GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

2023年01月

11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(29)

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 それでは、皆さんに付いて、城門跡に下りてみます事に。
 う~ん、この位置から城門までは、結構高さがありますネ。2.5mの段差ですから、確かに容易には敵が侵入出来ないですねぇ~平時では、ここに梯子を設け、それを使用し出入りしていましたのでしょうネ(^-^)
 城壁に眼を向けてみますと、丸にプラスを記載したモノが数ヶ所貼り付けられておりました。
 何でも、これは『反射プリズム』と言って、城壁の測量時に使用しますとか…
 『反射プリズム』をWEB上で検索してみますと、

 ◆ケーエステック㈱〝反射プリズム〟

 ・反射プリズム
 今日は反射プリズムについてです。
 反射プリズムとはトータルステーションや光波距離計で距離を測るのに必要なアイテムです。
 これはシールタイプの反射プリズムです。スタッフの裏面の決まった高さに貼って横断測量等にも利用できます。

 …との事で、GONsanには理解しがたい難解な内容で綴られておりました。
 要するに、将来、復元しました城壁にズレが生じても困りますから、シールタイプの反射プリズムを使用して、定期的に測量しチェック。城壁の崩れを事前に防止します為に、〝シールタイプの反射プリズム〟を貼付しておられますようであります(^.-)☆
 う~ん、技術の進歩で、近年は色んなモノが有りますねぇ~便利になりましたネ(^_^)v
 でも、この仕組みに尽きましては、GONsanには、ちんぷんかんぷん(^-^)//"

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日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

最近は、こんなコースでウォーキングのGONsanです(^.-)☆

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 昨年の10月中旬頃でしたか…芦田川の〝河道掘削工事〟が始まりまして、芦田川大橋~小水呑橋間の一部区間の河川敷が通れなくなりましてからは、コースを変更。最近は、こんなコースでウォーキングのGONsanなんです(^.-)☆
 通常、ジョギングは10km・6分/km、ウォーキングは7km・9分/kmと決めているのですけど、このコースに変更しましてからは距離も短縮、時間も9分/kmでは難しく、10分近くを要す事となりましたねぇ~
 我が家近くの公園から、芦田川の土手下に向かい、土手下を南下。エクセル裏から土手に上がり、竹ヶ端運動公園テニスコート脇のウォークロードに入り、福山市民球場・陸上競技場を横目に弓道場で折り返し。同じルートで戻って来ますと、距離にしまして4.7kmで、所要時間が45分なんであります。かろうじて、9分台/kmのウォーキングとなりますけど、何故か、何度行っても9分/kmのウォーキングは難しくなってしまいましたねぇ~
 このコースは、河川敷の真っ直ぐなコースではありませんで、色んな方々と擦れ違い、おまけに散歩中のワンchan達にも眼が向きまして、微妙に時間的ロスがありますのかも…
 従来、実に正確な時を刻みますGONsanの〝足時計〟なんでありますが、ウォーキングコースが河川敷に戻りますまで、暫く封印となりますネ(^.-)☆
 挿入の画像は、昨日の夕方17:15頃のウォーキングの一コマです。
 ウォーキングしておりますと、よくこの辺りで面白い柴犬に出会います。
 GONsanが近付いて行きますと、行儀良くチョコンと座って顔はニタッと笑い、GONsanの通過を待ってくれています。
 可愛いぃワン公なんですけど、横を通りますと同時に豹変で、怒りまくって吠えてくれますから笑ってしまいます(^-^)
 飼い主さんは困惑され、「貴方にだけ吠えるんです。済みません…」なんですけど、GONsanは、こんなワン公は大好き人間ですから、〝今日は、ワン公を画像に撮ってやろう…〟と、スマホ持参。
 が、多少、小雨もありそうな空模様から、残念ながら擦れ違いは叶いませんでしたネ(^-^;
 で、せっかくだから…と、画像に納めましたのがテニスコート脇のこの光景。
 この辺りで吠えまくられますのですけど、滅多にスマホは持参しませんのに…残念でしたネ(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(28)

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 〝屋嶋城城門跡〟へと到着しましたので、まずは説明板に眼を通してみましょうか…

 ◆ありし日のたかまつ

 屋島が島だったことを皆さんはご存知でしょうか。今からは想像もできませんが、ここから見える景色は入海でした。右手のサンポート高松から南東方向に海が湾入し、琴電長尾線の林道駅のあたりから東に向かって海岸線が走っていたと考えられています。古くはこの屋島の皆川の辺りが「たかまつ」と呼ばれた地域で、様々な記録によれば、ありし日の屋島周辺は「たかまつ」の玄関口だったことが分かります。きっと屋島の麓を様々な船が行き交っていたことでしょう。
 皆さんも、いにしえの人々が見た古・高松湾の情景を想像してみてください。

 ・屋嶋城(やしまのき)とは
 663年の白村江の戦いでの敗戦後、国防の危機に際して、中大兄皇子は倭国(当時の日本の呼称)を守るために、九州から瀬戸内海にかけて山城を築かせました。屋嶋城はその一つで、日本の史書である『日本書紀』にその名が記されています。

 柵沿いの城門を見下ろせます場所にも説明板が…これには、こんな記載がありました。

 ◆屋嶋城城門

 屋嶋城の実在を確定されたのは城門の発見でした。
 正面に見える城門の外側には2.5mの段差【懸門(けんもん)】があり、敵が容易に侵入できなくなっています。さらに、城門の扉から城内へと入ってくると手前の岩盤に行く手を阻まれ、向かって右側へ向かうしかありません。これは、城内への侵入を妨げるのに加えて、この周辺で警備する兵士が敵に横(死角)から攻撃するのに適した構造【甕城(おうじょう)】になっています。
 このような防御に優れた構造は、当時の朝鮮半島にあった城づくりの技術を用いたもので、百済の人たちが城づくりに関わったことを伝えてくれるものです。

 角柱を設置している箇所が、門の柱穴が見つかった場所です。城門の構造を示す遺構は多くが流失しており、具体的な門の扉の位置や構造を明らかにすることはできませんでした。そのため、発掘調査で確認できた柱穴や想定される城壁の高さ、城門の幅、床面の構造をもとに、大野城跡(福岡県太宰府市・大野城市・宇美町)、金田城跡(長崎県対馬市)や鬼ノ城(岡山県総社市)等の他の古代山城との比較から、往時の姿を想像しました。
 本来は柵の辺りに出入りのための扉があったと考えています。また、斜め左前方には一辺約1.2mの隅丸方形状に掘られた用途不明の穴も見つかりました。

 WEB上には、その他にも色んな記載がありますので、二つばかり拾ってみますと、

 ◆屋嶋城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 屋嶋城(やしまじょう/やしまのき、屋島城)は、香川県高松市の屋島に築かれた、日本の古代山城である。伊予総領(伊予など複数の国を管轄した軍政官)の管轄下で築かれたとされている。
 城跡は、1934年(昭和9年)11月10日、国の史跡と天然記念物に指定された「屋島」の指定範囲に包含される。屋嶋城敷地跡には四国遍路84番札所の屋島寺がある。

 ・概要

 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は、日本の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている。瀬戸内海の島に築かれた古代の屋嶋城は、667年(天智天皇6年)、高安城・金田城とともに築かれた。また、屋嶋城は、政権基盤の宮都を守る高安城、国土領域を守る最前線の金田城とともに、瀬戸内海の制海権を守る重要なポイントとされている。
 屋島は江戸時代までは陸から離れた島であったが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ、陸続きになった。全体の大きさは南北5キロメートル・東西3キロメートル、南嶺の標高は292.0m・北嶺の標高は282m、山頂は平坦で、端部は急崖で囲まれた台地の地形で、南嶺と北嶺は細い尾根で接続されている。
 屋嶋城は、南北嶺の山上全域が城跡とされている。山上の外周7キロメートルのほとんどが断崖で、南嶺の外周4キロメートルの断崖の切れ目に城壁が築かれている。山上からは山下の様子が明確に把握でき、メサの地勢を有効に活用した城で、懸門(けんもん)構造の城門の存在が判明したのは国内初のことであった。この懸門の存在は、大野城・基肄城と同様に屋嶋城の築城においても、百済からの亡命者が関与したことが窺える。

 浦生(うろ)集落の砂浜が広がる海岸から谷筋を登れば山上に通じた道があり、標高100メートルの山中に谷を塞いだ、長さ約47m×基底部幅約9mの石塁と台状遺構(物見台)がある。この遺構は大正時代に発見され、山上の石塁が発見されるまでは、屋嶋城の唯一の遺構であった。山上の城は断崖を利用して城壁は築かれなかったとされ、山上に遺構が見当たらない。また、考古学の視点では未実証で、多くの研究者が実態の不明な山城に位置づけていた。2009年の調査で、7世紀後半代の城跡遺構であることが判明した。

 屋嶋城は二重防御の城である。浦生地区の遺構は、進入路を塞いだ遮断城で、大野城と水城・鬼ノ城と水城状遺構と同類とされている。
 城門は懸門構造に加え、城内側は甕城(おうじょう)であり、通路は北側に直角に曲がる。門道は階段状で、城内から城外に向かって暗渠の排水路が設置され、通路の両側の柱穴の検出により建造物(門扉)の存在が実証された。
 城門遺構の全長45m×高さ6mの石塁などが復元された。城門は幅5.4m×奥行10m、入口の高さ2.5m(段差)である。城門の南側は、内托式の城壁で、高さ6mの城壁がある。城門の北側は、夾築式の城壁で、北端は断崖に接続され、長さ10m×高さ5m×幅10mである。城門遺構の見学路などが整備され、2016年3月19日、一般公開となる。
 南嶺山上の北斜面土塁は、斜面を利用し、幅約2m×長さ約200m×高さ約2mの石積みの背面に盛り土をした、内托式の土塁である。

 山上からは、西方約28キロメートルの香川県の五色台と岡山県の鷲羽山に挟まれた、備讃瀬戸の海路が遠望できる。また、讃岐城山城(さぬききやまじょう)と鬼ノ城(きのじょう)も視野に入る。
 島内には、北端に長崎鼻(ながさきのはな)古墳、北嶺山上に千間堂(せんげんどう)跡、東岸の入江(屋島湾)一帯は源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島古戦場、北端の岬に高松藩が築いた砲台跡などがある。
 四国にある古代山城は、屋嶋城・讃岐城山城・永納山城(えいのうざんじょう)の三城である。
 屋嶋城の城門遺構は、瀬戸内海国立公園に指定された屋島(屋島園地)に所在する。

 ◆甦った幻の古代山城『屋嶋城』

 --- https://setouchifinder.com/ja/detail/16258 ---

 屋島(やしま)は源平合戦の舞台として全国的に名が知れている歴史スポットですが、それよりも遥か昔の時代に城が築かれていたことをご存知ですか?
 屋嶋城(やしまのき)は『大化の改新』で有名な中大兄皇子(後の天智天皇)が唐と新羅の侵攻に備え、対馬・九州から瀬戸内海沿岸にかけて築かせた古代山城のひとつ。
 667年に築かれたことが『日本書紀』にも記されていましたが、その実体はよく分からず長らく謎に包まれた城でした。
 しかし、1998年に屋島の南嶺山上部において石積みが発見されたことを契機に発掘調査が行われ、2002年の城門遺構の発見によって屋嶋城が実在していた事が証明されました。
 調査結果に基づいて進められていた城門遺構整備事業も完了し、2016年3月19日から一般公開されています。
 屋島山上にある駐車場から南方へ約15分ほど散策道を歩いていくと、屋嶋城の城門遺構が見えてきます。
 屋嶋城は断崖絶壁を最大限利用した古代山城で、城壁の9割程は天然の崖でした。地形的に敵の侵入を受けやすい場所にはこのような石積みの城壁と門を築いて防備を固めたのです。
 調査によって高いところでは6mにもおよぶ巨大な城壁が築かれていたことが分かりました。淡い茶色の石が発掘された石積みの現物で、黒もしくは灰色の石が新たに加工して補ったものです。

 …と、こんな〝屋嶋城跡〟であります(^-^)//"

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本日発表の広島県のコロナ感染に起因の死者は、過去最多ですか…

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 本日発表の広島県のコロナ感染者は、4,152人で、前週(一週間前の6日)対比で▲3,933人でしたようですけど、亡くなられた方は1日の公表数として過去最多の15人でしたようであります。
 累計では、1,112人とか。その内の178人が福山市ですから、なんとも…
 WEB上には、こんな速報が…

 ◆【新型コロナ】広島県で過去最多15人死亡 13日発表分、4,152人感染

 --- 2023/01/13 16:50(最終更新:19:03)中国新聞デジタル ---

 広島県内で13日、4,152人の新型コロナウイルス感染が発表された。1週間前の6日(8,085人)と比べ3,933人減った。一方、死者は1日の公表数として過去最多の15人で、累計は1,112人となった。
 感染者4,152人の居住地は、広島市1,821人▽福山市771人▽東広島市290人▽呉市275人▽尾道市195人▽廿日市市175人▽三原市106人▽府中町94人▽三次市64人▽安芸高田市56人▽大竹市55人▽海田町43人▽府中市39人▽庄原市34人▽熊野町31人▽竹原市21人▽世羅町17人▽北広島町16人▽江田島市15人▽坂町14人▽安芸太田町、神石高原町各9人▽大崎上島町2人。
 死者は広島市と福山市各5人、県4人、呉市1人の計15人。これまでの1日の公表数の最多は昨年2月15日と9月6日の14人だった。クラスター(感染者集団)は新たに10件発表され、関連で計59人が感染。福山市が福祉サービス事業所など8件(計49人)、呉市が介護老人福祉施設2件(計10人)を公表した。
 また広島市は、先月中旬に感染した20代1人から、市内で初めてオミクロン株の派生型「BQ・1・1」が検出されたと発表した。

 …と、こんな状況のようであります。
 福山市も、前週対比では、若干、感染者数も減少傾向にはありますけど、このまま減少推移に転じますかどぅか…そぅあって欲しいものですけど、さて、どぅなりますか…

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おぉっ、久々に、身に憶えがありませんクレジットカード利用代金の引き落としが…

