GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

2021年11月

9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(7)

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 荒神社の石仏・五輪塔の確認後は、また車で移動し、「寄(より)ノ宮八幡神社」へと向かいます。
 神社の近隣に車を駐め、神社までは少し歩いて…
 神社参道の石段を少し上がりますと、まず眼に入りますのが「寄(より)ノ宮八幡神社」と刻まれました比較的新しい石標です。そして、その先に「亀山八幡神社鳥居」が…
 石標には「寄(より)ノ宮八幡神社」なのに、鳥居脇の案内板には「福山市重要文化財『亀山八幡神社鳥居』」ですから、何で!?…

 WEB上で、「寄ノ宮八幡神社」を検索しますと、こんな記載が…

 ◆寄(より)ノ宮八幡神社

 --- 福山市沼隈町草深(平成20年3月23日) ---

 この神社は千年小学校の西に鎮座しています。社号標、鳥居の建つ北参道入口から、狛犬が二対もいる随神門までは約230m位でしょうか、階段や緩い坂の参道脇は豊かに木々が茂り、気持ちの良いミニハイクの気分が味わえます。境内は広く明るく開放的な感じで、大きな拝殿や立派な本殿、現役の神楽殿やしっかりと作られ祀られている境内社数社が点在し、静かで清々しい気分になれます。
 社名は神功皇后が瀬戸内海航行の途中、ここに船を寄せたことに由来し、天歴年間(947)の草創と伝えらます。宝治元年(1247)、天文8年(1539)、慶長元年(1603)と再修理されたことがわかっています。現在、社殿のあちこちに、室町時代の面影を残す美しい蛙又が使われています。
 参道の両脇にある常夜燈は、文政7年(1824)の作で刻まれた文字は、頼山陽の直筆ともいわれており、享保7年(1722)に書かれた三十六歌仙は特に素晴らしい宝物のひとつです。(沼隈町教育委員会)

 …と、こんな記載が。
 鳥居脇の案内板に眼を向けますと、

 ◆福山市重要文化財「亀山八幡神社鳥居」

 --- 福山市沼隈町大字上山南 1995年(平成7年)4月20日指定 ---

 享保8年(1723年)「山南草深惣氏子」によって寄進されたもので、高さ約4m、幅3.7m。製作は江戸時代後半に瀬戸内沿岸部を中心に活躍した尾道の石工平三郎によるものです。
 この鳥居の特徴は、笠木の両端に鳥衾を置いていることですが、現在向かって右側の鳥衾は欠落しています。鳥衾の付いた型式の鳥居は、全国的に数少なく、現在、沼隈半島南東部に3基(鞆町1基、沼隈町2基)確認されています。

 --- 福山市教育委員会 ---

 …と、こんな説明でありました。WEB上にも、似たような記載が…

 ◆亀山八幡神社鳥居(かめやまはちまんじんじゃとりい)

 --- 福山市市指定重要文化財 平成7年(1995年)4月20日指定 ---

 この鳥居の特徴は、笠木の両端が反り上がり、鳥がとまっているよう見える「鳥衾」を乗せていることだが、右の「鳥衾」が欠落しているのが残念である。この地方では、この形式の鳥居は3基確認されている。
 なお、銘文によると享保8年(1723年)に尾道の石工平三郎が造り、草深の惣氏子が寄進したものであることがわかる。

 …と、こんな記載も。
 リーダー達4名の皆様は、鳥居の左側脚部を注視され、何やら会話中。後でGONsanも見てみますと、「尾道石工平三郎」と刻まれた部分でありました。
 「亀山八幡神社鳥居」の案内板にも「製作は江戸時代後半に瀬戸内沿岸部を中心に活躍した尾道の石工平三郎によるものです」と記載がありますけど、何か問題でもありますのでしょうか?
 後で時間が取れましたら、お尋ねしてみようと思います。
 それにしましても、社殿へと続きますこの参道…結構、急な坂道で、おまけに距離も長いようです(^-^;
 この神社のお祭りが、どんな形で行われますのか分かりませんけど、御神輿を担いで上がるのでしたら、結構、体力が要りますかも(^-^)

 それにしましても、亀山八幡神社・寄ノ宮八幡神社と二つの神社名は何で?
 この疑問解消の為、WEB上で捜しておりましたら、こんな記載にヤッと納得となりました(^.-)☆

 ◆八幡(はちまん)神社。

 --- にっぽんのじんじゃ http://flxsouko.web.fc2.com/tohoFSSjinja_hiroshima02-4-2.html ---

 福山市沼隈町草深に鎮座。千年小学校のすぐ西。
 往古、この一帯は下山南まで達する深い入海になっており、山南川河口付近には葦などの草が非常に生い茂っていたために「草深」と名づけられたといい、もとは山南村の一部だった。
 入海は現在の県道47号線、現在の山南川沿いに深く入り込んでいて、山の方からはその出口が見えなかったため、この地にあった泊りは「口無しの泊(無口泊)」と呼ばれた。
 源俊頼の歌集『散木奇歌集』の第六巻「悲歌」は、大宰府で亡くなった父の亡骸を伴って海路・水路にて帰京する途上に詠まれた歌を収めているが、口無泊について、「口なしのとまりときけば身にしみて いひもやられぬ物をこそ思へ」と詠まれている。
 水野家が福山藩主となってからこの地の新涯(新開地)開拓が行われ、入海は塞がれて農地となり、船の繋留所としての役割を終えた。
 現在は数多くのスーパーが立ち並び、沼隈南部の中心地となっている感じ。
 この八幡神社は、草深の産土神。
 もとは下山南の菅野というところに鎮座していたが、おそらくは入海の後退によって現在地に遷座した。その由緒によって「寄ノ宮(よりのみや)八幡宮」、あるいは社地の山名をとって「亀山八幡宮」と通称される。
 創祀は天暦年中(947-957)と伝わる。
 もとは山南にあったため、山南三村(上山南・中山南・下山南)の民もこの社を産土神としており、江戸時代には、まず八月十五日に山南村が先に祭を行い、草深村は二十五日に祭を行っていた。
 祭神は応神天皇、神功皇后、姫神と、宇佐八幡宮と同じ三神を祀る。
 八幡宮が遷座してくるまではこの地には地主神の津大明神が祀られており、八幡宮遷座後は末社となっている。
 この山も津大明神が向かいの田島から引っ張ってきたものという伝承があり、当時はこの辺りが海辺だったのだろう。
 また、岡崎宮・有安宮という二末社も鎮座している。岡崎宮は、岡崎悪四郎の霊を祀る。
 岡崎悪四郎義実は三浦氏庶家で、岡崎氏の祖。源氏の家人で、頼朝の挙兵時よりつき従い、鎌倉幕府御家人となった。伝承によれば、彼の孫の岡崎千太郎実忠は建暦三年(1213)の和田合戦に敗れ、この地に逃れて草深城を造り居住したといい、この地にはその子孫が多いという。
 調査によると、この社地は草深城跡とみられており、草深城の跡地に神社が建てられているとのこと。

 …と、こんな記載がありまして、うん、うん、納得のGONsanなのでありました(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(6)

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 墓地とお別れしますと、次は東方の山側へ歩いて移動です。
 挿入の衛星画像で言いますと、⑦⑧⑨の順番で中世の石造物を巡ります。
 民家と畑の間の小径を進みますと正面に石仏が…これも中世の作なんでしょうねぇ~何気なく足元に眼を移しますと、干からびた蛇の死骸が…
 続いて、⑧に向かいますけど、⑦~⑧間は距離的にはスグ近くですけど、一旦、来た道を戻りますから、それなりの距離が…ここには、石仏と五輪塔の一部が…
 ⑨の荒神社にも石仏と五輪塔の一部が…
 これらは、永い年月の間に解体・散乱していたものを、近くに集め祀られていますのかも…リーダーは、持参の資料を取り出されませんでしたから、前回調査以降、何にも変わりはありませんのでしょうねぇ~

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11/10(水)は、広島県知事選期日前投票で福山市鞆支所行きとなりました(^.-)☆

