GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

2022年11月

広島県内の新たなコロナ感染者…来週は4,000人超が見込まれますとか…

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コロナ02
コロナ03
コロナ04
コロナ04-1
コロナ05
コロナ06
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 広島県では、14日に新型コロナウイルスのオミクロン株の派生型である「BQ・1」と「XBB」の感染者を、それぞれ県内で初めて確認。このどちらも現在主流の「BA・5」よりワクチンが効きにくいと指摘されておりまして、県は感染動向を注視しているようであります。
 こんな中、本日の中国新聞sanの朝刊は記事によりますと、広島県内の新たなコロナ感染者発生は、来週は4,000人超が見込まれますとか…
 このまま感染が拡大して行きますと、「通常医療を制限して医療に大きな負荷がかかる事態になる…」との事で、う~ん、深刻な状況となりつつありますねぇ~
 昨日の福山市の感染者発生は、563人で、県全体では、3,460人。土・日曜日明けの月曜日には毎週多いのですけど、県全体で見ますと、前週対比で+545人。3,000人を越えますのは、9月14日以来とか。
 福山市の感染者563人の内訳をみますと、10歳代--112人、30歳代--90人、40歳代--84人、10歳未満--80人と続きます。
 今後も増加傾向での推移が懸念されますネ。
 GONsanは、5回目ワクチンも既に接種済みなんですけど、『「BQ・1」と「XBB」は、現在主流の「BA・5」よりワクチンが効きにくい』とは困ったものであります。
 行楽の秋、真っ只中だと言いますのに、外出しますのもチト躊躇。
 さて、どぅしたもんでしょうねぇ(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(12)

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 ◆法宣寺の天蓋マツ

 --- 天然記念物 昭和19年11月7日指定 ---

 境内一面に枝葉を広げる黒松は「天蓋マツ」と呼ばれ国の天然記念物に指定されています。幹回り3.2m・高さ5.5m・枝張り東西19.3m・南北34.0mで枝葉の広がった総面積は約600㎡です。
 大覚山速心院法宣寺は、1358(延文3)年日蓮宗の高僧の大覚大僧正が、ここに法華堂を建立し布教したことに始まると伝えられています。鎌倉時代の法華教は、南北朝時代になって鞆の浦に伝わり、中国地方へ布教する拠点となりました。

 …との事ですけど、残念ながら現物は無く、1991年に枯死しましたようであります(^-^;
 それでは、次は、南禅坊です。

 ◆南禅坊

 南禅坊は、1600年頃に建てられました。
 福(禅)寺の(南)の僧(坊)の住むところという意味から、南禅坊という名前になったようです。
 「春の海」で有名な作曲家宮城道雄の先祖のお墓もあります。
 本堂と山門は、国の登録文化財になっています。鬼瓦にはいろいろな猿が彫られています。

 ◆南禅坊本堂(なんぜんぼうほんどう)・南禅坊山門(なんぜんぼうさんもん)

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64123.html ---

 登録有形文化財 平成26年(2014年)12月19日登録

 南禅坊は浄土真宗本願寺派の寺院で、天正年間(1573~1591年)創建。当初は福禅寺の南隣にあったが、江戸時代中期(正徳六年・1716年)現在地に移転した。『福山志料』には延享五年(1748年)、朝鮮通信使(第10回)の学士・書記と福山藩の学者伊藤大佐が南禅坊で接会し、漢詩文を唱和したことが記されており、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われた。本堂は、文政五年(1822年)火災にあったが、万延元年(1860年)再建した。
 本堂は、内部を内陣(ないじん)・余間(よま)・外陣(げじん)に区分し、前面に吹き放ちの広縁(ひろえん)、三方に落縁(おちえん)をめぐらしている。要所に組物を多用し、豪華な彫刻を用いるなど、幕末以降に流行する装飾的な真宗本堂である。
 山門は、一間一戸の四脚門の上部に、方一間で入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の上層を増築し、鐘楼とする。木部には全体にベンガラが塗られ、上層正背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓(えんまど)がある。軒先には強い反りがあり、異国情緒を漂わせる。上層の懸魚に文化七年(1810年)の墨書があり、朝鮮通信使(第12回)の来朝予定に備えて増築され、現在の姿になったと考えられる。

 ◆広島県の文化財-南禅坊山門

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-3000113383.html ---

 一間一戸(いっけんいっこ)四脚門(しきゃくもん、よつあしもん)の上部に、一間四方で入母屋造本瓦葺の上層が増築され、鐘楼を吊る構造。
 ※ 現在梵鐘は無い。
 福山藩の命令により安政5(1858)年に供出されたことが寺の文書『梵鐘一件記録』から分かっている。
 懸魚(げぎょ)に文化7(1810)年の墨書があることから、上層は1811年の第12回通信使を迎える予定で増築工事を行ったものと考えられている。
 木部には全体に弁柄が塗られ、上層正面及び背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓がある。隅棟(すみむね)の鬼瓦にそれぞれ異なる形態の猿が彫られているのも特徴的。
 軒先の強い反りなど随所に、異国情緒を漂わせ、朝鮮通信使寄港地である鞆の浦の情景を彩る。

 境内の大鬼瓦の記念碑には、こんな記載がありました(^-^)//"

 ◆南禅坊 安政の大鬼瓦

 平成五年、南禅坊門信徒の篤信なる願いを受けて第十八世住職釋教壽法師が願主となり、本尊阿弥陀如来様の傘として永年の風雨から門信徒の聴聞の道場を護り続けた大屋根の全面修復工事を「平成の本堂、庫裡屋根大修復が」成就いたしました。
 その節、百三十年余りの間、鞆の町の風景であった南禅坊の大鬼瓦もその役目を終えて新しい瓦と交換されました。縦2m40cm、横3m20cmの鬼瓦は近隣伽藍の中でもまれにみる大きさを誇り、鞆の浦歴史民俗資料館に歴史的建造物の資料として保管されていました。今般その鬼瓦の返却に当たり碑を建てて後世に永くその姿を残すものといたします。
 尚、瓦の裏面には、「菊間瓦師 ヘ佐 安政七申四月(1860年) 細工人 岩見 忠○○」と記されています。

 -- 令和二年八月 第十九世住職 釋 龍壽 --

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今朝の、我が家からの景観です(^.-)☆

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 今朝の08:15過ぎでしたか…畑に出て一服のGONsanです。
 澄みきった青空に誘われて西方の上空に眼を向けますと、お月様が…で、カメラを持ち出し1枚パチリ。そぅしていますと、東方から西方に向かう飛行機が…
 方向からして、ひょっとしたら飛行機と月が重なるかも…と期待してカメラを向けたのですけど、残念ながら月の随分左側を飛行機は飛び去って(^-^;
 今まで何度も、月を背景に飛行機を…と、辛抱強く試みているのですけど、仲々うまくいきません。まぁその内、そんな事もありますかも(^-^)
 藤井病院建設現場では、既に重機は稼働しております。早い時ですと、08:00前には稼働しています時も…
 我が家の表に廻り、周辺を見廻しますと、杏の木が紅葉を初めておりました。このお宅の杏の木、毎年紅葉が実に鮮やか。今年は未だもぅ少し先のようでありました。
 ところで、紅葉は、一つの木の全体が同時に徐々に紅葉へと向かうのかと思いましたら、ふ~ん、高い部分から始まり、次第に下へと進んで行くようですねぇ~
 「紅葉は、木の上から下方向に進むんだ…」と、ポツンと独り言を口走ったばかりに、「当然です。寒暖の差があるから、高い所から始まるのは当たり前です…」と言い放つ嫁さんの知ったげな乾いたお言葉。
 GONsanの独り言を聴いていたとは…独り言なんだから反応しなくてもイィのに…と思いながらも沈黙を続けるGONsanなのでありました(^-^)/
 そして、思い出したように、flightradar24で先ほどの飛行機の行き先を確認しますと、東京⇒宇部行きの飛行機でありました(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(11)

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 次は、「静観寺」に向かいます。

 ◆静観寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12660/ 鞆物語 ---

 鞆の浦で最も古く、そして最も多難なお寺・「静観寺」。創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7,000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 ところが、相次ぐ戦乱や火災によって、多くの文化財は焼失。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。

 ・松上げ地蔵尊、奇跡の脱出劇
 江戸中期、「静観寺」で大火災が発生しました。風強く、火の回りが早すぎて、時のご住職は身一つで避難。ああ、ご本尊を焼いてしまった…そう嘆きながら、ふと庭の松の木を見上げてみると、何とそこには、ご本尊である「お地蔵さん」が座っているではありませんか!
 そういう顛末から、ご本尊は「松上げ地蔵」と称され、現在でも守りの菩薩として信仰を集めているのです。
 ◇ご本尊の頬には、その時のヤケドの痕が残っているとか…

 ・鞆ねこも寄りつく、ご住職のお人柄
 この「静観寺」には、積もった歴史以外にも、注目ポイントがあります。それが、ご住職のざっくばらんな“鞆語り”。ご住職が洒脱な口調で、鞆の歴史を教えてくれるんです。そのご住職のお人柄は、人間だけでなく、ねこも呼びよせちゃう。にゃあと鳴いて、いつの間にか境内に居ついてしまった、このねこ君。きみにも、ここは居心地がいいんだね。
 ◇静観寺、鞆ねこもお気に入りの癒しのスポットです

 静観寺の山門下には、「鞆の浦 de ART 2022」の作品の展示が…
 WEB上で「ヨシダ コウブン」sanを検索しますと、こんな記載が…他の「山戸克展・ユキコフジイ」のお二人は、WEB上にはお名前が出て来ませんでしたネ。

 ◆ヨシダ コウブン

 1953年--熊本県生まれ、1996年--銅版画集「不思議な鳥」発刊、1997年--あうん展(ニューヨーク/128ギャラリー)、1997年--熊本国体記念 石のモニュメント制作、1997年--熊本県スカイドーム 大理石と陶板のレリーフ製作、2000年--ニューヨーク作家との交流展(ニューヨーク/WAセンター)、2001年--INTERNATIONAL SHOW(ニューヨーク/セーラムギャラリー)、2003年--個展「日常のメルヘン」(さいたま市/ギャラリー櫻守)、2004年--個展「白い鳥のカタチ」(福山市/ふくやま美術館)、2006年--個展「ケモノのカタチ」(大阪市/海月文庫)、2009年--個展「いのちのカタチ」(東京六本木/サボアヴィーブル)、2012年--AHAF HK12 ART FAIR(マンダリンオリエンタルホテル/香港)、2013年--個展「神のケモノ」(鳥取市・ギャラリーあんどう)、2015年--個展「ピュアーな天使」(東京八重洲・T-BOX)、2015年--グループ展「森羅万象」(東京下北沢/ギャラリーHANA)、2016年--むらいゆうこ・ヨシダコウブン二人展「天使たちの午後」(長崎市/ギャラリーエム)、2016年--小林雅子・ヨシダコウブン二人展 「冬の王国」(倉敷市/サロン・ド・ヴァンホー)、2016年--ヨシダコウブン個展「たおやかな天使」(今治市/薫林庵)、2017年--仲恵子・ヨシダコウブン二人展 「天使」(京都市/ギャラリーアイ)、2017年--ヨシダコウブン個展「ナツノハナ」(岡山市/ギャラリーゼット)、2017年--グループ展「森羅万象 Ⅱ」(東京下北沢/ギャラリーHANA)、2018年--安達知江・ヨシダコウブン二人展「いのちのかたまり」(東京日本橋/ルーニー247)、2018年--ヨシダコウブン展「ふたつとない世界」(神戸市/カン・フラワーデザイン)、2018年--對馬有輝子・ヨシダコウブン展「かみへのみつぎもの」(東京/ギャラリーHANA)、2019年--ヨシダコウブン個展「天使なケモノ」(岡山市/ギャラリーゼット)、2019年--グループ展「森羅万象 Ⅲ」(東京下北沢/ギャラリーHANA)、2019年--アートフェアーアジア2019(福岡市/ホテルオークラ福岡)、2019年--李ユンギョン・ヨシダコウブン展「RESULT・RESULT」(福山市/くわみつ)、2020年--ヨシダコウブン個展「飛べたよ、飛べたー」(玉野市/サンコア)、2020年--ヨシダコウブン個展「やさしいケモノ」(東京下北沢/ギャラリーHANA)、2012年~2021年--鞆の浦de ART キュレーター他、主に個展を中心に、立体、平面作品の発表を続ける。

