもその名を見出せないのは淋しい。
…と、こんな記載がありました(^-^)/"
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