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 昨日・11/10(水)は、広島県知事選挙の期日前投票で、またまた福山市役所鞆支所行きとなりましたGONsanです。
 何かと忙しいですから、ササッと投票を済ませて帰ろう…とは思ったのですけど、仲々そぅもいきませんでしたネ(^-^;
 鞆支所裏の駐車場に車を駐め、支所内に入ろうとしますと、12名の観光客の皆様がボランティアガイドsanの説明に耳を傾けておられました。
 支所裏通りの正面の建物は、「龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅」ですから、龍馬の隠れ部屋の説明を受けておられますのかも(^-^)
 支所に入りますと、サッサと投票を済ませ、期日前投票所入り口の景観を2枚ばかりパチリです。
 そして、エレベーターで支所3階屋上へ…いつものように、仙酔島・弁天島等の眼に入ります景観を数枚パチリ(^.-)☆
 先ほどの観光客の皆様は、今度は、「対仙酔楼(豪商 大阪屋)跡」の説明を受けておられますのでしょうねぇ~
 日差しが雲間に隠れ、あいにくの景観でしたのが、チト残念。それでは、下りよう。
 エレベーターから下りて来ますと、どなたか男性が腕組みし、怖そうなお顔でエレベーター入口に立っておられます。
 いきなり、「投票所の写真を撮られましたか?」ですから、「えぇ、撮りましたけど、何か…」と返しますと、「写真撮影は禁止です!!」。「何でイケないのです?」と尋ねますと、「誰が投票しているかが分かってしまう」ですから、「んっ!?」のGONsan。
 投票所内には、投票で来訪者はGONsanのみでしたから、「人は撮っていませんし、投票所入り口の景観のみですよ…それに、私は、投票していることを公表されても、一向に構いませんよ」には、回答なし。
 挙げ句の果ては、「ちょっと待って下さい、相談して来ますから…」で、暫し待たされる事となりました。
 続いてGONsanに対応されましたのが、多分、鞆支所のエラい方。この方に先ほどの男性が「写真を撮った事は認めています…」と報告しながらGONsanの所へ…
 写真を撮った事は認めています…には、まるでGONsanが犯罪者の如くの言い方ですから、ムカつくGONsan。
 鞆支所のエラい方と思われます方にも、「何で投票所入り口の景観を撮ってはダメなのですか?」と尋ねますけど、要領を得ません。この方も返事に窮し、「チョッと待っていて下さい。選挙管理委員会事務局に確認してみますから…」と、写真撮影不可の説明は無し。デスクに戻られようとされますので、「私も多忙だから期日前投票に来ているのですから、無駄な時間は持ち合わせていませんよ…」にも、回答無し。
 暫く待っていますと、今度は期日前投票投票所の管理者の方なんでしょうか…GONsanに近付き、文書を片手に「この文書に、写真撮影不可と指示されています…」と言われますので、「チョッと見せて貰えますか」と依頼しますと、これは、「職員用文書ですので、見せる訳にはいきません…」ですから、またまた「んっ!?」のGONsanでありました。
 「何故、写真撮影がタメなんですか?」と、この方にも尋ねますが、明快な回答はありません。
 そぅしていますと、支所のエラい方が再びヤッて来られ、「直接、選挙管理委員会事務局と電話で話して下さい」との事でありました。
 時間が無いのに…と思いながらも、電話に出まして、「私は、投票所入り口の景観を2枚画像に納めていまして、この画像は持ち帰ります。WEB上で公開もします。何故、ダメなんですか?それに、ここの支所の皆様には、まるで犯罪者並みの扱いを受けておりますよ。時間がないから期日前投票に来ていますのに、意味ないではないですか?何故、撮影がダメなんですか?」と、また同じ質問を繰り返しますが、回答は無し。
 たまらず、「この画像は持ち帰り、公開もします。いぃのですか?」には、「致し方ありません」ですから、「それは、『OK』と言う意味なんですか?」と重ねて尋ねますと、また「致し方ありません」でありました。
 まぁ、GONsanとしましては、この「致し方ありません」の回答で充分ではあります。
 会話の流れから、「致し方ありません」=「OK」ですから(^.-)☆
 「それでは、時間がないから帰ります」と電話を切りますと、傍で会話のやり取りを聴いておられた支所のお二人。お顔を見ますと、お二人とも苦渋に満ちた苦虫をかみ殺したお顔ですから…
 このお二人は、GONsanと選挙管理委員会事務局とのやり取りで、こぅいぅ結末になろうとは思いもされませんでしたのかも…
 お二人と別れ際に、「次回の選挙でも投票所の景観は画像に撮りますし、公開もしますよ。その際には、またイチャモン付けないで下さいよ…時間が勿体無いから…」とお願いし、鞆支所からお別れとなりました。
 勿論、善良な一市民に、まるで犯罪者かの如くの物言い・対応はダメですよ。朝礼等で、市民との応対面で充分配慮する旨、徹底して下さいよ…と、念押しもしておきましたけど、彼らは本気で耳に入れられましたかどぅか…
 それにしましても、不可解な事が2点ありますネ。
 1点は、支所の皆さんは誰一人、GONsanの画像を確認されなかったこと。
 もぅ1点は、写真撮影不可の明快な理由は、最後まで言って貰えなかったこと。この2点は、実に不思議。納得する理由を言って貰えれば、GONsanも指示に従いましたのかも(^-^)

 余談ですけど、期日前投票所と言いますと、翌日・11/11(木)の夕方には、県内のテレビ各社が、JR広島駅南口・地下広場に11日から設けられた「期日前投票所」のニュースを流しておられましたネ。
 投票所は勿論、投票者のお顔も入れた映像で(^.-)
 この「JR広島駅南口・地下広場」と言いますと、衆院選の地区割で言いますと「広島1区」となりますのでしょうか…
 「広島1区」も投票率の悪さは「広島7区」とワーストを競っています関係にありますけど、「JR広島駅南口・地下広場」に期日前投票所を開設し、少しでも投票率アップを図ろうとのご努力が充分伝わって来ますねぇ~
 それに引き替え、福山市は、写真撮影と言う低レベルな問題で市民にイチャモンですから、何とも(^-^;
 福山市の投票率ワーストの要因の一つが垣間見れまして、少々、哀しさも生じて来ますねぇ(^-^)//"

 それと、福山市の「投票のあんない」のハガキの裏面ですけど、ここに期日前投票の理由を記入する事となっていますけど、この欄も要改善ですネ。
 「きょう、たまたま友だちとここで待ち合わせをしていたら、これがあったので、ここですませておこうと。」…との、こんな理由では、福山市では期日前投票不可なんでしょうねぇ~鞆支所の皆様のGONsanへの対応を勘案しますと、そんな気がしてなりません(^-^)/

 ◆JR広島駅でも期日前投票スタート 14日投開票 知事選・県議補選

 --- 11/11(木) 16:28配信 RCC中国放送 ---

 広島県知事選挙などの期日前投票が、JR広島駅南口に設けられた会場でも始まりました。
 JR広島駅南口・地下広場に11日から設けられた「期日前投票所」です。対象は、仕事などで14日の投票日に投票に行けない広島市の有権者で、このうち安佐南区の有権者は県議会議員の補欠選挙も投票できます。
 市選管によりますと、10日までに広島市で期日前投票したのはおよそ7万人で、前回の同じ時期と比べ、1.7倍に増えているということです。
 「きょう、たまたま友だちとここで待ち合わせをしていたら、これがあったので、ここですませておこうと。」
 「前回(衆議院選挙)もあったでしょ。便利だなと思って、また、ここに来た。」(期日前投票をした人)
 「通勤通学の際、また買い物でお出かけなどの際にぜひご利用いただきたい。」(広島市選挙管理委員会事務局 山越重範次長)
 この期日前投票所は、13日まで午前10時から午後8時の間、利用できます。

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(5)

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 この墓地内には、何ヶ所か五輪塔が存在しますようで、順番に廻ってチェック・確認されますようであります。
 GONsanは、この方達の後を付いて歩きながら、相変わらず画像に納めますのみですけど、それでも楽しい(^.-)☆
 墓地内を歩いておりますと、またまた永い歴史を感じさせます法名碑に(^_^)v
 拝見しますと、「初代 高城主 田中河内守 寛永3年(1462)2月22日~14代 寛文13年(1673)」と記載です。反対側(裏面)にも勿論、延々と続いております(^-^)
 つぃ先ほども凄い法名碑に眼が止まりましたけど、こちらの法名碑…ではありませんネ、墓誌碑も、一層凄いものでありました(^_^)v
 数ヶ所の五輪塔を確認しましたけど、リーダーは、過去の資料への加筆はしておられませんから、以前の調査以降、変わりはないのでしょうねぇ~
 「初代 高城主 田中河内守」が何者なのか、WEB上で検索してみるのですけど、詳しい記述はありませんで、かろうじてこんな記載が…

 ◆福山市沼隈町 -- 日蓮宗法星山本光寺

 福山市沼隈町下山南樫隈にある本光寺。本尊は久遠の釈迦牟尼仏。創建は健保二年(1214)天台宗であったが寛正元年(1460)成就院日信は、高城主田中河内守と共に京に上り日蓮宗に改宗、現在の寺号を授かる。境内に田中氏の墓石、妙見堂•八王子堂、裏山の山頂に竜王堂があり、尾根伝いに要山城がある。水呑妙顯寺と本光寺の関係も掲載。2014.06.02。

 …と、こんな記述が…
 「高城主 田中河内守」は、どんな方でしたのでしょうねぇ(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(4)

