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 駐車場から少し歩きますと、スグに建物(拝殿)が…そして、隣接し、鳶尾城跡が…鳶尾城跡を拝見しますのは後廻しで、先に銀寿観世音菩薩に参詣です(^.-)☆
 拝殿脇には「建立の由来」の石碑がありましたので、眼を通しますと、下記の記載がありました。

 ◆建立の由来

 平成3年10月の林道鳶尾線整備計画樹立に呼応して、「心豊かな人生」を望むものが相い計り、高齢化の進む中で心のよりどころとして銀寿観世音菩薩(ボケ封じ観音)の建立を計画、広く賛同者に呼び掛け、1,098名の方々のご協力により、41,594,500円の浄財を戴くことができました。
 これにより観音菩薩は京都市の㈱善豊堂、また拝殿、台座等の工事は笠岡市の㈱吉本組によって平成5年1月完成したものです。

  --- 平成5年1月吉日 銀寿観世音菩薩建立委員会 ---

 …と、こんな記載でありまして、ふん、ふん、銀寿観世音菩薩は「ボケ封じ観音」様でありましたか(^-^)
 なら、GONsanもシッカリ拝んでおきませんと(^.-)☆
 まぁその前に、「鳶尾城古城址」にも石碑がありましたので、由来だけでも事前学習しておきましょうか(^-^)

 ◆「鳶尾城古城址」由来

 虚空蔵山地東南の支脈にある戦国時代の古城址。備中府誌によれば、当城の開基は大内左京大夫義隆、城代として井上伯耆守春忠在城す、と記されている。
 城址は北から本丸、二の丸、三の丸としていた。特に南は展望が開け茶臼山、青佐山とともに領国の境の城として絶好の場所であった。
 天文年中、大内義隆は毛利元就など安芸、備後の国侍に備後南部への進攻を命じているが、毛利元就は大内氏滅亡後も積極的に備中進出を図り毛利氏は次第に優位を確立した。
 その後、毛利氏が備中の地侍を動員して九州に出陣した留守中に宇喜多直家や尼子勝久の軍勢が備中に進入を図ったが、引き返して来た毛利勢に撃退された。なお、井上氏は毛利氏の山陽方面での作戦を主に担当した小早川隆景の有力な武将であり尼子、大友氏との戦いや石山本願寺への兵糧搬入などに功績のあった人物である。また別名「大原竜王」とも言われ、のちに干魃の年には地元の農民たちがこの城址に集まり、連日連夜あかあかと薪を焚きながら雨乞いを行い、農作物の被害を最小限に食い止めたといわれている。

 --- 『鳶尾城跡案内板』より ---

 …と、こんな歴史があります「鳶尾城古城址」のようであります(^.-)☆
 では、銀寿観世音菩薩にお詣りです(^-^)//"

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