◆小樽市 小樽オルゴール堂
株式会社オルゴール堂(小樽市住吉町4番1号、柳田春義代表取締役)が経営する小樽オルゴール堂は、年間400万人の観光客らが訪れる小樽屈指の観光スポットだ。小樽市指定歴史的建造物の本館、堺町店、手作り体験遊工房の3店舗をはじめ、アンティークオルゴールやからくり人形などを展示している2号館、小樽からくり動物えん、キャラクターハウス・夢の音、アクセサリーマーケットおたる瑠璃工房など、本館を基点にして周辺に8つの関連店舗が点在する。
・圧巻、25,000点以上のオルゴールが並ぶ 小樽オルゴール堂本館
レンガ造りと石造りの2棟からなる本館は、1912年に米穀商が本社屋として建てた木骨レンガ造り2階建ての建物を再利用している。内部は総ケヤキ造りで、高さ9メートルの吹き抜けの大ホールがあり、2万5,000点以上のオルゴールが展示販売されている。正面玄関前には、高さ5.5メートル、幅1メートル、重さ1.5トンの蒸気時計が配置されており、観光客がひっきりなしに記念撮影する姿がみられる。また、2号館には、展示されている1908年製のパイプオルガンや、アンティークオルゴールのミニコンサートを楽しめる。
◆北一硝子
北一硝子(きたいちがらす)は、北海道小樽市にあるガラス製品の製造、販売を行う会社。
・概要
1901年(明治34年)に創業した浅原硝子が前身。当初は石油ランプの製造を行っていたが、当時活況を呈していたニシン漁用浮玉(ブイ)の製造も手がけ、飛躍的に業績を伸ばした。
プラスチックなどによる代替品の開発や漁業の衰退が進んだ1980年代には斜陽化が進んだが、小樽運河地区の再開発に伴い開設した観光客向けの常設ギャラリーが人気を博し、照明製造販売からガラス器の販売業への業態転換に成功した。
当初からの国内外のガラスメーカー・商社商品の仕入れ販売に加えて、現在では自ら企画する商品や傘下の工場の運営のほか、レストランやカフェ、また日本酒やワイン等の酒類販売も手がけ、小樽市内だけでも10店舗以上の直営店を構える。
この成功は、後に全国各地に出現した観光地型のガラスショップ・工芸館の先駆けとなった。
★小樽と北一硝子のあゆみ
・小樽・明治期の繁栄
小樽繁栄のルーツはニシン漁にありますが、明治に入り、北海道開拓が本格化すると、その玄関港として発展します。多くの開拓移民が小樽に上陸し、それを支える様々な開拓物資や生活用品を満載した北前船(弁財船)が集結し、商港としての発展基盤がここで生まれます。
明治13年に日本で三番目の鉄道が札幌との間に敷かれて、流通の要となった小樽では、港湾の整備が進められ、積荷を保管する木骨石造倉庫が次々に立ち並びました。明治32年には開港場として指定され、国際貿易港になります。この時すでに営業倉庫は250を数え、うち石造倉庫が百棟以上もありました。北一硝子の代表的な店舗施設であります三号館もその中のひとつでした。
・三号館倉庫の歴史
北一硝子三号館は、木村倉庫社長、初代木村円吉により明治中期(明治24年)に建てられた木骨石張倉庫です。この倉庫は時代とともにその役割が大きく変わってきました。当初は漁業用倉庫として、みがきニシンなど魚の加工品が納められておりましたが、ニシン漁の衰退とともにさまざまな物資が納められるようになりました。
木骨には、エゾ松、トド松、床下の主要部分にはヒノキを使っています。外壁には小樽軟石が用いられております。
軟石は断熱効果にすぐれ、倉庫の壁材としては最適のもので、百年以上を経た今でも、昔のまましっかりとした姿を残しております。この歴史ある倉庫を当社が譲り受け、昭和58年2月、北一硝子三号館として開店いたしました。旧倉庫を再生した最初の成功例として、他の石造倉庫の転用を促進した意義は大きいとの評価を受けております。平成3年、小樽市歴史的建造物第21号に指定されております。
・一世紀におよぶ小樽での歩み
北一硝子の前身、浅原硝子が生まれたのは、小樽函館間の鉄道工事が始まる前年の明治34年のこと。初代社長の浅原久吉が薩摩キリコの発祥の地、九州より北海道へ渡り、小樽で石油ランプの製造を始めました。電気が普及していない当時、浅原硝子の製造するランプは、人々の生活必需品でした。さらに明治43年には漁業用の浮き玉の製造も始め、小樽、室蘭、旭川、釧路、樺太と製造工場を増設し、従業員数も約400名となり、当時の北海道では大企業に名を連ねていたのです。
・小樽の文化とガラスの調和
前述の通り、小樽は明治以降の日本において急速に発展した土地です。それも北海道の全域の開拓の玄関港として、道産品の搬出の積出港として、また樺太への中継港として飛躍的な発展をとげました。この時代は、鎖国を解いた明治政府の国策として、さまざまな舶来文化、文明が怒涛のごとく押し寄せてきた時代でもありました。鉄道や大邸宅、寺社仏閣、旅館、料亭など、どんどん新しく建ち並ぶ勢いがあったのです。
しかし、昭和20年の終戦を境に大発展は完全に止まります。その後の法改正や社会情勢の変化により昭和40年代に入ると北海道経済の中核は完全に札幌へ移行され、その後の小樽は「斜陽」という形容詞がしばらくついて推移しました。
しかしながら、偉大な文化遺産のすべてが失われたわけではありませんでした。明治大正期の建築物や町並みは、貴重な文化遺産としてその形を今にとどめることになります。そしてその貴重な歴史的・文化的な遺産の価値を正しく認識した上で、硝子との調和をどのように図るか、が当社北一硝子の大きなテーマとなっております。
・小樽の文化をより多くの人に伝えたい
本州各地の古い都市には、長い歴史的背景がありますが、小樽は、近代日本の夜明けに和の文化と洋の文化を同時に取り入れてスタートした町だといえます。それがまた、非常にグローバルな視点で展開したために、特異的な都市形成がなされてきました。このような小樽の成長過程を踏まえれば、都市を保存していく重要な価値があると私たちは考えています。スクラップ・アンド・ビルドによる安易な近代化からのがれ、個性を保持している小樽は、そもそも経済の集散地であるとともに文化の集散地でもあったのです。
この町の魅力を伝えていくのも、小樽に生まれた北一硝子の大切な使命と考えております。
…と、北一硝子sanのホームページには、こんな記載がありました(^-^)//"
GONsan のホームページ ↓
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