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 う~ん、この建物はキレイですネ(^.-)☆

 ◆豊平館
 豊平館(ほうへいかん)は、札幌市中央区中島公園内にある西洋館。

 ・概要

 1880年(明治13年)、今の大通に面する位置に高級西洋ホテルとして開拓使が建造した。最初の利用者は明治天皇で、以後要人の宿泊、祝賀会、各種大会に用いられた。後に公会堂となり、第二次世界大戦中に日本軍、戦後にアメリカ軍に接収された。1958年(昭和33年)に中島公園に移設され、以後は2012年(平成24年)3月まで市営の結婚式場として利用されていた。重要文化財(1964年5月26日指定)。平面積562.194㎡。運営費は年間約2,800万円。

 豊平館の設計は、開拓使工業局営繕御用掛の安達喜幸により、工事は大岡助右衛門が請け負った。1879年(明治12年)に建築をはじめ、翌年11月に完成、12月3日に落成式が催された。完成当時、完全な西洋式のホテルは日本にほとんどなかった。
 豊平館最初の宿泊客は明治天皇で、札幌行幸のとき、1881年(明治14年)8月30日から9月2日までの4日間、行在所に用いた。これによって開拓使は面目をほどこし、豊平館の格式もあがった。同年11月6日に開拓使は旅館と料理店の経営を民間に委ねた。しかし、天皇が泊まった2階客室に他の人を泊めることをはばかり、1階だけを利用させたため、ただでさえ少ない客室がさらに減ることになり、料金も高く、ホテルとしての利用は低調であった。中央の高官の宿泊のほか、祝賀会や各種式典の場として用いられた。
 札幌市の発展とともに式典・大会会場の需要が高まったため、札幌市は1921年(大正10年)に宮内省に願い出て豊平館を譲り受け、1926年(昭和元年)に豊平館の裏に新しい建物を作って連結した。豊平館と新しい建物は市の中心部にある公会堂として盛んに利用された。昭和初期に、明治天皇ゆかりの場所である豊平館は聖蹟とされた。そして1933年(昭和8年)に国の史蹟に指定された。

 豊平館は、第二次世界大戦中に北部軍に利用され、戦後にアメリカ軍に接収された。後にアメリカ軍が三越札幌支店を接収すると、三越にかわりの店舗として貸与された。アメリカ軍が近郊に建設したキャンプクロフォードに移転した1947年(昭和22年)に、札幌市のもとに戻った。以後、新旧の建物は公民館、市民会館として利用された。
 長く大通公園の東の端にあった豊平館は、1957年(昭和32年)に中島公園への移築のため解体された。跡地には新しい市民会館が建てられた。移築の対象は明治時代からの古い建物だけで、翌年に建築当時の姿に近い形で復元された。以後の豊平館は、市営の結婚式場として利用されていた。この間、史跡指定は1948年に解除されたが、1964年に明治時代の歴史的建築物として改めて重要文化財に指定された。

 2012年4月より2016年6月まで、耐震補強を含む保存修理工事のため、休館していた。工事完了後の利用方法について市は「集客交流資源として積極的に活用していく施設としてリニューアルオープンする予定」としていた。2016年春に札幌市は、6月20日に再オープンし昼間は観覧施設、夜間は貸し室として使用することを発表した。貸し室の用途には、修理工事以前と同様、結婚式の使用が認められている。

 中島公園入口方向に進んで行きますと、こんな碑が…「四翁表功之碑」と刻まれていますけど、どんな碑なのでしょう…

 ◆四翁表功之碑

 この碑は、中島公園にある[日本庭園]の入り口に建立されています。この四翁とは、札幌の開拓に尽力した[水原寅蔵][大岡助右衛門][石川正叟][対馬嘉三郎]の四翁の事です。
 [四翁表功之碑]は、1918年(大正7年)が開道50年と札幌本府創建50周年の年でした。これを記念して翌1919年(大正8)に創建当初の功労者を顕彰するためにこの碑を建立したものです。

