今日・土曜日もお休みで、観光の時間が取れましたのでしょうネ(^-^)
今日は、こんな画像が届きました(^.-)☆
まずは、“日南海岸ロードパーク”を走行し「鵜戸神宮」行きとなりましたようです。
◆日南海岸ロードパーク
宮崎市から鹿児島県・志布志町までの150kmの海岸線が日南海岸国定公園に指定されており、その海岸沿いの国道220号、途中から448号が日南海岸ロードパークとして整備されています。
日本ではじめてのロードパークだそうで、道路沿いヤシの木の並木や、季節の花々が咲き乱れ、景色がいい所にはいたるところに駐車スペースがあります。
宮崎市から南下したのですが、左に水平線まで広がる海を見ながら運転するととても気持ちがよかったです。ちなみにロードパークとは(既存のオープンスペースを利用し、道路案内や休憩スペース等を提供することにより、道路利用者へのサービス向上と、ゆとりとうるおいのある沿道環境づくりを目的として整備されています。)だそうです。
今では日本全国にあり、あまり細かなルールはないようです。
…と、「日南海岸ロードパーク」を検索しますと、WEB上にこんな記載がありました(^_^)v
◆鵜戸神宮
鵜戸神宮(うどじんぐう)は、宮崎県日南市にある神社である。旧社格は官幣大社で、現在神社本庁の別表神社に指定されている。
日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」のかたちとなっている。
・社名
「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「鸕鷀(う)」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てている。
古くは「鵜戸権現」とも称されたが、明治元年(1868年)の神仏判然令によって権現号を廃し、翌2年「鵜戸神社」と改称、同7年に神宮号が宣下されて現社名となった。
・歴史
創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に上記6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。
また、延暦元年(782年)、光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったとも伝える。
平安時代以来、海中に聳える奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。中世以後、伊東氏などの在地領主の崇敬を受け、永禄3年(1560年)に伊東義祐によって社殿が再興され、寛永8年(1631年)には飫肥藩主伊東祐実による造替、同18年(1641年)にも同藩主伊東祐久による修復が行われ、その後も正徳元年(1711年)に造替が、明和7年(1770年)に修復が行われた。
明治元年(1868年)の神仏判然令によって別当寺院の仁王護国寺を廃し、1874年(明治7年)に「神宮号」が宣下されるとともに官幣小社に列し、1889年(明治22年)に社殿を改修、1895年(明治28年)に官幣大社に昇格し、戦後は神社本庁の別表神社となっている。
1965年(昭和40年)、NHKの朝の連続テレビ小説『たまゆら』の舞台に宮崎が選ばれたことも手伝って、昭和40年代には新婚旅行の定番地となった。1968年(昭和43年)に本殿及び末社を修復したが、翌々1970年(昭和45年)、文政年間(1818~30年)に建てられた茅葺書院造の社務所を原因不明の火災により焼失し、それとともに古文書類の大半を失った。1997年(平成9年)に屋根の葺き替えと漆の塗り替えを施したのが現在の社殿である。
…と、こんな鵜戸神宮のようであります。
うん、うん、この建物は鵜戸神宮境内に存在します「儀式殿」ですネ。神門の次にくぐる門「楼門」の左側に存在します建物ですから、多分、儀式殿。
◆儀式殿
儀式殿以前の社務所あとにある。
結婚式や直会(祭りは晴であり、そこから日常に戻るため、神様に供えた物を参加者が頂戴する行事。)会場として使用している。
※ 天皇陛下が行幸された際の御休憩所もある。
こぅして画像を拝見しておりますと、あまり天候は良くなかったのかも分かりません。福山市内は晴天で、日中は少々暑さも感じてしまいましたが、宮崎は曇天でしたのかも…
天気が良ければ「日南海岸ロードパーク」の走行も、一層素晴らしかったのかも分かりませんネ(^-^)//"