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 曽我神社から降りて来ますと、また来た道を逆戻りし、木の葉荒神社の石段上り口右脇の祠に立ち寄りです。
 ここでは、散乱しています石造物を確認です。以前も調査しておられますのでしょうか…リーダーは、過去の調査資料を確認しながら、何やら加筆しておられます。
 これらは、五輪塔や石仏の一部なのでしょうか…よく分かりませんモノをここに集めて保管しておられますのかも…
 こぅした五輪塔や石仏がバラバラとなったものを、一つ一つ組み立てて修復されますから、時たま実にバランスの悪い五輪塔を見掛けますのかも分かりませんねぇ(^-^)
 ここに置いてありますものは、組み合わせようがなく、凡てバラバラなモノなんでしょうねぇ~
 木の葉荒神社を後にしますと、暫く進み、民家の間の路地を抜け墓地へ…この墓地でも、五輪塔の調査・確認なのでしょうネ。
 墓地内には、先祖何代も続きます法名碑に眼が止まってしまいました。
 見ますと、初代の慶安4年(1651年)3月10日~明和9年(1772年)1月1日までの記載。う~ん、慶安4年と言えば「由井正雪の乱」の頃ですねぇ~
 反対側と言うか裏面にも、延々と法名が記載されていますのでしょうねぇ~ついでに、拝見すれば良かったのかも…それにしましても、実に由緒ありますお宅のようです。凄い\(^o^)/

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 木の葉荒神社の次は、「曽我神社」に向かいますけど、途中、「地蔵堂」に立ち寄りです。道端の山際に存在します小さな祠ですから、立ち寄りと言いますよりも、眺めながら通過です(^-^)
 この地蔵堂を過ぎますと、細い道を山登り(^.-)☆
 ですが、スグに曽我神社にと到着です。ここには、五輪塔の一部が祀ってありました。祀ると言うよりも、無造作に置かれています状態でありましたネ。

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ゴミステーション付近に、BS/CSアンテナが放置されておりました(^-^;

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 本日は月曜日ですから、学童の皆様の下校時、安全パトロールの当番日です。
 定刻10分前に、いつものように、GONsanの担当場所であります安政橋東詰めに出掛けまして待機です。
 暫く学童の皆様のヤッて来ますのを待ちながら周辺を見廻しますと、浜自治会ゴミステーション近くに、BS/CSアンテナが放置されておりました(^-^;
 何やら張り紙がありますので、確認してみますと、うん、うん、そぅいぅ事でありましたか(^-^)
 張り紙には、『収集できません、理由は次の項目のとおりです。収集日が違います。不燃(破砕)ゴミ 福山市 11/1』と記載です。どぅやら、ゴミ出し日が違いましたようですネ。
 ですが、11/1(月)の安全パトロール日には、このBS/CSアンテナは見掛けませんでしたけど…
 既に一週間経ていますけど、ズッとここに放置されていますのでしょうねぇ~一週間もあれば、当のご本人は気付かれますのでしょうけど、知らぬ顔なんでしょうか…
 それとも、浜自治会に所属されません方が、通りがけにゴミステーションに廃棄されましたのかも…
 それにしましても、一週間の期間中に不燃(破砕)ゴミ回収日もありましたのですけど、福山市は回収されませんのですねぇ~それに、浜自治会の方もこのBS/CSアンテナにお気付きなんでしょうけど、放置のまま…何とも(^-^;
 皆さん、片付けたい気持ちは充分お有りなのでしょうけど、本人への周知のため、敢えて、ズッと放置状態なのかも…
 とにかく、苦笑のGONsanです。
 お互い、ルールは厳守しなければなりませんネ。我が自治会でも同様なケースは発生していますのでしょうけど、困ったものですネ(^-^)//"

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 沼隈町草深の道路沿いに存在します五輪塔を確認されますと、次は歩いて「木の葉荒神社」へ向かいます。
 ここでは祠の片隅に置いてあります石を手に、リーダーが確認。五輪塔の一部なのでしょうけど、本体は何処に…近辺の石仏を整理しておられます時に発見され、この祠に祀ってありますのかも…
 リーダーと3名の方が会話しておられますけど、内容が難解ですから、GONsanにはよく分かりません(^-^;
 それにしましても、この4名は、何者なんでしょうねぇ~ヤケに、中世の石造物に詳しいです。GONsanをノケ者にして(GONsanには難し過ぎる)会話をしておられます。
 この方達の現役時代の本職は、何しておられましたのでしょうねぇ~
 学校の先生?…市役所の史跡担当部署にお勤め?…単なる趣味で、その道を究めて詳しい?…
 こらぁ、せっかく参加している一般ド素人のGONsanに、もっと初歩的な説明をしろぉ~!!…と言いたいところですけど、レクチャーされましても分かりませんかも…まぁ、GONsanも質問もせず、写真を撮りまくっているのみですから、それで構わないのではありますが(^.-)☆

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(^.-)☆(1)

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 コロナの影響で、久しく備陽史探訪の会の行事に参加しておりませんでしたGONsanですけど、9/27(月)は、久し振りに「備陽史探訪の会『中世石造物調査(沼隈町)』」への参加となりました。
 WEB上で申し込みしておりまして、当日の集合場所であります「サファ福山・ユーホー北駐車場」に到着は、定刻の15分前。
 駐車場内を見廻しましても、それらしい方々のお姿は無し。一服しながら暫し待機となりました。
 集合時間の5分前くらいに、GONsanが佇んでいます脇のベンチに男性お二人が来訪。このお二人に眼を向けましても、備陽史探訪の会の関係者なのかどうかは分かりません。
 その内に、女性がお一人、このお二人に合流です。
 この3名の方の会話に耳を傾けておりましたら、話しの内容で、何となく「中世石造物調査」の参加者のようにも感じられ、「あのぉ、備陽史探訪の会の方でしょうか?…」とお尋ねしますと、「あぁ、そぅです…」のご返答。
 「本日の中世石造物調査に申し込みをしています○○です…」とお伝えしますと、「本日の参加者の確認をせずに来たけど、貴方も参加されるのですネ…」ですから、「んっ!?…」のGONsanでありました(^-^;
 なんでも聴くところによりますと、中世石造物調査には参加者が少なく、いつも4名で行っておられるとの事。
 ですから、この日の参加者は、いつものように、女性2名・男性1名、そしてリーダーらしき男性1名の計4名での実施を予定しておられましたようであります。
 これには、随分前から申し込み済みのGONsanは、唖然としてしまいましたネ。
 まぁそこは、大人のGONsanですから、グッと我慢あるのみ(^-^)
 とにかく定刻を少し過ぎて、女性1名が来訪。全員が揃いましたようであります。とは言いましても、確認しておられないのですから、GONsanのような申込者がおられますのか否かは、皆さん分かりません。
 それでも、定刻を過ぎましたから、いざ沼隈町へと出発です。が、4名の方々はリーダーの車に同乗で、GONsanは自分の車で追走となるようですねぇ~
 まぁ実にエェかげんなリーダーであります(^-^;
 それにしましても、危ないところでしたネ。たまたま声を掛けて備陽史探訪の会関係者と確認出来ましたから良かったものの、ズッと待っていましたら、サッサと置いて行かれますところでしたよ。
 それに、ユーホー駐車場内の別の場所におりましたら、いつまでも分かりませんでしたかも…いゃいゃ、実にヒドい、この日のメンバーの皆さんでありました。

 それはともかく、『中世石造物』とは何なんでしょうねぇ~
 WEB上で「中世石造物」を調べてみますと、宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔(ごりんとう)・板石塔婆(いたいしとうば)等の石塔を意味しますのかも…
 まぁよく分かりませんけど、この方々の後を付いて歩きますと、何を調査しますのか分かる事と思います。
 とりあえず、最初に向かいましたのが沼隈町下山南で、福山市沼隈体育館近くの山南川沿いの「辻堂」でありました(^.-)☆
 こぅした辻堂の屋根下には、よく観音菩薩が祀られていますけど、4名の皆様は、屋祢下の石仏を確認です。
 以前にも調査しておられますのでしょうネ…リーダーは、過去の調査書をめくり加筆しておられましたから(^_^)v

 そして、その後で、リーダーがGONsanにレクチャーです(^.-)☆
 「この石仏のように、上部の両端が脊側に反り返っているのが中世の創作で、そぅでないのは近世の作…」と言っておられましたような…
 う~ん、このレクチャーを受けます際には何にもメモもしておりませんGONsanですから、せっかくド素人のGONsanを相手に初歩的なレクチャーでありましたのに、今となっては詳細を憶えておりません(^-^;
 ですから、その都度、色々教えて頂きましたけど、哀しいかな凡て記憶から薄れてしまいましたので、当時を想い出しながら綴りますと、間違った事を綴りそうですので止めときます(^-^;
 辻堂とお別れしますと、次は、沼隈町草深の道路沿いに存在します五輪塔へ。
 ふん、ふん、今回の「中世の石造物調査」は、五輪塔のようであります(^.-)☆

 ◆五輪塔

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓として使われる塔の一種。五輪卒塔婆とも呼ばれる。
 一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。
 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。
 石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。

