長川寺まで下りて来ましたら『細川通董公墓所 90m →』の案内標識が(^.-)☆
墓所まで90mとは至近距離ですから、早速、お参りとなりました。
そして、WEB上で「長川寺」と「細川通董公」につきまして少しお勉強です。
◆長川寺
長川寺は応仁の乱の兵火によって焼失した際に備中守護細川満国公の菩提寺として細川家に整備されました。
その歴代細川家の中でも当寺と地域の興隆に最も尽力されたのが鴨山城主細川家七代目の細川通董公です。
細川通董公は戦国時代から安土桃山時代にかけて備中国浅口郡を統治した武将で戦国大名毛利氏の客将として活躍しました。
細川通董公は天正3年(1575年)からは長川寺背後の鴨山に聳えていた鴨山城を拠点としましたが、天正15年(1587年)に赤間関(現下関市)で病没されました。
現在の墓所は4代後裔に当たる長府藩毛利家家老の細川元純が正徳5年(1715年)に建立した物です。浅口市指定文化財にも登録されています。
・長川寺(ちょうせんじ)縁起
長川寺開創から鴨山城主細川家(野洲家)ゆかりの禅寺へ
清瀧山長川寺は源頼政の末裔である西山宗久がこの地に「梵刹」という先祖供養のための礼拝施設を備えたのが始まりです。西山宗久がこの世を去ってから100年程後の応永14年(1407年)には長川寺背後の鴨山に備中守護細川満国公が鴨山城を築城し初代鴨山城主に君臨します。
この鴨山城主細川氏の登場により、この地にも武家社会が求める先進的な禅宗寺院が必要とされました。これにより応永19年(1412年)に曹洞宗大本山總持寺の輪住七十三世住職を務められる英厳章傑(えいがんしょうけつ)和尚が長川寺へ迎えられます。
そして長川寺は鴨山城主細川氏ゆかりの禅寺となりました。しかし細川氏が実質的に鴨山城に君臨し直接的な統治をするのは鴨山城主七代目の細川通董公の登場を待つことになります。
◆長川寺と鴨山城主 細川家(野洲家)の盛衰
長川寺は鴨山城主細川氏(野洲家)ゆかりの禅寺として発展しましたが、二世密山章巌(みっさんしょうごん)和尚代の応仁年間(1467年~1468年)に発生した兵火に遭い伽藍を焼失してしまいます。
しかし文明年間(1469年~1486年)に入ると鴨山城主三代目細川教春公の助力の下に三世等厳字倫(とうがんじりん)和尚が伽藍を再建されました。この戦乱の時代の中にあって当寺院は衰退しつつもその偉容を維持しました。
それは長川寺を開かれた英厳章傑和尚以来の男女平等下での布教活動と観音菩薩や地蔵菩薩を中心とした民衆の救済活動が結実したからです。他にも当時の曹洞宗が他宗派よりも葬儀を重視し死後の菩提供養に篤かった事が背景に挙げられます。
ですが鴨山城主細川氏(野洲家)は畿内の紛争に敗れて急速に求心力を失いつつありました。鴨山城主六代目細川通政(後に輝政に改名)公の時には出雲国(現島根県)の戦国大名尼子氏の圧力を受けて伊予国(現愛媛県)へ逃れてしまいます。
◆長川寺と戦国武将 細川通董(ほそかわみちただ)公の興隆
鴨山城主細川氏(野洲家)は数々の紛争で備中国の支配体制を殆ど失っていました。その領地回復に挑んだのが鴨山城主七代目細川通董公です。細川通董公が各城を転々としながら領地回復のための拠点と位置付けたのが、自身の先祖である備中守護細川満国公によって築かれた鴨山城でした。そして天正3年(1575年)には鴨山城へ入城し、長川寺を自身の菩提寺と定めて寺領120石を寄進し長い戦乱の中で荒廃した諸堂を整備されました。
このご縁から長川寺には細川通董公の肖像画と墓所が浅口市指定の文化財として現存しています。細川通董公は戦国大名毛利氏の客将として足利義昭等と親交を結び、この地で存在感を増しましたが、豊臣秀吉の九州征伐から帰国中の天正15年(1587年)に赤間関(現下関市)で病没されました。
そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで敗北した毛利氏は周防国と長門国の防長二ヵ国(現山口県)へ減封されます。細川通董公の子息である細川元通公も毛利氏に随ってこの地を去りました。城主不在の鴨山城は廃城となり、この地と鴨山城主細川氏との190年に及ぶ関係は終わりを迎えます。しかし長川寺と鴨山城主細川氏(野洲家)の子孫は仏縁で繋がり続けました。
◆江戸期における長川寺の受難と復興
鴨山城主細川氏(野洲家)が鴨山城を去るとこの地は幕府の直轄領となりました。そして長川寺は慶長10年(1605年)に備中国奉行の小堀遠州公より15石の寄進を受け、また池田輝政公からも10石の寺領を与えられ大いに興隆します。
しかし元和年間(1615年~1624年)に入ると土砂災害が発生し再び伽藍を流失してしまいました。これに輪をかけて寛文六年(1666年)には岡山藩主池田光政公が寺社整理政策に乗り出すと多くの寺社が統合され、長川寺の末寺も廃寺となりました。
これら一連の出来事により長川寺は再び荒廃してしまいます。しかし元禄年間(1688年~1704年)に入ると十二世徳雲重憲(とくうんちょうけん)和尚は荒廃した長川寺の復興を決意され、岡山藩主や長府藩の家老にまで出世していた鴨山城主細川氏(野洲家)末裔である細川元教公の協力を取りつける事に成功しました。この多大な援助の下に元禄17年(1704年)、本堂が再び造営されました。それが現在の本堂です。
また十三世千岳育穏(せんがくいくおん)和尚代の享保年間(1716年~1736年)には鐘楼堂を再建し、十四世嫩昌月柱(どんしょうげっけい)和尚は僧堂や東司を元文2年(1737年)に再造営され、長川寺は往時の風格を取り戻しました。
この地が幕府直轄領から岡山藩の支配下に移ると、長川寺の歴代住職は旧正月の4日には籠に乗って岡山在住の鴨方藩主に拝謁する事が慣例になり、江戸初期の災害や時代の変革に晒されながらも長川寺は歴代住職と檀信徒各家の信頼と協力によって復興したのです。
…と、長川寺にはこんな歴史がありますようですネ(^_^)v
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