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 境内散策スタートで、正面の金堂に進みながら左手に眼を向けますと眼に入りましたのが『名勝庭園』の案内板が…
 なら、まずはこちらから…と進んで行きますと、「こちらは拝観料が必要です」と拝観受付所からの声(^-^)
 う~ん、残念、有料でありましたか…では、Uターンです(^.-)☆

 ◆名勝庭園

 「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉公が建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ・智積院の前身のお寺)時代に原形が造られました。
 その後、智積院になってからは、第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と言われるようになります。
 築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山をかたどって土地の高低を利用して築山を造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けています。
 国宝の障壁画がかつて飾られていた大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます。
 その大書院より眺めることができる庭園は、四季折々の美しさで私たちの目と心を楽しませてくれますが、特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やぎ、毎年多くの観光客が訪れます。

 引き続き金堂方向に進んでいきますと、右手に『玄宥僧正』の像が…

 ◆玄宥僧正

 玄宥(げんゆう)享禄2年(1529年)-慶長10年10月4日(1605年11月14日)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての真言宗の僧。

 ・経歴

 下野国の吹上城主膝付又太郎の子。18歳の頃より根来山で修学し、南都・園城寺・比叡山で諸宗の教学を学んだ。その頃の根来山は6千人ほどの学僧を擁する巨大な教育機関となって栄えていた。天正5年(1577年)根来山に3千近くあった塔頭の一つ智積院に住し、推挙され小池坊専誉とともに根来山の能化職に就く。

 しかし、根来寺は教育機関であるとともに大量の鉄砲や多くの僧兵を抱えており巨大な軍事力を有していたことや、地域支配と深く結びついていた宗教勢力であることから天正13年(1585年)豊臣秀吉による紀州征伐が起こり、玄宥は高野山に逃れた。以後、玄宥は、真言宗系の京都の高雄山神護寺や醍醐寺三宝院などを転々とした。
 慶長5年(1600年)秀吉亡き後、再興の訴願を続けていた玄宥に徳川家康から智積院再興の許可が出され、翌年慶長6年(1601年)に京都東山の豊国神社境内の坊舎と土地を寄進され、智積院は再興された。さらに翌年慶長7年(1602年)には二百石の寄進を受ける。
 玄宥は、坊舎のある「上の寺」と講堂のある「下の寺」を建立し、寺名を「五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)」と号し、智積院再興第一世となった。再興から4年後の慶長10年(1605年)11月14日、77歳で没した。

 うん、うん、大変ご苦労の上、智積院を再興されましたようですネ。
 仲々端正なお顔立ちで、また聡明さが伺えますイィお顔でありました(^_^)v
 それから、金堂に参拝です。

 ◆金堂

 総本山智積院の中心的な建物であり、金堂と呼ばれています。宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業として昭和50年に建設されました。堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。
 毎朝の勤行、総本山としての多くの法要はここで厳修されます。
 以前の金堂は、元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2年(1705)春に建立されました。
 しかし、明治15年(1882)に火災により焼失しました。

 …と、こんな金堂のようであります。
 本尊大日如来の尊像を何枚かパチリとなりました(^-^)//"

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