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 年の瀬も迫りました、昨年、12/29(木)でしたか…数通の普通預金通帳の残高確認で、銀行ATMコーナーで通帳記帳のGONsanでした。
 記帳を済ませ我が家に帰り、各通帳の入出金を確認しておりますと、んっ!?…身に憶えがありませんクレジットカード利用代金の引き落としが…
 〝2022/12/26 口座振替 三井住友カード 26,327円〟なんですけど、GONsanも嫁さんも、この金額でのカード利用はありませんから、う~ん…
 三井住友カードと言いますと、〝VISAカード〟と〝Masterカード〟ですけど、う~ん、どちらも保持してはいますけど、どっちなんでしょうねぇ~
 とりあえずカードの特定をしませんと…カード裏面の連絡先に架電しますけど、繫がらない(^-^;
 年末の、こんな時期ですから、問い合わせが殺到していますのかも…
 困りましたけど、そぅそぅ、〝Vpass〟で調べた方が速いですネ。
 早速、WEB上から〝Vpass〟にアクセスし、どちらのカードなんだろう?…と、利用履歴を調べてみますと、うん、うん、出て来ましたネ。ふ~ん、amazonのマスターカードが利用されておりました。
 〝2022/11/19 マイニンテンドーストアでの4件の利用 計26,327円〟ですけど、勿論、GONsanには身に憶えはありません。
 早速、引き続き、問い合わせ先を捜しておりますと、うん、うん、有りましたネ。「身に憶えのない明細に関するお問い合わせ」から、必要事項を入力し、受付番号が出て来ましたので、とりあえず一安心となりました。
 が、三井住友カードからの連絡は『本日より土日祝を除く5営業日以内を目安にご連絡』との事ですから、う~ん、正月休みも挟みますから、随分先になりそうですけど、待つしかありませんねぇ~
 それにしましても、こんな、身に憶えがありませんクレジットカード利用代金の引き落としは、実に久し振り。
 20年くらい前に一度、10年くらい前に二度目が…ですから、今回で三度目となりますねぇ~使用頻度の少ないカードが狙われますのかも…
 そして、この件につきましては、正月を迎え暫く忘れておりましたけど、昨日の朝、未だに三井住友カードからの連絡が入りません事を思い出し、今回はカード裏面の連絡先に直接電話。
 う~ん、やはり繫がりません。が、今回は、出て来ますまでジッと待つこと10分間。
 ヤッと繫がりましたので、「受付番号を伝え、5営業日を過ぎ去っているのに、何らの連絡もない。今回の件の対処法を知りたい。今スグ、回答が欲しい…」と申し出のGONsan。
 そぅしますと、「担当者が、7日まで休暇ですから、それ以降の回答となります…」で、ムカッのGONsan。
 こぅいぅ時には、声を荒げますのが効果的ですから、「当初の問い合わせでは、5営業日後の回答とあった。私のカード情報を勝手に漏洩させ、不正使用を黙認しているのに、なんで、約束を守らないの!!そぅいぅ誠意の無い回答なら、もぅイィ!!関東財務局に連絡するから、財務局を相手にしろぉ!!」と伝えますと、「ちょっと待って下さい。担当部署に連絡しますので、暫く時間を頂けませんか…」と。
 「私も忙しいから、何時間も待っておれない。正午までなら…」で、一旦、会話は終了です。
 結構、無茶苦茶なGONsanですけど、こんな言い方でもしませんと、カード会社は迅速に動きませんから…
 それに、〝1/7迄、担当者が休暇取得〟のお言葉にも不信感が(^-^)
 日・祭日がありますから、1/7迄でなく、1/9迄でしたら、まだ信憑性が高いのですけど、1/7ですから、実にウソ臭い(^.-)☆
 そぅしておりましたら、正午少し過ぎに電話が入りましたネ。
 以降はスムーズに会話が進み、結局、12/26に引き落とし済みの26,327円は、今から20日以内に引き落とし口座へ振込で返戻。
 現在使用出来ません状態のamazonマスターカードは、再作成し、2週間以内に発送…と、こんな対処法で決着となりました。
 それにしましても、ここ近年は、こんなクレジットカードの不正使用は膨大な件数となりますのでしょうねぇ~
 三井住友カードに限らず、各カード会社の皆さんは、GONsanのような少額被害者も相手にしませんとなりませんから、大変なんでしょうねぇ~でも、頑張って下さいねぇ~誠意を持って、対応してあげて下さいねぇ(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(27)

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 展望台から古戦場の眺望を終えますと、また散策続行で、屋嶋城城門跡へと向かいます。
 旧ホテル「甚五郎」玄関横には、石森延男sanの句碑が…

 ◆石森延男 句碑

 碑 主--石森延男(1897年から1987年)

 ・所在地:屋島東町1831-5(屋島山頂談古嶺の旧ホテル「甚五郎」玄関横)
 ・碑文:「ある明月の夜、教え子たちとこの山にのぼる きみたちも虫を歌って月はるか あれから四十年 思い出をこめて ゆかりの人たち この碑を建てる」
 ・建立年月日:昭和41年
 ・備考:札幌市出身。教育者・児童文学作家。大正13年8月~15年3月まで高松師範学校で教師をしていた。この教育文学碑は、当時の教え子だった生徒たちが「石森先生の思い出」という作文集を発行して石森に贈る際、ともに建てられたもの。宮脇町に住んでいた石森は、栗林公園にもよく訪れたと随筆を残している。

 ◆石森延男

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ・来歴・人物

 北海道札幌市に、歌人で「われらが愛する北海道」の作詞者でもある石森和男の長男として生まれる。中央区南6条西9丁目に生誕地の碑がある。
 東京高等師範学校卒。在学中より詩作や口演童話に携わる。愛知県や香川県で中学校教師ののち、1926年から大連の南満洲教科書編集部に勤務し、『国語読本』を編集。満州唱歌の制作にも深く関わった。
 1939年、文部省図書監修官となり、国民学校教科書を編纂、戦後、最後の国定教科書を編纂する。そのかたわら1926年頃から児童文学の創作をし、日中戦争当時の満州国を舞台にした少年小説『咲出す少年群』(1939)で第3回新潮文学賞、北海道のアイヌを主人公とした『コタンの口笛』(1957)で未明文学賞、産経児童出版文化賞、『バンのみやげ話』(1962)で第1回野間児童文芸賞受賞。昭和女子大学教授をしながら国語教科書編纂を続けた。
 1981年に今江祥智、尾崎秀樹、河合隼雄、栗原一登、阪田寛夫とともに児童文学季刊雑誌『飛ぶ教室』の編集委員となり、同誌を創刊。主要著作をまとめた『石森延男児童文学全集』全15巻がある。日本児童文学学会初代会長。
 藻岩山ロープウェイ乗り場の隣に、石森父子を顕彰する「石森文学広場」がある。

 …と、こんな方のようであります。
 満開のツバキを横目に進んで行きますと、今度は、〝エドマンド・ブランデン〟の詩碑が…傍らの説明板には、こんな記載がありました。

 ◆屋島を訪ねて -- 1949・2・7 --

 --- A First to Yashima Edmund Blunden エドマンド・ブランデン ---

 まこと長い屋根のように、強者らが霊鎮まるこの丘は平地の上にかさむる。神の築くところ、冬の動風の中に
がっしりと立つ、緑と白銀の鎧に身を固めて。
 遅いわれわれの足どりもより高い斜面をいくつか踏みためて、巨松の下闇に白い梅が松明をかざす寺院の前にたどり着く。ここで武士道栄えし頃の名工と詩人達が立像と象徴と古字の言葉で巡礼人に話しかける。さらに行けばここにも亦土産店や茶店や街路がある。
 やがて、高い青空にかかる幻の月に見まもられつつ、展望台に立てば、突如眼前に開く新しき驚き、髣髴(ほう
ふつ)の青海原に無言の波が小皺を寄せ、飛ぶ雲が濃紫の班点を落している。
 あゝ(死の鎌と漏刻を持つ)時の老神よ、青と紫にかすむ彼方、大自然のなした鶏冠と王冠の何という拡がりと
力強さぞ。
 このながめ時空の中にありやといぶかる。と、頭上の深淵で鳥が輪を描く、その両翼に一刷の雪をつけて。

 詩碑について
 本詩碑は、昭和29年10月21日に完成し、同11月1・2両日高松市で開催された英語教育研究会四国大会に続き、屋島の現地で除幕式を行ったものである。
 詩は、大正13年から昭和2年まで東大文学部で英文学を講じ、第二次世界大戦後には英国の文化使節として特派された英国詩人エドマンド・ブランデン氏が、昭和24年2月7日夫人と共に屋島を訪ね、その印象を求められるままに、栗林公園内の掬月亭で書き下ろしたものである。
 詩碑の訳文は、同氏の東大在職時代に教えを受け、当時香川県英語教育研究会長・高松第一高等学校長であった故岡崎 隆によるものである。(詳細は、昭和29年10月23日付朝日新聞参照)
 -- 平成2年11月 英国祭佳日に記す --

 ◆エドマンド・ブランデン

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 エドマンド・チャールズ・ブランデン(Edmund Charles Blunden, 1896年11月1日 - 1974年1月20日)は第一次世界大戦の従軍体験を題材にした詩で知られるイギリスの詩人・文芸評論家。

 ・経歴

 ロンドンに生まれたブランデンは、4歳のときに教師をしていた父の転勤で、ケント州のヨールディング村に転居、当地で12歳までの幼少期を過ごしている。1909年、ブランデンは、400年の伝統を誇るパブリック・スクール、クライスツ・ホスピタル(Christ's Hospital)校に入学、古典を専攻したブランデンはラテン語を学ぶ日々を過ごす一方で、クリケットやラグビーにも熱中、文武両道というにふさわしい学生生活を送っていたという。

 第一次世界大戦勃発の翌年にあたる1915年、クライスツ・ホスピタル校を卒業したブランデンはオックスフォード大学クイーンズ・コレッジの奨学金を獲得後、ロイヤル・サセックス連隊に志願、イープルの戦いやソンムの戦いなどに従軍し、その勲功により、ミリタリー・クロスを受章している。ブランデンの戦争体験は、数々の戦争詩という形で文学的に結実し、特に1928年に発表された散文、『大戦微韻』(Undertones of War)はブランデンの従軍体験を題材にした作品でもっとも世に知られたものとなっている。彼の戦争詩はジーグフリード・サスーンやウィルフレッド・オーエンのそれとは異なり、戦場の生々しい描写というよりは戦場の風景を描いた作品が多いのが特徴といえよう。-- 以下、略 --

 …と、こんな人物であります(^.-)☆
 少し先には、こんな説明板も…

 ◆屋島の鳥

 日本で記録されている野鳥は、約500種です。このうち屋島周辺では約130種が観察されていますが、水辺、海岸部で約70種、この山間部では、約60種です。
 野鳥は、一年中ほぼ一定の地域に住んでいる留鳥の仲間や、春に日本にやってきてヒナを育てる夏鳥の仲間、秋に日本にやってきて冬を越す冬鳥の仲間があって、季節により違った種類の鳥を見ることができます。屋島は中国地方から四国に渡来するコースになっています。
 警戒心が強く、動きがすばやいので、野鳥を観察するには細心の注意が必要です。

 ・比較的見られる鳥

 *留鳥--①ウグイス②メジロ③キジバト④シジュウガラ⑤キジ⑥コガラ⑦イカル⑧トビ⑨ミサゴ⑩ヒヨドリ⑪ホオジロ
 *夏鳥--⑫サシバ⑬オオルリ⑭ホトトギス
 *冬鳥--⑮シロハラ⑯ツグミ⑰ジョウビタキ
 番号を見て名前をおぼえて下さい。mmは本体の大きさを示しました。

 途中、立ち止まり、説明板に眼を向けながらのノンビリとした歩行でしたけど、どうやら〝屋嶋城城門跡〟へと到着のようですネ(^-^)//

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う~ん、電気代も負担増へと向かって哀しいですねぇ~

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 家計費に関しましては、嫁さんに任せっきりで無頓着なGONsanなんですけど、電気代に関しましては、結構、関心が高いんです。
 …と言いますのも、もぅ20年近く昔の事となりますけど、太陽光発電を設置しまして、当時は、県・市から結構助成金を貰ったような…
 で、設置以降は、中国電力sanへの売電・買電も含み毎月の発電実績を、年に一度、監督官庁に報告しておりました。
 随分後で知りましたけど、この年に一度の報告は、決して義務でもありませんで任意でしたようですねぇ~にも拘わらず、GONsanはくそ真面目に毎年欠かさず報告をしておりました。
 が、その報告も、売電単価・48円/kwhが終了時点で止めましたような(^-^)
 ですが、以降も、売電・発電・買電実績把握は永年の習慣として現在も続けています。こんな経緯がありまして、電気料金の推移に関しましては、関心度も高い状況なんであります。
 それで、今月の電気代を眼にしまして、随分、負担増となったなあ…と、哀しい気持ちに…
 貧乏しています我が家ですから、売電単価が大幅低下しましても、別段、蓄電池の設置をする訳でもなく、そのまま放って現在に至っておりますが…
 そぅそぅ、〝貧乏〟と言いますと、昨年末近くに孫娘がこんな事を…
 身長が伸びスキー板が合わなくなったようで、「スキー板を大きいのにしようか…この際、弟のようにスノボーに転向しようか…」と悩んでおりましたので、「悩むことはないのでは…両方やったら…」と無責任な発言のGONsanでありました。
 それには、「ウチは貧乏だから、両方揃える余裕は無いの!!今から色んな人と交流を深めるにはスノボーの方がイィ!!…とママが…」と孫娘。
 う~ん、これには、返す言葉が見つかりませんでしたGONsanです(^-^;
 まぁ、孫たちの両親は、スノボー派ですから、仕方ありませんかも(^-^)
 奇しくも、孫の口から〝貧乏〟と言う言葉が出て来ましたけど、GONsanも同様であります。蓄電池は欲しいのですけど、もぅジジィですから、高価な設備投資は我慢しなくては…
 そぅ言えば、昨日の中国新聞sanの読者投稿コラム「広場」に、読者のこんな投稿が…
 〝小まめに節電心がけ〟のタイトルで、「気を引き締めて地道に暮らさなくては」と、自身を戒めておられました。
 そぅですネ、〝地道に暮らす〟事も大切ですネ(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(26)

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 展望台へと向かっておりますと、途中、散策道の左側に小さな池が…屋島案内図には〝血の池(瑠璃宝の池)〟と記載がありましたけど、皆さん、別段、池を覗き込む訳でもなく素通りです。勿論、GONsanも(^-^)
 〝血の池(瑠璃宝の池)〟につきましては、WEB上にこんな記載が…

 ◆瑠璃宝の池(血の池)

 屋島寺伽監草創のおり弘法大師が「遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門」と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。ところが竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。
 また、源平合戦のとき壇の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。-- 高松市(血の池脇の案内板より) --