 ノンビリとお寺巡りをしていましたGONsanですけど、そぅでした、今回の主目的は「鞆の浦 de ART 2022」の作品鑑賞でありました。静観寺に展示の作品が今回最初の鑑賞となりましたネ(^.-)☆
 GONsanが静観寺からお別れしようとした頃に、入れ替わりに、若者のグループが来訪です。
 それでは、次は、これもスグお隣りの「法宣寺」であります(^-^)//"

 ◆法宣寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 法宣寺(ほうせんじ)は広島県福山市鞆町後地にある日蓮宗の仏教寺院。山号は大覚山。 国の天然記念物に指定されていた「天蓋松」があった寺として知られる。
 創建は南北朝時代の1358年。開基は大覚僧正とされる。
 江戸時代は朝鮮通信使の宿泊所として利用された。江戸時代後期には加藤清正を祀る清正公堂が建立され、清正信仰の場であった。

 ・天蓋松
 開基である大覚僧正の手植えと伝わる推定樹齢630年の黒松で、国の天然記念物に指定されていたが、1991年に枯死した。幹の周囲は3.3m、枝張は30mに及んだ。

 ・仏像
 七面大明神像 - 江戸時代後期、木彫、像高53cm
 清正公大神祗坐像 - 総高14cm
 清正公大神祗の腹こもり坐像 - 総高40cm

 ◆法宣寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12650/ 鞆物語 ---

 1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後光厳天皇の信任も厚かった大覚大僧正がこの地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。

 ・治病除災に清正公参り
 友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!
 ◇清正公も唱えた「南無妙法蓮華経」

 ・この世は無常、だが―
 かつて法宣寺には国の天然記念物がありました。大覚大僧正お手植えと伝わる黒松の巨木です。その枝ぶりから「天蓋マツ」とも呼ばれ、鞆の浦の人々の誇りでしたが、残念ながら、1991年夏、六百余歳で枯死しました。支柱と切株だけが残った跡地は、無常の想いを呼び起こします。ただ不思議なのは、老松が枯れて以来、今まで影が薄かった隣の紅梅が生気を得て、最近では新しい花の名所になっていることです。往く者あらば来る者あり。春の境内でそんな感慨にひたるのも「あり」かもしれません。
 ◇春になり雅に花をつける紅梅―、老松より生気を受け継いで

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ふ~ん、柿の食べ過ぎは要注意なんですか(^-^;

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 この時期、毎日、よく食べまくります『柿』なんですけど、GONsanなんぞは、一日に2~4は食べていますかも…
 ふ~ん、柿の食べ過ぎは要注意のようですねぇ~本日眼にしましたWEB上の気になるニュースに、こんなのがありました(^-^;

 ◆体内にできた5cmの「柿胃石」…原因は“柿の食べ過ぎ”? 医師に聞く注意点

 --- 11/15(火) 12:52配信 ABEMA TIMES ---

 旬の味覚も、食べ過ぎには注意が必要なようだ。腹痛や腸閉塞につながりかねない“ある食べ物”の注意点について医師に話を聞いた。
 CT画像に映る黒い影。この原因となった意外な食べ物が、秋の味覚の代表格「柿」だ。
 「柿胃石。この症状があった場合は柿胃石症」(あい太田クリニック・芳賀紀裕院長、以下同)
 実際に取り出された柿胃石の写真を見てみると、その大きさは5cmほど。あい太田クリニックの芳賀院長は「柿の渋みの成分であるタンニンの主成分『シブオール』によって、石が形成されていくと考えられている」と説明する。

 体内にできる石といえば、胆石や尿管結石などの激痛を伴うものをイメージするが、柿胃石の場合は症状が出ないことも多いという。ただ、手術が必要になることもあるようだ。
 「石が胃の壁に当たって潰瘍ができると、胃が痛くなる。また、石が胃の出口を塞ぐような形になると、もたれや胃の不快感などの症状が出る。一番問題なのは、石が小腸に流れていってしまうこと。小腸は細いので、ある程度詰まってしまうと腸閉塞でかなりお腹が張り、痛みも強くなる」
 気を付けなければいけないのは、「食べ過ぎ」だという。
 「報告には1日に2個食べたり、いっぺんに5個食べたりした人に柿胃石が出たとも書かれている。ある程度の量を食べると胃石ができる可能性はあると思う」
 石ができた場合、コーラを飲んで溶かし、ある程度の小ささにした後で内視鏡を使って砕く治療法が効果的だとされている。
 「これで柿を食べなくなってしまうのは良くないと思う。柿はミネラルを含んでいて、ビタミンAも豊富。体にいいものなので、1日1個(200g)くらいが適当だと考えている」

 -- (『ABEMAヒルズ』より) --

 …との事ですけど、一日に2個以上は食べ過ぎとなりますか…なら、GONsanなんぞは実に食べ過ぎ(^-^;
 でも、今まで何年も、この時期には食べて来ていますから、今更そんな事を言われても…
 今日も、昼食時には3個食べましたかも…
 う~ん、困りましたネ。どぅしたもんでしょうねぇ(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(10)

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 次は、「壽福山 顕政寺」に向かいます。

 ◆顕政寺
 鞆の浦の「寺町通り」に建つ日蓮宗のお寺、壽福山顕政寺。慶長年間(1596~1614年)の創建と伝えられています。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあったそうです。顕政寺では、住職オリジナルの観心行という修行が体験出来る。

 ◆福山市鞆 観心行ができる「顕政寺」
 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成された。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた…と伝えられる。

 壽福山 顕政寺を出ますと、お隣りの「法昌山 玅蓮寺」へ。

 ◆法昌山 玅蓮寺(妙蓮寺)

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10189583402.html ---

 【法昌山玅蓮寺(妙蓮寺)】生髪鬼子母大尊神 厄難消滅・心願成就
 宗派/日蓮宗
 山号/法昌山
 開基/実相院日玖
 本尊/日饒上人大曼荼羅・釈迦牟尼佛
 住所/福山市鞆町後地1203-2

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられる。
 寺宝の日饒(にちじょう)上人の御本尊大曼荼羅(寛永三年・1626年)が現存し、それを裏付ける。
 実相院日玖は年壮にして俗塵の交断ち、法宣寺十四世恵性院日親の徒弟となり、圓浄坊と結び引き蘢り、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよび、福山藩主・水野勝成殊勝に思い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を給う。
 本堂は壇中、小林喜兵衛、佐久間七良衛門、石井庄右衛門等、主として浄財を募り建立。
 上京し、本山から山号・寺号を請受した。
 福山二代藩主・水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て境内門前を広め、四代・日義、元文四(1739)年鐘を鋳、妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建され、六代日了、七代日行、本堂再建。
 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 【大曼荼羅】
 寛永三(1626)年、日饒(にちじょう)上人の御本尊曼荼羅で、京都の本山・妙顕寺より授与されたもの。妙蓮寺の創建を伝えるものと思われる。
 【水野勝俊の位牌】
 二代福山藩主(1598~1655年)1639(寛永16)年、二代藩主として襲封するまで鞆城に居住し、「鞆殿」と呼ばれていた。沼名前神社の石鳥居(県重文)を寄進するなど鞆との結びつきは強かった。
 【三十番神堂】
 承応年間(1652~1654)に建立
 番神堂の裏には現在はコンクリートで固められた井戸があり、どんな渇水でもこの井戸は涸れたことがないというこの井戸の水で山中鹿之助(鹿介)の首を埋める前に清めたとされる。
 【山号標】
 文政七(1824)年成就
 【鬼形鬼子母神安置一碑】
 天保七(1836)年三月浣日

 妙蓮寺を後にしますと、「ささやき橋」を通り「山中鹿介首塚」へ。
 案内板には、こんな記載が…

 ◆山中鹿介首塚 ささやき橋伝説

 <山中鹿介首塚>
 戦国時代の終わり、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣山中鹿介は、主家の再興を願い兵を挙げました。1578年(天正6年)岡山県の高梁川「阿井の渡」で討たれ、毛利輝元や足利義昭に首実検をされました。岡山県の「阿井の渡」には胴塚があります。

 <ささやき橋伝説>
 応神天皇の頃、百済よりの使節の接待役・武内臣和多利と官妓・江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。それから密語(ささやき)の橋と語り継がれています。

 …との事であります。
 この「山中鹿介首塚」と「ささやき橋」の箇所は、右から左にと曲がった通りなのでありますけど、この道の片隅のブロック塀の傍らに小さな石仏が存在します。けど、何らの説明板もありません。が、いつもここを通ります度に気になりますネ。実に寂しく存在しますけど、これは何なんでしょうネ…

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おっ、久々にルール違反のゴミ出しが…

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 本日・月曜日は、GONsamの安全パトロールの当番日なのであります。
 GONsanが待機します安政橋東詰めには、浜自治会のゴミステーションがありますけど、ここ暫く整然としている…と思っていたのですけど、今日は、久し振りにルール違反のゴミ出しが…
 ふ~ん、月曜日は「可燃物」のゴミ収集日なんですけど、「不燃物」のゴミが収集されずに残っておりますねぇ~
 ここ暫く、ルール違反のゴミ出しは無かったのですけど、久し振りに眼にしてしまいました。
 ゴミステーションの中では、清掃当番日のご年配の女性がが掃き掃除中。
 ところで、この回収されませんでした不燃物は、中身は何なんでしょう?
 …と、こんな事に想いを馳せていますと、第一陣の学童の皆様がヤッて来ました。楽しそうに会話しながら賑やかな皆さんを眼にしますと、何故か、ホッと安心感が(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(9)

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 それでは、この辺で沼名前神社とお別れです。が、最後に随身門を覗いてみます事に…

 ◆随身門(随神門)

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10773804613.html ---

 【随身門/随神門(ずいしんもん)】
 ※「ずいじんもん」とも呼ぶ
 享保二十(1735)年建造

 随身(ずいじん、ずいしん)とは、
 平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことであり、神社の門(随身門)の左右に、神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は随神とも書かれる。
 この二神は、閽神(かどもりのかみ)または看督長(かどおさ)とも呼ばれ、別名を矢大臣ともいう。
 弓矢を持った二人一組のもの。十五人揃いに属し、宮廷を警護する儀仗姿の武官。俗に左大臣・右大臣ともいう。
 左大臣(向かって右)といい、冠をつけ兵杖を帯した衛士。
 矢大臣/右大臣(向かって左)といい、剣を帯び矢を負うた老人と若人の衛士を飾る習わしがある。
 ※ 書物によっては、矢大神・左大神と記述されたものもあります。

 享保十一(1726)年、
 鞆奉行・堀金右衛門は祇園宮(現在の沼名前神社)の信仰篤く、社の一大改革を成し遂げた。その内容とは、本殿を従来より一段高い場所に遷し、拝殿を今までの本殿跡に据え、社庭を広く拡張するための埋立工事を行い、石垣を高く築き、高い石段を設けた。
 神饌所、接待所、神輿庫、絵馬堂、神馬舎などを増改築し、現在の社殿の基礎を固めた。
 この時の社を管掌する社人(神官)には、
 ◎大宮勘解由(かげゆ)/従二位:森下博祖先
 ◎中須賀宮内少輔/正三位(くないしょうゆう)
 ◎小林左京
 ◎縄稚右膳
 ◎篠原左門:篠原廻漕店祖先
 ◎野島斎宮
 なかでも、篠原左門は自家所有の土地を売却して随神門を寄進した。と子孫に伝えている。
 それから9年後の享保二十(1735)年、鞆奉行・加藤杢兵衛忠治により、改築を施された。

 …と、こんな随身門で、傍らには沼名前神社の案内板が…
 これには、こんな記載がありました。

 ◆沼名前神社

 この神社は渡守神社の「大綿津見命」と祇園宮の「素佐之男命」が一緒にまつられています。平安時代につくられた「延喜式」という法令にも記載されている古い神社です。渡守神社は海上安全祈願の神社で、祇園宮は無病息災を祈願する神社です。
 「お弓神事」(2月の第2日曜日)と「お手火神事」(7月の第2日曜日の前夜)は、福山市無形民俗文化財に指定されています。

 それでは次に、今まで一度も訪れた事がありません「小松寺」に向かってみます。

 ◆萬年山 小松寺(臨済宗)

 瀬戸内の要港にある古刹であり、同寺へは高憎や将軍の足利尊氏・義昭、朝鮮通信使等の多彩な歴史の足跡が刻まれる。
 特に、本堂に掲げられた琉球使節の扁額、境内の「琉球司楽向生碑」は、よく知られるところである。
 また、境内には昭和二十九年(1954)まで、国の天然記念物の見事な巨大・松があり、名所となっていた。オランダ人医師シーボルトもその松之図(版画)を収集している。なお、この松は寺伝によると、平清盛の長男の平重盛(武勇に優れて清盛の後継者として地位を確立したが、清盛より早く、42歳で死去した)が植えたと伝える。

