◆尾崎丸跡
尾崎丸、満願寺二王門のあった峰の中腹を堀切で隔て、その先端も本城との間の鞍部を利用して三条の堀切で隔てた独立的な曲輪郡である。
中心の尾崎丸は、長さ42m、幅20mと、この曲輪群中最大の曲輪で、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に約3mの高さをもつ二段の小曲輪を配置し、さらにその下には約2mの差を持って、小さな付曲輪と最大な帯曲輪を配置し、守りを固めている。なお、尾崎とは毛利隆元が尾崎殿と称されていることから、隆元の居所と考えられる。
--- 平成四年三月 吉田町教育委員会 ---
◆勢溜(せだまり)の壇
御蔵屋敷の下段を堀切で区画して独立させた大小10段の曲輪から成り立つ。この壇のすぐ側を通る道が、本丸から城下に続く大手筋と考えられており、本丸守備兵が滞在するなど厳重な防御線を形成していたと思われる。
勢溜の壇跡 勢溜の壇は本丸の峰から南西へ長くのびる尾根を御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、十段の大型の曲輪からなる大型の曲輪からなる壇で、尾根沿いに比高差約1mで、面積約500平方mから700平方mの広さの曲輪を四段連ね、その先にこれらを取り巻く帯曲輪を三段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸奉公への防御は厳重で、たとえこの方面を破ってもこの三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の壇の曲輪群から攻撃できる構造になっている。 ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。
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