 …と、こんな記載で、う~ん、せっかくですから立ち寄り、画像に納めれば良かったですねぇ~残念(^-^;
 そして少し先で、2~3名の方が右側の脇道へ…んっ!?何があるのでしょう?
 GONsanも向かおうとしますと、「単なる墓地だった…」と戻って来られましたが、古そうなお墓がありましたので、確認されましたのかも…
 そんな余裕が有るのなら、さっきの〝血の池(瑠璃宝の池)〟に立ち寄れば良いのに…と、ブツブツ独り言のGONsanでした(^-^)
 展望台の三叉路角地には、荒れ果てました〝政府登録国際観光旅館 甚五郎〟の建物が…

 ◆心霊スポット ホテル甚五郎

 --- https://haunted-place.info/4661.html ---

 下半身のない上半身だけで這いずり回る霊が出ると言う噂や、誰もいないのに何かの気配を感じたり、お札のような物が貼られた部屋があり、何か霊的な理由があるのではないかと囁かれている。
 しかし、このホテルで騒ぎになるような目立った事件や事故などは無いようで、周囲の霊が集まって来ているのかもしれない。内部は綺麗な所もあるため、ホームレスが住み着いていた痕跡もあるようだ。

 ・ホテル甚五郎の基本情報
 1960年(昭和35年)に開業したホテル。源平合戦で有名な屋島は、瀬戸大橋開通と同時に観光地として発展していた。
 2002年(平成14年)には訪れる人が激減し倒産し廃業した。周辺物件もまとめて廃墟化してしまいゴーストタウン化している。建物は屋島ドライブウェイからもはっきりと見える。

 ◆政府登録国際観光旅館

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 政府登録国際観光旅館(せいふとうろくこくさいかんこうりょかん)とは、1949年(昭和24年)12月24日に施行された国際観光ホテル整備法(昭和24年12月24日法律第279号)に基づき、観光庁長官が登録を行った旅館やホテルのこと。全国に登録された旅館が1,996、ホテルが1,127ある。(平成16年度 総合政策局観光地域振興課調べ)下記の要件を満たしたものが承認される。

 ・要件

 <洋室>
 机、いす、クローゼットまたはその代替品を備え、椅子式の生活とベッドでの睡眠に適していること。
 浴室は自由にシャワーの温度を変えられること。
 トイレは水洗式かつ洋式便器であること。
 シリンダー錠(または同等の錠前)、電話機を備えていること。
 ロビーが指定面積以上であること。
 食堂では洋食の朝食が提供でき、椅子と机があること。
 外国語(主に英語)表記が準備されていること。
 外国語(主に英語)が話せるスタッフを雇うこと。

 <和室>
 大体は上記の洋室と同様だが、次のような違いがある。
 床の間、踏込み、クローゼットがあること。
 適当な冷暖房設備があること。

 …と、〝ホテル甚五郎〟で検索してみますと、その他に色んな記載がありましたネ(^.-)☆
 展望台からは、暫し〝屋島の戦い〟の舞台となりました「源平屋島合戦史跡」を眺望です。正面に見えますのが〝五剣山(八栗山)〟ですネ。

 ◆五剣山(高松市の山)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 五剣山(ごけんざん)は香川県高松市にある山。

 ・概要
 一つの峰を剣と呼んで、西から一ノ剣、二ノ剣、三ノ剣、四ノ剣、五ノ剣と山上に5つの大きな峰があるためこの名前がついた。また、地元では八栗山(やくりさん)とも呼ばれる。五の剣は1707年(宝永4年)の宝永地震で割れている。
 これらの剣の山頂にはいくつもの祠が点在し、四ノ剣の中腹には岩窟があり修験道の行場となってる。 かつてはこれらの剣へ登れたが現在は岩が風化し脆く危険なため、南側中腹にある八栗寺本堂の左から石段で上がったところにある中将坊大権現堂からさらに上へは入山禁止とされている。そのため標高375mの最高点は四ノ剣であるが、366mの山頂表示がニノ剣にあり、四等三角点のある366.09m地点は一ノ剣の西端に位置している。また、八栗寺の多宝塔の右側にも登山口があったが入山禁止の立札がある。また、山中にある「岩越の大日」は空海が彫ったとされる約3mの摩崖仏で上部の黒い層と下部の砂の層の間の真っ白い層に彫られている。
 八栗寺は、四国八十八箇所の第八十五番札所で、山号が五剣山である。また山麓では日本三大花崗岩として有名な庵治石が採石され、墓石などの高級石材として加工されている。

 そして、観光案内図には、五剣山と屋島の間の狭い海峡で繰り広げられた源平合戦で、那須与一が見事に扇を射貫いた〝那須与一扇の的〟の位置表示も(^_^)v

 ◆屋島の戦いをわかりやすく解説。「扇の的」って何?

 --- https://nihonshimuseum.com/ichi-no-tani-yashima-dan-no-ura/ ---

 屋島の戦いは1185年3月、讃岐国の屋島(現在の香川県高松市)にある屋島で起こった戦いです。
 一ノ谷で敗北した平家軍は、源氏と比較して有利であった水軍の力が有効に活用できる周囲が海に囲まれた屋島に内裏を作り、万全の体制で源氏を迎え討つつもりでいました。平家はあくまで得意な水軍の力を使い海から進んでくる源氏軍を討ち負かす作戦を立てていました。
 戦いの指揮を任されたのは源義経。義経は摂津水軍などを味方につけて暴風雨の中で屋島に向けて出陣します。悪天候の中での出陣に、梶原景時ら周囲の諸将は反対しますが、敵の意表を突く事が大事と考えたのか義経は悪天候の中にも関わらず屋島に向け出陣します。悪天候の中で勝浦(現在の徳島県徳島市)という場所に到着した義経軍。勝浦から屋島に向けて進軍します。
 屋島はまさに海に囲まれた島です。多くの船団を擁した平家は海からの攻撃には相当な準備が出来ていたと思われます。そこで義経は軍を2つに分けて周囲の陸地に放火します。周りが火に覆われた様子をみた平家軍は、源氏の大軍が、海ではなく陸から平家を攻撃し、平家を挟み撃ちしようとしていると考え、混乱状態になります。平家は、屋島から海に避難しようとします。

 義経は、自分たちの軍勢がいかにも大軍であるがごとく浅瀬を渡る馬にも水しぶきをあげさせるなど多くの奇策を使います。諸説ありますが、屋島攻略時には源氏の軍勢はおよそ150騎程度だったそうです。正確な数字か否かは不明ですが、わずかな兵と義経の奇策で混乱する平家は源氏と比べて、平家軍を統率する棟梁が欠如していたのかもしれません。
 この時、活躍したのが那須与一(なすのよいち)です。夕方の休戦状態の際、平家側から小舟が出てきて竿にかけられた扇を弓矢で射ろと挑発します。義経は那須与一にこれを射ろと命じます。与一は失敗したら源氏の名誉が失われる事なり、自害もやむ無しと覚悟しながら引き受け、見事大役を果たしました。このエピソードは「扇の的」と呼ばれ、平家物語の名シーンの1つでもあり絵にもなっています。
 しばらくして海に逃げた平家は、引き返し戦う兵もいましたが結局、戦局を変えるほどには至りませんでした。梶原景時ら源氏側の大軍の上陸が迫った事もあり、平家は屋島を去る事となります、自慢の水軍を有効に活用したとは言い難い結果となりました。

 …と、こんな〝屋島の戦い〟でありますけど、こぅして古戦場に眼を向けておりますと、当時の様子が偲ばれ、胸の中で合掌です。
 それにしましても、古戦場を眼下に眺望します、この廃墟ホテル。かっては、観光客の皆様で大変な賑わいでしたのでしょうけど、現在のこの惨状に眼を向けますと、場所が場所だけに、栄華を極めた平家一族と重なりまして、複雑な想いも生じますGONsanなのでありました(^-^)//"

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〝負け力士が残る珍シーン〟…んっ!?、昨日の大相撲で、そんなシーンがありましたか…

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 永年の大相撲ファンの一人でありますGONsanで、中継すべての観戦は無理としても、時間が許せば、よく大相撲中継に眼を向けておりますけど、本日、WEB上に『土俵に「残った」のに負けてる?勝ち力士が豪快転落、負け力士が残る珍シーンに館内ざわざわ』の記事掲載が…
 んっ!?…、昨日は、中入り後前半の様子はテレビ観戦しておりましたけど、そんなシーンがありましたか…う~ん、どんな相撲展開でしたか憶えてはおりませんが(^-^;

 ◆土俵に「残った」のに負けてる?勝ち力士が豪快転落、負け力士が残る珍シーンに館内ざわざわ

 --- ABEMA TIMES - 1 時間前 ---

 <大相撲一月場所>◇三日目◇10日◇東京・両国国技館
 前頭十二枚目・輝(高田川)が前頭十一枚目・千代翔馬(九重)を押し出しで下した一番で、勝った輝が勢い余って土俵下へと落下。一方、敗れた千代翔馬は土俵に残るという珍しい展開となった。
 立ち合い頭から鋭く当たっていった千代翔馬。だがその直後に引いてしまうと、前に出る輝が攻め立てていく。最後は終始前に出る輝が押し出しを決めて2勝目となる勝ち星を挙げた。勝負が決する際、輝は勢い余って土俵下へと豪快に落下。
 しかし右足が先に土俵を割って敗れた千代翔馬は土俵に残っており、まるで千代翔馬が勝ったかのような光景に館内もざわついていた。敗れた千代翔馬は3敗目。
 取組を受けて、ABEMAで解説を務めた元関脇・琴勇輝の北陣親方は「千代翔馬の立ち合いが少し意外でしたね」と指摘。「輝に対して真っ向からいくとは思っていなかった」と続けると、「突っ込んできたところを上手くいなそうという作戦だったんでしょうけど、輝が落ち着いて見ていました」と解説し、「(輝の)体は流れていましたけど、しっかり見ていたぶん、(千代翔馬は)圧力負けした部分がありましたね」と語った。
 敗れた力士が土俵に残るという珍しいシーンに、視聴者からも「んん?」「土俵から落ちたのに勝った」「あ、足出ちゃったのか」「わかんなかった」と困惑気味のコメントが相次いでいた。
 (ABEMA/大相撲チャンネルより)

 …と、こんな記事でありまして、昨日の中継を確認してみますと、うん、うん、こんなシーンがありましたネ(^-^)
 ですが、GONsanはテレビ観戦ですから、千代翔馬関の足が出ていましたのはスグに分かりましたけど、国技館で観戦の方々は、観る角度によっては、土俵上に残っています千代翔馬関が勝っていますように見えますネ。
 うん、うん、納得です(^.-)☆
 観戦しておりますと、まぁ、こぅいぅシーンも多々ありますネ(^-^)
 同じ負けるにしましても、ケガしないように、上手に土俵下に転げ落ちる力士もおられます。「土俵下への落ち方が、上手だなぁ~」と感心します事もまた多々有りまして、とにかく大相撲は楽しく観戦していますGONsanなんであります。
 が、今回のこの記事、確かに〝珍シーン〟と言えない事もないのですけど、GONsan的には今一でありますかも(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(25)

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 〝久本古墳〟の見学を終えますと、次は、今回のバス例会の最後の訪問地〝屋嶋城城門跡〟に向かいます。
 〝屋嶋城城門跡〟をWEB上で検索してみますと、高松市公式ホームページに詳細な記載が…

 ◆屋嶋城(やしまのき)

 --- https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/chosa/yashimajo/index.html ---

 唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を再興するため日本は救援軍を朝鮮半島へ派遣しましたが、西暦663年8月、白村江の戦いで両国連合軍に大敗しました。これを契機として、唐・新羅の侵攻に備えて対馬から太宰府周辺・瀬戸内海沿岸に作られた朝鮮式山城の一つが屋嶋城です。日本書紀の天智天皇6(西暦667)年11月の条に

 「倭國高安城(やまとのくにたかやすのき)、讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)、對馬國金田城(つしまのくにかなたのき)を築(つ)く」(※倭國→現在の奈良県、對馬國→現在の長崎県対馬市)

 との記載がありますが、長らくその実体はよく分かりませんでした。平成10年2月に南嶺山上部近くの西南斜面において石積みが発見されたことを契機にして、南嶺北斜面・南斜面で確認されていた土塁と関連することが分かり、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、山上部付近の斜面に断続的ながら古代山城屋嶋城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明しました。約14年におよぶ発掘調査によってその全体像が少しずつ分かりかけています。これまでの成果や現在進めている城門遺構保存整備事業の進捗状況について紹介いたします。

 ・屋嶋城のあらまし
 屋島は名前のとおり、古代において島でした。屋島は瀬戸内海の中でも備讃瀬戸の東限に位置し、畿内に抜ける海上ルートにおける要所で、特に、唐・新羅の大船団を迎え撃つには非常に重要な場所だったと言えます。
 屋嶋城の城壁は山上を全長7キロメートルに渡ってめぐらしていたと考えられていますが、そのほとんどは断崖絶壁で、人工的に城壁が築かれていたのはそのうちの約1割程度です。そのため、自然地形を最大限に活用した古代山城と言えます。
 屋島は北嶺と南嶺と呼ばれる2つの山から構成されていますが、城壁などの遺構は南嶺のみで確認されています。また、北嶺と南嶺の間の西側には大きな谷があり、標高100メートル付近に山上の城壁とは別に城壁が築かれています。
 確認されている遺構のうち、最も残りの良いものが城門地区と浦生地区です。これらの発掘調査等の成果について詳しく紹介します。

 ・謎の古代山城を掘る
 屋嶋城跡の継続的な発掘調査は平成11年度から始まり、これまで14年間に渡って実施してきました。その結果、謎の古代山城屋嶋城の様々な情報を得ることができ、その実像が見え始めています。
 ここでは、近年の調査で多くのことが分かってきた城門地区、浦生地区などを中心に、発掘調査によって解明されてきた『日本書紀』に記載された屋嶋城について紹介します。

 ・浦生地区
 浦生地区の城壁(石塁)は早くからその存在が知られており、屋嶋城の遺構として紹介されてきました。しかし、それを裏付ける明確な資料はありませんでした。山上の調査の進展に伴い、平成21年度から発掘調査を開始したところ、7世紀後半頃の須恵器(平瓶(へいへい))が出土したことで初めて屋嶋城を構成する施設であることが明確になりました。
 城壁のほかに、城門や水門に推定されている箇所があるほか、雉城(ちじょう)と呼ばれる城壁から張り出した物見台のような遺構が残っています。周辺には石が多量に散乱しており、これらの遺構の表面は石積みであった可能性が考えられます。
 現在、調査を継続的に行っており、今後の調査が期待されています。

