松山城は、別名「金亀城」とか「勝山城」と呼ばれているようです。「金亀城」は、昔、お堀に金の亀が棲んでいたという言い伝えから。「勝山城」は、お城のある山の名前が「勝山」だから。
今も、麓に「勝山町」という町名がありますようですネ(^.-)☆
◆伊予松山城(いよまつやまじょう)
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に味方し、最前線で活躍した加藤嘉明は、その戦功により伊予国正木(松前)10万石から20万石に加増される。大封となった嘉明は足立重信を普請奉行に据え、道後平野中央の勝山に慶長七年(1602)から築城を開始した。翌八年(1603)十月には居を新城下に移し、松山という名称が初めて公にされたといわれる。
その後も築城工事は続き、25年間かかって寛永四年(1627)にようやく完成。当時の天守は五重で偉容を誇ったといわれる。しかし、完成直前に嘉明は40万石に加増され会津に移封されてしまう。
加藤嘉明に代わり24万石の領主として松山に入封してきたのが出羽・上山城主・蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)である。忠知は二の丸の整備に力を注ぎ完成させたが、寛永十一年(1634)二月に参勤交代の途中に京都で病没し蒲生家は嗣子なく断絶となる。
その後、寛永十二年(1635)七月に伊勢・桑名から松平定行(徳川家康の異父同母弟の松平定勝の子)が15万石で松山に入封する。以後、親藩・松平(久松)家が明治維新まで代々居城した。寛永十九年(1642)定行は、三年の年月をかけ、築城当時五重だった天守を三重に改築した。地盤の弱さからとも幕府への配慮ともいわれている。
その三重の天守も天明四年(1784)元旦に落雷で消失するが、安政元年(1854)に天守を復興させた。これが現在の天守で、親藩・松平氏が黒船来航の翌年に復興させたため、、わが国最後の完全な城郭建築となった大天守は現存12天守の中で唯一、築城主として葵の御紋が付された天守である。
伊予松山城は松山平野中央部にあり、勝山(標高132m)の山頂に本丸がある連立式天守の平山城である。姫路城、和歌山城とともに日本三大平山城のひとつに数えられている。山頂に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸を整備した広大な規模の城郭である。天守は安政元年(1854)再建と全国に12ある現存天守の中で一番新しいがその姿は重厚で美しい姿を見せてくれる。天守の他にも20棟が国の重要文化財に指定され、戦災や不審火で失われた建造物も木造で多く復元されている。また天守曲輪、本丸、二之丸の石垣がほぼ完全に残っており当時の縄張りもほぼそのままで、非常に見所の多い全国でも屈指の名城である。
この城は観光用でロープウェイかリフトで本丸まで一気に行くことができ、そちらから登る人が非常に多いが、無料駐車場もある二之丸史跡庭園の下から登るのが城好きにはおすすめである。
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