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 ◆堂々川(どうどうがわ)

 堂々川は福山市神辺町中条東山を起源として高屋川に合流する約4kmの渓流。江戸時代に渓流砂防工事が実施されました。
 1673年、堂々川の氾濫で国分寺が流失し、下御領村(現在の神辺町下御領)では63人もの犠牲者を出しました。こういった災害から村を守るため、堂々川では1730年頃から砂留(砂防ダム)が建設されました。

 現在でも16基が現存し、その中で最も大きな6番砂留は、堤高13.3m、堤長55.8mもあり、「大砂留」とも呼ばれ、国の登録有形文化財に登録されています。
 川の上流部には、堆砂敷きを利用して造られた堂々公園があり、四季を彩る樹々や、石組みの水路などが整備されています。
 毎年5月下旬から6月上旬にかけてはホタルが飛び交い、多くの観光客で賑わいます。

 ◆堂々川砂留群

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 堂々川砂留群(どうどうがわすなどめぐん)は、広島県福山市神辺町にある、芦田川水系堂々川流域に建設された複数の砂防堰堤である。
 江戸時代中期から後期にかけて当地を治める備後福山藩により建設され、その後増改築および修復を重ね現在でも砂防ダムとして機能している。2006年国の登録有形文化財に登録。流域は県により整備されている。
 地元住民による任意団体「堂々川ホタル同好会」により周辺美化が行われている。

 ・背景

 堂々川は、福山市中心部から北にある神辺町東中条東山を源流とし、南下した後、神辺中心部を流れる芦田川支川・高屋川に合流する、芦田川の二次支流である。延長約4km、流域面積約2㎢、いわゆる天井川である。古くは百瀬川と言われ、砂留からとうとうと流れ落ちる水を見て菅茶山が書に残したことから堂々川の名が定着したという。

 堂々川の北側上流には大原池・淀ガ池といったため池が数ヶ所ある。堂々川下流域は「下御領」と呼ばれ、御領遺跡という縄文時代後期から中世にかけての集落遺跡が点在しており、つまり古くから人が住んでいた。古代には備後国の国分寺である備後国分寺が創建される。更にこの地は古代から交通の要所となり、古代山陽道の駅家安那駅が置かれ、中世には神辺城の城下町、近世以降は近世山陽道(西国街道)と石州銀山道/笠岡道が交わう宿場神辺宿として発展した。

 気候は瀬戸内海式気候で梅雨台風を除けば降水量は少なく温暖な気候が続く。芦田川は流域のほとんどを花崗岩で占められ、下流は風化した花崗岩が堆積し平野を形成した沖積平野となっている。この風化した花崗岩が堆積した砂状の土を西日本では特に「マサ土」と呼ばれる。この土は崩れやすく広島県における土砂災害の主因である。この地で起こった江戸期の土砂災害で亡くなった人たちの墓が現存している。

 ・発端

 延宝元年(1673年)5月14日、梅雨の大雨により堂々川最上層部にある大原池が決壊し土石流が発生、下流の農地・住居に加えて国分寺を全壊、当時の住民150人弱のうち63人の死者がでてしまった。
 福山藩主水野勝種は元禄7年(1675年)、国分寺を再建する。更に、藩政として農業に重点を置いていた勝種は、農民および田畑保護のため砂留普請を計画した。この勝種藩主時代の元禄10年(1697年)、あるいは翌年水野勝岑が藩主となった元禄11年(1698年)、堂々川に砂留普請を実施する計画が立てられていた。ただし、この計画は享保7年(1722年)まで進められなかった。

 元禄13年(1700年)元禄検地の記録『下御領御検地水帳』に「とうとう砂畑三ヶ所」という記載がある。砂畑とは収穫の見込めそうもない砂地の畑を意味するが、とうとう砂畑は検地帳に記載されるほどの石高評価された畑であったとして、砂留の背後地を利用していた可能性が高いと考えられている。なお、とうとう砂畑は現在の4番砂留上流側の狸ヶ原であるとされている。以上より、現段階では堂々川砂留普請の開始年をこの1700年としている。

 ・近代以降

 明治30年(1897年)砂防法施行に伴い山地そのものの防護を重視し、明治35年(1902年)からの積苗工・谷留石積などの山腹工事を施工していった。こうして、江戸時代の砂留と近代以降の砂防施策が複合的に機能することでこの地域の砂防対策が実現した。江戸期に造られた砂留も嵩上・増築を繰り返して現在でも機能している。
 なお、その存在は戦前まで全国的に知られておらず、砂防学会で紹介されたのは戦後のことになる。1990年代に広島県により砂留整備および親水護岸・堂々公園と周辺環境整備の計画が立てられ、あわせて発掘調査も行われた。
 2006年(平成18年)、国の登録有形文化財に登録される。

 ◆広島県の文化財 -- 堂々川六番砂留

 芦田川水系堂々川に建設された江戸時代の砂留の中で最大のものである。五番砂留の約200m上流に位置する。ほぼ1割の勾配で大型のを階段状に積み、その上部を等によりげする。藩政時代に築かれた堂々川筋の砂留の内最大規模で、地域のランドマークとして親しまれている。

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