 ・その他の遺構
 このほかに、古代山城を考える上で重要な遺構としては、倉庫などの建物跡、貯水池、水門などを挙げることができます。
 貯水池としては血の池(瑠璃宝池)など数箇所でその候補地があり、水門としては南水門、北水門などがあります。城壁も南嶺の各所に残っており、特に北側斜面には土段と呼ばれる平坦な場所が道路状に残っています。屋嶋城に関する調査は、まだ始まったばかりでまだまだ多くの謎が残されており、これからの調査に期待が寄せられています。屋島の山上やその周辺に関連の未発見の遺構が眠っているかもしれません。

 ・甦る屋嶋城
 平成19年度から発掘調査で発見された城門と城壁の一部を修理復元するため、整備工事を実施しております。
 工事は城門南側の城壁から着手し、平成20年度に落石を回収、平成21年から平成22年度に石垣解体工事を実施、平成23年から平成24年度に城壁復元工事を実施しています。平成22年度には城壁復元工事を実施するために、試験的な城壁復元を実施し、様々な検討を行いました。解体、検討、復元という過程を経て、城壁復元工事が終了しました。
 現在は自由に見学することができます。今後も現地見学会を開催する場合は広報などで事前にお知らせしますので奮って御参加ください。

 …と、こんな記載が。
 駐車場に到着でバスから下車。屋島寺を横目にノンビリと展望台方向に向かいます。
 観光客もそれなりに多く、散策道脇の紅葉も大変キレイでありました(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(24)

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 石室から出ますと、GONsanも古墳の上に上がってみます事に…
 この古墳も盗掘に遭っていますのでしょうから、墳頂と言うか天井部分の石はありませんで、上から石室内が見下ろせます(^-^)
 石棚も、上からですと、よく分かります。
 墳丘から下りますと、古墳の周囲を見てみます事に。こぅして古墳廻りを見ておりますと、墳丘の盛土は、かなり流出してしまっている状況がよく分かりますネ(^-^)//"

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本日は、水老連の〝定例役員会・新年互礼会〟で水呑交流館行きのGONsanでした(^.-)☆

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 本日は、A.M.11:00から水老連の〝定例役員会・新年互礼会〟で水呑交流館行きのGONsanでした(^.-)☆
 参加者は、通常よりも若干少なかったような…でも、こんなもんかも(^-^)
 定刻に役員会は始まりまして、まずは、会長さんから、昨年4月~12月間の活動報告。特に異議も無く、続いて今年度残り3ヶ月間の行事予定・役員改選についての協議事項説明。
 現役員sanの任期は一期2年ですから、そぅなんですねぇ~3月末で一区切り。
 コロナ禍で諸行事自粛とは言いましても、振り返ってみますと、それなりに各種行事は実施。今からの3ヶ月間でも、いくつかの行事を遂行です。
 定例役員会の方は、会長sanの提案事項に、別段異議も無く了承。
 会議後は、コロナ禍の現況より弁当頂いて散会となりました。
 散会時にザッと見廻しますと、うん、うん、皆さんお元気そうなお顔です。GONsanより先輩の皆様が多いのですけど、コロナにも負けずに頑丈そうなお顔ですから感心してしまいます。
 本年も、お元気に、頑張って下さいねぇ~じゃなくて、〝元気に頑張りましょうネ〟ですネ(^-^)//"

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友人が、本日開催の〝時代行列&福山とんど祭り〟の画像を届けてくれました(^.-)☆

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 本日は、〝時代行列〟〝福山とんど祭り〟の開催で、友人も出掛けられましたようですネ。
 夕食を終えた頃、LINEへの画像送信に気付きましたけど、こんな画像が届いておりました。早速、今夜の絵日記の話題に頂きです(^-^)/
 これは、久松通りで撮られましたのでしょうねぇ~
 GONsanも出掛けておりまして、久松通りでしたら、この方々の後方辺りを付いて歩いておりましたかも…
 友人がズッとこの場所で撮っておられましたら、ひょっとしたら擦れ違っていましたのかも(^-^)
 ただ、GONsanは、カメラを構えておられます方々の前を通り抜けますのは気が引けますから、大概、そぅした方々の後方を通り抜けておりました。ですから、お互い気付きませんでしたのかも…
 もし、前を通り過ぎていましたら、お互い〝やぁ(^-^)/〟と声を掛けていましたのかも分かりませんねぇ~
 GONsanは、ゼントルマンだからして、カメラの前を通り抜けますのは、とてもとても(^-^)
 この日の様子は、GONsanも、結構、画像に納めましたけど、また後日、この絵日記に綴って行きたいと思います(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(23)

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 古墳の中に入ってみますと、両袖式の横穴石室で、奥壁には石棚が付いております。
 石棚付石室は、和歌山県や九州北部に多く分布するとの事ですけど、GONsanは初めて石棚付石室の中に入りました。石棚の上には何が置かれましたのでしょうねぇ~
 石棚の上に副葬品を置くと言う訳ではなく、この石棚は、棺を庇状に覆う役割とされたようですねぇ~
 古墳から出まして、古墳の後方(北方)に眼を向けますと、台形の屋島が(^-^)//"

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祭日なのに、〝河道掘削工事〟が実施されておりました(^.-)☆

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 福山市都心部から我が家にと帰って来ます時には、大概、芦田川右岸の鞆街道を走行しますGONsanなんですけど、本日・1/9(月)は、15:30頃でしたか…水呑大橋東詰め交差点を左折し、左岸を芦田川大橋へと南下です。
 危ない、危ない(^-^;
 ボケッと車を走らせていましたのでしょうねぇ~そろそろボケが始まりましたかも(^-^;
 まぁタマにはイィかも…と、そのまま西新涯町辺りまでヤッて来まして、何気なく芦田川河面に眼を向けますと、んっ!?…祭日にも拘わらず〝河道掘削工事〟が実施されておりましたネ(^.-)☆
 当初の「工事のお知らせ」では、〝土・日曜日は原則として作業を行いません〟との事でしたけど、ふ~ん、祭日でありましても土・日曜以外には工事実施と言う事なんですねぇ~
 それとも、何かの要因で工事が遅れていますのかも…
 昨年の11月の下旬近くでしたか…右岸(水呑側)の河川敷で工事の準備が進んでおりましたけど、いつまで経っても肝心の川面に〝バックホウ浚渫船〟が浮かびませんから、どぅなっているのだろぅ…と、気になっておりました。が、ふん、ふん、GONsanが気付かないだけで、こんな感じで〝河道掘削工事〟は進んでいたのですねぇ~
 それにしましても、「バックホウ浚渫」方式ですから、どのようにして「浚渫船」を川面に浮かべるのだろう?…と思っておりました。

 ◆バックホウ浚渫船

 --- 一般社団法人 日本作業船協会 ---

 バックホウと呼ばれる油圧ショベル型掘削機を搭載した硬土盤用浚渫船。バックホウは、掘削深度および半径を大きくするために台船の船首端の低い位置に据え付けられています。船体を保持するためのスパッドが通常3本装備されていて、前部の2本が掘削中の船体を保持し、後部の1本を移動用に使用しています。

 ・画像<左>:バックホウ浚渫船「第十六神丸」
  神野建設株式会社 所有
  日立建機株式会社 建造
  本船は、350トン級大型油圧ショベルを浚渫機械に搭載し、大きな掘削力で土砂、硬土盤、発破砕岩を浚渫を可能とした底面仕上げ精度の高い効率的なバックホウ式浚渫船です。
 ・画像<右>:バックホウ浚渫船「BHC-2401」
  五洋建設株式会社 所有
  国内最長のロングアームを備えたバックホウを搭載し、浚渫のみならず、各種アタッチメントにより多彩な作業を可能としている多機能型バックホウ浚渫船である。

 …と、こんな〝バックホウ浚渫船〟を頭に描いておりましたけど、そぅですネ、こんな方法もありましたネ。
 台船を組み立てて川面に浮かべ、台船にはショベルカーを設置。このショベルカーで川底の砂をすくい上げ箱船へ。そして、この箱船の砂を小型船で右岸に牽引搬送…と、こんな方法で実施しておられますようですネ(^.-)☆
 丁度、西日で逆光となり見づらくはありましたけど、暫し見物のGONsanでした(^-^)
 こぅして見ておりますと、幼少時によく眼にしました「採砂船」の作業風景が懐かしく脳裏に蘇って来ましたネ。
 満潮時に、何処からか「採砂船」がヤッて来まして、干潮時に採砂作業。当時は、確かショベルカーは無くベルトコンベアで川砂を船に揚げていましたような…そして、満潮時に帰って行っていたような…
 現在の芦田川は河口堰で堰き止めされ、言ってみれば常時満潮状態ですから、当時のベルトコンベア方式ではとても無理ではありますネ(^-^)
 それに、当時は、良質の芦田川川砂でしたけど、現在は椻止められて汚染砂なのかも分かりませんねぇ(^-^)
 とにかく、〝河道掘削工事〟は順調に進捗していますようですねぇ(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(22)

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 〝旧恵利家住宅〟の見学を終えましたら、丁度、集合時間が到来です。
 〝みろく自然公園〟を後にしますと、次は〝久本古墳〟へと向かいます。場所的には、屋島の南方のようであります。
 バスが入れませんから、古墳近くで下車し、周辺の田園風景に眼を向けながらノンビリと歩行となりました(^.-)☆
 久本古墳に到着しますと、古墳脇に説明板が…

 ◆久本古墳

 --- 史跡 昭和50年3月13日 高松市指定 ---

 久本古墳は、横穴式石室をもつ円墳である。
 石室全長10.8Mで、遺体を埋納する玄室は、長さ4.5m、高さ3.3m、通路に当たる羨道部は、長さ6.3m、高さ2.1mである。
 北方の山下古墳とともに巨大な横穴式石室をもつ巨石墳である。周辺に大きな勢力と高度な文化をもった集団が存在したといえよう。
 玄室奥に、県内唯一の石棚がみられる。棚の下には、遺体を安置する陶棺が置かれていた。
 石棚は、和歌山県・徳島県の古墳に多く見られ、広範囲にわたる文化交流がうかがえる。仏教文化の影響が色濃い承台付銅鋺が、県下で初めて出土している。須恵器が多量に副葬されており、古墳名が六世紀末に築造され、七世紀初頭まで追葬が行われていたことが判明している。
 久本古墳には「祭礼などのとき、塚が膳・埦を貸してくれていたが、村人が壊すなどの不始末を起こし返さなかった後は、塚はもはや膳・埦を貸してくれなくなった。」という〝埦貸しの伝説〟が伝えられている。

 --- 高松市教育委員会 ---

 WEB上で〝久本古墳〟を検索してみますと、こんな記載も…

 ◆久本古墳

 -- 更新日:2019年1月18日 --

 ・史跡
 指定区分  市指定史跡
 指定年月日 昭和50年3月13日
 所在地   新田町

 ・解説
 墳丘の盛土はかなり流出してしまっているが、直径36メートル、周溝を含めた直径は46メートルを測る円墳であることが判明している。石室は全長10.8メートル、玄室長4.6メートル、幅2.6メートル、高さ3.5メートル、羨道長6.2メートル、幅1.6メートル、高さ2メートルを測る両袖式の横穴石室で、奥壁には石棚が付いている。この石棚の直下の奥壁に沿って土師質の亀甲型陶棺が納められていた。副葬品には、須恵器、土師器、鉄鏃のほか、承盤(しょうばん)付銅椀があり、6世紀末から7世紀初頭頃に築造されたと考えられる。
 石棚付石室、土師質亀甲型陶棺、承盤付銅椀はいずれも県内唯一のものである。石棚付石室は和歌山県や九州北部に多く分布するものであり、その伝播には紀氏およびその同族関係氏族との関連性が関わったとする説がある。また、土師質亀甲型陶棺は奈良県に類例があり、久本古墳の陶棺も奈良県からの搬入品である可能性が高い。本来仏具として使用される貴重な銅椀を有することからも大和朝廷との関係も注目される。
 なお、「村の祭事には塚(古墳)が膳や椀を貸してくれたが、あるとき村人が借りた膳椀を返さなかったところ、以後貸してくれなくなった」という民話が残っており、地元では「椀貸塚」とも呼ばれている。

 ◆久本古墳

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 久本古墳(ひさもとこふん)は、香川県高松市新田町にある古墳。形状は円墳。高松市指定史跡に指定されている。
 本項目では久本古墳の北にある山下古墳についても解説する。

 ・概要
 香川県中部、高松平野東部の立石山西麓に築造された古墳である。これまでに墳丘は大きく削平を受けているほか、1975年(昭和50年)・2002年度(平成14年度)に発掘調査が実施されている。
 墳形は円形で、直径36メートルを測る。墳丘周囲には幅10.5メートル(南側)・5メートル(西側)の周溝が、その外側に幅3.5メートルの周堤が巡らされ、周溝を含めた直径は46メートル、周堤を含めた直径は53メートルを測る。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。石室全長10.8メートルを測る大型石室であり、石材には安山岩の巨石が使用される。石室奥壁に石棚を付すという特徴を有し、石棚下には土師質の亀甲型陶棺が据えられる。石室内は盗掘に遭っているが、発掘調査では副葬品として多量の須恵器のほか、承盤付銅椀・鉄鏃・土師器が検出されている。
 この久本古墳は、古墳時代終末期の6世紀末葉-7世紀初頭頃の築造と推定され、7世紀後半頃までの祭祀が認められる(埋葬回数は1回か)。いずれも香川県内では唯一となる、石棚付石室・土師質亀甲型陶棺・承盤付銅椀の点で特色を示す古墳になる。周辺では巨石墳として小山古墳(非現存)・山下古墳(後述)の築造も知られるほか、後背丘陵上では群集墳が営造されており、久本古墳・小山古墳・山下古墳の3基は一帯の首長墓(綾公氏や秦氏の墓か)と想定される。また当地の豪族と、北方における屋嶋城築城との関連性の点でも注目される。
 古墳域は1975年(昭和50年)に高松市指定史跡に指定されている。

 ・来歴
 1975年(昭和50年)
 石室・墳丘の保存整備に伴う調査:第1-2次調査(久本古墳発掘調査団、2004年に報告書刊行)。
 3月13日、高松市指定史跡に指定。
 2002年度(平成14年度)、市道改良に伴う調査:第3次調査(高松市教育委員会、2004年に報告書刊行)。

