続いて、「遙かなるもの 素材:クスノキ」「大切なものはいつだって 素材:クスノキ・焼き黒色」「今ここにあるもの 素材:クスノキ・焼き黒色」…と、拝見です。
そぅしていますと、3名ばかり女性のグループが来訪です。サッサと本堂に上がって来られましたので、この辺でGONsanは退散となりました。
次の訪問は、アート作品の展示はありませんけど、静観寺のお隣りの「法宣寺」です。
少し先に山門がありましたけど、少し手前から法宣寺へ…
◆法宣寺
--- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12650/ ---
1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後光厳天皇の信任も厚かった大覚大僧正がこの地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。
・治病除災に清正公参り
友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!
・清正公も唱えた「南無妙法蓮華経」
この世は無常、だが―
かつて法宣寺には国の天然記念物がありました。大覚大僧正お手植えと伝わる黒松の巨木です。その枝ぶりから「天蓋マツ」とも呼ばれ、鞆の浦の人々の誇りでしたが、残念ながら、1991年夏、六百余歳で枯死しました。支柱と切株だけが残った跡地は、無常の想いを呼び起こします。ただ不思議なのは、老松が枯れて以来、今まで影が薄かった隣の紅梅が生気を得て、最近では新しい花の名所になっていることです。往く者あらば来る者あり。春の境内でそんな感慨にひたるのも「あり」かもしれません。
・春になり雅に花をつける紅梅―、老松より生気を受け継いで
◆法宣寺(ほうせんじ)
1358年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりで、西国法華引導最初の道場として、中国地方布教の拠点となりました。江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所として利用され、江戸時代後期には加藤清正を祀る清正公堂が建立され、清正信仰の場でもありました。
◆法宣寺
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
法宣寺(ほうせんじ)は広島県福山市鞆町後地にある日蓮宗の仏教寺院。山号は大覚山。 国の天然記念物に指定されていた「天蓋松」があった寺として知られる。旧本山は、京都妙顕寺。
創建は南北朝時代の1358年。開基は大覚僧正とされる。
江戸時代は朝鮮通信使の宿泊所として利用された。江戸時代後期には加藤清正を祀る清正公堂が建立され、清正信仰の場であった。
・天蓋松
開基である大覚僧正の手植えと伝わる推定樹齢630年の黒松で、国の天然記念物に指定されていたが、1991年に枯死した。幹の周囲は3.3m、枝張は30mに及んだ。
・仏像
七面大明神像 - 江戸時代後期、木彫、像高53cm
清正公大神祗坐像 - 総高14cm
清正公大神祗の腹こもり坐像 - 総高40cm
…と、WEB上で検索しますと、こんなお寺でありました(^.-)☆
境内には、こんな案内板が…
◇法宣寺の天蓋マツ
--- 天然記念物 昭和19年11月7日指定 ---
境内1面に枝葉を広げる黒松は「天蓋マツ」と呼ばれ国の天然記念物に指定されています。幹回り3.2m・高さ5.5m・枝張り東西19.3m・南北34.0mで枝葉の広がった総面積は約600㎡です。
大覺山速心院法宣寺は、1358(延文3)年日蓮宗の高僧の大覺大僧正が、ここに法華堂を建立し布教したことに始まると伝えられています。鎌倉時代の法華経は、南北朝時代になって鞆の浦に伝わり、中国地方へ布教する拠点となりました。
…と、こんな案内板の説明ですけど、肝心の「天蓋マツ」は、全国的に猛威をふるった松喰い虫の被害と老齢により、平成3年夏に枯死したようであります。
それでは、先へ急ぎます事に。退散は、山門からとなりました(^-^)//"
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