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 次は、天守の西側の石崖横へ。ここでは、こんな問題の出題です。

 ★問7
 慶応4年(1868年)、長州軍は福山城を砲撃しました。消失前の天守にはこの時の弾痕が残されていましたが、どこにあったでしょう?
 ①1階北側 ②1階西側 ③2階北側 ④2階西側
 正解:②

 福山城の北側は、福山城全体を通して北側の守りが手薄で、その弱点からの砲撃を防御するために、厚さ3ミリほどの鉄板を張り巡らせていたようですネ。
 それでは、御湯殿に向かいます。御湯殿では、こんな出題が…

 ★問8
 本来の御湯殿は本丸表向、奥向、それぞれに1ヶ所ありました。このうち表向の御湯殿は何処にあったでしょうか?
 ①月見櫓の横 ②鏡櫓の横 ③鐘櫓の前 ④本丸苑池の裏
 正解:②

 う~ん、相変わらず難解な出題が続きます(^-^;

 WEB上で「福山城天守閣」を検索しましたら、こんな記載が…

 ◆現復興天守の問題点

 福山城天守は、いわゆる「城郭復興ブーム」に再建されている。本来の天守は太平洋戦争末期、1945(昭和20)年8月8日の空襲により焼失しており、現在あるのは、1966(昭和41)年秋に市制50周年記念事業として、月見櫓、鏡櫓、御湯殿と共に復元されたものである。しかし、その形状は、焼失前の資料も豊富にあり比較的正確な復元が可能であったにもかかわらず、忠実とはいえない。それは次のような理由によると思われる。

 第一には、鉄筋コンクリート(RC)製であること。これは、当時の建築基準法では天守のような高層建築を木造で造ることができなかったため、そもそも選択肢がなかったからではあるが、これにより、黒塗りの窓枠 が漆喰風(白塗装)に塗られることとなったようで、全体の印象が焼失前とかなり異なることになった。ただ、コンクリート建築であっても、部分的に材質を変えるか、塗装方法を変えるなどすれば、旧状に近い状態を再現することはできたはずだが、そうした方法が採られなかった理由については下記で述べることにしたい。

 第二には、美観の問題、現在の天守は復元の正確さよりも風情が重視され各所が改変されている。具体的には、望楼部の突上戸(雨戸)、北面の鉄板張り、窓の左右非対称や大きさ、壁面の海鼠塀部分、などが異なっている。これらは福山城天守の特徴といえる部分であり、これらが再現されないことで福山城は「らしさ」を失ったといえるが、好意的に捉えれば洗練されたともいえなくはない。

 第三には、当時の文化財に対する意識の違い。上記に示した理由も結局はここに集約される。福山城も含め、太平洋戦争で焼失した天守は全部で7つあるが、水戸城を除き、いずれも1958~1966年の間に鉄筋コンクリートで「復元」されている。これは、ちょうど高度経済成長(1950年代半ば~)への移行期に重なる時期であり、これら天守の復元が戦後の復興を象徴する意図の強いことがわかる。一方で、多くの城郭において開発(破壊)が進むのもこのころからであり、言うまでもなく、時流は保存よりも開発が優先されていて、近世城郭の文化財としての価値はあまり問題にされなかった。

 つまり、この時代の復元天守は、いわば復興記念建造物であり、端的にいえば、城の体を為していれば忠実性はさほど問題とはされていない。実際、下表に示すように、その時期に復元された天守は忠実である方が少数となっている。しかし、その中でも最も 旧状と異なるのが、福山城天守であり、厳密には「復元」ではなく「模擬」の天守に分類される形状となっている(更にいえば、月見櫓、鏡櫓も忠実な復元ではない)。

 ところで、現在はこうした歴史的事実に反する復元はできなくなっている。というのは、文化庁は歴史的建築物の復元にあたり、以下の三要件を課しているからである。
 1.考古学調査などによって、柱の穴そのほかの遺構が確認できること。
 2.歴史的資料として、指図(設計図)が残されていること。
 3.古い写真などによって、かつての外観がわかること。
 この条件に当てはめれば、資料の乏しい福山城天守や櫓の再建は今日では困難なのも、また事実ではある。

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