 中島公園とお別れし、ホテル方向に戻っていますと、豊川稲荷札幌別院が…

 ◆豊川稲荷札幌別院

 豊川稲荷札幌別院(とよかわいなりさっぽろべついん)は、本院が北海道札幌市清田区北野7条2丁目8-18、祖院が中央区南7条西4丁目1-1にある曹洞宗玉宝禅寺の別称である。
 豊川稲荷(愛知県豊川市)の別院である。祖院は明治31年(1898年)開創。本院は昭和59年(1984年)建立。

 ・沿革

 祖院は札幌市の歓楽街・薄野の中心部のやや南側に位置する。1871年に遊郭が設置されて以来、薄野は商業地・繁華街として発展したが、商売繁盛を司る稲荷神への信仰は早くから存在し、1880年代初頭には既に無住の稲荷堂が建てられたという。その後1894年に地元の酒造業者・波多野与三郎によって、豊川稲荷の分霊を迎えようという計画が持ち上がり、現在の札幌市中央区南3条西4丁目に設立寺務所が設けられ、募金活動が開始された。波多野が花柳界と繋がりが深かったこともあり、発起人には料亭・芝居小屋・遊郭・見番(芸妓の登録組織)などの関係者が数多く名を連ねた。1年足らずの間に現在の金額で1億円近くの浄財(寄付金)が集まり、1895年から現在地で稲荷堂の建設が始められ、1898年5月に落成した。

 以後、豊川稲荷は「薄野の守護神」と呼ばれ、地域の人々の崇敬を集めることとなる。玉垣や門柱には寄進者として、地元の有力者や興行主などの他、見番に属する芸妓などの名前も数多く刻まれており、花街との関わりは特に深いものがあった。昭和初期までは、芸妓や遊女、小料理屋の女主人や仲居など、水商売に縁のある女性が、お百度を踏む光景が頻繁に見られたという。また、毎年9月22日に催された例大祭は、かつては札幌神社祭・三吉神社祭とともに、札幌三大祭と呼ばれるほど盛大なものであった。
 1976年5月25日、札幌料飲業団体連合会会長・熊谷秀一らを中心とした「薄野花街哀悼碑建立期成会」によって、薄野の花柳界の無縁仏と見づ子(水子)を哀悼する「薄野娼妓並水子哀悼碑」が建立された。境内を取り囲む玉垣は、地域の再開発などによって、昔よりも大幅に縮小されているが、災害などでの損壊を免れた本殿や門柱などとともに、遊郭時代の薄野を偲ばせる数少ない遺構となっている。
 清田区の本院は1984年、開創88年を記念して新寺として建立された。上記の経緯もあり、本院・祖院では水子供養が行われており、毎月24日には水子供養合同法要、毎年5月24日は水子石碑建立記念法要が催されている。

 …と、こんな豊川稲荷札幌別院のようであります。
 ホテルに戻りますと朝食を済ませ、そしてバスに乗車し余市町行きとなりました(^.-)☆
 途中、バス車内から「北海道庁旧本庁舎(レンガ)」をパチリです(^-^)/

 ◆北海道庁旧本庁舎

 北海道庁旧本庁舎(ほっかいどうちょうきゅうほんちょうしゃ)は、かつて北海道庁の本庁舎として建築された煉瓦造りの西洋館である。「旧道庁」や「道庁赤レンガ庁舎」、「赤レンガ」などと呼ばれ、親しまれている。重要文化財(1969年3月12日指定)。館内は北海道開拓関係資料を展示・保存する北海道立文書館等として一般に公開されているが、一部は隣接する現道庁の会議室として現在でも使用されている。北海道(道庁)にとっての象徴的存在であり、広報番組などのタイトルにしばしば「赤レンガ」が用いられている。道庁前のイチョウの並木は大正14年、勅任技師名井九介の指導により植えられたものである。

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