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 本能寺を後にしますと、御池通りを鴨川に掛かります御池大橋方向へ…
 その途中で眼に入りましたのが「此付近加賀藩邸跡(このふきんかがはんていあと)」の表示板。ふ~ん、そぅなんですねぇ~ここに加賀藩邸が存在しましたようです(^.-)☆
 そしてまた暫く進みますと「夏目漱石の句碑」が…

 ◆加賀藩邸跡

 加賀藩前田家の藩邸は、天明8(1788)年焼失し、その後再築された。慶応2(1866)年、鳥羽伏見の戦に出兵したが、幕軍の敗北を知り引き返した。戊辰戦争には官軍につき北越で戦った。藩邸は明治維新後は上地され、一時は府知事邸となっていたが、太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となった。

 ◆御池大橋西詰の漱石句碑

 木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
 春の川を 隔てゝ 男女哉
 -- 漱石 --

 京都ネタを紹介しているいろいろなサイトでもたびたび取りあげられている有名なシロモノなのだが、少しだけ掘りさげてみる。
 まずは刻まれている俳句それ自体について。俳句というとパブ犬的に五七五と言ってしまうが、この句はそうした定型には沿っていない。内容からなら六・四・八の自由律であり、定型風に捉えるなら、春の川を(6)隔てゝ男(7)女哉(5)となって第一句の字余りである。字余りとなる「を」が必要だった理由はよくわからないが、もしかすると推敲すれば削られてしかるべき一文字だったが、即興の一句だったのでこうなったというのが本当なのかも知れない。作られた時の事情が詳しく紹介されていることも併せて考えると、この句は、これだけで自立しているというよりはシチュエーションと合わせて味わう一句ともいえる。

 そんな中身はさておき、気になるのは句碑のある場所についてである。シチュエーションが云々と言ったが、傍らに設置されている駒札によれば、句碑のある御池大橋西詰の南側は「句にゆかりの現地」らしい。当時漱石が投宿していた北大嘉という宿がこの場所にあったということなのだ。大友のお多佳さんとちょっとした諍いごとがあったことを踏まえ、鴨川を隔てた大友へ送った一句がこれで、祇園白川と木屋町という鴨川を間においた位置関係に味が出てくるわけである。
 ただし、実は駒札には「木屋町御池の旅館『北大嘉』」とあるだけで、句碑のある御池大橋西詰の南側がピンポイントで北大嘉の場所だったとは書いていない。御池通が広くなったのや御池大橋が架けられたのは、漱石の時代よりはるか後のことなので、当時の地形を現在の道路の形状とぴったり重ね合わせるのは難しいことを考えると、だいたいこのあたりということで設置されたのだろう。

 …と、WEB上には、それぞれこんな記載がありました(^.-)☆

 鴨川の河原を覗いてみますと、早朝から若者の皆様のグループが…何の集まりなのでしょうねぇ~
 御池大橋から少し戻り、今度は「木屋町通」を歩いてみます事に…そして「四条通」から鴨川の河原へ…
 木屋町通とは打って変わって、ノンビリとした散策となりました(^-^)//"

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