 ・材質と形態

 立体化された五輪塔の材質は石造のものが主体をなし、安山岩や花崗岩が多く使われている。古いものには凝灰岩のものが見られる。他に木製、金属製、鉱物製(水晶)、陶(瓦)製、土製の塔もある。
 五輪塔は下から四角(六面体)・丸(球)・三角(四角錐または三角錐)・半丸(半球)・上の尖った丸(宝珠型)または尖っていない団子型(団形)を積み上げた形に作られる。製作された時代・時期、用途によって形態が変化するのが特徴である。石造のものは変化に富んでおり、例えば鎌倉時代に多く作られた鎌倉型五輪塔とよばれるもの、一つの石から彫りだされた小柄な一石五輪塔(いっせきごりんとう)、火輪(三角の部分)の形が三角錐の三角五輪塔(伴墓の重源塔に代表される)、地輪(四角)の部分が長い長足五輪塔(ちょうそくごりんとう)、火輪の薄い京都型五輪塔とよばれるものなどがある。京都高山寺の明恵上人(1232年寂)の廟堂内にある五輪塔の火輪には反りがなく軒口もわずかに面を取る程度の珍しいもの。石造五輪塔の火輪は「三角」とするものの、屋根面と軒に反(そ)り、そして厚い軒口を持ちあたかも屋根のように造形するのが一般的である。ただし宝塔の笠によく見られる棟瓦や軒裏の垂木の造り出しは決して見られない(唯一の例外が京都革堂の五輪塔で軒裏に垂木様の刻み出しが見られる)。また、板碑や舟形光背(ふながたこうはい)に彫られたものや、磨崖仏として彫られたものもあり、浮き彫りや線刻(清水磨崖仏などに見られる)のものもある。石造火輪にはまれに「噛み合わせ式」のものが見られる。これは普通は火輪の上部を削平したうえに風輪を載せるのに対し、あたかも火輪の先端を風輪に突き刺したかように一体化したものであり、代表例として高野山西南院五輪塔(二基)が挙げられる。また古い五輪塔では火輪の上部に層塔の屋根のように露盤を刻みだすものがある。

 経典によれば、五輪はそれぞれ色を持ち、地輪は黄、水輪は白、火輪は赤、風輪は黒、そして空輪は全ての色を含む(「一切色」「種種色」)とされ、木造五輪塔の中にはこうした着彩が施されたものがしばしば見られる(空輪は青に塗る)。

 特殊な例としては、一般的に塔婆や卒塔婆と呼ばれる木製の板塔婆や角柱の卒塔婆も五輪塔の形態を持つが、五輪塔とは言わず、単に塔婆や卒塔婆という。卒塔婆(ソトウバ)はインドにおける仏舎利を収めたストゥーパの中国における漢字による当て字で、日本では略して塔婆や塔もといわれる。ただ、塔は近現代の一般的な塔の意味との混同があるため、現代では仏塔という場合が多い(詳しくは、仏塔や塔を参照)。つまり、五輪塔の形=仏塔のように扱われている。木製の角柱の卒塔婆は石造の墓を作るまでの仮の墓として使われることも多い。

 ・構造

 五輪塔は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形または団形=空輪(くうりん)によって構成され、古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた五大を象徴する。これらは『大日経』などの経典に現れる密教の思想の影響が強い。それぞれの部位に下から「地(ア अ [a])、水(バ व [va])、火(ラ र [ra])、風(カ ह [ha])、空(キャ ख [kha])」の梵字による種子(しゅじ)を刻むことが多い。四方に種子を刻む場合は四転、例えば地輪に刻むアなら→アー→アン→アクという具合に刻む方角によって変化する。種子は密教の真言(密教的な呪文のようなもの)でもあるので下から読む。

 宗派によって、天台宗・日蓮宗では上から「妙・法・蓮・華・経」の五字が、浄土宗では上から「南・無・阿弥・陀・仏」の文字が、禅宗では下から「地・水・火・風・空」の漢字五文字が刻まれる場合もあるが、宗派をとわず種子を彫ることも多い。日蓮正宗では必ず上から「妙・法・蓮・華・経」の五字を刻む。また、種子や文字のない五輪塔も多く存在する。
 木製の板塔婆(板卒塔婆)も五輪塔の形態を持つ。これには表に下から「地(ア अ [a])、水(バ व [va])、火(ラ र [ra])、風(カ ह [ha])、空(キャ ख [kha])」の梵字による種子を、裏には仏教の智慧をあらわす金剛界の大日如来の種子鑁(バン वं [vaṃ])を梵字で書くことが多い。木製には他に角柱の卒塔婆もあり、真言や念仏がかかれることが多い。

 ・歴史

 五大思想(宇宙の構成要素についての考え)は元来インドにあった思想で、五輪塔の成立にはインド思想を構築し直した密教の影響が色濃くみられる。インドや中国、朝鮮に五輪塔造形物は現存しないところから、五輪塔の造立がはじまったのは平安時代後半頃の日本においてと考えられている。『大日経』の解釈書である『大日経疏』や善無畏『尊勝仏頂脩瑜伽法軌儀』などには五輪塔図が現れるが、これは日本において書写されるうちに塔状に書きなおされたもので、本来は五大(四角、丸、三角、半円、宝珠型)がそれぞれ単独ばらばらに描かれていた。これからも五輪塔が日本において初めて成立したと推定できる。

 また、桃山時代の文献でしか知られていないが、醍醐寺円光院の石櫃には応徳二年(1085年)七月銘の高さ一尺ほどの銅製の三角五輪塔が収められていた(『醍醐寺新要録』)。内部に遺骨が納められていたというこの塔はいまも石櫃の中にあるはずで、これが今のところ年代が確かな立体的造形物としては最古の例と考えられる。実際に確認できる石造五輪塔では、奈良春日山石窟仏毘沙門天持物塔(保元二年(1157年)銘)や岩手県平泉町・中尊寺願成就院の有頸五輪塔(宝塔と五輪塔の中間タイプ)、同町・中尊寺釈尊院の五輪塔(「仁安四年(1169年)」の紀年銘)、大分県臼杵の中尾嘉応塔(嘉応二年(1170年)銘)などが最古例である。丸瓦瓦当に刻出された五輪塔も平安期にしばしば見られその最古の例として保安3年(1122年)創建の法勝寺の例が挙げられる。また天養元年(1144年)創建にかかると考えられる「極楽寺」の経塚からは陶(瓦)製の五輪塔が発掘されている(兵庫県姫路市香寺町常福寺蔵)。金属に遺された例では兵庫県徳照寺の梵鐘(長寛二年(1164年)銘)に鋳出された五輪塔像がある。絵画では、平清盛献納の『平家納経』の箱蓋に描かれたものや平安末期~鎌倉初期に描かれた『餓鬼草紙』が古い例として知られている。木製のもので在銘最古の五輪塔は京都市左京区久多の志古淵神社蔵の「久多の五輪塔」で、高さ29.3㎝と小型だが、「平治元年(1159年)十二月九日」の年紀などが墨書されている。

 木製五輪塔はしばしば仏像胎内から発見され、特に運慶ないしその弟子による作品に発見されることが多い。近年海外流出が心配されて騒ぎになった運慶作(推定)の真如苑大日如来坐像(重文)の胎内にも木製五輪塔(歯を伴う)が収められていることがX線調査の結果分かっている。石造五輪塔が一般的に造立されるようになったのは鎌倉時代以降で、以後、室町時代、江戸時代を経て現在に至るまで供養塔や墓碑として造塔され続けており、現存するもの以外に考古遺物とし出土するものがある。

 初期の五輪塔の普及の要因としては、高野聖による勧進の影響といわれる。平安末期に『五輪九字明秘密釈』を著した覚鑁も元は高野聖といわれる。高野聖による五輪塔による具体的な勧進としては、五輪塔の形をした小さな木の卒塔婆に遺髪や歯などを縛り寺に集め供養する。
 真言律宗の僧叡尊や忍性も五輪塔の普及に係わったとされる。
 鎌倉時代の奈良東大寺再建にあたり、重源に招かれ宋より日本に渡り、日本に石の加工技術を伝え、後に日本に帰化した石大工伊行末(い・ゆきすえ)の子孫で伊派(いは)といわれる石工集団や、忍性と共に関東へ渡った伊派の分派大蔵派といわれる石工集団が、宋伝来の高度な技術で石塔などの製作を行った。それまで加工の容易な凝灰岩を使った石造五輪塔が一般的だったのに対し、鎌倉期以降花崗岩など硬質の石材を使ったものが多くなるのはこのためと考えられる。伊派や大蔵派が中心になり鎌倉時代以降に作られた五輪塔の形を後に鎌倉型という。また地輪を受ける基礎石の上面に返花座を刻みだしたものを大和式と呼び、これは大和地方から山城南部辺に鎌倉末期から南北朝期にかけての優品が残る。
 代表的なものには、当麻北墓五輪塔、石清水八幡宮にある航海記念塔(高さ6メートル)や岩船寺塔(高さ2.35メートル)などがある。三角五輪塔では奈良市三笠霊園内の伴墓五輪塔(伝重源墓塔)がある(以上いずれも重要文化財)。

