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 ヒマでしたから立ち寄れば良かったのかも…
 水玉ブリッジライン玉島大橋(通称源平大橋)。写真左側(乙島)に源氏軍、右側(柏島)に平家軍が陣を構えました。
 「水島古戦場跡」で検索してみましたら、WEB上には、こんな記載が(^.-)☆

 ◆源平合戦の古戦場を訪ねる 源平合戦特集~水島合戦~

 --- https://www.kurashiki-tabi.jp/feature/4820/ ---

 「源平の争乱」などと言われている「治承・寿永の内乱」。
 平家一門の都落ち以降、瀬戸内が合戦の舞台となり、様々なエピソードが伝えられています。ここ倉敷市にも様々な逸話が残る舞台がありますが、今回は平氏が勝利した数少ない戦いの一つである「源平水島合戦」の舞台を紹介させていただきます。

 寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで源義仲(木曾義仲)に大敗し、都を追われた平氏軍は九州に逃れたのち、屋島に本拠を移します。
 平氏追討のため四国の屋島へと軍をすすめていた義仲が率いる源氏の軍勢は、水島が途(現在の玉島湾)で平氏軍に海上戦を挑みました。両軍はそれぞれ、当時は海に浮かぶ島であった倉敷市玉島の乙島と柏島に陣を構えました。
 源氏軍は約5千人の兵を率い、100艘余の船で陣取り、平氏軍は200艘余の船に7千人が乗り込み海上戦を仕掛けた、とされています。この水島合戦では、正午ごろから日食が起き、それを予測していた平氏軍が、海戦に不慣れで動揺した源氏軍に圧勝したとされています。

 ・水島合戦の最中、日食が起こったことが確認されています。

 「源平盛衰記」によると、
 『天俄(にはか)に曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成たれば、源氏の軍兵共日蝕とは知らず、いとど東西を失て舟を退て、いづち共なく風に随つて遁行(のがれゆく)。平氏の兵(つはもの)共は兼(かね)て知にければ、いよいよ時を造り重て攻戦(せめたたかふ)。』
 とあり、源氏軍は日食とは知らず突然の暗闇に混乱してしまいます。平氏軍は日食を事前に知っており、この時とばかりに、混乱した源氏に襲い掛かりました。
 戦いの最中に日食が起こったということも珍しいですが、日食を利用した戦いというのも非常に珍しいのではないでしょうか。2012年5月21日には、糸のように細くなった三日月状の太陽(大規模部分日食)が倉敷市でも確認できました。

 ・源平水島合戦の舞台となった玉島港周辺。

 当時両軍を分けていた海には現在橋がかかっています。この橋は「源平大橋」とも呼ばれ、橋の西詰めには、同合戦800周年を記念して建立した記念碑があります。そこから橋を渡って東側の乙島へと歩いていくことができます。
 橋の北側にある常照院は源氏の山城があったとされています。
 NPO法人備中玉島観光ガイド協会では「源平水島合戦古戦場ウオーク」と銘打ち、合戦野名残を伝えるのスポットを案内しています。観光ブログでも紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。

 …と、こんな記載でありました(^-^)//"

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