GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

広島県外の話題・景観

年の瀬迫った12/27(火)は、〝迫山古墳・備後国分寺〟を散策でした(^.-)☆(16)

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 こぅして拝見しておりますと、本当に立派な庭園です。
 館長さんは、「手入れしておりませんが…」との事でしたけど、これだけの庭園の維持管理も大変な事と思います。労力は勿論、費用的にも随分負担は大きいものとお察し致します。
 今回、〝登録記念物(名勝地関係)〟として新登録されまして、国からの補助金の支給もあるのでしょうから、いくらか負担は軽減されるものとは思いますが、それでも維持管理は大変そぅですねぇ~
 ところで、〝登録記念物(名勝地関係)〟に対して国からの補助金は、金額にしますと、いかほどなんでしょうねぇ~
 チョッとWEB上で調べてみます事に(^-^)

 ◆登録記念物
 2004年(平成16)の文化財保護法の改正で、史跡・名勝・天然記念物を補完するものとして設けられた制度。保存および活用のための措置がとくに必要とされる記念物を登録し、広くその保護を図ることとなった。
 2019年3月時点で、110件(重複登録物件をそれぞれの種別で数えた、のべ件数)が登録されている。

 ◆登録記念物

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 登録記念物(とうろくきねんぶつ)は、日本の文化財保護法に基づき、文部科学大臣によって登録された、保存及び活用のための措置が特に必要とされる記念物。

 ・概要

 登録制度創設の背景
 文化財保護法では、「記念物」は、文化財のうちの
 ①貝塚、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で我が国にとつて歴史上又は学術上価値の高いもの
 ②庭園、橋梁、峡谷、海浜、山岳その他の名勝地で我が国にとつて芸術上又は観賞上価値の高いもの
 ③動物(生息地、繁殖地及び渡来地を含む。)、植物(自生地を含む。)及び地質鉱物(特異な自然の現象の生じている土地を含む。)で我が国にとつて学術上価値の高いもの
 の3種のものであると定義されており(第2条第1項第4号)、このような記念物のうち重要なものを指定する制度として、史跡・名勝・天然記念物が定められている。
 しかしながら、近代の産業遺産のように、その文化財としての評価がまだ定まっていない記念物については、近年、保護の必要性が叫ばれているにもかかわらず、「重要なもの」であることを要件とする既存の、史跡・名勝・天然記念物の指定を受けて充分な保護を図ることは困難であった。
 一方、すでに文化財のうちの記念物とは他のジャンルにあたる有形文化財については、1996年(平成8年)の文化財保護法改正で、従来の重要文化財の指定制度を補完するものとして、建造物を対象に登録有形文化財の登録制度が設けられ、近代以降の建造物の保護に成果を上げてきた。
 そこで、2004年(平成16年)の文化財保護法の改正において、記念物についても、登録有形文化財制度に倣って新たに登録記念物の制度を設け、保存及び活用のための措置が特に必要とされる記念物を登録し、広くその保護を図ることとした(第132条)。
 なお、この改正では、建造物以外の有形文化財、すなわち、美術工芸品関係にも登録制度を設けるとともに、有形民俗文化財についても同様に登録有形民俗文化財として登録制度が設けられた。

 ・登録の対象

 登録記念物は記念物を対象とするものであるが、国が指定している史跡・名勝・天然記念物または地方公共団体が指定している史跡等の文化財は、登録記念物としての登録の対象から除外される。これは、登録記念物の登録制度が、史跡・名勝・天然記念物の指定制度を補完するという性格を有するためである。
 また、登録記念物として登録された後に、その登録記念物が国の史跡・名勝・天然記念物の指定を受けた場合または地方公共団体の史跡等の文化財として指定を受けた場合は、登録記念物としての登録は抹消される。ただし、地方公共団体の史跡等の文化財として指定を受けた場合において、その登録記念物について、その保存及び活用のための措置を講ずる必要があり、かつ、その所有者の同意がある場合は、例外的に登録を抹消しないことができる(第133条の規定で準用する第59条第2項ただし書)。
 2006年(平成18年)1月26日には、登録記念物の最初の登録物件として、「函館公園」(北海道函館市)、「再度公園及び再度山永久植生保存地」(兵庫県神戸市)、「相楽園」(兵庫県神戸市)の3件が登録された。なお、このうち「再度公園及び再度山永久植生保存地」は、2007年(平成19年)2月6日に、名勝に指定されたため、現在は登録記念物ではなくなっている。