 ・埋葬施設
 埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り。
 石室全長:10.8メートル
 玄室:長さ4.6メートル、幅2.6メートル、高さ3.5メートル
 羨道:長さ6.2メートル、幅1.6メートル、高さ2メートル
 石室の石材には安山岩の巨石が使用される。石室(および墳丘)の構築に際しては高麗尺(1尺=約35.6センチメートル)の使用が推測され、玄室の奥壁が墳丘の中心として基準になる。玄門部の立柱石は内側に張り出し、その上部には楣石を置くという九州系横穴式石室の特徴を示す。また羨門にも立柱石が認められ、羨道部は複室構造の前室のような形態を取る。羨門立柱石は鑵子塚古墳(観音寺市)でも知られ、関係性が指摘される。
 また玄室には、奥壁に接する位置に石棚を付し、石棚を有する石室としては香川県では唯一の例になる。両側壁にかけて渡した一枚石(長さ約3メートル・幅1.5メートル・厚さ0.5-0.6メートル)を棚とし、床面から棚下は1.7-1.8メートルを測る。石棚の多い九州・紀伊地方では石棚を奥壁・両側壁に組み込むのに対し、中国・四国地方では石棚を両側壁のみに組み込んでおり、本古墳も後者の例に属する。棚下では後述の土師質陶棺が据えられることから、この石棚は棺を庇状に覆う役割とされる。
 玄室内の石棚下には土師質陶棺が据えられており、確実な土師質陶棺の出土としては香川県では唯一の例になる。亀甲型陶棺であり、突帯幅は1.5-2センチメートルと狭いものになる。当該時期の陶棺は大和地方に集中し、本古墳の陶棺も狐塚2号横穴(奈良県奈良市)の陶棺と似ることから、大和地方との関係性が指摘される。

 …と、こんな〝久本古墳〟であります(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(21)

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 〝軒原庄蔵氏像〟まで下りて来まして、「んっ!?…」と眼が止まりましたのが、像の裏側の説明板。像を拝見しています時には気付きませんでしたけど、うん、うん、裏側に説明板がありましたネ(^-^)
 説明番には、

 ◆治水の功労者 軒原庄蔵

 富田中村の庄屋軒原庄蔵は、水不足に困る弥勒池の貯水増のため、三ツ石山の岩盤を掘り抜き、砕石谷からの導水に成功し多くの農民を救った。
 隧道工事は、田面村の工事監督多田信蔵(霞岳)、富田中村の数学者萩原栄次郎の協力を得て、安政2年(1855年)から安政4年にかけて、長さ105間(191m)の石穴を貫通させる難工事であった。
 この画期的な工事を完成させた功績により、高松藩から郷侍格に取り上げられた。
 後、明治2年(1869年)満濃池のゆる石穴工事を命じられ、明治3年30間余(約56m)の石穴を完成させ、讃岐の治水に貢献した。このため、満濃池の恩人とあがめられ、満濃池畔の松崎神社に合祀されている。
 明治23年63歳でふる里に没した。

 大川町歴史民俗資料館の落成を記念し、その遺徳を顕彰してこれを建立する。
 --- 平成2年3月吉日 大川町 ---

 …と、こんな記載がありました(^.-)☆
 昼食をとりました広場まで下りて来まして、周辺を見廻しましても人影はありません。皆さん、何処へ…
 そぅしておりましたら、〝重要文化財 建第1812号 旧恵利家住宅〟の案内表示が眼に入りましたので、向かってみます事に(^-^)
 旧恵利家住宅前の広場に立ち見廻しますと、6~7名の方々のお姿が…ふ~ん、ここにおられましたか(^-^)
 早速、GONsanも〝旧恵利家住宅〟を見学です。

 ◆重要文化財 建第1812号 旧恵利家住宅

 --- 指定年月日 昭和46年6月22日(文部省告示第165号) ---

 ・概要
 旧恵利家住宅は、17世紀にさかのぼる県下最古の農家住宅で、周囲を瓦葺きの庇とせず軒先まで茅で葺き降ろす形式が建築年代の古さを物語っている。

 ・歴史
 この建物は山あいの新名と言う集落にあり、かって村の百姓役であった藻玉氏のものと言われている。藻玉氏は判明している先祖が、元禄12年(1699)に亡くなっている旧家で、その後、江戸後期にその所有が恵利氏に移ったとされている。

 ・構造
 旧恵利家住宅は桁行7間、梁間3間半の寄棟造、茅葺の建物で背面に桁行1間半、梁間2間半の角屋が突出する。間取りは広い土間と、それに沿って板敷きの広間が並び、上手は座敷と納戸になる。現状の角屋は当初からあったものではなく、納戸を拡張したものである。なお、恵利氏は納戸を〝奥〟と呼び、また、新名にあった当時、床は竹を半割にして敷き詰め、これを竹座と呼んでいた。

 ・規模
 平面積112㎡(33.9坪) 軒面積144㎡ 屋根面積254㎡
  
 …と、案内板によりますと、こんな〝旧恵利家住宅〟であります。
 当時の農家住宅としましては、仲々の豪邸でしたのかも(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(20)

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 歴史民俗資料館内の見学を終えますと、今から40分間の自由行動となります。
 この間に、各自昼食タイムです。
 皆さん、弁当持参ですから、思い思いに〝みろく自然公園〟内の適当な場所へ。GONsanは、藤棚下のテーブルへ(^-^)
 日差しがありませんこの時期なんですけど、風が有りませんから冷たさも無し。とても、行楽日和とは言えませんけど、持参弁当は美味しいものでありました(^.-)☆
 昼食を終えますと、皆さん、三々五々、〝みろく自然公園〟内を散策です。GONsanは、再度、〝みろく自然公園〟の案内マップを確認の上、スグ近くの展望台に上がってみます事に…
 展望台に向かっておりますと、どなたかの銅像が…台座には〝軒原庄蔵氏像〟と刻まれています。ふ~ん、水利土木功労者の〝軒原庄蔵〟sanですネ(^.-)☆
 歴史民俗資料館内に、こんな説明書きがありましたネ。

 ◆水利土木功労者・軒原庄蔵

 文政11年、富田中村に生まれる。当時の庄屋・軒原庄蔵は漏水甚だしい「みろく大掛井」の惨状に苦慮し、玄光谷より三ツ石に至る山底の掘り抜き導水を企画、安政2年ようやく許可を得て、東西双方より昼夜3年の掘り抜き工事を実施。庄蔵の卓越せる技術によって安政4年、105年間に及ぶ石穴が完通した。
 この偉業により富田中村の田は永久に水利の便益をうける事となった。文政5年、弥勒池普請成就の功により郷侍格(ごうふかく)を申しつけられた。なお、工事監督した田面村の多田信蔵(画家霞岳)、更に地勢の高低を測定して両穴の連結を方向付けた富田中村の算数学者、萩原栄次郎があった事を忘れてはならない。
 その後、明治2年8月、高松藩より満濃池穿さく工事御用を任命され明治3年3月、30間5尺余の穿さく工事に成功した。その土木技術のすばらしさは、さぬき溜池史にさん然と輝いている。明治23年、63歳で逝去された。

 …と、こんな方でありまして、仲々立派な方でしたのでしょうねぇ~
 この銅像の後方には、イノシシ捕獲用の箱罠が…う~ん、ここでもイノシシが出没しますようですネ。
 展望台に到着しますと、どなたもおられません。チョッとした広場で確かに展望台が設けられてはおりますけど、眺望は今一。
 即、下山となりました(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(19)

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 こぅして展示品に眼を向けておりますと、どれも皆、懐かしさが…自然と、幼少時に眼にしました光景に想いが向かってしまいます。
 でも、中には、全く分からないモノも…この古めかしい〝小川式挽場機 裏穴貝釦(ボタン)型付機〟に眼が止まってしまいましたけど、これは、何なんでしょうねぇ~
 WEB上で検索してみましたら、有る事は有るのですけど…
 〝製造工程/奈良・川西町にある高級貝ボタン【川西ボタン倶楽部】〟のページが出て来まして、この会社で、よく似た古めかしい機会を使用しておられます。よく分かりませんけど、きっと、高級貝ボタンの型付け作業に使用していました機械なのでしょうねぇ~

 ◆川西ボタン倶楽部
 -- http://web1.kcn.jp/kawanisityou-syoukoukai/process.html --

 ・オートメーションではなく、人の手による細かな作業が、高品質の川西ボタンを生み出す。
 手挽き--ボタンの型付け作業は、通常15mmまでのものは機械で、それ以上のものは職人による「手挽き」で行う。回転するチャックにボタンを入れ、職人の感覚や音を頼りに削り方を調整する。
 変形加工--ボタンは丸いものだけでなく様々な形状や切込みがあるものもある。専用の機械を駆使し、職人の感覚を頼りにひとつずつ丁寧に加工している。

 ・数多くの工程を経て、天然素材のボタンが生まれる。
 ブランク--当初は原貝を直接輸入し日本で刳り抜いていたが、近年は現地で刳り抜いたもの(ブランク)を輸入している。そのため「刳り場」という工程はなくなった。
 摺り場--ブランクはでこぼこしているため、回転している砥石で平らにする作業。微妙な色の見比べやボタンの厚み調整などを行う重要な工程の一つ。
 挽き場--「型付け」とも呼ばれる。ボタンの表面に膨らみや溝などの型を付ける工程。使用する刃物(バイト)の調整も重要で、行える職人は稀少。
 穴明け--ボタンに穴を明ける工程で、2つ穴・4つ穴はポピュラーだが、近年は細い穴や間隔の狭い穴などがデザイン性としてトレンドとされている。
 化車(がしゃ)--ボタンのカドに丸みをつけ、小割や筋をとる工程。化車(がしゃ)と呼ばれる箱の中にボタンと水・磨き粉を入れて約3~6時間回転させ、周りのバリを取り除く作業。
 艶出し--テッポウと呼ばれる桶の中に熱湯とボタンを入れ水溶液(塩酸や硫酸)を点滴のように垂らしながら、およそ1時間回転させる。ボタンの表面を少しずつ溶かしながら艶を出す。
 ロウつけ--伊保田(いぼた)ロウというロウを付着させたモミや小麦などを、ボタンと一緒に「モミ化車」でさらに1時間程度回転させる。ロウが貝ボタンになじみ手触りがとても良くなる。
 選別--通称「よりわけ」と呼ばれ、良品とキズやカケのある欠陥品とを選別する。経験を活かした眼力と指先による確かなチェックを経て良質なボタンが市場に届けられる。

 …との事で、高級貝ボタン製作の過程では、人の手による細かな作業が続きますようですねぇ~

 ◆しゃちほこ
 鯱の起源は、鴟尾(古代の宮殿・寺院の主要建物の大棟両端につけられた1対の棟飾瓦)と考えられます。
 鯱とは想像上の生き物で、大変強い海獣だそうです。
 鯱が屋根に上がった理由は、雷雨を呼ぶ生き物とされていて、燃えやすい木造建築に対するお守り的な意味がありました。

 ◆鬼瓦
 大棟または下棟の端に用いられる飾瓦。
 奈良時代には軒平瓦(軒先に葺く平瓦)と同じ蓮華文や獣面様が併存したが、鎌倉時代以降に角のある立体的な鬼の形に変化して、一般に鬼瓦と呼ばれるようになった。
 鬼瓦は、魔物を怖がらせて家から追い払う魔除けの意味もあったと思われます。

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お正月と言えば〝年賀状〟…眼を通しておりますと、やはり楽しいですネ(^.-)☆

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 〝正月三が日は、寝正月…〟と想いながらも、毎年、三が日は、何だかんだで、それなりに慌ただしく過ごしてしまいまして、アッと言う間に過ぎ去ってしまいましたネ(^-^)
 で、正月4日目の本日・1/4には、改めて届いた賀状を確認です。
 もぅ随分お会いしていない方…頻繁に顔を拝見しています方…コロナの関係で3年ばかりご無沙汰している方…と、戴いた賀状は様々なんですけど、賀状を捲っておりますと、時たま手が止まり微笑ましさも(^-^)
 その中から2枚ばかりピックアップです。
 1枚は、思わず苦笑が…
 裏面は、GONsanがWEB上で賀状交換しています方達に使用しましたモノと、奇しくも同一でありましたから(^-^)
 この裏面のサンプル…GONsanは、何処から取り込みましたのか憶えておりませんけど、数多いフリーサンプルの中から、同じモノを選択します事もあるのですねぇ~でも、被りましたのは今回が初めて。
 もぅ1枚は、孫達の賀状。
 弟のジャンプ姿に、また苦笑(^_^)v
 鉢伏山ですから、きっと、一昨年の年末に出掛けた際のモノなんでしょうけど、この際の動画を観た事がありました。
 何度もジャンプを試みますのですけど、凡て着地でドテッ!!…と転倒し失敗です。何度も繰り返し行いまして、ヤッと成功。その際の一コマですねぇ~
 この賀状の一コマのみ眼にしますと、「おっ、かっこイィ!!」と、なるのでしょうけど、動画を観ていますばかりに、やっぱり苦笑(^-^)
 姉の方は、ズッとスキー板派でしたが、サイズ的に、もっと長い板でないと…で、熟考のあげく、姉も今冬からスノボー派に転向のようであります。
 今冬は、琴引スキー場と言っておりましたけど、転向後の初滑りは、どぅでしたのでしょうねぇ~
 昨年、年末近くに我が家へ来訪時、「リップスティックが上手だから、スノボーも簡単に滑れるのでは…」と、姉に言いますと、すかさず弟が、「そぅいぅ訳にはイカないの。スノボーは、リップスティックのように腰は使わないから、経験とテクニックが要るの!!」ですから、これにも苦笑。
 姉の方は、暫くは弟に先輩面されますのでしょうから、可哀想に(^-^)
 スキーもスノボーも、両方やれば…とも思いますけど、経費の負担を考えますと、1つにせざるを得ませんネ(^-^)

 ところで、賀状の方ですけど、元日に届きました中に、今回もまた「高齢に向かい、今年で賀状は失礼させて頂きます…」が、結構ありましたネ。
 寂しいですけど、人それぞれ事情がお有りでしょうから…
 で、GONsanは、どぅしたものか…別に年賀状作成は、100枚であろうと200枚であろうと、数時間でサッサと作成完了ですから負担でもありませんけど…
 ただ、そぅですねぇ~いずれ、年賀状を購入しますのが負担となりますのかも…
 その時期が到来しましたら、『年賀状購入への負担が大きく、今回で、我が家は賀状のお届けとお別れしたいと思います…』と、こんな文面になりますかも(^-^)
 う~ん、その時期は、いつになりますのでしょうねぇ(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(18)

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 ◆原動機自転車

 昭和27年頃より普通の自転車にガソリンタンクのついた原動機自転車が流行した。
 しかし、背が高く、故障も多かったので間もなく完成車としてオートバイ・スクーターなどが登場。大川町では昭和33年には329台、昭和41年には1,358台とまたたくまに普及した。
 因みに、自転車は、明治22年(1889年)富田村西村、根本伊太郎がおろしたのが最初で、鑑札許可願が出されている。