 ・五輪塔の意義

 仏教で言う塔(仏塔)とは、ストゥーパ(卒塔婆)として仏舎利と同じような意義を持っている。しかし、小規模な五輪塔や宝篋印塔、多宝塔(石造)は当初から供養塔や供養墓として作られたのであろう。中世の一部五輪塔には、地輪内部に遺骨等を納めたものが現存する。また、供養塔・供養墓としての五輪塔は全国各地に存在し、集落の裏山の森林内に、中世のばらばらになった五輪塔が累々と転がっていたり埋もれていたりすることも稀ではない。現在多くの墓地で見られるような四角い墓は、江戸中期頃からの造立であるが、現在でも多くの墓地や寺院で一般的に五輪塔は見ることができる。覚鑁は経典の記述に基づき、五輪を人の五体になぞらえた図を残している。これが入定の姿と解されて墓塔や供養塔として多用されたものと考えられる。

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国道2号バイパス福山道路…どぅなりますのでしょうねぇ~

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 また、新聞記事から話題を拾ってみましたけど、う~ん、国道2号バイパス福山道路…開通は、いつになりますのでしょうねぇ~
 岡山県側の笠岡市、広島県側の三原・尾道市と、東西のバイパス整備が進行する中で、福山市だけが取り残されています「国道2号バイパス福山道路」…福山市瀬戸町~赤坂町間の3.3kmは2019年11月に着工されていますけど、笠岡市茂平~福山市瀬戸町間(13.2km)は、事業化も決まっておりません現状のようであります。
 この為、これまで福山市単独で設立していた期成同盟会を解散し、4市や関係団体で改めて「整備促進期成同盟会」を組織化。今月、国交省に提言書を提出されるとの事。

 ◆一般国道2号 福山道路

 --- 福山河川国道事務所 https://www.cgr.mlit.go.jp/fukuyama/road/fukuyama/outline.html ---

 ・福山道路の計画概要など

 福山道路は、岡山県笠岡市茂平から広島県福山市赤坂町に至る延長16.5kmの道路で、岡山県倉敷市と広島県福山市を結ぶ地域高規格道路「倉敷福山道路」(約55km)の一部に指定されており、岡山県南部地域と広島県備後地域の連携強化、時間距離の短縮に資する道路です。
 また、福山道路の一部は、福山都市圏の環状道路としての機能を担っており、交通混雑の緩和、周辺地域の活力向上に貢献し、日常生活の利便性を高めます。
 平成13年度から福山市瀬戸町長和~福山市赤坂町(L=3.3km)を事業化し、現地調査・詳細設計を行い、平成15年度より設計協議を進め、事業を推進しています。
 ※「地域高規格道路」とは、全国的な高規格幹線道路と一体となって、高速交通体系の役割を果たし、地域間の交流、周辺地域との連携、空港や港湾といった広域交流拠点との連結など、地域経済の活性化に貢献する規格の高い道路です。

 ・関連路線情報

 福山都市圏では、福山市内の交通問題の解消を目指して、福山道路の整備と併行して、関連路線の整備を進め、快適で活力のある地域づくりを行っていきます。
 福山市は、平成5年(1993年)に地方拠点都市の指定を受け、広島県東部における拠点都市として、都市機能の強化が図られています。また、平成5年(1993年)に策定された「備後・笠岡都市圏将来道路網計画」に基づき福山地域の幹線道路整備が進められています。
 この中で福山西環状線は、福山都市圏の外郭環状軸を形成する主要幹線道路として位置づけられています。

 ・福山西環状線

 福山西環状線は、国道2号と国道486号とを連絡して、南北方向の交通処理を分担するとともに、都市部へ集中する交通の分散を図り、福山市内の交通混雑の緩和と府中市を中心とする内陸部地域との連絡を強化する役割を担っています。
 また、国道182号・国道486号と合わせて、福山都市圏の骨格を成す「福山環状道路」として地域高規格道路の計画路線に指定されており、福山市の拠点性を高めるための道路として整備されます。
 ※「地域高規格道路」とは、全国的な高規格幹線道路と一体となって、高速交通体系の役割を果たし、地域間の交流、周辺地域との連携、空港や港湾といった広域交流拠点との連結など、地域経済の活性化に貢献する規格の高い道路です。

 ・福山沼隈道路

 福山沼隈道路は、福山地方拠点都市地域の南方向の幹線道路として、一般国道2号バイパス福山道路と接続し、福山市中心部と市南西部及び沼隈町方面地域との連絡を強化する役割を担っています。
 また、広島県の道路整備計画において県土の一体的発展を担う広域道路(交流促進型)として位置付けられています。
 ※「広域道路」とは、都道府県の区域を越えた地域間相互の連携強化を図る上で基盤となる道路で、広域的な活動、交流を支える幹線道路であって、高規格幹線道路と一体的に機能する一般国道及び主要な都道府県道等です。

 …と、こんな「国道2号 福山道路」の道路整備計画でありますけど、『笠岡市茂平~福山市瀬戸町間(13.2km)』間の開通は、GONsanの存命中には実現しませんのかも…
 例え存命中でありましても、開通しました頃には、既に免許証返上で車には乗っていませんのかも…
 とにかく、モタモタしています「国道2号 福山道路」…国道2号線の慢性的な渋滞状況解消に向け、早期開通を実現して頂きたいものであります(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(35)

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 一服しながら暫く周辺の景観に眼を向けておりまして、海面に眼を戻しますと、小魚が同じ場所でクルクル廻っておりましたネ(^.-)☆
 人間で言うなら、苦しそうにもがいていますかのように…
 どぅしたんだろう…と、海面を覗き込むように見つめておりますと、こんな姿がチビッコ釣り師の皆さんの眼に入りましたのかも…3人のチビッコ釣り師がGONsanの横に…
 そして、同様に「どぅしたんだろぅ?」と、海面を凝視です。
 その内、年長の釣り師が「網!網!!」と、下の男の子に指示。護岸から網ですくおうとするのですけど、あと少しのところで届きません。何度も繰り返しておりましたけど、どぅなりましたのでしょうネ。
 この段階で、GONsanは護岸から退散となりました。
 どうやら、この3人の釣り師の皆さんは、ご兄弟妹のようですネ。相変わらず、保護者のお二人は、スマホ・昼寝で忙しそうでありました。
 市営駐車場に戻り精算しますと、ふ~ん、約4時間近く鞆に滞在のGONsanなのでありました(^.-)☆
 翌日の中国新聞朝刊には、この日の「鞆の浦 de ART」の様子が記事掲載に(^-^)//"

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朝刊紙上に、久々に従姉の作品が…

岡田節子20211105
季語

 今朝、新聞に眼を通しておりましたら、中国新聞紙上に久々に従姉の作品が…ふ~ん、俳句にも応募されるんですねぇ~
 日々過ぎ去りますのは早いもので、従姉のご主人が亡くなられて1年が訪れますかも…
 永年連れ添った伴侶が居なくなりますと、さぞ寂しい日々であるものと推察しますが、初盆で伺った際には、寂しい中にもご家族と楽しく暮らしておられますご様子が伺え、安心しましたような…
 それに、こぅして、時たま新聞紙上でお名前を見つけますと、元気でおられるのだ…と、安心しますGONsanなんであります(^.-)☆
 ところで、今回の俳句を拝見し、一瞬、「この句には季語がないじゃぁないの…」と、暫し思案のGONsanです。
 従姉宅にはワン公は居たけど、鶏は居ないのに…「鶏の頭」は季語になるのかなぁ~と、一応、WEB上で『鶏頭』を検索です。
 そぅしましたら、つくづく、GONsanの無知さに、我ながらバカだなぁ~と(^-^)
 ふん、ふん、今まで、我が家にも植えています「けいとう」は、文字では「ケイトウ」と書くのかと思いましたら、漢字では『鶏頭』と書くのですねぇ(^-^;
 確かに「ケイトウ」の花は、よくよく見ますと、鶏の頭に似ておりますネ。だから「鶏頭(けいとう)」なんですネ(^_^)v
 この歳となりまして初めて、気付き、大納得したものの、改めて自分自身の無知さに苦笑してしまいます(^-^;
 で、改めて、従姉の句に眼を移しますと、う~ん、何となく、従姉の心境が伝わって来ますような…
 日々元気に、それなりに忙しく過ごしておりましても、ふと、亡き夫の面影が…何とも言えない寂しさも生じますのでしょうねぇ~
 そんな時、眼にした鮮やかな真っ赤な鶏頭…これに元気を貰い、あらためて「元気で日々を歩んで行こう」との想いが生じて来ますのでしょうねぇ~こんな情景が浮かんでしまいます。
 ふ~ん、『鶏頭』ねぇ…この歳にして、また一つ、知識が増加してしまいましたネ(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(35)

