これは、3/10の「経済リポート」sanの記事なのですけど、ふ~ん、日本初の国産自動車が岡山市で製作されましたとは知りませんでしたネ(^-^;
GONsanは岡山市で3年ばかり暮らしておりまして、おまけに職場は天満屋近くの表町でありましたにも拘わらず、う~ん、全く知りませんでしたねぇ~
それに、職場から岡山城には歩いても行けましたのですけど…
で、早速、WEB上で『山羽虎夫』sanを検索しましたら、こんな記載が…
◆6km走った手作り自動車
平成28年度の自動車国内生産は、936万0278台だったそうだ。平成2年には1,349万台だったが、その後は海外生産が伸びたため、そんな数字を聞くことはなくなった。それでも、我が国の経済界において自動車は基幹産業の地位を占めており、今年の春闘に自動車大手の労組はベア3,000円の強気の要求で臨んだ。(結果はトヨタで1,300円)本日は、そんな自動車産業の原点を紹介しよう。
岡山市丸の内二丁目に「国産自動車創生者 山羽虎夫(やまばとらお)翁」の像がある。岡山城の大手門跡の近くである。
我が国の産業史は、自動車のパイオニアとして、もっと山羽虎夫を顕彰してもよいのではないか。台座の裏側には、彼の業績を説明した銘板がはめ込まれていた。今は失われている。
国産自動車第一号が、岡山、三蟠間(六キロ)を走ったのは、明治三十七年の五月七日だった。その製作を担当した山羽虎夫、佐々木久吉、両氏の苦心もさることながら真の発注者たる森房造、楠健太郎、両氏の卓見も見落してはならないものであろう。
この像は昭和29年(1954)に建てられた。明治37年(1904)から50周年を記念したものである。
岡山市北区表町三丁目の千日前商店街に「山羽虎夫工場跡」がある。ここに山羽が経営する電気修理工場があった。技術者としての強い好奇心から、自動車の製作にチャレンジしたのである。
この工場で製作された国産自動車第一号は6km走った。とは言うものの、タイヤのトラブルで試運転のみにとどまり、実用化には至らなかった。
そこで、初の国産自動車は、明治40年(1907)に東京の吉田真太郎が製作した吉田式ガソリン自動車「タクリー号」だとする考え方もある。こちらは有栖川宮威仁(たけひと)親王の依頼により10台ほど生産され、欧米車と比較しても遜色のない出来だったという。
山羽虎夫は、自動車史に記録されるだけでなく、バイク史にも名を残している。国産初のオートバイを明治42年(1909)に完成させ、約30台製造販売したという。同じ年に大阪の島津楢蔵が製作した4サイクル400ccの「NS号」が国産初のオートバイだともいう。山羽と同時期に様々な技術者がエンジンの研究をしていた。それは、電話機の発明でベルとエジソン、そしてグレイが火花を散らしたエピソードを思い出す。山羽の活躍した時代は、パイオニアたちの英雄時代であった。
--- https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2017/06/%E5%B1%B1%E7%BE%BD%E8%99%8E%E5%A4%AB.html ---
…と、こんな記載が。
いゃいゃ、岡山市にも凄い方がおられましたのですネ。それにしましても、「山羽虎夫」sanを、GONsanは存知あげませんでしたのが哀しいですねぇ(^-^)//"
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