医王寺のご本尊は「木造薬師如来立像」。これは広島県の重要文化財にも指定されています。6年に一度しかご開帳されない、ありがたいご本尊です。
山門には二体の金剛力士像が。なんとなく愛嬌を感じるお仁王さまが出迎えてくれます。
医王寺とお別れしますと、帰路は、この山門をくぐり平賀源内生祠方向へ。
◆平賀源内生祠
平賀源内は本草学を志し、薬草・動物・鉱物を研究しました。また、「風来山人」、「天竺浪人」と号し、戯作者として多くの作品を書き、そして俳諧者でもありました。
さらに、西洋画を指南したり、緑、紫、黄の彩色あでやかな源内焼きも考案しました。
1752(宝暦2)年、源内は長崎に遊学して蘭学の諸技術を学び、翌年、故郷の讃岐への帰途、鞆の津の溝川家所有地で陶土を発見し、陶器造りを伝授しました。
源内焼きはオランダ製の釉薬を使ったといわれています。溝川家では、陶器造りには手をつけず、鞆の津の伝統産業である鍛冶の「ホクボ」(火床)や壁土の原料として、その陶土を販売しました。平賀源内生祠の周辺には、今でも多量の土を採取した跡があります。
平賀源内生祠は、美麗な鞆港を見下ろせる医王寺参道の途中にあります。
割石を二つ重ねた石があり、3個の丸石を積み重ねた石塔と石造卒塔婆がたっています。1940(昭和1)年に広島県史跡に指定されました。
卒塔婆の正面には「南無妙法蓮華経平賀源内神儀」、右側には「慶応四戊辰七月廿八日溝川栄介茂助利三郎立之」と刻しています。
三重の石塔は三宝荒神といって、「土の神、かまどの神、平賀源内神」を祀ったものです。源内は自分の生前中に神として祀る(生祠)ように言い残したので、源内が寄寓していた溝川家は、1764(宝暦14)年に三宝荒神を祀りました。
医王寺入り口まで降りて来ますと、次は福山市鞆の浦歴史民俗資料館(鞆城跡)へ(^-^)
◆福山市鞆の浦歴史民俗資料館(鞆城跡)
『福山市鞆の浦歴史民俗資料館』は、福山市制70周年を記念して鞆城跡の高台に建設されました。館内では、歴史資料やお祭りなどの民俗資料を常設展示。特別展や企画展なども盛んに開かれています。また、「潮待ちからくり劇場」など、遊びながら“潮の干満”について学べたり、実際に使われていた古い漁船が展示されていたり、さらには観光鯛網や鞆・町並ひな祭りといった季節のイベントや鞆の浦名物・保命酒についてなど、鞆の浦ならではの歴史に触れることができます。
・かつての姿を偲ばせる、鞆城の石垣
鞆の浦歴史民俗資料館に上る途中で見られる石垣は、掘り出された鞆城時代の石材を使って復元されたものです。そのほかにも、斜面の草むらの中などに、当時を偲ばせる石垣の残骸が転がっていたりします。また、資料館前の広場からは、鞆湾が南に見渡せます。城よりの眺望、絶景です。
・宮城道雄は、今も鞆の浦から「春の海」を眺めている
鞆の浦民俗資料館の前庭には、作曲家・箏曲家として名高い宮城道雄の像があります。1929年に発表した「春の海」で世界的にも評価された宮城道雄ですが、この曲は、父親の故郷であり、自身が幼少期を過ごした鞆の浦を思って創作したと言われています。宮城道雄は8歳で失明しており、光を失う以前に見た鞆の浦の海が、永遠の原風景として心に刻み込まれていたのでしょう。
・鞆城
鞆城(ともじょう)は、備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城である。
・概略
鞆は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地であった。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていたが、市街部に城は存在しなかった。なお、建武3年(1336年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地であった。
鞆城の前身となるのが天文22年(1553年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた「鞆要害」である。鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されている。天正4年(1576年)には鞆要害に京都を追われた足利義昭が滞在し、毛利氏の庇護の下で「鞆幕府」とされた。このため鞆には足利氏の歴代の近臣である伊勢氏・上野氏・大館氏他多数の名門武家が集ったといわれる。