 ◆小松寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12657/ 鞆物語 ---

 沼名前神社の参道を西進して二の鳥居で左に折れ、狭い路地を進んでいくと、さわりと小松寺の山門が現れます。
 1175(安元元)年に、平清盛の長男・重盛が、静観寺(当時、天台宗)の境内に一宇のお堂を建立し、小松を植えてその古刹の支院としました。それが小松寺の起こりです。以降、頻々と歴史の舞台に登場する小松寺。平氏や足利氏との縁はとても深く、また朝鮮通信使や琉球使節などの足跡も随所に刻まれています。
 境内にひっそりと佇む「琉球司楽向生碑」— これは、鞆港で、弱冠22歳の若さで病死した琉球使節団の楽師・向生(しょうせい)の供養塔です。

 今はなき、「重盛手植えの松」
 小松殿・平重盛がこの地に植えた松は、地を這うような巨大さでした。しかし、1954(昭和29)年の台風を受けて倒壊し、枯死してしまいます。
 重盛が建立したこの小松寺は、以降、幾度も歴史の表舞台に登場。南北朝のころの「鞆合戦」では、足利尊氏・直義兄弟が陣所を構えたり、信長に追われた室町幕府最後の将軍・義昭も、このお寺で再興を期したり…歴史に縁深いお寺さんなんです。

 ◆小松寺(広島県福山市鞆町)

 --- カッチンの雑記帳 2020.11.16 https://kattinwalk.com/2020/11/10/s-tomo-komatuji/ ---

 広島県福山市鞆町 にある「萬年山 小松寺(こまつじ)」です。JR福山駅から鞆港までバスで約30分。その後、各社は殆どが隣り合ってるような近さなので、所要時間は省略します。
 鞆の町の西側(山側)の南北に沿って寺院が集中している通りがあります。正式名が有るのか無いのかも分かりませんので、勝手に「古寺通り」と呼ばせて貰います。
 古寺通りから沼名前神社の参道に入る辺り、二の鳥居の手前左手の路地から入って行った所に建っていました。
 本堂の入口は、サッシの扉で自由に開けて拝むことができました。本堂の左前の地蔵堂には珍しい髪の毛のあるお地蔵さんが祀られていました(言われないと髪があるの気が付かないと思います)。
 本堂の右前の庫裏のインターフォンを押してみるが反応無し。境内を掃除されている方がいらっしゃったので聞いてみると、御住職がお亡くなりになって、現在は無人との事でした。

 …と、こんな歴史のあります「小松寺」。
 境内には、こんな説明板もありました。

 ◆小松寺略記 臨済宗妙心寺派

 安元元年(1175)小松内府平重盛卿厳島神社参詣の途路護身の阿弥陀仏像を安置して一宇を建立し記念に沼畔に松樹を植う(樹齢850年の威容を誇りしが昭和29年台風により倒伏死す)
 寿永2年(1183)二男資盛の命により平貞能京より重盛公の遺髪を持参す、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。
 延元元年(1335)足利尊氏氏九州より大挙東上の途中弟直義と当寺に宿陣し軍議す。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天す。
 暦応2年(1339)南北朝期当寺に本営を置きし北朝軍と大可島に陣する南朝軍との激戦十数日旧記什物は勿論殿堂灰燼に帰す、大永年中安国寺六世曇叟華禅師再建し禅刹とす。
 天正3年(1575)京を追われし十五代将軍義昭当地に宿陣の毛利輝元を頼り当寺に寓居、羽柴秀吉との和議成立するや常国寺に移住す。
 古人曰く「足利は小松に興り小松に亡ぶ」と慶安年中城主水野勝成当寺の寺域の大半を割き祇園宮の社地とす。
 元和9年(1623)九州久留米の梅林寺三世澤雲禅師再建す法系今日に至る。
 貞亨2年(1685)再び境内を割いて社地となし今日に至る。
 本堂前に祀る有髪薬師地蔵尊は非常に珍しい石仏で古来霊験顕著として遠近より参詣者多し。

 ふ~ん、『カッチンの雑記帳』には、「御住職がお亡くなりになって、現在は無人との事でした…」と記載がありますけど、これを綴られましたのは2020年の11月ですから、今から丁度2年前。今でも小松寺にはご住職は不在なんでしょうかねぇ…

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昨夜遅くの喫煙時、眼の前をイノシシが疾走し通過には足が竦みましたネ(^-^;

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 昨夜遅く、就寝前のP.M.11:40頃に、外で一服しながら「明日は雨かなぁ…」と夜空を見上げておりましたら、我が家横の用水路脇市道をイノシシが凄いスピードで疾走して行きました。
 何か大きな犬でも走るような音が次第に近付き、アッと言う間に通過です。
 んっ!?…と見れば、イノシシですから、もぅビックリと言うよりも恐かったですネ。一瞬、足が竦みましたよ(^-^;
 あんなスピードで襲われましたら大怪我を受けますかも(^-^;
 そぅ言えば、先週のいつでしたか…知人が、「未明に、箕島小学校側から箕沖工業団地に走行していたら、峠辺りのローソン付近でイノシシが横切って行った…」と話しておりました。
 以前にも、「水呑側から対岸の箕島方向に向かって、イノシシが芦田川河口椻を走っていた…」と言うような声もありました。
 こんな状況ですから、イノシシの出没も決して珍しくも何ともないのではありますが、夜中に、無防備状態で喫煙しています面前をイノシシに疾走されますと、さすがに恐怖感が(^-^;
 アッと言う間に暗闇に消えてしまいましたけど、何処に向かって行きましたのでしょうねぇ~
 日曜日の本日、この時間となりましても、我が家周辺は静かなもので普段と変わりませんから、特に異変も無かったようであります。
 イノシシの疾走を初めて眼にしましたけど、「聴く」と「見る」では、恐怖感は桁違いでありました(^-^)//"

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福山市のコロナ感染者発生…300人台が続きますネ…

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 本日発表の福山市の新たなコロナ感染者の発生、「372人」でありました。300人台の発生が続きますネ。

 ◆新規感染者が増加しています。
  改めて感染対策の徹底を!

 今後、気温が低下する冬場を迎え寒い季節になりますが、室内の十分な換気を行うなど、改めて基本的な感染対策へのご協力をお願いいたします。

 ▶新型コロナウイルス感染症の重症化・感染・発症を予防するためにも、オミクロン株対応ワクチンの積極的な接種をお願いします。
 ▶喉の痛み、咳など体調に異変を感じたら、出勤や外出を控えるなど、一人ひとりが感染させない行動をお願いします。

 …との、市からのこんな要望も。
 それに、『3・4・5回目の接種券が届いた方へ 予約なしで接種が受けられます』との事であります。
 ふ~ん、予約無しとは、4・5回目ともなりますと、接種を控えられる方も多いのかも…GONsanの5回目の接種は予約の上で行いましたけど、予約時間より随分早く出掛けましたのに、待つ事も無くサッサと終了。
 速やかに済みましたのはイィのですけど、何となく複雑な心境にも(^-^)/"

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久し振りに友人が画像の送信を(^.-)☆

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 スッカリご無沙汰しておりました友人から、実に久し振りに画像が届きました(^.-)☆
 相変わらず、何らのメッセージもなく2枚の画像のみ(^-^)
 でも、「旅に出てるぞぉ~~」とでも言っているような…
 画像を眼にしながら、一瞬、何処なんだろう?…と思いましたけど、対岸の景観から察しますに、関門橋ですねぇ~門司側の「めかりPA」の景観ですネ(^.-)☆
 イィですねぇ~九州行きとは(^-^)
 でも、「めかりPA」は上り線でしたような…つぅ事は、もぅ帰路なのかも…何処へ出掛けられましたのでしょうねぇ~
 この土・日曜日は、九州地方の天候は良くないのかと思いましたら、イィ天気ですネ。んっ!?…でも、この画像、今日撮られたのではないのかも…
 う~ん、分からん(^-^;
 こらぁ!説明文でも付けんかい!!!…と言いたいところですけど、グジグジ言ってましたら画像の送信が無くなりますから、ただ有難く拝見するのみ(^-^)
 旅ですか…羨ましいですねぇ~イィ景観であります(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(8)

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 沼名前神社を訪れます度に、境内周辺を画像に納めておりますけど、いつも気になりますのが、この年代物の機関砲(^-^)
 気になりますのですけど、今までWEB上で確認した事がありませんから、今回は検索してみます事に(^.-)☆
 で、『名前神社の機関砲 FRIED.KRUPP A.G. ESSEN A/R. Nr.85』で検索してみましたら、うん、うん、出て来ましたねぇ~
 こんな記載がありました(^_^)v

 ・務所でお守りとおみくじを買い、おみくじが今の自分の状況にすごくあてはまっていたので、ため息半分期待半分で見ていたらとても古そうな年季の入ってそうな大砲を発見。第一次世界大戦の戦利品でドイツ製だそうだ。なぜここに置いてあるのかな?

 ・沼名前神社境内にあるクルップ砲 ネットでググると第一次世界大戦で青島攻略戦の戦利品と説明があるがその他一切不明 砲はドイツ製らしい

 ・第一次世界大戦で青島攻略戦の戦利品だという話。軍から払下げられたらしいが、由来不明。
 砲架の銘板には「FRIED.KRUPP A.G. ESSEN A/R. Nr.85」「6cm.Bts.L.c/1900」とあるのでドイツ・クルップ社の六センチ砲ということになる。ところが、砲身の口径は四・五センチくらいしかない。
 つまり、砲身と砲架は別もの、そのため砲耳が砲耳座のサイズに対してゆるゆるの状態。
 刻字が消え去ってメーカーは不明だが、上の砲身は四十七密米保式軽速射砲。砲口の向きを逆にして取り付けてある。

 …と、こんな記載が。
 ふ~ん、第一次世界大戦での青島攻略戦の戦利品でありましたか…と、言う事は、境内の何処かに砲弾も有りますのでしょうねぇ~今まで何度も沼名前神社に参詣しておりますけど、砲弾は眼にした事がありません。注意して見ていませんでしたから、気付きませんでしたのかも…
 次回、沼名前神社参詣の機会がありましたら、今度は砲弾を画像に納めなくては(^-^)
 境内の一角には、こんな歌碑も…

 『ま幸くて また還り見む ますらをの 手に巻き持てる 鞆の浦廻を』

 これも、WEB上で検索です。すると、こんな記載が…ふ~ん、こぅいぅ意味でありましたか(^-^)//"

 ・歌は、「ま幸くてまたかへり見むますらをの手に巻き持てる鞆の浦みを」である。
 ・歌碑は、福山市鞆町後地 沼名前神社にある。
 ・歌をみてみよう。
 ・好去而 亦還見六 大夫乃 手二巻持在 鞆之浦廻乎(作者未詳 巻七 一一八三)
 ・≪書き下し≫ま幸(さき)くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる鞆(とも)の浦みを

 (訳)無事でいてまた戻って来て見よう。ますらおが手に巻き持つ鞆と同じ名の、この鞆の浦のあたりを。(「万葉集 二」伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
 (注)「大夫の手に巻き持てる」は序。「鞆」を起こす。
 (注)とも【鞆】名詞:武具の一種。弓を射るとき、左手の手首に結び付ける、中に藁(わら)や獣毛を詰めた丸い革製の用具。弓弦(ゆづる)が手を打つのを防ぐためとも、手首の「釧(くしろ)」に弓弦が当たって切れるのを防ぐためともいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
 (注)鞆の浦:広島県福山市鞆町(伊藤脚注)

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GONsanと同世代の村田兆治san…住宅火災で亡くなられましたとは…

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 GONsanと同世代の村田兆治san…高校時代の3年間を福山市で野球に取り組まれました村田兆治san…福山市にご縁がありますプロ野球人のお一人として今まで応援して来ましたのですけど、住宅火災で亡くなられましたとは…
 本日のTVニュースでその旨知らされました時には、少々驚いてしまいましたネ。
 つぃ最近、暴行容疑で現行犯逮捕されたニュースにも驚きましたけど、お元気におられるのだ…と安心しておりました。が、タバコを手に亡くなられたとは、同じ喫煙者のGONsanだけに、胸に刺さります訃報となってしまいましたネ…