 ・登録の基準

 「登録記念物登録基準」(平成17年文部科学省告示第46号)では、文化財登録原簿に登録する記念物の基準を次のように定めている。

 -- 遺跡関係 --
 政治、経済、文化、社会に関する遺跡その他の遺跡(史跡及び文化財保護法第182条第2項に規定する指定を地方公共団体が行っているものを除く。)のうち、原則として近代までのものであり、かつ、次の各号いずれかに該当するもの
 ①我が国[注釈 1]の歴史を理解する上で重要なもの
 ②地域の歴史の特徴を表しているもの
 ③歴史上の人物等に関するもの

 -- 名勝地関係 --
 公園、庭園その他の名勝地(名勝及び文化財保護法第182条第2項に規定する指定を地方公共団体が行っているものを除く。)のうち、原則として人文的なものにあっては造成後50年を経過したもの又は自然的なものにあっては広く知られたものであり、かつ、次の各号いずれかに該当するもの
 ①造園文化の発展に寄与しているもの
 ②時代を特徴づける造形をよく遺しているもの
 ③再現することが容易でないもの

 -- 動物、植物及び地質鉱物関係 --
 動物、植物及び地質鉱物(天然記念物及び文化財保護法第182条第2項に規定する指定を地方公共団体が行っているものを除く。)のうち、国土の成り立ち、自然の特徴又は人と自然の関わりを知る上で重要なものであり、かつ、次の各号いずれかに該当するもの
 ①我が国[注釈 1]において作り出された飼養動物及び飼育地
 ②我が国[注釈 1]において作り出された栽培植物及び生育地
 ③動物、植物並びに岩石、鉱物及び化石の標本
 ④前3号に掲げるもの以外の地域独特の自然物又は自然現象

 …と、〝登録記念物〟の内容は理解出来ましたけど、国からの補助金額への記載は無く、分かりませんでしたネ(^-^)//"

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年の瀬迫った12/27(火)は、〝迫山古墳・備後国分寺〟を散策でした(^.-)☆(15)

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 WEB上で〝登録記念物への登録・登録記念物(名勝地関係)の新登録〟で検索してみましたら、こんな記載もありました。

 ◆登録記念物への登録《登録記念物(名勝地関係)の新登録》2件

 《1》清水氏庭園【岡山県笠岡市】

 清水氏庭園は笠岡市生江浜地区に所在する。生江浜は寛文9年(1969)に干拓堤防が完成し新田が開かれたが、それまでは遠浅の海が広がり、岩礁もあった。
 清水氏は江戸時代に笠岡の町で廻船問屋を営み、生江浜に別邸を構えていた。この別邸が後に本宅となり、現在に至っている。清水氏庭園が造られた時期については明確なことはわからないが、僧侶で俳人の蝶夢(ちょうむ)(1732-1796)が安永8年(1779)に清水氏の別邸を訪れ、庭園の様子等を記述していることから、この頃には庭園が存在していたことは確実である。
 住宅と庭園がある敷地は、南北に延びる高台の斜面の東側に位置する。斜面裾部に細長い園池を設け、その北東部に主屋が建つ。主屋から見ると右から左奥に向かって、斜面の裾に沿って花崗岩の露岩と転石が、その手前に園池が延びる。主屋の軒先や園池の周囲には飛石が打たれ、また斜面には階段や園路が設けられている。植栽は池の護岸や斜面の裾のクロマツと随所に配されたツツジ類を中心とする。
 清水氏庭園は当該地域の造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。