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 んっ!?…こちらでも、もぅお一人が(^.-)☆
 こぅして、いつもお二人でアチコチ出掛けられ、写生を楽しんでおられますのかも…
 駐車までの帰路は、いつもは通りません路地をランダムにノンビリと歩いて…そぅしますと、こんな所に祠が…そして、その前にはウサギsanが…
 福山市鞆支所方向に進み海岸沿いに出ておりますと、「龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅」まで戻って来ましたネ(^.-)☆

 ◆龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12672/ ---

 1867(慶応3)年4月23日夜、坂本龍馬ら海援隊士が乗った「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」とが岡山県六島沖で衝突し、「いろは丸」が沈没するという事件が起きました。この『いろは丸事件』の際、鞆港を訪れた龍馬らが宿泊したのが『桝屋清右衛門宅』。当時、廻船問屋を営んでいた桝屋は土佐藩や薩摩藩、大洲藩などとも取引があったと思われ、それらの縁でいろは丸救出に関わったのです。伝説的な龍馬の隠れ部屋が、今では一般に公開されています。

 ・朝鮮通信使にも利用された鞆の津の代表的町家
 1764(宝暦14)年、11次朝鮮通信使が鞆を訪れた際に、対馬藩御船奉公輿添役や買物方三使附通詞が、この『桝屋清右衛門宅』に宿泊したと記録されています。当時の鞆の津は海運業で隆盛を極めていて、歓迎提灯の明かりで夜でも昼のようだったといいます。
 ◇往時の廻船問屋の雰囲気が宿る桝屋清右衛門宅

 ・商家の粋な見栄っ張り -- 前流れを長くして威容を示す
 「桝屋清右衛門宅」の屋根に注目。外観の側面から見るとよくわかるのですが、屋根の前側(前流れ)を伸ばして、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけています。こういった手法は鞆では19世紀以降に流行。
 商家の見栄っ張りな気風がよく現れています。
 ◇大棟を後方にずらし大きく見せる -- 商家の知恵ですね

 ・雰囲気満点 -- ここが伝説の龍馬の隠れ部屋
 東側納戸から2階に通じる階段を上り、天井裏の隠し空間へ。さらに奥の階段を進むと、そこには8畳ほどの畳敷きの部屋が!
 これが、龍馬が隠れていたと言い伝えられている部屋だといいます。龍馬の息を感じるような雰囲気が保存されていて、説得力十分!
 ◇忍者屋敷のような隠れ部屋 - ここに龍馬が…

 今までGONsanは、一度も、この「龍馬の隠れ部屋」に入った事がありませんけど、今回もパス(^-^)
 護岸に出ますと、釣りを楽しんでおられます方々に眼を向けながら一服です。
 ふ~ん、チビッコ女釣り師ですか…イィですねぇ~ひたすら獲物が掛かりますのを待っておられますけど、母親は傍らでスマホいじり…そのまた傍らでは、気持ち良さそうに居眠りの父親…
 ここもまた仲々イィ光景であります(^-^)//"

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本日正午前頃の空…真夏並みの真っ白い雲でキレイでした(^.-)☆

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 本日の午前中、樹木の枝切りでもしようか…と、取り掛かったものの日差しの下で暑いのなんの(^-^;
 10分も経ません内に余りの日差しのキツサにダウン、もぅダメ!中止です(^-^)
 空を見上げますと、真夏並みの真っ白いキレイな雲。暑いはずです。
 枝切りは後日に廻して、とりあえずカメラを持ち出し数枚パチリ。
 午後は晴れたり曇ったり、小雨がパラついたり、妙な天気でありました。既に11月に突入だと言いますのに…そろそろ紅葉を求めて山歩きに行こうか…と言うのに、いつまでも汗ばみますねぇ(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(34)

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 それでは、この辺で圓福寺とはお別れで、鳥居のあります表参道を下りようかとも思いましたけど、来た道を戻り「福禅寺・対潮楼」に向かいます事に(^.-)☆

 ◆福禅寺・対潮楼

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12654/ ---

 渡船場のすぐ西側に視線を移すと、美しい石垣が目に映ります。その高台の上に悠然と建つのが『福禅寺対潮楼』です。平安時代の天歴年間(947~957年)に、空也上人によって、「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。
 のち、1638(寛永15)年に、後陽成天皇の第三皇子によって、真言宗大覚寺の末寺に指定。その際に、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められ、そのまま、今日に至っています。
 鞆の浦第一の景勝地として昔から愛されてきたこのお寺さん。その歴史を、受付のスタッフさんが親切に教えてくれますよ。ぜひ、お話を伺ってみましょう。

 ・「日東第一形勝」-- その賛辞に相応しい絶景
 この「対潮楼」は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったんですね。1711(正徳元)年、従事官・李邦彦は、そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛。のち1748(延享5)年には、正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。
 ちなみに、この眺望写真、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち(山口百恵さんのカバー)」のCDジャケットにも使われたんですよ。
 ◇朝鮮通信使も絶賛した、この絶景

 ・海上安全と安産信仰を集めたご本尊・千手観音
 村上天皇の后となった、この地(備後国赤坂村)出身の新庄太郎実秀の娘・明子は、日頃から千手観音信仰に篤かったといいます。そこで、后となった明子は、故郷に千手観音を祀るお堂を建てたいと思い立ち、空也上人によって「福禅寺」の前身となる「観音堂」が開基されました。ご本尊の千手観音は長い間、本堂の厨子の中で秘仏として安置されていたものです。
 ◇良好な状態で保存されていたご本尊さま、華美

 ◆福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)

 --- https://www.hiroshima-kankou.com/spot/8466 ---

 ・鞆の浦の素晴らしい眺めを一望

 「いろは丸事件」の際、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所。対潮楼は今から約320年前の1690年ごろ、真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
 座敷からは、穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ、鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
 江戸時代、対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。
 1711年には、朝鮮通信使・李邦彦(イパンオン)がこの対潮楼からの眺望を「日東第一形勝」と称賛しました。これは、「朝鮮より東で一番美しい景勝地」という意味です。
 多くの人々を魅了した、江戸時代から変わることのない美しい風景を眺めることができます。

 ◆福禅寺(福山市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 福禅寺(ふくぜんじ)は、広島県福山市にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。山号は海岸山、院号は千手院。境内は「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定されている。

 ・沿革

 創建は平安時代の950年頃、空也による創建と伝えられる。現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の元禄年間(1690年頃)に建立された。
 江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年(正徳元年)に従事官の李邦彦が客殿からの眺望を「日東第一形勝(日本一の景勝という意)」と賞賛し、1748年(延享5年)に正使の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた。

 この地の風景は対潮楼ができる以前からすでに朝鮮人に評価されており、1617年の従事官であった李景稜は「靹浦に到り、則ち最も明秀奇絶と為す」としている。他にも1655年の正使・趙珩による『扶桑日記』、同従事官・南龍翼による『扶桑録』、同訳官・金指南による『東槎日録』、1711年の通事・金顕門による『東槎録』、同従事官・李邦彦による『東槎日記』、1764年の正使・趙曮による『海槎日記』といった言及が現存している。
 1719年の製述官・申維翰が『海游録』にて言及するところ、「人みなここにいたると、第一の観なりと主張してゆずらない」というものであった。しかしながら1711年よりあと、いつしか寺も対潮楼も、無住ではないながらも荒廃してしまい、つぎの通信使が1748年にこの地を訪れたときには使館として別の施設が指定されていた。一行はこの有様に憤慨、新しい使館ではなく船中で一泊したのち、正使であった洪啓禧は無理をいって福禅寺までおもむき、福禅寺の僧侶を慰めるとともにかつての使館を対潮楼と名付けた。
 この銘は福禅寺行きに同行していたうちのひとり、洪啓禧の息子で軍官でもあった洪景海が書写し、僧侶に与えた。現存する扁額の文字はこれを写したものである。また、洪啓禧らが即興で作詩をし与えたものもいくつか残っている。つぎの通信使が1763年に訪れたときは修復が成っていたと、先述の『海槎日記』には感慨とともに記載されている。
 いろは丸沈没事件の際、海援隊と紀州藩の交渉の場となった。

 ・文化財
 朝鮮通信使遺跡 鞆福禅寺境内(国の史跡)
 福禅寺対潮楼朝鮮通信使関係史料(福山市重要文化財)
 木造千手観音立像(福山市重要文化財)
 木造地蔵菩薩半跏像(福山市重要文化財)
 木造役行者像及び二鬼(前鬼・後鬼)像(福山市重要文化財)

 …と、こんな「福禅寺・対潮楼」であります(^.-)☆
 何度も訪れていますので、中に上がりますのは今回はパス(^-^)
 境内には、「久保 極」sanのアート作品が…

 ◆久保 極

 ・1956年 -- 大阪に生まれる
 ・1978年 -- フィレンツェ国立美術アカデミア彫刻科卒業
 ・2008年 -- さわれないかたちをさわる 兵庫県立美術館
 ・2017年 -- シンガポール国際ミニチュア彫刻展
 ・2017年 -- 個展 ギャラリー勇斎(奈良)
 ・2018年 -- 台湾国際ミニチュア彫刻展
 ・2019年 -- 岡山現代彫刻の断片VOL3 奈義町現代美術館
 ・2019年 -- TOMONOURA de ART 2019(福山)
 ・2020年 -- 神宮の杜に集う彫刻家たち明治神宮廻廊(東京)
 ・2020年 -- イタリアという共通展 芦屋画廊kyoto(京都)
 ・2021年 -- 潮風にさそわれて 触れる彫刻展 木村眼科クリニック(福島)