 ◆村田兆治さん、床に座った状態 火災で死亡、目立った外傷なし

 --- 2022/11/11 17時38分 共同通信 ---

 元プロ野球選手の村田兆治さん(72)が死亡した東京都世田谷区の住宅火災で、村田さんは消防隊が駆け付けた際、床に座った状態だったことが11日、警視庁成城署への取材で分かった。目立った外傷はないという。外部から侵入された形跡は見られず、署は実況見分をして出火の原因を調べている。
 署や東京消防庁によると、火災は11日午前3時10分ごろに発生。村田さんは2階建て住宅の2階から意識不明の状態で運び出された。午前6時ごろに搬送先の病院で死亡が確認された。署は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒が死因とみている。

 ◆村田兆治さん死去「気さくな方だった」「事件のことも、今回のことも気の毒です」近隣女性の声

 --- [2022年11月11日19時13分] 日刊スポーツ ---

 マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。
 近くに住む女性は「野球をやっている孫とキャッチボールをしてくれたり、バットの振り方を教えてくれたり、気さくな方だった」と話した。9月下旬に暴行容疑で現行犯逮捕されたことについても触れ「事件から出かけられなくなった。事件のことも、今回のことも気の毒です」と話した。
 東京消防庁によると、11日午前3時15分ごろ、東京都世田谷区の成城で2階建ての住宅から出火し、2階部分の約40平方メートルが燃えた。住宅には村田さんが住んでいた。意識不明の状態で病院に搬送されたが、午前5時57分死亡が確認された。現場は小田急成城学園駅から北に1.3キロメートル。一軒家が立ち並ぶ住宅街。

 ◆村田兆治さん、発見時にたばこを手に持っていた…自宅火災で死亡

 --- 2022年11月11日 読売新聞 ---

 11日午前3時15分頃、東京都世田谷区成城、プロ野球・ロッテ元投手の村田兆治さん(72)方から出火、木造2階建て住宅の2階部分約40平方メートルが焼け、室内から村田さんが救助されたが、搬送先の病院で間もなく死亡が確認された。警視庁成城署が出火原因を調べている。
 発表によると、村田さんは一人暮らしで、目立った外傷はなく、一酸化炭素中毒の可能性が高い。近隣住民が119番した。
 現場は小田急線成城学園前駅の北約1.3kmの住宅街。捜査関係者によると、村田さんは消防隊に発見された際、たばこを手に持っていたという。
 村田さんは広島県出身。1968年、福山電波工高(現近大福山高)からドラフト1位で東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入団した。左脚を高々と上げて右腕を豪快に振り下ろす「マサカリ投法」でエースとして活躍し、74年にチームの日本一に貢献した。
 82年に右肘を痛め、翌年に渡米して肘に腱けんを移植する「トミー・ジョン手術」を受けた。当時の球界で肘の手術はタブー視されていたが、1年間のリハビリを経て一軍へ復帰。85年には開幕11連勝を飾って完全復活した。毎週日曜日に登板して「サンデー兆治」と呼ばれて人気を集め、90年に40歳で現役を引退するまで、速球とフォークボールを武器に通算215勝(177敗)、2,363奪三振の成績を残した。
 2005年に野球殿堂入り。全国の離島の中学球児が対戦する「全国離島交流中学生野球大会」(離島甲子園)を提唱し、離島での野球振興にも尽力した。
 今年9月23日には、羽田空港の保安検査場で女性検査員の肩を押したとして暴行容疑で警視庁東京空港署に現行犯逮捕され、2日後に釈放されていた。

 ◆村田 兆治

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 村田 兆治(むらた ちょうじ、1949年11月27日 - 2022年11月11日)は、広島県豊田郡本郷町(現・三原市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
 現役時代は東京オリオンズ→ロッテオリオンズで活躍した。そのダイナミックな投球フォームは、「マサカリ投法」と呼ばれていた。
 通算暴投の日本記録保持者(148回)。

 ・経歴

 -- プロ入り前 --
 村田がプロ野球選手を志したのは小学5年のとき、父に連れられて広島市民球場へナイターを観戦しに行ったことがきっかけだった。初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つほど興奮し、それ以来、プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったという。
 速くて球質が重い、剛速球は天賦の才と言ってよく、進学した福山電波工業高校(現:近畿大学附属広島高等学校福山校)時代から、スピードガンがあればその球速は既に152、153km/hをマークしていただろうと言われ、県内でも屈指のピッチャーとして有名だった。
 1年上には浅野啓司がおり、2年生の秋からエースとなった。しかし当時の広島県には、山本和行を擁する広島商、大田垣耕造のいた尾道商、1967年に夏の甲子園準優勝を果たした広陵など強豪がひしめいており、厳しい競争が続く。1966年秋季中国大会県予選で準々決勝に進出するものの広陵高に惜敗、翌年夏の県予選でも3回戦で呉港高校に敗れ、甲子園出場の悲願は叶わなかった。
 しかし、広島カープの木庭教スカウトから間接的に「ドラフト1位で指名する」と伝えられていたため、カープに入れると喜んでいた。東京オリオンズは1位指名を誰にするか決めかねていたが、濃人渉監督が、植村義信投手コーチを呼び「お前が決めろ」と一任し、植村が映像を観て、肩の強さや体の柔らかさをスカウトから聞いた上で村田の指名を進言。この年第3回ドラフトは、予備抽選で指名順位を決め、1番くじを引いた球団から順に1人ずつ指名していく方式で、広島は12番目。その前の6番くじを引いた東京オリオンズが1位指名した。

 有名人の有無に拘わらず、同世代の方がお亡くなりになりますのには、実に複雑な気持ちを抱いてしまいます。
 心からご冥福をお祈り申し上げます。

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(7)

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 能舞台の傍らには、『能楽 鞆浦 鞆の御社千木髙く 岩根太しき玉殿に 朝日輝くたふとさよ 朝日輝くたふとさよ』と刻まれました石碑が…
 WEB上で、「能楽 鞆浦 鞆の御社千木髙く…」を検索してみますと、こんな記載がありました。

 ◆祖父の作った能楽「鞆浦」

 --- https://www.noh-oshima.com/oosimanouto/nouto03.htm ---

 能楽「鞆浦」は、私の祖父大島寿太郎が1917年(大正6)年に創作し、自身で初演した作品で、風光明媚な福山市・鞆の浦を舞台に沼名前神社の素戔鳴の神が天下太平を寿ぐというものです。
 創作された大正時代に2、3回演能された記録は残っていますが、1995年、私が演能しましたのが、約80年ぶりのことでした。その再演奉納記念に併せて、能楽「鞆浦」の石碑を建させていただきました。
 その石碑は沼名前神社能舞台見所の右寄りに建てられていて、謡の詞章の一部分「鞆の御社千木高く 岩根太しき玉殿に 朝日輝くたふとさよ 朝日輝くたふとさよ」の文字が刻まれています。一緒に植樹致しました若松も、よく手入れしていただくおかげで、元気に能舞台を見守っているように見えます。
 能楽「鞆浦」再演奉納、石碑建立の時には、地元鞆の方々をはじめ多くの方々にご支援賜りましたこと、あらためて感謝申し上げます。
 なぜ、祖父が能楽「鞆浦」を作ったのか。それは、この能舞台の歴史にあるのではないだろうかと思っています。
 私の家が所属する喜多流の流祖は七歳の時、豊臣秀吉の前で羽衣を舞い、秀吉に能役者として召し抱えられ、江戸時代徳川二代将軍秀忠より一流の樹立を許された方です。秀吉が戦陣に持ち運んだとされているこの能舞台には喜多流の流祖をはじめ、数々の先人達の足跡と情熱が込められていて、能が求めているもの、今世の中で忘れられているものが、そこで探し出されるのではないでしょうか。
 それを、気付かせてくれるために祖父は能楽「鞆浦」を作ったのではないかとミステリー風に推測しています。

 …と、こんな記載でありました(^.-)☆
 随身門の二つの守護神像は、後で拝見します事にし、石段を上がり本殿へ向かいます。

 ◆沼名前神社

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、広島県福山市鞆町後地にある神社。式内社、旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
 「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」の別称とともに、「祇園さん」の通称がある。

 ◇祭神
 祭神は次の2柱。
 ・主祭神:大綿津見命(おおわたつみのみこと) - 旧渡守神社祭神。
 ・相殿神:須佐之男命(すさのおのみこと) - 旧鞆祇園宮祭神。

 ◇歴史
 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。現在の祭神2柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である。

 ◇境内

 社殿前に建てられている石燈籠は、江戸時代の慶安4年(1651年)に福山藩3代藩主の水野勝貞から寄進されたものである。総高3.24メートル。六角形の台座の上に、直径47.4センチメートルの竿石、さらに中台・火袋・笠石・宝珠が置かれる大形なものである。近世初頭の社前献灯としては標本的な燈籠であるとして、福山市指定重要文化財に指定されている。

 境内の八幡神社隣には、20個の力石がある。これらは全て花崗岩製で、楕円状、重さは230キログラムから118キログラムである。各石には銘があり、うち制作年代がわかる5個は天保15年(1844年)から安政5年(1858年)である。鞆は海運の町であり、祭礼の場で力を競い奉納したものとされる。これらの力石は、近在の住吉神社の3個とともに「鞆ノ津の力石」として福山市指定有形民俗文化財に指定されている。

 また本社社殿の一段下には、桃山時代の能舞台が建てられている。舞台の構造は桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、柿葺。元は伏見城内にあって豊臣秀吉も愛用したという組立式の舞台であり、福山藩初代藩主の水野勝成が現在の福山城伏見櫓等とともに2代将軍・徳川秀忠から拝領し、福山城に移設したという。
 万治年間(1658年-1660年)、3代藩主の水野勝貞が当社に寄進したのち、元文3年(1738年)に現在見られる固定式に改められた。組立式の様式は随所に見られ、各部材には番号・符号が振られており、戦場にも持ち運べるものであるとされる。正面の鏡板に描かれる松と竹は、当初よりの絵である。ただし、現在見られる橋掛り・楽屋等は当時の建物ではない。この能舞台は、桃山時代の特徴を持つ貴重なものであるとして、国の重要文化財に指定されている。

 境内最下段に建てられている第二鳥居(二の鳥居)は、江戸時代の寛永2年(1625年)に水野勝重(のちの2代藩主水野勝俊)が長子(のちの3代藩主水野勝貞)の誕生に際して、この健康を願い寄進したものである。形式は一般に見られる明神鳥居であるが、笠木の先端は丸味を付けて反り上がっており、さらに鳥衾(とりぶすま)が載せられた独特なものである。先端を反り上げるのは「肥前鳥居」によく見られる形式であり、鳥居の柱にある「大工 肥前之住人中島弥兵衛」の銘との関係が指摘される。この鳥居は広島県指定重要文化財に指定されている。

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ふ~ん、本日知りましたけど、『日本野球聖地・名所150選』が認定されましたのですネ(^.-)☆

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 本日、色んな方々のFacebookを覗いておりまして知りましたけど、ふ~ん、『日本野球聖地・名所150選』が認定されましたのですネ(^.-)☆
 でも、「日本野球聖地・名所150選」とは、何なの!?
 で、WEB上で検索してみましたら、こんな記載が…

 ◆日本野球聖地・名所150選 認定地決定、スタンプラリー実施のお知らせ

 --- 2022年07月19日 NPBニュース ---

 一般社団法人日本野球機構、一般財団法人全日本野球協会、公益財団法人野球殿堂博物館は野球伝来150年を記念して日本全国の野球にまつわる聖地・名所を150カ所を認定しましたので、お知らせします。聖地・名所150カ所は野球伝来150年特設サイトからも確認いただけます。
 また7月23日より日本野球聖地・名所150選を巡るスタンプラリーを実施しますので併せてお知らせします。

 ・スタンプラリー実施内容
 名称 -- 野球伝来150年記念 日本野球聖地・名所「150選」スタンプラリー
 実施期間 -- 2022年07月23日(土)0:00~12月31日(土)23:59
 実施方法 -- 無料アプリ「furari」にて実施(下記二次元バーコード参照。別途アプリのダウンロードが必要です。)

 ◆日本野球聖地・名所150選

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日本野球聖地・名所150選(にっぽんやきゅう せいち・めいしょ150せん)は、2022年に日本に野球が伝来して150周年を記念して、日本野球機構と全日本野球協会が主催し、その他日本のプロ・アマ野球の各団体などが協賛して展開した野球場や野球関連施設の聖地と呼ばれる場所のことである。
 同企画は、多くの野球ファンの協力を得て、日本の野球文化を支えた野球場、練習場などをファンのアンケートや、野球関係者から候補地を選び、野球殿堂博物館などと共同で協議をしたうえで、それらのなかから150周年にちなみ150か所を選抜し、認定した。