 ◆踏車や数珠車

 讃岐の農業はおだやかな気候と肥沃な土地条件に恵まれて発展したきた。しかし、稲作にとって最も大切な灌漑水には恵まれず、毎年、水の不足を心配し、水の確保と水の上手な使い方について先人は汗を流し、智恵を絞ってきた。このことは県下にある18,620ヶ所の溜池の数と各地にある水利慣行や、雨乞い、水げんか、番水(水ブニ)、引水(共同で水を水田まで引く)、夜水(夜不寝番で潅水)、どびん水(旱ばつのときに「ドビン」に水を入れ稲株にかける)、線香水(線香に火を付けて、くい入る長さによって潅水の時間を測る)、むくち(田植えのとき荒起して潅水後、牛鍬で再度、耕して土を練り、水保ちをよくする)など水不足に因むことばや作業が、その歴史を物語っている。
 潅漑用の農具では古くは「淀車」「踏車」「はね釣瓶」などが使用された。淀車は深井戸や湧水池などから水を汲み上げるときに利用したものであり、別名「数珠車」とも呼ばれた。直径1.4m、幅0.9mの木製の車を2人で足を踏み付けて回し、車にかかった鎖状につながった十数個の汲桶が井戸の水を汲み上げて、桶に流し込み潅漑する。この淀車は明治初期では大型の揚水用具であり、一般には桶を1つはね木に付けて、2人で汲み上げた「ハネ釣瓶」が使われた。
 踏車は寛文年間(1661年~1672年)大阪の京屋七兵衛により考案され、安永(1772年)のころに諸国に普及している。踏車は揚水の高さが30~35cm程度で、小川からの揚水に利用した。階段状になっている羽根板の外縁を1人で踏み下へ回し、羽根板で水を前方にかき出すようにしている。

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箱根駅伝は駒大の総合優勝で〝3冠達成〟…やっぱり駒大は強かったですネ(^.-)☆

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 正月三が日最終日の本日・1/3(日)は、朝食後暫くして嫁さんと墓参りのGONsanです。
 墓参りから戻り、箱根駅伝観戦でテレビを前にしましたら、青学大が8位の位置に。これには少々驚きましたが、どんな展開でこの位置に…と、不思議な気持ちも同時に生じましたネ。
 そうしましたら、9区で岸本大紀(4年)が区間記録に迫る快走で3位まで順位を上げましたから、〝さすが青学大〟の気持ちへと(^-^)
 往路優勝の駒大は、復路でも危なげない走りで余裕のゴールにより、総合優勝で史上5校目の3冠達成。やっぱり駒大は強かったですネ(^_^)v
 このレースの様子は、日刊スポーツsanが、こんな速報記事で…

 ◆【箱根駅伝】駒大、史上5校目の3冠達成!大八木監督の悲願「三度目の正直」で令和の常勝軍団に

 --- 2022/01/03(火) 13:23配信 日刊スポーツ ---

 <第99回箱根駅伝>◇23年1月3日◇復路◇箱根-東京(5区間109・6キロ)

 駒澤大(駒大)が2年ぶり8度目の総合優勝を果たした。記録は10時間47分11秒(往路5時間23分10秒、復路5時間24分1秒)だった。復路も制し、2位中大に1分42秒差をつけた。10月の出雲、11月の全日本に続く優勝で、90年度の大東文化大、00年度の順大、10年度の早大、16年度の青学大に続き、史上5校目となる同一年度の3冠を達成した。名将・大八木弘明監督の悲願がかない「令和の常勝軍団」となった。
 駒大は過去に2度、3冠に王手をかけていた。98年度は順大に、13年度は東洋大に敗れ、いずれも2位。「三度目の正直」となった。大八木監督は「昨年4月に子どもたちから“監督3冠やりましょう”と言われ、“よし、やるか”とこの1年取り組んできた。選手たちには感謝しています。ありがとう」と喜びをかみしめた。会見の最後に、大八木監督は3月での勇退を明かした。藤田敦史コーチが後任の監督となる。

 往路優勝の前日同様に全区間で安定した走りを披露した。2位中大に30秒差で臨んだ6区・伊藤蒼唯(1年)が、区間賞でリードを47秒差へ広げる。7区・安原太陽(3年)も区間5位の走りで43秒差を守った。8区で主力の花尾恭輔(3年)が欠場する中、代わった赤星雄斗(3年)が区間4位の力走を披露。大八木監督の叱咤激励の声が響く中、リードを1分5秒差まで離した。
 そして勝負のポイントとなったのが9区。山野力(4年)が主将らしい力強い足取りでジリジリと引き離しにかかり、狙い通りに1分32秒差とした。10区のアンカー青柿響(3年)も安定した走りで、危なげなく進んだ。後続の姿はもう見えない。そして笑顔の仲間が待つ東京・大手町のゴールにフィニッシュした。

 総合力の高さを見せつけた。往路では、2区の絶対エース田沢廉(4年)が12月上旬に新型コロナウイルスに感染した影響で万全ではなかった中、全員が区間上位で走り、区間賞ゼロながらも制した。この日の復路でも花尾に加え、投入が予想されたスーパールーキーの佐藤圭汰(1年)も欠場させた。それでも1年生の伊藤や代役の赤星らが安定した走りで、他校の追随を許さなかった。これで往路優勝チームの総合優勝は、99回の大会で67度目となった。
 3冠は一筋縄ではいかない偉業だ。現行の距離で出雲は6区間45・1キロ、全日本は8区間106・8キロ、箱根は2日がかりで10区間217・1キロ。走る人数も距離も異なる条件下で、3つのレースに勝つことは難しい。選手層の厚さはもちろんのこと、当日のコンディションも含めた運も必要になる。

 往路3位から逆転優勝を狙った青学大は、6区でのブレーキもあって一時は8位まで順位を落とした。9区で岸本大紀(4年)が区間記録に迫る快走で3位まで順位を上げたが、連覇はならなかった。駒大から7分15秒差だった。
 4位に国学院大、5位に順大、6位に早大、7位に法大、8位に創価大が続き、9位に城西大、そしてシード権の最後に東洋大が入った。東洋大は18年連続のシード権獲得となった。11位以下は、東京国際大、明大、帝京大、山梨学院大、東海大、大東文化大、日体大、立教大、国士舘大、関東学生連合(オープン参加※参考記録)、専大の順。
 なお、次回の23年度大会(24年1月2、3日)は100回目の記念大会となる。全国に門戸を開放し、10月の予選会には全国の大学が参加できる。シード10校に加え、予選会で10校の枠を争う全国大会となる。

 <復路区間賞>
 【6区】伊藤蒼唯(駒大)58分22秒
 【7区】葛西 潤(創価大)杉彩文海(明大)1時間2分43秒
 【8区】宗像直輝(法大)木本大地(東洋大)1時間4分16秒
 【9区】岸本大紀(青学大)1時間7分27秒
 【10区】西沢侑真(順大)1時間8分42秒

 …と、こんな結果でありました。
 それにしましても驚きましたのが、大八木弘明監督が〝3月退任〟の表明。
 これには、「何で!?」と不思議でしたけど、

 ◆【箱根駅伝】3冠導いた駒大の大八木弘明監督が3月退任へ 後任は藤田敦史コーチ

 --- 2022/01/03(火) 14:33配信 スポニチアネックス ---

 ◇第99回東京箱根間往復大学駅伝 復路(2023年1月3日 神奈川・箱根町~東京・大手町 5区間109・6キロ)
 今季の出雲、全日本を制した駒大が、2年ぶり8度目の総合優勝を飾り、同大としては初、史上5校目の3冠を達成した。
 大八木弘明監督(64)はレース後の会見が終了した後、「私事ですが…」と自ら切り出し、「今年で監督を退きます。3月で終わりです」と表明した。
 後任は藤田敦史コーチで、大八木監督は「今年の3月までだけど、明日から藤田に」と笑みを浮かべていた。
 ゴール後3度、宙を舞った指揮官は「本当にうれしい。選手たちに3冠というプレゼントをいただいて、感無量」と感激の面持ち。花道にふさわしい偉業だった。「私は99回で監督を退いて総監督になると思いますけど…3年生以下も、すごいいい選手がいるので、連覇に向けてちゃんと準備すればまた3冠の目標も出てくるかと思います」と期待を寄せた。

 …と、こんな記事もありまして、ふ~ん、藤田敦史コーチへのバトンタッチで〝総監督〟に就任ですか(^.-)☆
 そんな流れが有りましたとは、納得もしてしまいますGONsanなのであります。
 とにかく、駒大の箱根駅伝総合優勝で〝3冠達成〟、誠におめでとうございますです(^-^)//"

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正月三が日最終日の午前中も、墓参りのGONsanでした(^.-)☆

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 正月三が日最終日の1/3(火)午前中も、嫁さんと墓参りのGONsanでした(^.-)☆
 本堂に立ち寄り墓地に上がりますと、墓参りしておられます方のお姿はパラパラと…
 ご先祖様に手を合わせてから、また我が町を眺望です。が、芦田川に眼を向けますと、竹ヶ端運動公園テニスコート付近の川面が異常な黒さでビックリです(^-^;
 テニスコート側~箕島側間の右岸側半分近くの川面が真っ黒ですから…
 川面全体からみますと、この一帯のみが異常な黒さ。
 太陽光線の加減でも無さそうですし、何で!?
 暫く見つめておりますと、次第にその範囲が縮小し狭まって来ましたので、急いでカメラを取り出しズームを効かせてパチリ…なんですけど、慌てていましたのでピンボケ画像(^-^;
 早くしないと消滅しそうですから、再度、2枚パチリです。が、3枚目に撮りました時にはスッカリ消滅です。
 う~ん、あの異常な黒さは、何だったのでしょうねぇ~真っ黒い状態は長かったのでしょうけど、消え始めて消滅まではアッと言う間でありました(^-^;
 こんな時期ですから、夏のように藻の大量発生でもありませんし、あんなに真っ黒でした川面が1分程度で消滅ですから、実に不思議。
 何にも無かったかのように、薄いブルーに戻りました川面。
 暫く呆然と川面を見つめるGONsanなのでありました。
 この状況を嫁さんに伝えましたのですけど、こんな事には無頓着な嫁さん。振り向きもせず墓前で読経ですから…何とも…
 でも、本当に、あの黒い川面は、何でしたのでしょうねぇ~
 気を取り直しましたGONsanは、眼に入ります景観を数枚パチリ。
 空気が澄んでいましたせいか、天文台もクッキリと鮮明に(^_^)v
 箕沖方面に眼を移しますと、後方に笠岡諸島…そして、その後方に四国の山が、これまた鮮明に(^-^)
 こぅいぅ時には、随分、四国が近く感じられてしまいます。こんなに近く見えますのも久し振りでありました(^-^)//"

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昨日の夕方近く、通報がありましたのか、早速、パトカーが(^.-)☆

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 昨日の夕方近くでしたか…「警察が来てるよ…」との嫁さんの声で、我が家裏に出てみますと、うん、うん、どなたか通報されましたのでしょうか…盗難放置自転車の所にミニパトと警察官が…
 現場検証の真っ最中…と言ったところでしょうか(^-^)
 大概、こぅいぅケースは、我が家周辺の住民の皆様は、暫く様子見を続けますから、そぅ簡単には警察への通報は控えます。
 でも、どなたが通報されましたのでしょうねぇ~
 とにかく、野次馬根性丸出しのGONsanが静観する訳にはいきません。
 急いでカメラを持ち出し、4枚ばかりパチリです。
 そして、我が家の畑沿いをユックリと現場近くまで接近です。
 現場には、警察官お一人と、男性2人・女性3人の方々が…この5名の皆様は、どんな関係に?…
 タバコ咥えて暫く静観しておりましたら、男性がGONsanの方へ近付いてこられました。これを良い事に、「この自転車、元日の09:30頃に放置されていますのに気付きましたけど、盗難に遭われたのですか?…」とお尋ねしますと、男性が仰るには、下記の事情のようであります(^-^)

 なんでも、ネットで自転車を発注し、年の瀬迫って自転車が宅配便で到着。で、早速、組み立てし乗れる状態に。
 そして、大晦日に、この新品の自転車で草戸稲荷に参詣です。(出掛けられました時間は、聴きませんでしたけど…多分、日付が変わる頃なのかも…)
 草戸稲荷に到着しますと、百均で求めた商品でガッチリと施錠実施。
 それから、参拝を終え帰ろうとしますと、駐めた場所に新品の自転車は無かったとの事です。
 新品の自転車で、購入後、初めて乗られたのに、早々に盗難に遭われたようですねぇ~
 おまけに、ネット上での購入で、自転車の防犯登録証(正式には〝防犯登録標識<登録シール>〟)の添付は無かった様子。
 この〝防犯登録標識〟が、無いばっかりに、現場検証も難航です(^-^;
 正当な所有者の証明が出来ません…から、検証に時間を要しておられるご様子。
 ふん、ふん、〝防犯登録標識〟は、結構、こぅした場合には重要ですねぇ(^-^)
 かく言うGONsanも、数年前に、嫁さん用に折りたたみ自転車をネットで買い換えましたけど、その際にも〝防犯登録標識〟の付属は有りませんでした。まぁ、格安価格で購入しておりますから、それも当然と、気にもしてなかったのですけど、ただ、施錠は百均商品で無く自転車屋sanで求めましたが…
 それにしましても、どなたが通報し、警察は、よく所有者が分かったなぁ~と、実に不思議。
 これには、こんな事情が…

 このご家族は、川向こうの新涯町にお住まいで、元日に、水呑にお住まいの友人に「購入間もない、白い自転車が盗難に遭った…」と話されたご様子。
 その友人は、我が家近隣にお住まいなんでしょうねぇ~
 たまたま、この放置自転車があります市道を車で走行し、眼に付きます白い自転車ですから、ひょっとしたら…と、電話してくれました…との事であります。
 そして、その連絡を受け現場に来訪。
 ご自身の自転車と確認の上、まずは、水呑交番に架電。でも、出ない(^-^;
 次いで、田尻交番に電話。やっぱり出ない(^-^;
 で、結局、現場に急行されましたのは、沼隈交番(^-^)
 ふ~ん、正月三が日は、交番もお休みなのかも…

 …と、こんな経緯のようでありまして、GONsanも事情は把握出来ました。
 警察への通報の件も、スグには我が家近隣の方々はしませんで静観なんですけど、これも納得。
 お邪魔してもイケないので、この辺りでGONsanは退散です。
 そして、一時間後に改めて現場に眼を向けますと、もぅどなたのお姿も有りませんでしたネ。
 当の自転車は、警察が持ち帰られたのか…それとも、無事に、ご本人の手に戻りましたのか…いずれなのかは分かりませんけど、う~ん、〝防犯登録標識〟は大切ですねぇ(^-^)//"

 後学のために、WEB上で〝防犯登録標識〟をお勉強です(^.-)☆

 ◆自転車に貼られたあのシール。意外と知らない「防犯登録制度」の仕組み

 --- https://jitensha-hoken.jp/blog/2018/05/crime-prevention-registration-system/ ---

 都道府県警察名と管理番号が書いてある防犯登録標識(登録シール)はみなさん見たことあるだろうか?自転車を購入すると当たり前のように防犯登録するよう販売店から言われ、登録とともにこのシールを貼られるけれども、登録しないと罰せられるようなものだろうか?