 ◆彫刻家 久保 極について

 1956 -- 大阪に生まれる。
 1974 -- 18歳の時、横浜より、船 でナホトカに渡る。ナホトカよりシベリア鉄道でヨーロッパにはいる。目的地はイタリア。美術学校に入学の予定だったが、あてはなかった。イタリアを選んだのは物価が安かったからである。
 1978 -- フィレンツェ国立美術アカデミア彫刻科卒業。
 1983 -- 75~ピエトラサンタの大理石の工房チェルビエッティにて職人より技術を学ぶ。この時、すべて自分の手で作りあげることを学ぶ。
 1984 -- シルクロードを放浪して 帰国。
 2019 -- どこにも、所属せずフリーランスで彫刻の仕事をする。一番得意とするのは、大理石の彫刻。そして御影石。具象はすばらしいものがすでに存在している。したがってつくるものは抽象彫刻である。岡山市在住(今の所…)

 「久保 極」sanをWEB上で検索しますと、こんな記載がありました(^-^)/
 それでは、そろそろ我が家に帰ろう(^-^)
 ノンビリと市営駐車場方向に向かっていますと、途中、絵を描いておられます方が…GONsanなんぞは、眼には居ますもの凡てをパチパチと画像に撮るのみですから、こんな趣味がありますと、さぞ楽しいだろうなぁ~と、羨ましく見つめてしまいましたネ(^-^)//"

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解体作業も完了し、キレイな更地となりましたネ(^.-)☆

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 毎週月曜日は、学童の皆様の下校時の安全パトロールの当番日のGONsanで、出迎え場所の水呑交番へと向かいます(^.-)☆
 安政橋東詰めがGONsanの待機場所なんですけど、バス道路を挟み対面の建物解体作業現場に眼を向けますと、解体作業も凡て完了し、キレイな更地と化しておりました。
 随分前に解体されましたJA水呑支店の跡地と合わせますと、結構、まとまった空き地となりましたけど、この跡地の今後の利用は?…
 ここ最近は、こぅした町内事情に疎いGONsanですから、嫁さんにでも聴いてみましょうかねぇ~個別住宅・賃貸物件建設用地として売却?…どぅなんでしょう…
 それにしましても、老朽化しました建物を解体撤去の業務は、見ていますと楽しく思えますけど、作業に従事しておられます方は危険と隣り合わせかも…ですが、こうして完了しました時点のサッパリした現況を眼にしますと、達成感とか喜びも生じますのでは…
 なら、お前がヤッてみろ!!…と言われましたら、チト躊躇。
 GONsanなんぞが解体作業に従事しますと、1時間も経ません内に屋根から落っこちて、骨折して救急車の中にいますかも(^-^)
 まぁとにかく、「今まで、どんな建物が建っていたのだろう…」と、以前の建物の存在も記憶から薄れてしまいます。
 つぃこの前まで建物がありましたのに、その建物が、どんな建物だったのかなぁ~と思い出しますのにも時間を要しますから、歳をとりますとイケませんねぇ~
 それにしましても、実にサッパリとスッキリとした景観になりましたネ(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(33)

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 右下 誠sanのアート作品を拝見後には、今度は、常夜灯方向を眺望です。
 正面山側に医王寺も眼に入ります。医王寺太子殿をカメラのズームを効かせて捜してみますけど、う~ん、分かりません(^-^;
 それでは、圓福寺から退散ですけど、石段を下りようとしますと、傍らに『市史跡 伝桑原一族墓地』と刻まれた石標が…うん、うん、この塀裏に石塔が存在しましたネ。
 WEB上で、『市史跡 伝桑原一族墓地』を検索しますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆大可島城跡(おおがしまじょうあと) 附 伝桑原一族墓地

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64168.html ---

 ・市指定史跡 昭和39年(1964年)3月31日指定

 ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で、現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては島であり、そこに大可島城があった。
 康永元年(1342年)、伊予の南朝軍は西国に勢力をのばそうとして、新田義貞の弟脇屋義助を大将として迎えたが病死したため、北朝軍に伊予川之江城を攻められ苦境に立った。南朝軍は金谷経氏を大将として土居、得能氏らが川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流された。そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えた。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返した。北軍は桑原氏を滅ぼし鞆は再び北朝側に帰した。世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられている。

 それと、圓福寺に隣接(南側)しますこの敷地は、何なんでしょうネ…庭園のようにも見えますし、建物跡のようにも…
 圓福寺隣接の民有地なのでしょうけど、以前にはどんな建物が建っていましたのでしょうねぇ~

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広島7区の投票率…この話題を中国新聞sanも朝刊記事に(^-^)

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 今朝の中国新聞sanの朝刊記事に、広島7区の投票率の話題を(^.-)☆
 GONsanなんぞも、もぅスッカリ慣れっこになっておりますけど、今回の衆院選の広島7区の投票率も『県内ワースト』(^-^;
 この要因は、広島7区内の有権者は、寝たきりの方が多いのだろう…と思っておりましたけど、ふ~ん、そぅではなさそうですネ。中国新聞sanによりますと、『政治に関心の薄い層が多いこと』と、見ておられますようですねぇ~
 ふん、ふん、そうなんですか…どの年代の方々が感心が薄いのでしょうねぇ~
 投票所に出掛けましても、20代の方々のお姿が見掛けられませんから、この年代なのかも…ですが、この年代の方々でしたら、7区に限らず他の選挙区でも同様に思いますから、どぅなんでしょうねぇ~
 まぁ、そのような事はさておきまして、いつの日か、『広島7区の投票率、県内トップの上昇』…と、こんな話題が記事掲載となりますと宜しいですねぇ~
 それと、今回、4選を果たされました小林史明代議士先生が、県内トップの130千票台を狙われますのでしたら、投票率アップを図られませんと叶いませんかも…
 小林代議士のお力で、広島7区の投票率、県内トップを叶えて頂けましたら嬉しいですねぇ~
 それは議員頼みでなく、有権者自身が考えろぉ~とでも言われそうですけど、いつの日か、広島7区の汚名返上が叶いますと嬉しいですねぇ(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(32)

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 圓福寺の裏手・墓地側に廻りますと、弁天島・仙酔島が目前に…天気が良いと素晴らしい景観です(^_^)v
 ここで、この景観を何枚かパチリ(^.-)☆
 そして、また境内に戻りますと「右下 誠」sanのアート作品が…作品の説明は、「バブルの塔 右下 誠 素材:ビーズ・木材・金属」と記載がありました。

 ◆円福寺(えんぷくじ)

 いろは丸事件の際,紀州藩の宿舎として使用されました。
 南林山円福寺は室町時代から釈迦堂といい、現在の沼名前(ぬなくま)神社南側にありましたが、1610年頃に大可島(たいがしま又はおおがしま)城跡に円福寺と号して建立されました。
 頼山陽の叔父・頼杏坪(らいきょうへい)は、瀬戸の島々や四国の讃岐山脈を遠望できる景観を賞して座敷を「夾明楼(きょうめいろう)」と命名しました。こうした景勝地にあり、かつて朝鮮通信使の上官の常宿になっていました。
 江戸時代の漢詩会、歌会、句会の舞台にもなり、1827年再建の松尾芭蕉の句碑もあります。

 ◆圓福寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12648/ ---

 圓福寺の始まりは室町時代に遡ります。当時の圓福寺は「釈迦堂」といって、現在の沼名前神社の南、小松寺の東に位置していました。圓福寺と号したのは、1610年末頃(慶長年間末頃)、住職の快音によって大可島城の跡地に移転した後のことです。美しい瀬戸内の島々や四国の讃岐山脈が眺望できる景観を有し、江戸時代には朝鮮通信使が来日した際の上官の常宿とされました。
 「山号扁額」は1711(正徳元)年の朝鮮通信使の写字官・花菴が大書した圓福寺の山号を木片扁額にしたものです。幕末のいろは丸沈没事件の談判では紀州藩の宿舎として使用されました。

 ・古の戦乱に思いを馳せる南北朝期の城址
 大可島は1600(慶長5)年頃に鞆城が築かれたときに陸続きとなるまでは独立した島でした。紀伊水道と豊後水道からの潮流が一目で判る当地は海上交通の要所とされ、南北朝時代に大可島城が築城されました。1342(康永元)年、城主の桑原重信一族が足利氏に敗北した後は村上水軍の手に渡り、戦国時代には毛利元就の水軍の軍事拠点になりました。桑原一族の墓所は戦乱の名残を今に留めています。
 ◇過ぎ去りし日の兵たちは海上に何を夢見たのだろうか