 ◆聖地・名所150選

 日本野球150年の歴史の中で、全国各地で日本の野球を支えてきた場所がある。
 かつて大声援がこだました球場。日本野球の歴史の中で、物事が動いた欠かせない重要な役割を果たした場所・跡地…。
 今の日本球界の繁栄の理由は全国各地の様々なところでの出来事から生まれ、育まれました。

 今回、一般の方からの公募や日本の各野球関係団体などから寄せられた多数の候補地の中から、公益財団法人野球殿堂博物館と主催者の一般社団法人日本野球機構、一般財団法人全日本野球協会で協議の上、日本全国の野球にまつわる聖地、名所を150カ所認定いたしました。各認定地の詳細は個別ページでご覧いただけます。
 また、2022年7月23日(土)から全国の認定地を巡るスタンプラリーを開催いたします。無料でインストールできるアプリです。ぜひご参加ください。

 …と、こんな経緯で『日本野球聖地・名所150選』が認定されましたようであります。
 広島県内では、6球場が認定されまして、そのうちの一ヶ所が「福山三菱電機球場跡」であります。

 ◆広島県福山三菱電機球場跡

 三菱電機福山工場の中にあった野球場。1リーグ時代の1948年に広島県初のプロ野球公式戦、南海−急映が「日本野球中国シリーズ」として行われた。企業の敷地内にある球場でプロ野球が行われたのは、三菱電機の他に富洲原(三重県)と高岡鐘紡(富山県)の3か所だけと希少だ。
 1950年2月17日には、セ・リーグに加盟した広島が、チーム結成初の紅白戦を行い、ペナントレースでは3月16日に5試合目の中日戦を開催。試合は2-5で敗れたが、四回裏に白石勝巳が中日・杉下茂からレフトスタンドに飛び込む本塁打。この一打がカープにとって記念の球団第1号ホームランだった。また、この試合に先発したのは19歳のルーキー・長谷川良平投手。身長167cmと野球選手としては小柄ながら、広島のエースとして活躍。通算197勝を挙げ「小さな大投手」と呼ばれた右腕は、この球場でプロとしての第一歩を踏み出した。

 …と、こんな歴史があります球場とは、知りませんでしたネ。
 この球場での白石勝巳の本塁打がカープ球団第一号ホームラン、それに、通算197勝の長谷川良平投手のプロデビュー戦が、この球場でしたとは…
 いゃぁ、カープファンにとりましては、タマりません、凄い、想い出多き球場でしたのですねぇ\(^_^)/

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(6)

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 本願寺を後にしますと、次は、沼名前神社に参詣です。
 沼名前神社参道を潜り進みますと、二の鳥居手前の右側にありますのが「真言宗麾尼山大観寺」ですけど、建物としては真新しい感じで、鞆の他のお寺とは随分趣を異にします。これは、火災に伴う建て替えで止むを得ないのでありますが…

 ◆真言宗麾尼山大観寺

 -- 鞆町 大観寺 --
 福山市鞆町の真言宗麾尼山大観寺は寶巖寺•常喜院•玉泉寺•地福院•増福寺の五ヶ寺が、昭和十三年(1938)に合併して大観寺となった。沼名前神社参道、二の鳥居手前の右側にある。
 2014年5月1日午後9時頃出火し、木造の本堂•庫裡•倉庫など全焼し、本堂にあった市重要文化財「木造地蔵菩薩立像」も焼失。本堂新築工事は平成28年8月2日~平成29年11月30日。

 ◆麾尼山 大観寺(真言宗)

 麾尼山大観寺は昭和初期に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合した寺院である。
 増福寺は、永禄年間(1558~1569年)に、玉泉寺・地福院(江戸初期は泉蔵坊)は天正年間(1573~1591年)に再興されたと伝えられる。宝嚴寺(江戸初期は長福寺)と常喜院は慶長10(1605年)年頃の建立と伝えられる(『あくた川のまき』天和3(1683年)。
 再々、朝鮮通信使の上官の宿舎になった。江戸時代は真言宗明王院末寺。

 《福山の大観寺が全焼 市重文「菩薩立像」も焼失》
 2014年5月1日午後9時ごろ、福山市鞆町の大観寺から出火、木造の本堂、庫裏、倉庫など計約400平方メートルを全焼し、本堂にあった市指定重要文化財「木造地蔵菩薩立像」も焼失した。
 市文化課によると、大観寺は昭和13年に周辺の5つの寺を統合し建立された真言宗の寺。木造地蔵菩薩立像は47年に市重要文化財に指定された。畑信次重伝建文化財担当課長は「所有者と大切に保存してきた。こういうことになり大変残念だ」と話した。

 ◆福山の大観寺が全焼 市重文「菩薩立像」も焼失 広島

 --- 2014/05/03 02:09 産経新聞 ---

 1日午後9時ごろ、福山市鞆町の大観寺から出火、木造の本堂、庫裏、倉庫など計約400平方メートルを全焼し、本堂にあった市指定重要文化財「木造地蔵菩薩立像」も焼失した。けが人はなかった。
 福山西署などによると、現場は寺や住宅が密集する地域。出火当時、寺には誰もいなかった。同署が出火原因を調べている。
 市文化課によると、大観寺は昭和13年に周辺の5つの寺を統合し建立された真言宗の寺。木造地蔵菩薩立像は47年に市重要文化財に指定された。畑信次重伝建文化財担当課長は「所有者と大切に保存してきた。こういうことになり大変残念だ」と話した。
 大観寺の金尾全宥住職は「連絡を受けてすぐに駆けつけたが、火が広がっていた。まだ気持ちの整理がつかない」と落胆した様子だった。

 二の鳥居を潜り進みますと、右側に「森下博翁」の銅像が…

 ◆森下博翁像

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10854957973.html ---

 森下博氏は森下仁丹の創業者。
 博氏の祖父は沼名前神社に婿養子に入り佐野を名乗って宮司を職とした。しかし、出身である森下家に跡継ぎがいなくなったことから、祖父は森下家に戻り煙草の製造販売をはじめたが商売はうまくいかなかった。
 そこで博氏は九歳で学校をやめさせられ、宮内村の煙草商「角新」に見習奉公に出された。父親が亡くなると一念発起した博氏は大阪へ出て小さな薬種商をはじめた。
 これが森下仁丹へと発展していく。森下博氏は昭和十八(1943)年三月二十日75歳で亡くなられている。
 「撫屋(なでや)」は森下家の屋号。

 もっと詳しい森下博の記事はコチラ↓
 森下家15代・佐野右衛門/森下 博/森下仁丹創業者(http://ameblo.jp/rediscovery/theme-10009604374.html)

 ◆森下 博

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 森下 博(もりした ひろし、1869年12月5日 (明治2年11月3日) - 1943年(昭和18年)3月20日)は、日本の実業家、森下仁丹の創業者。広告宣伝を積極的に行って商品の名を広め、日本の広告王と称された。広島県鞆町生まれ。幼名は茂三(もぞう)。

 ・誕生
 1869年、備後国沼隈郡鞆町(現・広島県福山市鞆町)に沼名前神社の宮司を務める森下佐野右衛門と佐和子の長男として生まれる。博が幼い頃、父は宮司を辞めて煙草の製造販売に転業するも、「士族の商法」で接客したため売上は芳しくなかった。このため、父は学問よりも商売の智識の習得が今後は役に立つと考え、博が9歳の時に学校を辞めさせて、備後府中宮内村の煙草商を営む那部嘉右衛門の元へ見習奉公に出した。博はここで12歳まで働いて様々なことを学んだ。
 見習奉公の年季を果たした博は奉公先近くの小学校の先生の勧めで『學問ノスヽメ』や『世界国尽』などの福澤諭吉の著書を学び大きな感銘を受けたが、父の病気により鞆町の実家へ呼び戻されたため、満足に学校に通うことは出来なかった。
 1882年(明治15年)、父が亡くなり家督を相続して15代佐野右衛門を襲名して宮司職を継いだが、世は文明開化の時代、大志を抱き1883年(明治16年)15歳の春に数日間歩き通して単身大阪へ上った。大阪では泊園書院(現・ 関西大学)で学びつつ、医者となっていた叔父の沢田吾一の世話を受け、叔父の知人である桑田墨荘の紹介により、心斎橋の舶来小間物問屋「三木元洋品店」で丁稚奉公を始めた。--(以下、略)

 左側の石段手前には、神馬舎が設けられ、中には白馬が奉納です。
 随身門を潜りますと、右側に能舞台が…

 ◆随身門

 --- https://ameblo.jp/shimakaze2002/entry-12549102389.html ---

 随身門はお寺でいう「仁王門」のような存在で、随身の姿の守護神像を左右に安置した神社の門のことです。
 この二神は閽神(かどもりのかみ)あるいは看督長(かどおさ)といわれ、俗に矢大臣・左大臣と称されています。
 現在の沼名前神社の随身門は享保20年(1735年)の建立だそうですが、故・安井洋氏著の鞆の浦三千年には、この年に鞆奉行加藤杢兵衛忠治が「改築」したと記述があり、それ以前にも随身門があった可能性を示してします。

 ◆沼名前神社 能舞台

 --- 重要文化財 昭和28年11月14日指定 ---

 この能舞台は豊臣秀吉が愛用し伏見城内にあったものといわれ、初代藩主水野勝成が二代将軍徳川秀忠よりゆずり受けたと伝えられます。三代水野勝定がこの社に寄進し、1738年(元文3年)この場所に設置されました。この能舞台は、それぞれの部材に番号や符号をつけた組み立て式で、戦場にも持ち運べるようになっています。正面の鏡板には松と竹を描き、桃山時代の能舞台の特徴を持つ貴重なもので、国の重要文化財に指定されています。
 <構造>一重切妻造、桁行5.45m・梁間5.33m、屋根こけらぶき

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昨日の福山市の発表では、新たなコロナ感染者発生は久々に400人越えですネ(^-^;

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 昨日の福山市の発表では、新たなコロナ感染者の発生は、423人でしたようであります。
 400人を越えましたのは、いつ以来でしょう…ふ~ん、9/21に「485人」を越えまして以来となりますねぇ~
 この423人の内訳を見てみますと、10歳代--88人、40歳代--60人、30歳代--54人、10歳未満--50人…と続きます。
 一向に、減少方向に向かいませんから哀しいですねぇ~

 ◆広島県2,915人感染1人死亡、1週間前から839人増 8日新型コロナ

 --- 2022/11/08(最終更新:2022/11/8) 中国新聞デジタル ---

 広島県内で8日、2,915人の新型コロナウイルス感染が発表された。1週間前の1日(2,076人)と比べて839人増えた。福山市が1人の死者を公表し、県内の死者の累計は790人となった。
 2,915人の居住地は、広島市1,191人▽福山市423人▽東広島市282人▽呉市228人▽廿日市市115人▽尾道市104人▽三次市86人▽三原市81人▽安芸高田市79人▽府中町59人▽庄原市50人▽大竹市43人▽海田町38人▽北広島町28人▽世羅町24人▽熊野町21人▽竹原市15人▽神石高原町14人▽府中市、江田島市各12人▽大崎上島町6人▽坂町、安芸太田町各2人。
 クラスター(感染者集団)は新たに18件発表され、関連で計256人が感染。県が医療機関など14件(計229人)、呉市が児童福祉施設など3件(計22人)、福山市が福祉サービス事業所1件(計5人)を公表した。

 …と、広島県内では、前週対比で+839人のようです。
 昨日、福山市の感染発生者400人越えは、前日が土・日曜日ですから、休み明けの関係もありますのかも…まぁそれはともかく、連日400人近くの発生が発表されておりますから、いずれ400人越えの危惧はありましたけど…
 ところで、依然として気になりますのが、10歳代・10歳未満の方々のワクチン接種状況です。福山市の現状は、どぅなんでしょうねぇ~
 WEB上には、5~11歳の皆さんのワクチン接種状況のデータ掲載がありましたけど、1回目・2回目・3回目とも接種しておられる方は少ないようですねぇ~

 ◆日本国内 5歳~11歳のワクチン接種状況

 新型コロナウイルスワクチンの5歳から11歳の子どもを対象にした接種は、2022年2月下旬から行われています。
 ※ 新型コロナウイルスワクチンの5歳から11歳の子どもへの接種について、厚生労働省は、当初、自治体を通じて接種の呼びかけは行うものの、オミクロン株に対する有効性が明確でないことなどから、保護者が子どもに接種を受けさせるよう努めなければならない「努力義務」にはしていませんでしたが、その後、有効性や安全性が確認されたとして、厚生労働省は2022年9月6日から「努力義務」としています。

