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 百万石通りから石川四校記念文化交流館を横目に「いしかわ四校記念公園」を斜めに横断し、「金沢城・玉泉院丸口」へ。
 外人観光客のお二人が「玉泉院丸庭園」に向かっておられましたので、私達も後続です(^.-)☆

 ◆四高記念文化交流館

 四高記念文化交流館(しこうきねんぶんかこうりゅうかん)は、石川県金沢市にある文化施設である。

 ・概要
 石川県が2008年(平成20年)に旧第四高等学校(略称は「四高(しこう)」)に関する資料の展示と文化活動の機会を提供する目的で設置した。金沢市中心部の香林坊から兼六園につづく百万石通りに面し、後方にはいしかわ四高記念公園の緑地が広がる。建物は1891年(明治24年)築の煉瓦造り2階建てで国指定の重要文化財である。正面から見て左半分は無料ゾーンの四高記念館、右半分は有料ゾーンの石川近代文学館となっている。初代館長は加賀藩主前田家18代当主の前田利祐である。

 ・建物
 建物は1891年(明治24年)に建てられた旧第四高等中学校本館である。翌1892年(明治25年)の旧第四高等中学校開校から1950年(昭和25年)の旧第四高等学校閉校まで旧制高等学校として使用され、次いで1964年(昭和39年)まで金沢大学理学部として使用された。その後も金沢地方裁判所、石川県立郷土資料館として保存・活用された。1969年(昭和44年)3月12日には貴重な煉瓦造りの初期公立学校であるとして重要文化財に指定された。
 1986年(昭和61年)、石川県立郷土資料館が本多の森公園に移転したことに伴い、隣接地にあった石川近代文学館が移転入館。2008年4月26日に現施設としてリニューアルオープンした。所有は文部科学省であり、石川県が文化庁から使用許可を受けている。

 ・石川近代文学館
 泉鏡花、徳田秋声、室生犀星など石川県ゆかりの文学者の著作や遺品などを集めた文学館である。有料ゾーンとなっている。2008年のリニューアル前は石川県が財団法人石川近代文学館に建物全体の管理を委託し、同財団が文学館の運営を行っていたが、リニューアル後は石川県が建物を公の施設として直接管理運営し、文学館エリアの運営を同財団に委託している。

 ・四高記念館
 明治から昭和にかけて使用されていた旧第四高等学校(中学校)の歴史を展示する四高展示室4室のほか、旧四高の教室を展示、講座等に利用できる多目的利用室5室、レトロな椅子やテーブルが備えられたレトロ体験室1室がある。同地が金沢市の中心部にあり、街中の活性化を図るため、無料ゾーンとして開放されている。

 ◆いしかわ四高記念公園

 いしかわ四高記念公園(いしかわしこうきねんこうえん)は、石川県金沢市広坂にある都市公園(地区公園)である。石川県が開設・運営している都市公園で、公園の名称はかつて公園内に開設されていた第四高等学校に由来する。
 旧名称は石川県中央公園(いしかわけんちゅうおうこうえん)で、石川県内では県中央公園あるいは中央公園で呼ばれていた。

 ・歴史

 1822年(文正 5年):加賀藩の学問所(藩校)「明倫堂」開設。
 1887年(明治20年):第四高等学校開設(1894年までは第四高等中学校)。
 1949年(昭和24年):新制金沢大学発足(第四高等学校の所在地は理学部の施設となった)。
 1963年(昭和38年):金沢大学理学部が金沢城内に移転。移転2年後から公園としての整備開始。
 1968年(昭和43年):4月1日:石川県中央公園開設。
 1972年(昭和47年):石川県政100周年記念事業として谷口吉郎設計のカスケード(公園内の滝)設置。
 1986年(昭和61年):香林坊市街地再開発事業により公園入口広場を新設。
 2006年(平成18年):指定管理者制度により植宗・吉村グループが公園の整備・運営を行う[2]。
 2014年(平成26年):6月25日:公園の名称を「いしかわ四高記念公園」に変更。

 ・公園再整備・名称変更
 石川県庁舎が2003年に移転した後、公園の緑地帯が拡大し県庁舎跡地との一体整備が必要となった。また、長年にわたって芝生の衰退や悪天候時の広場のぬかるみの発生、樹木の生育環境の悪化が顕著となり、2013年度から公園の再整備を実施した。また、公園の再整備に合わせて、公園の名称を旧制第四高等学校の開設地にちなみ、「いしかわ四高記念公園」にすることにし、公園整備が終了した2014年6月25日に名称を変更した。

 ◆玉泉院丸庭園

 ・庭園の概要

 玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主「前田利常」による寛永11年(1634)の作庭を始まりとし、その後五代「綱紀」や十三代「斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで金沢城内玉泉院丸に存在していた庭園です。饗応の場として活用された「兼六園」に比べ、藩主の内庭としての性格が強い庭園だったと考えられています。庭園は、城内に引かれた辰巳用水を水源とする池泉回遊式の大名庭園で、池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある立体的な造形でした。滝と一体となった色紙短冊積石垣などの、意匠性の高い石垣群を庭の構成要素とする、他に類を見ない独創的な庭園であったと考えられています。

 ・庭園の整備

 庭園は明治期に廃絶され、その面影は失われていましたが、平成20年から5年間をかけて実施した発掘調査の成果や、絵図、文献、その他類似事例等に基づき設計を行い、平成25年5月に整備工事に着手しました。
 整備にあたっては、遺構保存のため全体的に盛土を行い、その上に庭園を造成しています。また、外周部の石垣修築や入口部の整備など玉泉院丸一帯の整備も合わせて行い、平成27年3月、歴代藩主が愛でたであろう庭園の姿が再現されました。

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