安土桃山時代になると福島正則が鞆要害の整備を始め、「鞆城」と呼ばれるようになった。鞆城は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。築城は慶長14年(1609年)まで続けられたが、あまりに巨大な城郭のため徳川家康の嫌疑がかかり廃城とされ、福島氏の移封後は鞆奉行所が置かれた。
・歴史
鞆城築城以前には鞆市街に城はなく、南北朝時代には鞆の津(現在の鞆港)に隣接する島に築かれた大可島城がその前身といえる役割を果たしていた。康永元年(1342年)に燧灘で勃発した合戦では、鞆も戦場(鞆合戦)となり、大可島城に篭城していた南朝方の将兵達は北朝方の攻撃により全滅したという。また観応の擾乱では貞和5年(1349年)に足利直義派の足利直冬が中国探題としてこの城に滞在したが、幕府の討伐軍に攻められ九州に敗走した。
戦国時代になると備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は天文13年(1544年)に海賊(村上水軍)の村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され本拠は大可島城に置かれた。このため亮康は後に「鞆殿」と呼ばれた。
元亀4年(1573年)に織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が毛利氏を頼って天正4年(1576年)から鞆に滞在しており(鞆幕府)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ義昭の居館があったとされている。なお、義昭の警護は一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康があたっていたという。
天正6年(1578年)になると毛利氏は信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には山中幸盛の首級が鞆に運ばれ義昭と毛利輝元が共に実見を行ったと伝えられる。義昭は6年間鞆に留まり、天正10年(1582年)に津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移ったといわれる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏に替わり福島正則が備後国を領有すると城郭「鞆城」として大きく整備されることになった。この様子は慶長12年(1607年)に当地を訪問した朝鮮通信使の使節一行の日記に「山上」に新しく石城を築き、将来防禦(防御)する砦のようだが未完成である」との記述があり、当時まだ建設途上であった様子がうかがえる。城代には重臣の大崎玄蕃が置かれた。築城は慶長14年(1609年)まで9年余り続いていたが、徳川家康が鞆城の存在を知って立腹し、これを恐れた福島正則は築城を中止して完成していた施設も取り壊して家康に謝罪することになった。地元では元和元年(1615年)に発布された一国一城令によって取り壊されたと伝わっている。
天守などは破却されたが、後述のようにある程度残されていたといわれている。元和5年(1619年)に正則が広島城を幕府に無断で修理したとして、武家諸法度によって改易され、備後国の福島氏の支配は終焉を迎えた。
鞆城の跡地には西日本の長門毛利氏や筑前黒田氏などの外様大名に対する西国の鎮衛として徳川家康の従兄弟である水野勝成が備後福山10万石の領主として移封され、鞆城三の丸跡には鞆奉行所が置かれた。鞆奉行所には勝成の長男勝重(勝俊)(後の2代藩主)が居住し「鞆殿」と呼ばれた。また勝俊が藩主に就任以後は重臣が鞆奉行として配された。なお、江戸期の歴史書「水野記」の記述によれば、宝永8年(1711年)に大手門と矢倉屋敷が焼失したとあり、江戸時代の中ごろまでは元の鞆城の建築物が存置されていたようである。
また、一国一城令後に備後国で残されたのは鞆から北東約20kmに位置する神辺城であり、水野勝成も「神辺城主」
として移封されたが、西国の鎮衛の拠点として、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が認められ、元和6年(1620年)に福山城を築城し廃城になった。
…と、WEB上で検索致しますと、こんな「福山市鞆の浦歴史民俗資料館(鞆城跡)」であります(^-^)//"
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