 …との事ですから、保護者の皆様も、幼年者へのワクチン接種を前向きに検討される必要もあるのかも…
 色んな問題がありますから、そぅ簡単には行かないのかも分かりませんが…

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(5)

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 山門脇の説明板には、こんな記載が…

 ◆正法寺(しょうぼうじ)

 正法寺は、1598年に建てられました。
 山門は1800年代に造られ、今も残っている大変貴重なものです。当時、和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、朝鮮通信使の定宿としても利用されました。境内の羅漢堂には、十六羅漢像が安置されています。本堂奥に毘沙門天が祀られています。

 それでは、次は「慈徳院」へ。

 ◆慈徳院

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12651/ ---

 臨済宗妙心寺派、山号は大悲山、院号は慈徳院。

 慶長年間、備後国を領有した福島正則によって、鞆の浦の寺々はほぼ一直線に結ばれ、寺町が形成されました。その寺町筋に位置するお寺のひとつが、この慈徳院です。福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し、現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。

 ◇山門の意匠も見どころたくさん
 -- 思わず息を飲む、山門の見事な意匠、鬼瓦 --
 慈徳院の山門は、寺伝によると昭和17年ごろに再建されたものだといいます。この山門は薬医門の形式をとっており、屋根には立派な鬼瓦が見られます。その山門をくぐると、ふわりとした空気が流れる静かなお庭が迎えてくれます。四季折々で表情を変えるお寺さんのお庭―、鞆っこにとっての癒しの空間です。

 ◇静かに佇む薬師堂、先進的な国際的商業港のなごりが、ふわり
 -- 国際的な港町の先取の気風―、宗派問わない薬師堂 --
 境内には薬師堂がしんと佇んでいます。当時の芸備藩主・福島正則がキリスト教に対し寛容であり、また、国際的な商業港としての開放的な鞆の浦の気質も相まって、この薬師堂には、宗派を超えた信仰が集まっています。いかにも、鞆の浦らしい、大らかにして開明的な、信仰の“かたち”ですね。

 続いて、「本願寺」へ。

 ◆本願寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12646/ ---

 正式名称を興楽山道山院本願寺と言い、開基は鎌倉時代の一遍上人と伝わる由緒ある時宗寺院です。元は沖見堂(沖御堂)と称して鞆港に近い西町にありました。「沖見堂」の名称から、航海の安全を保つ灯台の役割を果たしていたのではないかという説もあります。
 寺領も広く、境内に五坊を有する大伽藍でしたが、毛利氏に寺領の大半を没収され、その後福島正則によって行われた慶長年間の町割りで町の北の端にあたる現在地に移転しました。江戸時代を通して、朝鮮通信使の定宿でもありました。

 ・時宗の開祖、一遍上人に想いを馳せて
 備後地方には時宗の寺院は珍しく、江戸時代、福山領内の時宗寺院はいずれも鞆の浦にある原村の永海寺と、西町の本願寺の2寺だったそうです。永海寺はその後焼失して廃寺となってしまったので、現在は本願寺のみが孤塁を守っています。開基一遍上人の立像も安置されているこのお寺で、日本の宗教史に想いを馳せてみてはいかがでしょう。

 ・無限の優しさを秘めた石造りの観音像 -- 衆生済度の観音像 --
 境内にある小さなお堂には、石を彫って作った素朴な千手観音がまつられています。千手観音とは、千手千眼観世音菩薩の略で、それぞれに眼の付いた千本の手で、衆生をもれなく救って下さるありがたい菩薩様です。除怨、滅罪の観音様として、鞆の浦の人々の信仰を集めて来た千手千眼観世音菩薩。手を合わせれば、もちろん旅人である私たちも、もれなく救って下さるに違いありません。

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気が向かれ、覗いて見て頂けましたら嬉しいかも(^-^)/"

昨夜の皆既月食…全国各地で楽しめましたようですネ(^.-)☆

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 昨夜の皆既月食は、

 ◆今夜は全国で「皆既月食」約86分間にわたって皆既食が続く

 --- 2022/11/08 07:11 ウェザーニュース ---

 今日11月8日(火)夜、日本全国で「皆既月食」が起こります。
 皆既月食は月が地球の影に完全に隠されて、幻想的な赤銅色の満月が見られる天体現象で、全国どこでも同じタイミングで起こります。
 今回は月が地球の影の中心近くを通るため皆既食の時間は比較的長く、約86分間にわたって皆既食を見ることができます。

 ▼月食の時刻(全国共通)
 部分食の始まり 18時09分頃
 皆既食の始まり 19時16分頃
 皆既食の最大  19時59分頃
 皆既食の終わり 20時42分頃
 部分食の終わり 21時49分頃

 西ほど月が昇るのが遅く、西日本では部分食の開始時は月の高度はまだ低め。部分食のはじめから観測する場合は、空の開けた場所からお楽しみください。

 …と、天候にも恵まれ、全国各地で楽しめましたようであります(^_^)v
 GONsanも、昨夜は1時間ばかり空を見上げておりました。夜空を見上げます機会も、加齢と共に少なくなって来ておりますけど、昨夜はそれなりに楽しめましたネ(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(4)

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 ◆正法寺について

 --- http://www.shoubouji.net/about.html ---

 ・創建から400有余年 鞆の町とともに歩んだお寺の歴史

 正法寺(しょうぼうじ)は広島県福山市鞆の浦にある臨済宗妙心寺派のお寺です。
 当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
 深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。
 創建から400年が経った現在においては、枯山水の中に数々のお地蔵様が佇み、境内のお堂には鞆町の多くの信者から寄進いただいた十六羅漢像、そして堂内鬼門には毘沙門天を安置し、鞆の町において心の癒やし場として親しまれております。
 臨済宗妙心寺派の詳細については「臨済宗大本山 妙心寺 公式サイト」をご覧ください。

 ・正法寺こぼれ話①

 -- 鞆の浦・元禄絵図 --
 当寺の北隣に「安国寺」という1273年から続くお寺があります。当寺創建時にその安国寺の住持を務めていたのは安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)という人物でした。
 恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
 更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与し敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。
 それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったものと考えられます。

 ・正法寺こぼれ話②

 -- 当寺に咲く蓮の花 --
 当寺を再建した深溪和尚は庭造りに大変熱心だったと伝わっていますが、400年の時を経た現在、和尚の庭がどのようなものであったのか、残念ながら見ることはできません。
 ですが、ある僧が和尚の庭を眺めた折に遺した一句からその姿を窺い知ることができます。
 「ひとやあらぬ花はむかしの作庭」

 (直訳:この庭を作られた風流な方は既に故人と聞いているが、きれいに咲いている花々は故人にかかわりなく競い咲いているようだ)
 天和元年(1681年)「あくた川のまき」より

 この句は和尚が当寺の住持となってから60年程後に詠まれたものです。庭の数寄に感じ入り、庭を作った人への追憶、そして人間の儚さが秘められたこの一句から、和尚の庭は花が咲き誇り、思わず発句したくなるような素晴らしいものであったことが推察されます。

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福山市のイベント参加者募集への応募…また落選のGONsanでした(^-^;

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 先日、「弓削丸で巡る築港400年の福山港ミニクルーズ」への参加者追加募集に応募していたのですけど、う~ん、残念、また落選のGONsanでありました(^-^;
 福山市のイベントへの参加者募集に、懲りもせず、くじけず、応募しているのですけど、落選続きで哀しいですねぇ~今回の落選で、何度目となりますでしょうか…
 日頃の行いが、宜しくないのでしょうねぇ~
 誠にもって腹立たしいのではありますが、選択権は福山市にありますのですから、まぁ仕方ありませんネ。
 確率から考えますと、これだけ落選が続いていますのですから、次回の何かの応募では、ソロソロ当たりますのかも…それを楽しみに、今後も懲りずに応募には参加して行かなくちゃぁ(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(3)

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 ◆備後安国寺 本堂庭園(広島県福山市鞆町後地)

 --- http://junreiwoguranomiyabi.blog.fc2.com/blog-entry-1115.html ---

 ・昭和の造園家が絶賛した戦国の造園(2022.1.9)

 釈迦堂を内陣で参拝したあとは堂の裏手にある庭園へ。
 説明板では庭園に並んでかつて本堂・庫裏があったとありますが、今は跡を残すのみです。
 『安国寺の伽藍配置は各禅宗本山に見るものと同じ直綜式の三門・仏殿・法堂・方丈が完備されていたと推定され、方丈側面の庭園として室町期の枯山水が安国寺方丈庭園として荒廃されながらも保存されてきた。
 枯山水式庭園で、白砂や岩石で滝や流水を表現した室町末期の作庭と推定される。
 三途の川には石橋、蓬莱山には岩石の仏様を置いた蓬莱式庭園とも呼ばれる。
 中央の鶴島には蘇鉄、亀島には松を植えた鶴亀式庭園。鶴亀式庭園は戦国時代に流行したもので、武将が自分達や主家の繁栄を願って作庭したものである。石橋の矢穴や長さ高さが桃山期の手法で、慶長4年(1599年)安国寺恵瓊が改造したと伝わる。』 とあります。

 説明書に拠れば荒廃していた庭園を復元修理したのは昭和の作庭家・重森三玲氏。これに拠り作庭当時の美観を取り戻したとされます。
 本庭は室町末期の庭園として有名な京都大徳寺大仙院、妙心寺退蔵院の庭園の折衷として構成されていますが、部分的には枯瀧の石組みは天正期の京都本法寺に類似したりと様々な時代の要素が見られます。
 中国路最古の枯山水庭園と言われ、参拝者は石に腰掛けながらゆっくり眺める事ができる訳ですから、堂宇は無くなったと言え恵瓊の意志は今に生きているといえるでしょう。

 ◆安国寺(あんこくじ)のソテツ

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64087.html ---

 ソテツは九州南部から琉球列島に分布する常緑の裸子植物であるが、関東以西の各地で植栽され巨大な株に生長している名木・大木も少なくない。
 安国寺のソテツは安国寺釈迦堂(重文)の背後にある枯山水の庭園内にあり、2株となっている。根廻りは5.65mと5.45m、樹高約9mで、県内有数の大木で庭に風情をそえていたが、白蟻と台風の被害を受けて倒れ、現在その根株から新しい葉茎が伸び、昔日の面影をわずかにとどめている。

 ◆安国寺のソテツ

 --- https://www.jalan.net/kankou/spt_34207ac2100139847/kuchikomi/0005287501/ ---

 かつては巨木だったという安国寺のソテツですが、シロアリと台風の被害で倒れ、今はその根株から生えた株から往時を偲ぶしかありません。
 ただ、前回訪ねた時と比べると、かなり大きくなった印象を受けました。安国寺には門を入ったところにもソテツが植わっていますが、件のソテツは本堂裏の庭園にあります。
 安国寺庭園にはもう一つ見るべき木があります。それは楷の木です。
 安国寺は足利尊氏ゆかりの寺であることから、栃木県足利市から贈られたものだと説明されていました。大正4年に白澤保美博士が中国の孔子の墓地、孔林から持ち帰った楷の木の種子がもとになっているそうです。ウルシ科の高木で紅葉が美しいことで知られていますが、日本には自生していません。次回はこの木の紅葉を見るために秋に訪ねたいと思いました。

 …と、WEB上の記載から引用しますと、こんな安国寺庭園でありますようです。
 それでは、安国寺とお別れし、お隣りの「正法寺」に向かいます。

 ◆正法寺

 1598(慶長3)年に創建された臨済宗の「正法寺」。
 京都の東福寺派・守意を開祖とした400年の長い歴史を持つお寺で、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用された名刹です。境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(2)

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 それでは、安国寺の中へ…境内を通り抜け「安国寺釈迦堂」に向かってみます。

 ◆備後安国寺(びんごあんこくじ)

 鎌倉時代に創建され、室町時代に足利尊氏により安国寺と改称された臨済宗のお寺。
 釈迦堂と堂内の木造阿弥陀三尊像・木造法燈国師坐像はいずれも国の重要文化財に指定されています。
 釈迦堂裏には枯山水庭園があり、堂前には国の重要美術品の石造地蔵菩薩像があります。水野勝成が子どもの安穏を祈り建立安置した「子安観音菩薩」は、子授けや子育てにご利益があると評判で、遠方からも祈願に訪れています。