 《2》黒ヶ浜及びビシャゴ岩【大分県大分市】

 黒ヶ浜は、大分県東部、佐賀関半島の先端部に近い南岸の大黒地区に所在し、沿岸のビシャゴ岩とともに観賞されてきた名勝地である。地質的には三波川変成岩類が分布する三波川帯に属し、泥質片岩などの結晶片岩類を基盤とするが、特に大黒地区付近には大規模な蛇紋岩体が分布し、海岸部に露頭している。これらの蛇紋岩は、乾湿の作用を繰り返し受けて細粒化する特徴があり、佐賀関半島付近の早い潮流によって小さな砂は流れ去り、研磨された大きめの礫や石のみが沿岸に堆積して、延長約350mに及ぶ漆黒の礫海岸を形成してきたものと考えられる。
 黒ヶ浜を挟む岬の沿岸には岩礁が点綴して、特にその南側に位置し、大小2つの岩塊から成るビシャゴ岩は、黒ヶ浜に臨み一体の風致景観を成している。黒ヶ浜の奇観は、佐賀関半島西部の南岸に所在する白ヶ浜とともに紀行や地誌に紹介されてきたもので、ビシャゴ岩は、沿岸航行の安全を見守る海女の黒砂と真砂の二神の伝承から姉妹岩とも呼ばれている。また、黒ヶ浜は、春季に見られる海藻の天日干しの風物詩とともに、地域住民によって継続的に清掃活動が行われるなど大切に手入れされてきた。特に近世以降、広く知られてきた海岸の景勝地であり、地域住民によって保全されている事例として意義深い。

 ◆海岸線を生かした庭園「清水氏庭園」が国の登録記念物に 国の文化審議会が答申 岡山・笠岡市

 --- 2022/12/20(火) 16:53配信 KSB瀬戸内海放送 ---

 国の文化審議会が岡山県笠岡市の庭園を国の「登録記念物」とするよう答申しました。
 名勝地関係の「登録記念物」とするよう答申されたのは、笠岡市生江浜の個人が所有している庭園「清水氏庭園」です。
 岡山県文化財課によりますとこの庭園は、江戸時代に笠岡市で廻船問屋を営んでいた清水家の別邸に造られました。岩礁が広がっていた場所に造られていて、園内の池は当時の波打ち際をそのまま利用しています。
 この自然の岩などを生かした造りが地域の造園文化の発展に貢献したと評価されました。
 国の「登録記念物」になれば、岡山県では同じく名勝地関係で登録されている津山市の「旧梶村氏庭園」に続いて2件目です。
 「清水氏庭園」は2023年5月と11月に公開日を設ける予定だということです。

 …と、こんな記載がありまして、背後の山の斜面の裾に沿って、花崗岩の露岩と転石が、その手前に園池が延びる大変立派な清水氏庭園であります(^-^)//"

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年の瀬迫った12/27(火)は、〝迫山古墳・備後国分寺〟を散策でした(^.-)☆(14)

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 備後國分寺の駐車場に戻り、時間を確認しますと、既にA.M.11:34。今から我が家に帰りますと、多分、正午少し過ぎ。
 それでは、退散しよう…と車に戻りますと、突然、〝笠岡市の『清水氏庭園』〟に立ち寄ってみようか…との想いが。
 でも、今から向かいますと正午は過ぎてしまうし、個人のお宅だから、ご迷惑かも…とかなんとか色んな想いも生じましたが、とにかく、出掛けてみます事に(^-^)
 清水氏庭園近くまでヤッて来ましたけど、はてさて、車は何処に駐めてイィものやら…そぅしていますと、眼に入りましたのが〝金浦公民館〟でありました。
 ラッキー(^.-)☆
 ここならイイだろう…と公民館駐車場に駐めますと、丁度、駐車場には公民館から出て来られました女性がお二人談笑中。
 清水氏庭園を伺うのですけど、ここに駐車は可能ですか?…には、快く「イィですよ」。
 清水氏庭園は、先日、12/17(土)の新聞紙上に記事掲載がありましたけど、一般公開しておられますか?…には、「さぁ、一般公開はどぅかな…でも、清水sanは金浦公民館の館長さんで、たった今、食事に帰られましたから、今から伺うとおられますよ。訪問して頼んでみられたら…私たちも、今、清水庭園の記事掲載を話していたとこなんですよ…」との事で、とにかく、伺ってみます事に(^-^)
 10日ばかり前の中国新聞朝刊に、〝清水氏庭園〟が〝登録記念物〟に新登録が決まった旨の記事掲載がありました。
 その記事によりますと、いきなりの飛び込み見学は難しいようにも感じましたけど、まずは伺い、お願いしてみます事に。

