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 墓前でのお参りを済ませますと、叔母が70年ばかり暮らしました松山で、もう少しノンビリと留まりたい…こんな思いから、道後公園(湯築城跡)を少し散策してみます事に致しました。

 ◆道後公園

 道後公園(どうごこうえん)は、愛媛県松山市道後町にある湯築城跡とその周辺からなる愛媛県立の都市公園(総合公園)である。
 公園内の丘陵の上の湯築城跡は、現在展望台となっている。桜の名所で、花見の時期は大勢の観光客で賑わう。道後公園の桜は、松山地方気象台が標本木に指定しており、桜前線の目安とされている。また、外堀と土塁は現在も残っている。

 ・歴史

 1886年:道後植物園を設置
 1888年:植物園を廃止し県立道後公園を設置
 1953年:園内に愛媛県立道後動物園を設置
 1987年:動物園を伊予郡砥部町に移転させるため廃止(翌年に愛媛県立とべ動物園が開園)
 2002年:湯築城の復元整備、「湯築城跡」として国の史跡に指定される

 ◆湯築城

 湯築城(ゆづきじょう)は、愛媛県松山市道後町にある城跡。堀や土塁が現存する。国の史跡に指定されている。

 ★歴史・沿革

 建武2年(1335年)前後、伊予国の守護であった河野通盛の代に築城され、一族本貫の地である風早郡河野郷(現松山市河野)より移住した。
 天文2年(1535年)頃、通直(弾正少弼通直)によって外堀が造られたとされる。
 天正9年(1581年)以後、四国征圧を狙う土佐国の長宗我部元親が伊予国に侵入し、通直(牛福丸通直)は元親と交戦した。
 天正13年(1585年)、四国征伐をめざす羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が侵攻して金子城主の金子元宅を攻撃の末滅ぼし、湯築城の河野氏も約1ヶ月の篭城の後に降伏した。城に留まっていた通直は命は助けられたが、2年後に病没した。城は隆景に与えられたが、彼の所領は筑前に移された。
 天正15年(1587年)、福島正則が城主となるが、程なく国分山城に居城を移したため、廃城となった。
 慶長7年(1602年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となる。建築にあたっては、湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査により判明している。
 明治21年(1888年)、県立道後公園として整備される。
 平成14年(2002年)9月20日、国の史跡に指定される。
 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(80番)に選定された。

 …と、こんな歴史のあります道後公園(湯築城跡)でありますようです(^.-)☆
 きっと、訪れます方も少なく、ノンビリと物思いにふけりながらの散策が出来るものと思っておりましたら、意外にも訪れます方々はそれなりにおられまして、叔母との想い出にふけります訳には行きませんでしたかも(^-^)//"

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