 ★制度のあらましと登録方法
 普段、何気なく見ているが制度の中身についてはよく分からないという方が多いので、まずは制度について説明する。そもそも自転車の防犯登録が義務化された背景として、駅前を中心に多くの自転車が放置されていたことにより、人の通行や活動を妨げる社会問題になっていたことが挙げられる。放置自転車の何割かは盗難された自転車であり、所有者が現れないまま、いつまでも放置されることになるので、防犯登録を義務化して所有者を特定し、速やかに返還することで放置自転車を減らす目的があった。
 自転車防犯登録制度は昭和55年(1980年)に成立し、平成6年(1994年)に改正された「自転車の安全利用の促進及び自転車等の駐車対策の総合的推進に関する法律」の第12条に規定があり、登録が義務化されている。
 自転車を新規に購入した際のほか、有効期限が過ぎたり、譲渡等により所有者が変わった際、県をまたいで引っ越しした際は都道府県の公安委員会が指定した防犯登録所で登録し直さなければいけない。例外として、結婚で姓が変わった場合などは登録内容を修正してもらえる(無料)。登録料は概ね500~600円(非課税)だが、 後述する通り県によって有効期限は大きく異なる。

 ★登録時に必要なものとしては以下のものが挙げられる
  自転車本体
  公的機関発行の身分証明書(運転免許証・健康保険証など)
  外国国籍の方は外国人登録証明書
  保証書または販売証明書(販売店名・商品名・車体番号などが全て明記されているもの)
  登録料
 となっている。
 再登録の際は自転車本体と登録シール(車体に貼ったままでよい)を持参しよう。シールを剥がしてしまった場合には登録カード(登録時に渡されるお客様控え)でも大丈夫。ここで注意なのが、登録シール、カードともにない場合。盗難車ではないという証明が難しくなってしまうのだ。スマホで登録カードを撮影、保存しておくなど、万が一に備えておきたい。
 新車購入時は販売店が強制的に貼付するので問題ないが、それ以外は利用者任せになっているので、無効になった登録シールが貼られたままになっていたり、有効期限内でも登録シールが剥がれてしまっていたりすることも多いだろう。だが、盗難された際に戻ってくる可能性が高まるので、居住地を移転した場合なども面倒臭がらずに移転先で防犯登録所になっている警察署や自転車販売店へ持ち込みたい。盗難された際は身分証明書と登録カードを持って最寄りの交番などへ行き、盗難届を作成してもらおう。

 ★登録しないと罰則はあるの?
 --登録シールが貼られていなければ、警官に所有を証明するのは困難--
 防犯登録は義務化されているが、罰則規定がないので登録しなくても罰せられることはない。登録シールが貼られていないという理由で警察官に呼び止められることもないが、職務質問などで呼び止められると厄介だ。「なぜ、登録標識が貼られていないか?」というところから説明責任が生じる。それだけでも気が重いところに、自分の自転車だということを証明する手段に乏しいので「盗難車ではないのか」という疑問を晴らすのには大変な労力を要する。
 登録カードを財布などに入れて携帯しておけば所有者が一目瞭然になるので、あとは本人だと証明する免許証などを見せればいいだけだ。数百円ケチって警官を見るたびドキドキするのはナンセンスだと思うが、いかがだろうか。

 ★登録漏れもあり?!ネット販売の落とし穴
 --便利なネット通販だが、自転車については慎重に判断したい--
 自転車は機械モノなので定期的なメンテナンスが欠かせないこともあり、できる限り実店舗で購入して時々点検してもらってほしいが、今やネット通販全盛時代である。他の商品群と同様に自転車もポチッと買ってしまう方が増えている。それゆえ、防犯登録について説明しないまま完成車を売る業者が後を絶たない。
 この場合は利用者の方で防犯登録をする必要があるが、自転車防犯登録所の看板を表示している販売店へ自転車本体を含め必要なものを持って、わざわざ出向かなければならない。
 その際に真新しい自転車ならまだしも、経年劣化が認められ登録シールも貼られてない自転車を持ち込まれると、販売店としては「盗難自転車ではないのか?」という疑念に苦しむことになる。それが高級自転車ともなれば、なおさら慎重に前所有者の譲渡証明書や自転車店の販売証明書を確認しなくてはならない。そういった一連の作業が面倒だからと、新車であれ中古車であれ、他店購入の自転車は防犯登録手続きを受け付けないと決めている販売店もあるくらいだ。
 かつて筆者も通販やオークションで自転車を買って散々痛い目に遭った経験があるから改めて言うが、とりわけ高級自転車は信頼できる実店舗で買って、同時に防犯登録も済ませてしまいたい。

 ★登録の更新や名義変更はどうすればいい?
 前所有者が作成した譲渡証明書があれば、わざわざシールを貼り変えずに所有者の名義変更でいいじゃないかという声も聞くが、現在のシステムでは一旦登録を抹消してから再登録する必要がある。ただし県内の引っ越しや3親等以内の家族から自転車をもらった場合、結婚時の姓名変更は交番・駐在所、警察署へ行けば無料で修正してくれる。
 また意外と見落としがちなのが、登録には有効期限があるという点。防犯登録の有効期限は最短の京都府・沖縄県の5年から始まり、7年、8年、10年、20年、無制限と都道府県によってマチマチなので、登録したら一度ご自分の県では何年で有効期限が切れるのか、確認することをオススメする。
 もう譲渡すらせず、粗大ゴミで処分する場合には抹消手続きをしておこう。まだ乗れて、値段が付くならオークションで売ってもいいが、その際は登録の抹消に加えて、先述の譲渡証明書を各県の防犯協力会ホームページからダウンロードして作成しておき、新所有者へ渡してあげよう。いずれも自転車本体を防犯登録所まで持って行かなければならないのが手間だが、万が一登録情報が生きたままだと新所有者に迷惑が掛かることがある。

 …と、こんな〝防犯登録標識〟のようであります(^-^)/"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(17)

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 ◆Ⅲ 弥生人の墓

 古墳時代になると各地に前方後円墳を代表とする古墳が豪族や王の墓として築造されますが、弥生時代には既に大規模な墳丘をもつ墓が出現しいます。
 さぬき市でも弥生時代後期から各地で弥生墓が発見されていますが、
  家族墓(極楽寺墳墓群)
  支配者の墓(奥10号墓、奥11号墓)
  乳幼児の墓(森広遺跡、寺田遺跡)
など、様々な性格の墓が見られ、また墓の立地場所は、
  丘陵上に築造されたもの(奥10号墓、奥11号墓)
  平野に築造されたもの(森広遺跡、尾崎西遺跡、陵遺跡)
  墓域を形成するもの(古枝6号遺跡)、など様々で
  墓域を形成しないもの(寺田遺跡土器棺墓)など様々で有るのが特徴です。
 大規模な墳丘をもつ墓は支配者の墓と推測されますが、
  竪穴式石室を設けたもの(奥10号墓、奥11号墓)
  前方後円形の墳丘になっているもの(森広遺跡、尾崎西遺跡)
 古墳の葺石のように墳丘斜面に石材を使用しているもの(尾崎西遺跡、陵遺跡)などがあり、次の古墳時代の古墳へと発展していく要素を既に弥生墓の中に見ることができます。

 ◆巴形銅器

 明治44年(1911)5月、現在の森広天神境内東側を開墾作業中、地下約30cmの深さから8点の巴形銅器が一括して発見されました。森広遺跡の名前を広く学会に知らせた銅器であります。
 巴形銅器はその特異な形態から、スイジ貝を模したものとか太陽を表現したものといった推測がなされていますが、実態は不明です。
 弥生時代に属するものは全国でも22個しか発見されていない貴重な遺物であり、そのうち8個は、本町で発見されました。
 出土したものは、截頭円錐形(せっとうえんすいけい)の本体に左回りに旋回する7本の脚状の突起を付けたものです。形態的にみて頭部の径が大きく器高の低い3例と、頂部の径が小さく器高の高い5例の2種類に分類することができます。
 出土状況から一括して埋納したものと考えられています。
 これらは、現在すべてが東京国立博物館に所蔵されていますが、寒川町制施行40周年を記念して、複製品が作成されました。

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箱根駅伝の往路…出雲駅伝・全日本大学駅伝と2冠の駒大が強かったですネ(^.-)☆

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 正月2日目の楽しみと言いますと、やはり〝箱根駅伝〟かも分かりません。正午前頃からテレビの前となりました。
 5区の中央大学・阿部陽樹選手の追い上げは凄かったですけど、どうにか駒大が逃げ切り往路優勝。出雲駅伝・全日本大学駅伝と2冠の駒大が、やはり強かったですねぇ(^_^)v
 この様子は、日刊スポーツsanが、こんな速報記事で伝えておりました。

 ◆【箱根駅伝】駒大19年ぶり往路優勝!勝負の山登り1年生山川逃げ切り、史上5校目の3冠へ前進

 --- 2022/01/02(月)13:23配信 日刊スポーツ ---

 <第99回箱根駅伝>◇23年1月2日◇往路◇東京-箱根(5区間107.5キロ)

 駒澤大(駒大)がデッドヒートを制し、03年度(04年1月2日)以来以来19年ぶり4回目の往路優勝を果たした。5時間23分10秒。史上5校目となる同一年度の3冠へ前進した。31秒差で2位に中大が入り、3位に青学大が続いた。
 駒大は往路の区間賞ゼロだったが、5区間でブレーキがなく全員の安定した走りが光った。1区で円健介(4年)が8秒差の2位につけると、花の2区で絶対エースの田沢廉(4年)は体調が万全ではない中、中大・吉居大和(3年)、青学大・近藤幸太郎(4年)と激しいデッドヒートを繰り広げ、2位を守った。
 3区の篠原倖太朗(2年)も、トップの中大から9秒差の2番手で粘ると、4区で鈴木芽吹(3年)が青学大・太田蒼生(2年)とのつばぜり合いを制し、秒差なしの首位で最終5区へ入った。
 勝負のかかった「山登り」で、山川拓馬(1年)が懸命に逃げた。長野・上伊那農時代は佐久長聖の壁に阻まれたが、故郷の山間部で鍛えた脚力を発揮。中大・阿部陽樹(2年)の追い上げにあったものの逃げ切りに成功した。
 3日の復路には8区に花尾恭輔(3年)、9区に主将の山野力(4年)ら実力ランナーをそろえており、総合優勝へ期待がかかる。3冠となれば、90年度の大東大、00年度の順大、10年度の早大、16年度の青学大に続く偉業達成となる。
 大八木弘明監督は「選手たちがしっかり走ってくれました。抜きつ抜かれつのレースでハラハラドキドキでした」と安堵感を口にした。
 また、4区では東京国際大のケニア人留学生イェゴン・ヴィンセント(4年)が8人抜きの快走で、1時間ちょうどの区間新記録を樹立した。1年時の3区(21・4キロ=59分25秒)、2年時の2区(23.1キロ=1時間5分49秒)に続き、異なる3区間で新記録という史上最強の偉業を達成した。
 5区(20・8キロ)でも城西大・山本唯翔(3年)が1時間10分4秒の区間新記録を打ち立てた。

 <往路区間賞>
 【1区=21・3キロ】富田峻平(明大)1時間2分45秒
 【2区=23・1キロ】吉居大和(中大)1時間6分22秒
 【3区=21・4キロ】中野翔太(中大)1時間1分50秒
 【4区=20・9キロ】イェゴン・ヴィンセント(東京国際大)1時間=新記録
 【5区=20・8キロ】山本唯翔(城西大)1時間10分4秒=新記録

 …と、こんなレース展開でありました。
 明日の復路もまた楽しみですネ。駒大の、史上5校目となる同一年度の3冠達成が叶いますかどぅか…これは実に楽しめますネ(^.-)☆
 中央大・青学大の復路の走りも楽しみですし、駒大が3冠達成を果たしますかどぅか…
 見どころ満載ですねぇ~駒大の3冠達成も叶いますとイィですねぇ(^-^)//"

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これは、盗難された放置自転車なのでしょうか!?…

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 これは、朝食後、一服しながら、正月2日目の我が家近隣の景観にカメラを向けたモノなんですけど、ブロック塀脇の自転車…元日の午前中に気付きましたけど、昨日と同じ場所に同じ形で未だに存在。ひょっとしたら、盗難に遭いました放置自転車なのかも…
 ズームを効かせて、よくよく見ますと、ふ~ん、サドルが有りませんネ。
 サドルが欲しくて自転車を盗み、そして、自転車本体は此処に放置しましたのかも…
 ですが、この場所は、スグ近くに防犯灯も設置されていますから、随分明るい場所なのに、何でこんな場所に…不思議と言えば不思議です。でも、盗難放置自転車の可能性が充分疑われます。
 暫く静観し、依然として此処に存在しましたら、交番に届けなくては。
 自転車を画像に納めておりましたら、スグ脇の梅の木にメジロが飛来です(^-^)
 カメラを向けましても逃げませんので、とりあえず3枚パチリ。そして、GONsanの方に顔を向けますまでジッと待機していたのですけど、う~ん、残念(^-^;
 GONsanの気配を察知し、飛び去ってしまいましたねぇ(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(16)