 ◆安国寺(福山市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 安国寺(あんこくじ)は、広島県福山市鞆町後地にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。山号は瑞雲山。 釈迦堂は国の重要文化財に指定されている。

 ・歴史
 文永10年(1273年) - 無本覚心(法燈国師)を開山として金宝寺(安国寺の前身)創建、釈迦堂(仏殿)建立
 文永11年(1274年) - 阿弥陀三尊像を造立
 暦応02年(1339年) - 足利尊氏による再興
 室町時代 - 寺号を「安国寺」と改める
 安土桃山時代 - 毛利輝元、安国寺恵瓊(1579年)による再興
 江戸時代初期 - 京都妙心寺の末寺となる
 大正09年(1920年) - 法堂を焼失
 昭和02年(1927年) - 釈迦堂が重要文化財(当時の国宝)に指定される
 昭和17年(1942年) - 阿弥陀三尊像、法燈国師像が重要文化財(当時の国宝)に指定される
 昭和30年(1955年) - 境内が広島県の史跡に指定される

 ◆安国寺釈迦堂(あんこくじしゃかどう)

 備後の安国寺は暦応2年(1339年)足利尊氏が国ごとに建立した安国寺の一つである。堂内の法燈【ほっとう】国師坐像(重文)の躰内墨書及び達磨【だるま】大師位牌【いはい】(県重文)の銘により、この寺の前身に金宝寺があったことが明らかとなった。
 現在の釈迦堂は、金宝寺の仏殿と伝えられ、その後慶長4年(1599年)、明和2年(1765年)の大修理を経て昭和8年(1933年)解体修理がなされた。
 禅宗様は鎌倉時代初期、宋より帰国した僧栄西によって導入された建築様式で、この釈迦堂の随所にこの様式を見ることができる。
 尾だるきの組み入れ、屋内架構の複雑さ、堂中央の鏡天井等その内部の構成はすばらしい。また軒の反りは大きく、軒廻りは大疎【まばら】だるきとし、桟唐戸、弓連子(波欄間)を設けている。
 これらはいずれも禅宗様の特徴をよく備えたもので、典型的な禅宗様仏殿として貴重なものである。

 釈迦堂を拝観しましたら、裏側の枯山水庭園へ。
 何度も訪れておりますので、ササッと観て廻りたいと思います(^-^)//"

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福山市のコロナ感染者、この一週間で300人越えが5日とは(^-^;

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 福山市のコロナ感染者数は、この一週間(10/31~11/6)で5日とは(^-^;
 それも、400人近い感染者ですから哀しいですねぇ~
 年代別に見てみますと、10歳代、40歳代、30歳代…と続きます。
 中国新聞sanの記事掲載によりますと、

 ◆広島県で2,529人感染 5日新型コロナ

 --- 2022/11/05(最終更新:2022/11/5)

 広島県内で5日、2,529人の新型コロナウイルス感染が発表された。1週間前の10月29日(1,414人)と比べて1,115人増えた。死者の公表はなかった。
 2,529人の居住地は、広島市968人▽福山市397人▽東広島市299人▽呉市179人▽尾道市112人▽三原市104人▽廿日市市97人▽三次市61人▽庄原市49人▽安芸高田市39人▽大竹市36人▽府中町31人▽竹原市29人▽海田町23人▽熊野町20人▽世羅町18人▽府中市、北広島町各15人▽江田島市11人▽神石高原町9人▽大崎上島町7人▽坂町6人▽安芸太田町4人。
 クラスター(感染者集団)は新たに、福山市がいずれも福祉サービス事業所の2件(計15人)を公表した。

 …との事で、広島県全体で前週比1,115人の増。
 中国地方5県では、いずれの県も増加推移。特に、広島・鳥取・島根の3県の10万人当たり感染者の多さが気になりますネ。
 今週の感染者数の動向、さて、どぅなりますか…400人越えとならなければ宜しいのですが…

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昨日は、月に一度の草取りで妙性山墓地行きのGONsanでした(^.-)☆

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 毎月、月初に、墓地の草取り行きのGONsanですけど、昨日(11/5)が、その日でありました。
 土曜日でもありますし、法要を執り行っておられますお宅も…ですが、時節柄、少人数で行っておられましたネ。
 毎月墓地に来ておりますから、草は大して生えてはおりませんけど、こんな時期ですから落ち葉が結構(^-^;
 山の斜面の墓地ですから、秋ともなりますと、致し方ありませんかも(^-^)
 それなりの準備はして来ていますから、所要時間は、草取りよりも早く済みましたかも(^_^)v
 墓地の清掃を終えますと、またいつものように我が町を眺望です。芦田川には、ボートがキレイに整列です。ただ、進行向きが川下から川上方向ですから、試合ではないようですねぇ~レガッタ教室の開催かも分かりませんネ。
 気持ちのイィ秋晴れなんですけど、天気が良すぎて肉眼では天文台がボンヤリと…ズームを効かせて、画像には納める事が出来ました(^.-)☆
 工事用シートで覆われました病院建設現場も、墓地からは工事進行状況がよく分かります。クレーンは稼働していますのですけど、作業者のお姿はよく分かりませんでしたネ(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(1)

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 10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策となりましたGONsanです(^.-)☆

 ◆鞆の浦 de ART 2022

 ・鞆の浦 de ART 2022 ~ 独創性あふれる“違和感”が心地いい 潮待ち仕掛けのアート祭

 全国のアートファンが集まる「瀬戸内国際芸術祭」をあえて挙げるまでもなく、近年、現代アートと瀬戸内海地域の相性の良さは広く知られるようになりました。
 瀬戸内海を囲む広島・岡山・香川・愛媛県をひとつの文化圏と捉えるなら、そのエリアの橋渡しとなっているのが、いまや現代アートといえるかもしれません。
 そうした機運を盛り上げるアートフェスのひとつが「鞆の浦 de ART」です。

 ・「鞆の浦 de ART」は、どんなアートイベント?

 「鞆の浦 de ART」は、鞆の浦(福山市鞆町)の町一円が現代アートの舞台となるアートフェスです。
 地元有志による実行委員会(鞆の浦 de ART実行委員会)の主催で、会期は2022年9月25日(日)から10月16日(日)(最終日は午後3時まで) 。
 キュレーター(企画・運営者)を、造形作家のヨシダコウブンさんが務め、16人のアーティストと1チームが出展。
 初秋恒例の芸術祭は、2022年に第10回の節目を迎え、太田家住宅(国重要文化財)、静観寺など鞆地区の名所が展示会場となっています。
 また連動企画として、豪華景品付きフォトコンテストを開催しています。
 感性を投影した作品にハッシュタグとして「#鞆アート2022」と添えて、Facebook・Instagramから投稿可能です。
 その他不明な点については、鞆の津の商家(福山市市鞆町鞆606)に設けられた総合案内所(期間中、土・日・祝日のみ)で確認してください。

 …と、WEB上で「鞆の浦 de ART 2022」を検索しますと、こんな記載がありました(^-^)
 では、早速、いつものように安国寺から散策スタートです。
 正面が、高級感と異国情緒に溢れる唐様(禅宗様)建築の安国寺釈迦堂(国重文)で、その手前が安国寺地蔵堂です。

 ◆安国寺地蔵堂

 --- https://bin-navi.com/rekishi-essay/23940/ ---

 ・690年間鞆を見守り続けた優しきまなざし

 戦国時代、足利義昭が御座所とした鞆の浦。「麒麟がくる」で全国的に「鞆幕府」が知られることになった。室町幕府最後の将軍足利義昭は鞆で終焉をを迎えるが、初代の足利尊氏もまた鞆で挙兵した。「足利氏鞆に興り鞆に滅ぶ」と言われるゆえんである。
 その足利尊氏が南北朝動乱の戦没者を弔うために国ごとに一寺一塔(安国寺・利生塔)を建てた。備後安国寺は歴応2年(1339)の建立とされているが、もともとは法燈国師が開山した「金宝寺」(文永10年(1273)に仏堂建立)
が前身である。
 鎌倉時代の金宝寺仏堂が継承された安国寺釈迦堂、その前の参道に堂宇が立っている。安置されているのは鎌倉末期元徳2年(1330)造立の石造地蔵菩薩坐像である。2m余りの堂々とした石仏の、なめらかで丸みを帯びた造形は、慈愛に満ち、手を合わせる者の心をすくいあげてくれるようだ。
 この地蔵菩薩は、藤原貞氏なる者が健在である両親の福寿を祈って逆修法事を修し、供養仏として造立したものである。願主である藤原貞氏が、大変な富裕層であったことがわかる。また逆修石塔の造立は鎌倉時代にはまだ多くなかったという。
 地蔵菩薩は、町の片隅で、今も願主の願いをかなえ続けているのだろうか、それともその役目を終え、衆生を救うために優しきまなざしを向け続けているのだろうか。鞆のもつ歴史の重みは計り知れない。

 地蔵堂の中の石像は、国の重要美術品に指定されている石造地蔵菩薩坐像。舟形光背の丸堀りの石像が蓮華座に乗っています。肩から結跏趺座した下部への流れるような曲線が美しいですネ。
 地蔵堂の中には説明資料がありますので、戴きです(^-^)
 これには、こんな記載が…

 ◆歴史散歩 №253
  安国寺の地蔵菩薩 -- 鎌倉時代の石造仏 --

 鞆町にある安国寺。その参道脇にある地蔵堂に石仏地蔵菩薩が祭られています。地蔵は蓮華座(蓮の花をかたどった台)に乗り、舟形光背(舟を縦に立てた形に似た菩薩の体から発するという光を表す)を背負っています。高さ2mの大型石仏で背面には文字が刻まれています。
 この文字を意訳すると「慈父の恩の高きことは山王のようで、慈母の恩の深きことは大海のようである。私がもしこの世に長く生を受けることができれば、言葉に尽くせるはずのない慈母の恩を説いて回ることであるがそれはできない。それを表現してくださるのは地蔵菩薩しかないと考え、沙弥円乗と比丘尼妙連が善根を積み、逆修してこの地蔵菩薩を建立する。元徳2年卯月(旧暦4月)23日願主藤原貞氏」と読めます。願主とは仏像の建立、供養の依頼、来世往生などの祈願をした人物を言います。
 このことから、1330(元徳2)年鎌倉時代末、藤原貞氏が父(円乗)と母(妙連)の生存中に逆修供養(生前にあらかじめ仏事を修めて死後の冥福を祈ること)を遂げた石仏であることを伝えています。そして、今から約700年前にこの地に地蔵信仰が伝わっており、石仏を造立できるだけの力を持った人物がいたことがわかります。また、年代や願主名、造立の趣旨まで明らかで、石造文化財としての価値が高いことから国の重要美術品に認定されています。

 …と、こんな記載で、ご両親が生存中に供養を執り行い、石仏も造立とは、イィお話しですねぇ~凡人には仲々出来ません事ですし、財政的にも大変裕福な方でしたのでしょうねぇ(^-^)//"

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10/8(土)は、「福山かわまちトライアスロン2022」の観戦・応援でした(^.-)☆(25)

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 対岸に眼を向けますと、土手を走行のバイクは見当たりませんけど、河川敷には最終種目でありますランの部の選手のお姿が、一人、また一人…と。
 GONsanの前を通過して行きますバイクの選手も、そろそろオシマイのようですから、土手から下りまして退散の態勢に…
 んっ、でも、未だ、一人、二人とヤッて来られます(^-^)
 そぅしていますと、ガッツポーズの選手のお姿が…「私が、最終走者だぞぉ~」とでもアピールしておられますのかも…
 この選手を見送り帰ろうとしますと、また、お一人選手が…う~ん、この選手が最終走者なのかも…とにかく、よく分かりませんけど、これで「福山かわまちトライアスロン2022」の観戦からお別れです。
 選手の皆様、大変お疲れ様でございました。充分楽しめましたので、来年もまた、宜敷お願い致しますです(^-^)//"

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本日午後は、早速、コロナワクチン接種行きのGONsanでした(^.-)☆