 館長さんのお宅に伺いますと、出て来られましたのが奥様でした。
 お食事時にお伺いしまして、誠に申し訳ございません。新聞記事を眼にしまして、是非拝見したく、こんな時間に伺いましたけど、ご迷惑でしょうか?…に、「主人に確認してみます…」と奥様。
 そして、出て来られましたのが館長さん。
 お顔を拝見しただけで、〝あぁ、やっぱりダメかも…〟との意に反して、暫しお考えの後、「いぃですよ。何処から、おいでになられた?」との館長さんに、〝みのみ(水呑)から伺いました〟と、GONsan。
 「みはら(三原)から…遠いとこから、わざわざ来て貰って…手入れしてないけど、遠慮なく見て行って下さい…」と、実に紳士の館長さん。
 それに対して、「みのみ」を「みはら」と聞き間違えられたのに、そのまま三原からの来訪者で通します性悪のGONsanなのでありました。これが、後で、〝困った(^-^;〟と冷や汗をかく羽目になりましたのですけど…

 とにかく、〝ササッと写真を撮らせて頂いて失礼しますから…有難うございますm(_ _)m〟とお伝えし、早速、清水氏庭園へ(^_^)v
 お食事時に伺い、多分、館長さんも未だお食事中でしたのでしょうから、超特急で庭園拝見となりました。
 最初は、ジックリと拝見しながら画像に納めておりまして、チラッと振り返りますと、館長さんは、GONsanが見終えますのを待っていて下さいますから、もぅドッキリ(^-^;
 それこそ、ご迷惑お掛けしませんよう、超特急で庭園拝見です。
 挿入の画像の一枚に、館長さんの後ろ姿が入っておりましたネ(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(32)

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 境内の眼に入ります景観を画像に納めながら駆け足で拝観でしたけど、東門までヤッて来ましたネ。もっと、ノンビリ、ユックリと巡れましたら良かったのですけど…
 東門入口脇には、〝屋島寺〟の説明板が…

  ◆屋島寺

 当寺は唐僧鑑真(がんじん)和上過海大師が開創の基を開き、その弟子恵雲律師空鉢(くうはつ)と号した人が初代の住職となったと伝えられ、初めは律宗であったが、弘法大師が真言宗に改めた寺で、四国八十八ヶ所の八十四番の札所であります。本尊千手観音は、平安時代前期の作であり、本堂は鎌倉時代の末頃の建築で、共に重要 文化財に指定されています。
 書院裏には名園雪の庭があります。鐘楼の釣鐘は鎌倉時代の初め貞応(じょうおう)二年に鋳(い)たものです。
 なお、源平合戦の遺物など陳列した宝物館があり、狸(たぬき)で有名な蓑山(みのやま)明神の社もあります。

 ふん、ふん、これは〝四天門〟脇の説明文と同一ですネ(^-^)
 GONsan達は、屋嶋城城門跡から遍路道を進み、仁王門・四天門と入って来ましたので、どちらかと言うと逆ルートでの屋島寺参詣でありました。
 観光客の多くは、南嶺メインに廻られますようですから東門から入られますのでしょうネ…
 東門を出ますと、バスが待っています駐車場へ…
 〝屋島寺〟…新しくて綺麗で、大変立派なお寺でしたネ。20代の若者時代に何度か訪れています〝屋島寺〟…当時がどぅでありましたのか、既に50年も昔の事ですから記憶にないなぁ~
 瀬戸内の多島美を一望出来ます展望台のような場所から、絶景に向かって開運や家内安全を祈願し“かわら投げ”をしました記憶も残っていますけど、場所は何処でしたのかも…
 〝忘却は、時間と距離に比例する〟…う~ん、まさに、こんな感じですねぇ(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(31)

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 もぅ随分昔の20代の頃に、何度か屋島を訪れていますけど、その際に瀬戸内の多島美を一望出来ます展望台のような場所から、絶景に向かって開運や家内安全を祈願し“かわら投げ”をしました記憶がありますけど、何処でしたのでしょうネ…今でも出来るのかなぁ…
 まぁ、それはさて置きまして、駆け足で境内を拝観です。

 ◆重要文化財 屋島寺本堂

 この堂は、今から650年余り前の鎌倉時代末ごろに建てられたものですが、350年程前に竜厳(りゅうごん)上人が大修理をし、昭和32年2月から解体して二度目の大修理を加え二か年を経て昭和34年5月に復元工事を完成したものであります。