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 ◆条里制と南海道

 --- http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/kodai.html ---

 田地は6町四方に区画され、一辺を条、他辺を里と呼び田地は南条南里南坪で表示されました。1町は一辺約109mの方形区画になります。各地に見られる碁盤目状になった土地区画は条里制の痕跡であることが多く、香川県内でも発掘調査によって複数個所で7世紀段階での存在が明らかになっています。さぬき市内でも条里制の区画は明瞭に残されています。
 次に律令国家は地方組織として全国を畿内・七道に行政区分しましたが、香川県では南海道に属します。そして中央と地方を結ぶ交通制度として官道(駅路)が整備され、約16㎞ごとに駅家(うまや)を設ける駅制が敷かれました。さぬき市内では官道は東西に直線的に延びており、近世以降の讃岐往還、長尾街道に多くは継続していったと考えられています。駅家は香川県では東から引田、松本、三谿、河内、甕井、柞田の6駅があり、松本駅はさぬき市あるいは東かがわ市が想定されていますが未だ場所は断定できていません。
 古代の官道は幅9~12mの直線道であったと考えられています。
 三木町白山からさぬき市大川町富田西までは今でも直線道路が見られ、古代南海道が推定されます。
 ところが富田西から東にかけては直線道が残されていません。近世の幹線道である讃岐往還は南に曲がっています。
 南海道を一直線として復元すると東は八剣池付近になり、途中には千町遺跡があります。
 三木町白山からさぬき市富田西へと続く直線道をそのまま東に延長すると千町遺跡の近くを通ることになります。千町遺跡では東西方向の溝が検出されており、溝の中からは7世紀後半の須恵器・土師器が出土しています。南海道を直線道として考えるならば南海道に関連する遺構であるのかもしれません。

 ◆条里制

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 条里制(じょうりせい)は、日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。ある範囲の土地を1町(約109m)間隔で直角に交わる平行線(方格線)により正方形に区分するという特徴がある。

 ◇条里の仕組み

 ・方格線
 条里を区分する方格線は、南北方向および東西方向に設定されている場合が多いが、地域・地形により傾いている例も少なくない。たとえば南北方向が7度傾いているとき、東西方向も直交するように7度傾いているのが通常である。
 連続した土地で方格線がずれている場合もある。たとえば郡ごとに方格線の傾きが異なると、平地の郡境で条里地割にはっきりとした食い違いが見られる。
 班田図などには、水面や山地など、田地以外にも方格線が引かれている。しかし、田のない地域を含めた全国を方格線で網羅していたわけではない。あくまで田のある土地においてそれぞれ独立して方格線が引かれている。その範囲内にある山の位置を条里で呼ぶことで、田地の位置関係もわかりやすくなっている。

 ・基本単位(坪)
 条里の基本単位は約109m四方の正方形である(菱形や長方形の場合もある)。古代日本では約109mは1町(=60歩)に当たり、約109m四方の面積も同様に1町と呼ばれていた。この1町四方からなる基本単位を「坪(つぼ)」又は「坊(ぼう)」と呼称した((現在でも使用される坪とは異なる)。
 坪の中は10等分に地割りされており、この区画は「段」と呼ばれた(地割方法は長地型と半折型に大別される)。

 ◆Ⅵ 古代文化の変化 そして古墳の終末へ

 6世紀の古墳時代後期に入ると、さぬき市内の古墳は事例が少なく実態が不明瞭になります。
 そして6世紀後半頃から従来の竪穴式の埋葬施設にかわって横穴式石室が一般化し、新しい埋葬儀礼が展開します。
 横穴式石室は死者をおさめる玄室と墳丘外部とを結ぶ羨道からなり、追葬を行う家族墓としての性格が窺えます。
 また、小型古墳の爆発的な増加が見られ、亀島古墳群のような群衆墳が数多く営まれるようになります。これは支配者層のみならず有力農民層までが古墳をつくるようになったことを意味します。
 6世紀後半は、さぬき市の各地に横穴式石室を埋葬施設にもつ小古墳が見られ、7世紀前半頃まで追葬と古墳築造が継続します。
 ところが7世紀後半になると急速に事例が減少します。
 この頃、日本は中央集権国家をめざし政治改革を行いました。
 この大化の改新によって地方社会も大きく変容していきます。
 その一つが古墳の終末でした。豪族たちは権威を示すものを古墳造営から寺院建立に移行させていきます。

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妙見神社から戻り朝食後には、ご先祖様の墓参りでした(^.-)☆

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 妙見神社での初日の出参拝から戻って来ますと、遅ればせながら朝食です。元旦ですから雑煮なんですけど、昔のように、もぅいくつも食べられません。せいぜい2個が限界かも(^-^)
 基本的には、昔から雑煮が大好きなGONsanですけど、年齢を重ねて行きますと、年々お餅の数は減って来ますネ(^-^)
 朝食後には、嫁さんと墓参り。
 ノンビリとお寺に向かっておりましたら、見慣れた場所に家が無く更地に化しておりますから、「んっ!?」のGONsan。
 嫁さん曰く、「娘さんばかり4人で、四女が家を守っていたけど、子供さんが県外(兵庫)居住だから、子供さんの近くに行かれたみたい…」と。
 ふ~ん、そぅでしたか…確か、このお宅の長女の方とは、GONsanは同級生でしたような…学校の先生でしたけど、今は、どちらにお住まいなんでしょうねぇ…
 山門までヤッて来ますと、お正月ですから山門の中に入り、仁王様にご挨拶です。
 幼少時には、母から、よくこんな事を…「嘘つきは、仁王様の前で舌を出すと、ペンチで抜かれるから絶対に出さないこと!!」と。
 ですから、未だに、こぅして仁王様の下に立ちますと、何となく恐くて口も開けられないGONsanなんです。
 既に、40年ばかり昔の事となってしまいましたけど、我が子に同じ事を言いますと、言った途端に口を開けて、ベロ~ンと舌を出しますから、もぅビックリ(^-^;
 急いで我が子の口を押さえましたのが、未だに鮮明に蘇ってしまいます。
 当時は、キツく叱っておきましたけど、〝ウソつきなのに、よく舌を出したなぁ…〟と、今でも思い出しますと身震いが(^-^;
 お寺の本堂に立ち寄りましてから墓地へ…
 元日なのに墓参りしておられます方は、意外と少ないような…
 ご先祖様に手を合わせてから、我が町を暫し眺望です。そして、いつものように数枚パチリ。
 今日は霞んで、肉眼では天文台もボンヤリと。
 今年もまた、墓地を訪れます度に、眼下の我が町にカメラを向け続けますGONsanなんでしょうねぇ(^-^)//"

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元旦は、妙見神社鐘楼下から初日の出参拝でした(^.-)☆(2)

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 鐘楼まで上がって来ますと、広場には未だ20数名の皆様が…静かになりましたから、皆さんお帰りなのかと思いましたら、意外な人数のグループが…
 ふ~ん、この方々は、元日に、初日の出参拝・初詣等をグループで楽しまれます方々なのかも…
 リーダーらしき方の、「それでは、今から、オヤツを配ります…」ですから、微笑ましくも(^.-)☆
 この後は、草戸稲荷にでも向かわれますのかも…
 この方々を横目に、GONsanは、妙見神社へと上がります。中には入りませんけど、窓越しに手を合わせ退散です。
 往路をそのまま下りて行きますと、前方に4~5名の皆様の話し声が…転げないようユックリした足取りで下っておられます。
 今回の初日の出詣では、風も無く、例年になく穏やかな天候でありました。ただ、手だけは、手袋しておりましても指先は冷たかったようですネ(^-^)//"

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元旦は、妙見神社鐘楼下から初日の出参拝でした(^.-)☆(1)

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 新しい年を迎え、元日の朝は、初日の出参拝で〝妙見神社〟行きのGONsanでした。
 福山市の初日の出は、A.M.7:13との事ですから、05:30に起床です。
 まずは洗顔を終え、外に出まして寝起きの一服。東方の空を見上げますと、う~ん、雲に覆われております。西方に眼を移しますと、雲も無く星空が覗いておりました。
 少し早いかな…との想いはありましたが、06:20過ぎに我が家を出まして、松尾神社参道入口の福山電子sanの駐車場にと到着です。
 いつものように、無断駐車となりますので、福山電子san、ゴメンチャイですm(_ _)m
 ここから妙見神社まで、ほぼ一直線の登りですから、年々キツくなっていますような(^-^)
 でも、日の出までの時間だけはタップリとありますので、何度も立ち止まりながら、無理せず上がって行かなくては(^-^)/
 妙見神社までの行程の、1/3程度進みましたけど、早くも息切れ、小休止。そして、おもむろにタバコを取り出し一服です。これが、余計なんですけど…
 タバコを吸ったばっかりに、以降の歩きは一層厳しいものに(^-^;
 青息吐息で妙見神社に到着しました時には、もぅダウン寸前。何故か、今回の石段上りは実に過酷。GONsanも、急速に、体力低下に向かっておりますようですねぇ(^-^;
 妙見神社で一礼し、今度は階段下りです。鐘楼まで降りて行き、初日の出参拝時の定位置に向かいますと、先客の親子連れが一組。時間を確認しますと、06:51でありました。
 難航の上りでしたけど、到着してみますと、意外と早くて、少々困惑。まぁイィのですけど(^.-)☆
 親子連れのお父さん、「3年連続で、ここから初日の出詣でしています…」との事でした。GONsanは3年振りにヤッて来ましたが(^-^)
 07:13が近付いて来ますと、後方の鐘楼辺りが賑やかに。7~8人の方々が集まって来られましたようですネ。
 箕島方向を見つめますと、結構、厚そうな雲が…その上の方には薄雲ですから、初日の出は、定刻5~10分後となりますのかも…
 今か今かと待っておりましたら、ヤッと初日の出(^_^)v
 時間はと確認しますと、A.M.07:18でありました。
 ですが、スグに雲間に隠れて、二度目の日の出を待っていますと、またまた5分後の、07:23でありました。
 徐々に現れて来まして、雲に分断され二段重ねの鏡餅の感じで登場です。この瞬間は結構好きでありますGONsanで、今回も、うまく画像に納められましたようであります(^_^)v
 以降は、明る過ぎて、GONsanの低性能カメラでは限界ですけど、暫く撮り続けますGONsanでした。
 そぅしていますと、後方の賑やかな皆さんが、一人抜け、二人抜け…と、お帰りで、前方に位置しておられました親子連れもお帰りに(^-^)
 結局、GONsanが腰を上げましたのは、07:33でありました(^-^)//"

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『第73回NHK紅白歌合戦』の視聴率…どぅでしたのでしょうネ(^.-)☆

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 昨夜のNHKsanの「第73回紅白歌合戦」の視聴率、どぅでしたのでしょうねぇ~出演アーティストや審査員も豪華で、年末の定番の番組になっていますけど、近年は視聴率が伸び悩み苦戦しているとも聴きますし、やはり視聴率は気になりますネ。
 かく言うGONsanは、ここ近年は、あまり、最初から最後まで通して観ます事はなくなりまして、毎年、終了間際になってテレビを前にします事が多くなりましたかも(^-^)
 昨夜もまた、そぅでありました。
 GONsanがテレビを前にしましたのは、世良公則san達のスペシャルステージからでありました。
 福山市の生んだスーパースター…と言いますよりも、我が町水呑が生んだスーパースター〝世良公則〟san、いつ観ましてもイィですねぇ(^_^)v
 WEB上で、〝NHK紅白の視聴率〟を検索しましたら、こんな記事に…

 ◆【紅白】データ放送の視聴者投票に不具合 一部機種で投票ボールが増えず 公式サイトで謝罪

 --- 1/1(日)0:03配信 ORICON NEWS ---

 ◇『第73回NHK紅白歌合戦』(31日、東京・渋谷 NHKホール)
 
 NHKは、生放送中にデータ放送の視聴者投票で不具合が起きたとし、公式サイトを通じて謝罪した。
 視聴者がデータ放送のリモコンから審査に参加できるもので、視聴時間に応じて投票ボール数が最大5個まで増えるという仕組みだった。しかし、SNSなどでは、投票ボールが増えないという声が寄せられていた。
 これについて、公式サイトでは「データ放送の視聴者投票について」として、「一部の機種で投票ボールが増えないという現象が発生しました。22時20分頃からはボールが増えるように対策を行いましたが、改修の都合上、ここまでご覧になっていた分のボールを増やすことができません。このたびはご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした」と伝えた。
 番組は、総合テレビなどで午後7時20分から11時45分まで生放送。紅組・白組と特別企画のアーティストらが豪華ステージを繰り広げた。「ゲスト審査員」が紅組7、白組3で紅組、「会場審査員」が紅組:821、白組:1,561で白組、「視聴者審査員」が紅組:1,586,214、白組:2,685,356で白組となり、白組が勝利した。

 ◆【紅白歌合戦】桑田佳祐ら「時代遅れ」披露 引退の加山雄三へリスペクト込め「夜空の星」も熱唱

 --- 2022/12/31(土)23:41配信 日刊スポーツ ---

 <第73回NHK紅白歌合戦>◇31日◇NHKホール
 桑田佳祐(66)は特別枠として同い年の野口五郎、世良公則、Char、佐野元春と組んだスペシャルステージを披露した。
 まずは野口五郎、世良公則、Charと共にこの日のステージで歌手活動を引退する加山雄三へリスペクトを込め、加山の「夜空の星」を熱唱。続いて佐野と大友康平、サザンオールスターズ原由子、ハマ・オカモトも加えて「時代遅れのRock’n’Roll Band」を披露した。
 桑田は「来年も我々おじさんたちは明るく楽しく遊び心を忘れずに、時代遅れのメッセージを発信したいと思っておりますので、よろしくお願い致します」とあいさつした。

 それと、〝NHK紅白の視聴率〟の検索にも拘わらず、こんな記事も一緒に出て来ましたネ(^-^)

 ◆「元旦」と「元日」の違い説明できる? 「元旦の朝」も実は“間違い”

 --- オトナンサー/2023年1月1日 7時40分 ---

 1月1日を迎えると、必ず耳にするのが「元旦」と「元日」です。何となく同じ意味のように感じるのですが、実は大きく異なります。
 「元旦」の「旦」という字は、太陽が地平線上に現れる夜明けを意味します。そのため、「元旦」は、1月1日の早朝(夜明け~午前中)を指します。一方の「元日」は1月1日“全体”を意味します。
 「元旦の朝」「元旦の夜」と口にしてしまうことがあるかもしれませんが、「元旦の朝」は重複表現で、「元旦の夜」は時間帯が違うため、間違った表現になります。恥をかかないように気をつけましょうね。(オトナンサー編集部)

 ふん、ふん、〝元旦〟と〝元日〟の違いですネ。以前にも、その相違について知りましたけど、GONsanの歳ともなりますと、聴いた事をスグに忘れてしまいますから(^-^;
 今度は、よく憶えておかなくちゃぁ!!
 まぁそれはともかく、昨夜のNHK紅白の視聴率…どぅでしたのでしょうねぇ~
 ほぼズッと観ておりました嫁さん曰く、〝40%は越えてるような気がする…〟との事でしたけど、まだまだコロナ禍が続いておりますから、そぅかも分かりませんネ(^-^)//"

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本年も宜敷お願い致しますm(_ _)m

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