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 本日、午後2時15分から第5回目新型コロナウイルスワクチン接種日で、我が家を出ましたのは、13:40のGONsanでした。
 祭日でもありまして、中国新聞備後本社ビル到着は、13:55少し前。
 う~ん、未だ20分ばかり待たされるのかも…と思いながら中に入りますと、サッサと受付開始で医師の問診等で多少の待機はありましたけど、スムーズに接種まで進み、無事、接種が終わりましたのは、14:08でありました。
 接種後は、15分間の待機時間がありますから、14:23までは別室で待機。待機室には、それなりに接種済みの方々がおられましたけど、皆さん、一様に、予約時間よりは早く完了されましたようですネ。
 昨日の予約時に、いずれの接種日にも空きが結構ありましたから、予約はしておりましても先着順で接種へと進みましたようであります。
 ですが、この接種後の15分間の待機の長いこと(^-^)
 時計とズッと睨めっこで、14:23が到来しますと、ヤレヤレのGONsanでありました。
 帰路では、対面の国道2号線脇から中国新聞備後本社ビルをパチリです。気持ちのイィ秋晴れでしたけど、気温は随分高くて暑さを感じてしまいましたネ。
 医師の問診時に、インフルエンザのワクチン接種に関しましてお尋ねしますと、コロナワクチンと同日でも、同じ腕でも構わない…との事。
 近々、今度は、インフルエンザワクチンの接種行きですねぇ~
 ところで、また何ヶ月か先には、第6回目のワクチン接種となりますのでしょうか…どぅなんでしょうねぇ(^-^)//"

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また福山港でヒアリが確認されましたか…それも、1万匹超とは(^-^;

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 本日の朝刊紙上に記事掲載がありましたけど、また福山港国際コンテナターミナルでヒアリが確認されましたようですネ。それも、1万匹超とは(^-^;
 環境省のホームページには、こんな記載が…

 ◆岡山県井原市におけるヒアリの確認について(令和4年10月19日福山港ヒアリ確認についての続報)

 --- 環境省 https://www.env.go.jp/press/press_00797.html ---

 <岡山県、広島県同時発表>

 令和4年10月25日(火)に福山港から岡山県井原市の民間事業者敷地内に運び込まれたコンテナからアリが発見され、専門家による同定の結果、特定外来生物ヒアリ(Solenopsis invicta)であることが確認されましたので、お知らせいたします。
 本件は、令和4年10月19日(水)報道発表のとおり、広島県福山港でヒアリが確認されたことを受けて、発見箇所周辺に置かれていたコンテナについて注意喚起を行っていたところ、ベトナムを出港して香港港を経由し、福山港で陸揚げされ、陸路で岡山県井原市の事業者敷地に搬入されたコンテナの開封時に多数のアリが確認されたものです。
 当該コンテナは直ちに閉鎖し、コンテナ外にこぼれ落ちた個体は直ちに殺虫されました。福山港に返送された後にコンテナ内の殺虫作業を行った際には、女王アリ4匹以上を含むヒアリ10,000匹以上が発見されました。
 平成29年6月の国内初確認以降、これまでのヒアリの確認事例は令和4年11月2日(水)現在で今回事例を含め18都道府県、計92事例です(今年度8事例目)。

 <経緯>
 09/15(木)--ベトナムのホーチミン港から当該コンテナを積載した船舶が出航。
 09/18(日)--経由地の香港港に到着。
 10/03(月)--別のコンテナ船に積み替えられ、香港港を出港。
 10/12(水)--福山港に入港し、コンテナを陸揚げ。
 10/25(火)--福山港から陸路にて岡山県井原市の民間事業者敷地へ搬入。コンテナを開封したところ、多数のアリを確認したため作業を中断し、直ちにコンテナを閉鎖して、コンテナ外にこぼれ落ちた個体を殺虫処理。コンテナは福山港に返送され、福山港周辺の事業者敷地に蔵置。
 10/26(水)--中国四国地方環境事務所により、岡山県井原市の民間事業者敷地の確認調査を実施し、ヒアリの確認はなし。福山港周辺の事業者敷地において、蔵置されているコンテナを確認したところ、周辺に逸出している十数個体を確認し、殺虫処理。
 10/27(木)--環境省が専門家に同定を依頼。
 10/28(金)--荷主により当該コンテナ内部の燻蒸殺虫処理を実施。その際に、コンテナ内部で10,000匹以上のアリを確認。
 10/31(月)--専門家が当該アリについて、ヒアリであることを確認。

 <今回確認されたヒアリについて>
 確認されたアリは、ヒアリの働きアリ10,000個体以上、女王アリ4個体以上、複数の雄アリ及び蛹です。

 <対応状況>
 コンテナ内で発見された個体が非常に多いことから、当該コンテナについて、より強力な燻蒸を実施する予定です。
 なお、岡山県に情報提供するとともに広島県等の関係機関に対しては、以下を引き続き依頼しています。
 ヒアリが確認された貨物を搬送に関わったコンテナ管理者、運搬車両等の事業関係者及びコンテナターミナル管理者等に当該生物の混入があったことを周知し、他に混入の恐れがないか、さらなる確認を依頼すること。
 今後、同様のルートで製品を輸入する際に、ヒアリその他の特定外来生物の付着・混入がないよう、事業所、コンテナ保管場所、積み出し港等の状況を把握し、対策を講じること。
 今後、環境省が実施する調査・防除に協力すること。
 また、環境省は令和4年10月19日報道発表の福山港のヒアリ確認も踏まえて、福山港国際コンテナターミナル周辺において広島県等と協力し、周辺2km程度の調査を実施する予定です。

 ★疑わしいアリの発見時の対応について
 疑わしいアリを発見された方は、以下に留意するようお願いします。

 <事業者の皆様へのお願い>
 コンテナの開封時等にヒアリやアカカミアリを含むヒアリ類と疑わしいアリを発見した場合、まずは刺激を避けつつ、コンテナのどの箇所にどの程度の生きたアリがいるか等、状況を確認してください。
 多数の生きたアリの集団がいる(と予想される)場合は、コンテナの扉を閉めて、逃げ出さないよう静置してください。その上で、関係機関(港湾管理者、地方公共団体、環境省地方環境事務所等)に速やかに連絡し、取扱いについて相談してください。可能であれば、強粘着の布ガムテープでコンテナの目張りをするなど、アリが逃げ出さないよう対応してください。
 アリが少数しかおらず、逃げ出す恐れのない場合は、市販のスプレー式殺虫剤等でその場で駆除してください。その上で、関係機関に速やかに連絡し、取扱いについて相談してください。
 詳しくは、環境省の「ヒアリの防除に関する基本的考え方 Ver.3.2」のP.19~24を参照してください。
 https://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/attention/file/hiariboujo_Ver.3.2.pdf

 <一般の皆様へのお願い>
 ヒアリの詳しい特徴や注意事項、見つけたときや刺されてしまった場合の対処方法などについては下記を参照してください。
 「特定外来生物ヒアリに関する情報」
 http://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/attention/hiari.html
 ヒアリやアカカミアリを含むヒアリ類と疑わしいアリを発見した場合や、ヒアリの特徴等一般的な問合せ、健康被害の問合せ等については、「ヒアリ相談ダイアル」を御利用ください。
 受付日:土日祝を含む毎日(12/29~1/3は除く)
 受付日時:午前9時から午後5時
 ヒアリ相談ダイアル 0570-046-110 (IP電話の場合 06-7634-7300)
 チャットボット(自動会話プログラム)による情報提供や相談受付等も行っています。以下のURLから、24時間、365日御利用いただけます。
 「アリーのヒアリ相談チャットボット」
 http://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/attention/05_contact/index.html

 …と、こんな記載が。
 以前から、福山市内の一部地区では、一般住宅の庭先等でもヒアリ生息が確認されていますから、今回の件も今後の動向が大変気になります。
 国内で一度に確認された数としては、過去最多との事ですから、拡散しないよう駆除出来ますと宜しいのですけど…

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10/8(土)は、「福山かわまちトライアスロン2022」の観戦・応援でした(^.-)☆(24)

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 選手の皆様が通過の合間を縫って、ママチャリのご婦人が(^-^)
 川向こうで買い物を済ませ、いつもこのルートでご自宅へとお帰りなのかも…
 それにしましても、この道路整理のスタッフのお二人…ママチャリのご婦人には実に優しい対応を(^.-)☆
 三角コーンを少し移動し走路を確保、おまけに丁寧な誘導も…
 GONsanなんぞは、ここで画像を撮りますのにも二言、三言…いぇ、それ以上のご指摘を頂き、この場所に治まったと言いますのに、ママチャリは通すし危険なトラックも通しますし…この差は何なんでしょうねぇ(^-^)//"

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本日、コロナワクチン接種のお知らせが到着で、早速、予約となりました(^.-)☆

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 本日、午前中に、「新型コロナワクチン接種(オミクロン株対応)のお知らせ」が到着で、早速、ワクチン接種の予約を済ませましたGONsanです(^.-)☆
 第1回・2回の接種時の予約では、仲々、自分の希望します日時が空いておりませんでしたけど、今回は、スンナリ希望日に予約が取れましたネ。
 第5回目ともなりますと、皆さん、ノンビリと構えておられますのかも…急ぐ事はないか…と(^-^)
 GONsanは、早い方がイィからと、11/3(木)に空きがあり迷わず予約し完了で、満足顔となりました。が、よくよく考えてみますと、11/3(木)と言えば、もぅ明日の事なんですねぇ~
 いゃぁ、チト、早まりましたかも…気持ち的には、未だ一週間ばかり先と思っておりましたら、なんと、明日でした(^-^;
 それに気付いて、予約日変更を一瞬考えはしましたが、まぁイィか…と、変更はしません事に(^-^)
 明日の午後、中国新聞備後本社ビルで接種したいと思います。
 今回のワクチンは、『オミクロン株対応 モデルナ(BA1)』との事であります(^-^)//"

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ふ~ん、「ふくやま港まつり2022」は、ヒアリ出現で中止のようですネ…

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 福山市からのLINEでは、「ふくやま港まつり2022」は、ヒアリ出現で中止のようですネ。いつでしたか、福山港国際コンテナターミナルでヒアリが発見された旨、中国新聞への記事掲載がありましたけど、ふん、ふん、安全確保が難しい為、中止なんですねぇ~
 その代わりとして、弓削丸によるミニクルーズは、名称と場所を変更して実施とか…で、ミニクルーズには、定員に若干の空きがあり追加募集のようであります。
 「弓削丸」と言いますと、国立弓削商船の練習船ですから、乗船してみたい気持ちも少々のGONsanです。
 追加募集の申込期限は、11/4(金)正午ですから、まだ間に合いますネ。
 これも抽選ですけど、とりあえずメールで応募です。11/12(土)14:00出航を希望して応募しましたけど、福山市のイベント参加者募集には落選が続いていますGONsan。これも、あまり当てにせず待ちますけど、当選しますとラッキーかも(^-^)//"

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日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/8(土)は、「福山かわまちトライアスロン2022」の観戦・応援でした(^.-)☆(23)

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 こぅして通過して行きます選手の皆様を見送っていましても、どの選手が何周目なのかサッパリ分かりません。でも、そろそろ皆さん、最後の周回なのかも…
 ところで、同じコースを何回も廻ります場合には、選手の皆さんは、ご自分の周回回数をどのようにカウントされますのでしょうねぇ~バイクにカウンターを設置しておられますのかも…

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小雨がパラつく中、6名おられるのかなぁ~と出かけましたら…

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 今朝は、眼が醒めましたのは、A.M.6:50でありました。
 外の様子を伺いますと、小雨がパラついておりましたので、GGはないだろう…とノンビリと朝食を取っていますと、「雨は降ってないよ…」と嫁さん。
 で、一転、バタバタとGGに出掛ける事となりました。嫁さんは、「天気予報は雨だから、今日はパス(^-^)」と言ってはおりましたが、スコアが悪いので、天気を理由にサボリのようですねぇ~
 コンビニに立ち寄りタバコを求めてから中村三新田公園に到着しますと、今にも降雨がありそうな空模様にも拘わらず、意外にも、既に8名ばかりお集まりでありました。
 ふ~ん、天気予報は降雨の予想でも、今、現在、降雨がありませんと、この程度の方々はヤッて来られますようですねぇ(^-^)
 GONsanを含み5~6名かも…と思っていましたので、本当に意外。結局、総勢11名でゲームスタートとなりました。
 降雨もなく前半のラウンドが終了で、後半開始時には小雨がパラつきましたけど、濡れるほどでもなく、いつの間にか止み、ゲーム終了となりました。
 この方々は、本当にGGがお好きなのかも(^-^)//"

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10/8(土)は、「福山かわまちトライアスロン2022」の観戦・応援でした(^.-)☆(22)

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日常生活を通じて眼にしたこと、感じたこと、出掛けた先の景観…等を、備忘録代わりに絵日記として綴っております(^-^)/"
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 ・名前 GONsan
 ・年齢 大人
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 ・地域 広島県福山市
 ・星座 牡牛座


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