 ・儒学者や風流人が愛した座敷、夾明楼
 圓福寺の座敷からの眺めは格別です。江戸時代後期、この景色に感嘆した1人の儒者が座敷を夾明楼(きょうめいろう)と命名しました。『日本外史』の著者・頼山陽の叔父である頼杏坪です。頼杏坪は農民の利益になるような政治を目指して藩に進言し、役人の不正を正すなど目覚ましい功績を上げた人物でした。彼が愛した夾明楼は、江戸時代を通して漢詩会や歌会、句会が催され、文化人の感興をそそりました。
 ◇浦の春を詠う松尾芭蕉の句碑

 「右下 誠」sanをWEB上で検索しますと、こんな記載が…

 ◆右下 誠

 --- https://www.storehouse-fukuyama.com/?p=1902 ---

 「人」や「関係」がおもしろい時代。
 みぎしたまこと/アーティスト、アートディレクター。1977年生まれ。広島県内での個展やワークショップを中心に県外にも活動を広げる。

 広島を中心に、2010年からアーティスト、アートディレクターとして活動する右下誠(mako)さん。さまざまな場所で個展を開催し、最近は企業の依頼を受けることも多くなってきた。アーティスト活動や企業とのコラボレーションについて聞いてみた。

 ・イラストのイメージは、どのように生まれるのでしょうか。
 右下:アイデアはいつでも浮かんでくるので、それを表現している感じですね。例えば、人と会って話している時には、相手が着ている服や身に付けているものが視覚から入ってくるので、そこからアイデアをもらうというか。あとは、「2つのものをくっつけたらどうなるんだろう」「この色を反転させたらどう見えるんだろう」と考えているうちに、新しいアイデアが浮かんできます。

 ・疑問からアイデアが生まれることがあるんですね。
 右下:「なんでコップに水滴が付くんだろう」とか「なんであれはああなってるの?」とか、周りの人や企業の人にも、いつもいろんなことを尋ねています。そうやって吸収した知識が、デザインとして還元されているんじゃないかと思います。

 ・企業からの依頼も多くなってきましたね。
 右下:今、刺繍会社と一緒に新しい商品開発をしています。ライフスタイルの分野では、カーテンを一緒に作る話も進んでいます。昔から、ライフスタイル関係のデザインやディレクションをしたいという気持ちがあったので、念願叶ってという感じです。そろそろ、自分の活動をまとめた本を作りたいと思っています。

 ・なぜいろんな方々とコラボレーションするのでしょうか。
 右下:人と人のつながりが好きで、いろんな人が集まれば、なんでもできると思っているからです。ほかにも、この人とこの人をつなげたらこんなデザインができるんじゃないかなと考えることも多く、お節介焼きな部分もあります。僕にとっての仕事は、生きているままというか、呼吸と同じ感覚。こう言うと語弊があるかもしれませんが、これを知りたい、あれを知りたいという欲求がたまたま生業となっています。仕事は遊びの延長であり、自分の欲求を満たすものです。

 ・これから実現したいことは?
 右下:僕の仕事は、自分にしかできないと思うのですが、地域や子供たちに何かの形で残すことができないかなと考えています。例えば、寺子屋みたいなもの。小さい頃、おじいちゃん、おばあちゃんに教えてもらったみたいに、そこに行けば自然とものごとを教われるような空間です。今までの活動を通じて出会った仲間と協力をしながら、形にできればと思っています。勉強ではなく、常識やコミュニケーションみたいなものが、今とても大事だと思います。(文=山﨑小由美)

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本日・11/1(月)は、健康診断で中国労働衛生協会san行きのGONsanでした(^.-)☆

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 本日・11/1(月)は、健康診断で中国労働衛生協会san行き。
 毎回、申込時には、胃カメラにしようか…バリウムにしようか…と、随分迷いますけど、胃カメラは楽な時とシンドイ時がマチマチですから…
 前回の胃カメラは、もぅゲボが出そうで苦しいのなんの(^-^;
 涙が出るほど辛かったですから、今回は、バリウムを選択。以前は、バリウムを飲みますのも苦になりませんでしたけど、近年は、これを飲みますのも一苦労。仲々一気に飲めませんから、何回かに小分けで飲みますけど、その段階でゲップの連発。
 で、その都度、追加で飲まされますから、結構、飲みますような(^-^)
 おまけに、凡て受診項目を終え我が家に帰宅しますと、これからがまた大変。
 以前ですと、健診後には3回ばかりトイレに行きますと、スッキリと正常に戻るのですけど、今回なんぞは、1時間おきにトイレに駆け込む始末。
 計、6回はトイレ行き。
 で、ヤッと落ち着きましたかと思いますと、就寝前に、もぅ一度行きたいような(^-^)
 歳を重ねますと、異物がお腹に入りますと、即刻、凡て排出しなければ我慢出来ない体質にと変わっていきますのかも…
 …と言う訳で、ここ最近は、定期健診も苦痛となりつつありますねぇ~以前は何ともなかったのですけど…
 とにかく、健康診断受診で苦労し、事後に届きます診断結果で、またショックを受けなくては…高齢へと駆け足で向かっていますGONsanで、何にもイィ事がないなぁ~哀しいですねぇ(^-^)//"

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衆院選の広島7区…小林史明san、余裕で4選が決まりましたネ(^.-)☆

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 2021年・第49回衆議院議員総選挙の広島県第7区…小林史明san、余裕で4選が決まりましたネ(^.-)☆
 誠におめでとうございますです(^-^)
 獲得票は、123,396票で前回選挙の110,547票は、上回りましたネ(^_^)v
 GONsanは、「130,000票」を獲得して頂きたい気持ちでしたから、チョッと残念ではありましたが(^-^)
 自民党が敗れました第45回衆議院選挙での広島県第7区で、民主党・和田隆志sanの「133,871票」獲得の実績がありますから、今回は叶いませんでしたけど、次回の衆院選では、是非とも130千台突入を小林史明sanには実現して頂きたいものであります。

 小林sanの「123,396票」は、広島県の7選挙区の中では第3位となります。
 ですから、「133,871票」を越えますと、多分、7選挙区の中では第1位となるものと思います。福山市の人口減もありまして、仲々大変とは思いますけど、議員のバロメーターは『獲得票』が凡てなんだと思います。
 頑張って下さいねぇ~

 ところで、気になりますのが、7区の投票率です。
 今回が、投票率49.35%と、またまた50%を下回りましたねぇ~他の6選挙区対比でも、う~ん、またまた最下位の第7区。
 県内全選挙区の地区別にみましても、広島市中区の49.26%に次いでの低さ。何故なんでしょうねぇ~地区別でのワースト1は、かろうじて免れましたが、選挙区別では相変わらずの『ワースト1』でありました(^-^;
 う~ん、福山市は、ご自分で動く事が出来ません寝たきりの方が多いのかも…
 今度、お尋ねする機会でも訪れましたら、市会議員sanにでも確認してみたいですネ(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(31)

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 圓福寺に向かいます入口石段の脇には、「夾明楼 上り口」の石標が…

 ◆圓福寺・夾明楼(えんぷくじ・きょうめいろう)

 --- https://www.hiroshima-kankou.com/spot/5424 ---

 戦国時代、村上水軍の一族が、大可島城を拠点に海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。慶長年間(1600年頃)に鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在大可城跡に建っている南林山釈迦院円福寺は、真言宗の寺でこの年代に建てられたものです。

 住所:広島県福山市鞆町鞆10
 電話番号:084-982-2508
 アクセス:車--山陽自動車道福山東ICから約40分・福山西ICから約40分、公共--JR福山駅前11番乗り場から鞆鉄バスで約30分「鞆港」下車、徒歩5分
 備考:夾明楼の拝観料200円(要申込)

 …と、こんな「圓福寺・夾明楼」であります。
 境内を見廻しますと、芭蕉の句碑が…

 ◆芭蕉の句碑

 『疑なうし保のはなも浦の春』

 「くだけちる波(潮)の花をみるとこの浦までも新春のめでたさがある。この自然をつくられた神徳を疑うな」
 1777年(安永6年)に建てた石碑を再建したものです。碑文は備後の俳諧の指導者、鼎左(ていさ)の筆です。この区の前文に「二見の図を拝みて」とあり、1689年(元禄2年)伊勢の絵をみてよんだ画賛です。なお、圓福寺の夾明楼は頼山陽の叔父頼杏坪が美しい景色に感嘆して命名したものです。

 ◆圓福寺夾明楼
 江戸時代から鞆では句会が盛んで、圓福寺の座敷は「夾明楼」と呼ばれ、漢詩会、句会の舞台にもなっていた。頼山陽の叔父である頼杏平がこの座敷を「夾明楼」と命名し、美麗な書を残した。

 ◆大可島(たいがしま)城跡

 福山市鞆町鞆の高台に円福寺という寺がある。
 康永元年(1342年)、四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代に村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。
 慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。現在の本堂は、昭和初期に再建されたものです。

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