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 それでは、毛利弘元墓所に参詣です。毛利弘元は、39歳でのご逝去。戦国時代とは言え、少々お若いご逝去ではありますネ。
 ところで、『夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された…』との事ですけど、何で鈴尾城(福原城)の福原氏墓所に葬られていたのだろう?…との不思議な想いも。
 WEB上で検索して見ましたら、こんな記載が…

 ◆元就母の墓のなぞ

 元就の母は、毛利一族の福原氏で、福原広俊の娘となっている。毛利一族の中でももっとも有力で中心的な一族である。毛利元就が後年隆元に書いた手紙の内容によれぱ、元就五歳の時母に死なれ、十歳の時父に死に別れたとある。元就四歳の時、父とともに猿掛城に移り住んでいることになっている。
 ところが、元就の母が、父とともに猿掛城へ移動したかとどうかとなると、これがはっきりとしていない。父弘元は猿掛城に隠居して五年後に死んでいる。父の墓は猿掛城山麓の悦叟院という菩提寺跡にある。そして母の墓も弘元と並んである。
 これではなんら不思議はないのだが、実は母の墓は、もともと福原氏の居城鈴尾城近くの福原一族の墓所にあったのである。そこで夫婦が別々のところにあるということではまずいと思ったのか、大正時代に母の墓石をわざわざ猿掛城の悦叟院跡地に移動させたのである。

 現在、猿掛城で見かける弘元と元就の母の仲良く並んだ墓石は、意図的に仕組まれた光景だということである。
 元就の母の墓が実家の福原氏一族の墓所にあったということは、当時そういう状況を作り出すだけの事情があったことを物語っている。そのことについては元就は何も語っていない。語りたくなかったのだろうと思う。
 毛利元就の研究家森本繁氏は、『毛利元就99の謎』(PHP文庫)の中で、元就の母福原広俊の娘は、弘元と猿掛城に移ったのでなく、実家の福原氏の鈴尾城に帰り、そこで元就を生んだと主張。そしてそこで死んだのでそのまま福原氏の墓所に一緒に葬られた。
 たぶんこれが真相だろうと私も思う。

 …との、こんな記載が。
 ふ~ん、色々事情がありましたようですねぇ~
 それでは、今から、多治比猿掛城跡へと山登りです(^-^)//"

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