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 句碑を眺めながらノンビリと上って行きますと、ヤッと鴨山城跡の案内表示板が(^.-)☆
 ここから上がって行きますと南曲輪に出れますのでしょうけど、今回は北曲輪→南曲輪に向かってみる事に致します。
 この「鴨山城跡」の案内表示板を過ぎますと駐車場が…数台駐車可能で、ここまで車でも上れますけど、車で訪れますとまたここまで戻りませんと(^-^)

 そして、その先の林の中に「北曲輪登城入口」の案内板が。
 「ここから入ればいぃのだろぅか…」と不安を抱きながら林の中に入って進みますと、どうにか整備されました登城口らしき道が(^-^)
 蛇でも出て来そうで少し怖いのですけど、ほどなく「腰曲輪」の表示板。その先に今度は「大曲輪」の表示板が存在です。

 曲輪をWEB上で検索しますと、

 ◆曲輪

 曲輪(くるわ)は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。
 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。

 ・曲輪の配置

 曲輪とは、軍事的・政治的な意図を持って、削平・盛土された平面空間と定義でき、15世紀後半に曲輪を連ねる構造が発達し始めたとされ、例えば千葉県横芝光町の篠本城は主従の関係が明確でない空間で構成されており、また青森県八戸市の根城は一族横並びの構造と考えられ、当初の連郭式城郭では曲輪間に主従の関係はなかったといわれている。その後戦国時代以降の城郭では、複数の曲輪を意図的に配置し、一郭を主とし二郭以降を従とする構成が一般的となった。江戸時代には中心的な曲輪に、本丸(ほんまる)・二の丸(にのまる)・三の丸(さんのまる)などの名前が付く。

 ・縄張と主要な曲輪

 城郭での戦いの勝敗を決める要素の一つに、城郭の形状・構造が挙げられる。そのため築城に際してなるべく防御側に有利になるよう、城郭の立地なども考慮して縄張が決められ曲輪が配置される。江戸時代の軍学によれば、縄張の基本は主要な3つの曲輪、すなわち城郭の核となる本丸の周囲に、補佐的な二の丸、三の丸を効果的に縦深配置することとしており、以下にその説を示す。ただし江戸時代の軍学は太平の世の学問であり、実際には築城や戦闘の経験を経ていない説であることに注意する必要がある。

 ◆腰曲輪

 山城・平山城・丘城などで、斜面の中腹に設けた曲輪。斜面の勾配が比較的緩やかで、そのままでは防御機能が十分でない場合に設ける。

 …と、こんな記載がありました(^.-)☆

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