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 一昨日でしたか…「此処は何処だ?…」と、久々に友人特派員から一枚の画像(下段左から一枚目)が届いておりました(^.-)☆
 一瞬、「んっ、何処だろう?」と思案しましたけど、この本丸の姿から高梁市臥牛山「備中松山城」だろう…と推察のGONsanです。が、念のため、WEB上で確認してみますと、うん、うん、やっぱり「備中松山城」でありました(^_^)v
 なら、もっと沢山画像を届けてくれたらイィのに…と催促致しますと、追加で届きましたのがこれらの画像なんであります(^-^)

 ◆備中松山城

 市街地の北端にそびえ、「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている、『臥牛山(標高約480m)』。
 北から、「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏 した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城はその頂を中心に全域に及んでいます。

 現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約430m)を中心に築かれた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存しており、昭和16年には国宝(昭和25年文化財保護法の制定により重要文化財)の指定を受けています。
 また、平成6年度からはこれら重要文化財を中心に、本丸の復元整備が行われており、本丸の正面玄関ともいえる本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが忠実にもとづいて復元されています。

 ★備中松山城の歴史

 この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。
 その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化しますが、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山ー大要塞となっていたことがうかがえます。
 当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がなされるなどなど備中の要衝としての役割を担っていたようです。

 以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えますが、現存する天守などは天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。

 …と、こんな備中松山城であります。

 GONsanも昭和47~50年頃に3度ばかり訪れていますけど、当時はこのお城の下辺りまで結構な数のお猿さんの集団が集まって来まして、恐る恐るこの集団の中を通り抜けていましたように思います。3度訪れまして3度ともこんな感じでありましたが(^-^)
 友人特派員に当時の様子を話しますと、あまり信じていませんようでしたネ(^.-)☆
 ですが、臥牛山の「備中松山城」…とにかく懐かしく画像を拝見してしまいましたネ(^-^)//"

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