 ◆重要文化財 本尊十一面千手観音

 本尊十一面千手観音、今から約千七十年程前(貞観(じょうがん)時代ともいう)に彫まれた一木造りで全身に漆を塗り金箔をおいた坐像で光背も当時のものです。

 連なる鳥居と大きな狸の石像が並び、屋島寺の中でもひときわ目立つのが、蓑山(みのやま)大明神です。祭神は、ジブリ作品『平成狸合戦ぽんぽこ』のキャラクター、太三朗禿狸のモデルにもなった、屋島太三郎狸。全国の化け狸の中でも特に有名なことから、日本三大名狸に数えられていますとか。
 屋島太三郎狸は、本尊十一面千手観音の御申狸として多くの善行をつんだため、土地の地主の神として本堂横に大切に祀られていますようですネ。(縁結び・子宝・福運をもたらす屋島太三郎狸)

 ◆蓑山(みのやま)大明神之由来

 --- 屋島太三郎狸 ---

 その昔、弘法大師さんが四国八十八ヶ所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ、簑傘を着た老人に山上まで案内されたと言う。のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。
 屋島の太三郎狸は佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に、日本三名狸に称されています。太三郎狸は屋島寺本尊十一面千手観音の御申狸また数多くの善行をつんだため、土地の地主の神として本堂の横に大切に祭られ、四国狸の総大将とあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であった。
 尚、島太三郎狸は一夫一婦の契りも固く家庭円満、縁結び、水商売の神特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をもたらす狸として全国よりの信者が多い。

 …と、こんな説明板がありましたネ(^-^)//"

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 ◆屋島&屋嶋城(やしまのき)跡

 屋島は高松市の東北に位置する台地です。江戸時代までは文字通りの「島」でした。その後、塩田や農地の開発のため、埋め立てが行われ、四国本土と陸続き(間には川がありますが)になりました。そのテーブル状の特徴ある形は瀬戸内海航路の目印となり、昭和9年(1934)に国の史跡及び天然記念物に指定されました。
 このテーブル状の特徴ある形は、溶岩流がつくりました。瀬戸内海一帯は約1億年前の花崗岩が分布しています。屋嶋では、この上に1500万年前に噴出した安山岩質溶岩が覆っています。花崗岩は風化しやすく、風雨により浸食されています。それに対し、安山岩質溶岩は硬く、風化しにくいのです。その結果、このような特徴ある台地が出来ました。
 斉明天皇6年(660)、唐と新羅に滅ぼされた百済を再興するため、大和朝廷は救援軍を派遣しました。しかし天智天皇2年(663)、白村江の戦いで大敗します。その後、両国の侵攻に備えて対馬から北部九州、そして瀬戸内海沿岸に作られた古代山城の一つが屋嶋城です。

 現在、このような古代山城は28ヶ所確認されています。そのうち官撰史書に記載のある12の城を「朝鮮式山城」、記載のない16の城を「神籠石(こうごいし)式山城」と呼んでいます。備後国にあったとされる常城(つねき)、茨城は前者、総社市にある鬼ノ城は後者になります。屋嶋城は日本書紀の天智天皇6年(667)11月の条に「築倭國高安城、讃吉國山田郡屋嶋城、對馬國金田城(大和国に高安城、讃岐国山田郡に屋嶋城、対馬国に金田城を築く)」という記載がありますので、「朝鮮式山城」と呼ばれる古代山城になります。以下、図8を使って屋嶋城跡を説明します。

 ①城門地区
 今回の見学地です。平成10年に山林に埋もれた石積みが地元の方によって発見されました。これを契機に調査が開始され、「幻の城」とまで呼ばれていた屋嶋城の存在が確認されました。
 城門は、約2.5mの段差が設けられ(懸門)、敵の侵入を拒む構造となっています。このような構造は朝鮮半島の古代山城によくあるもので、朝鮮半島の築城技術が用いられたことを裏付けています。日本で初めての確認例として注目を集めました。また、敵が侵入した場合に備えて、城門の奥の岩盤とその上の小規模な土塁により、進入路を城壁北側に限定する構造になっています(甕城(おうじょう))。
 城壁は高さ6mにも及ぶところもあり、自然地形に添うように、山上でも確保できる安山岩で築かれています。

 ②南水門&③北水門 -- わずかな石積みしか残っていません。
 ④屋島寺周辺 -- 南嶺の広い平坦地で、倉庫等があった可能性が指摘されています。屋島寺境内からは、築城時代の須恵器が見つかっています。
 ⑤北斜面土塁 -- 昭和60年に発見されました。盛り土と石積みで、小規模な城壁が築かれています。

 ⑥浦生(うろ)地区
 屋嶋城跡として最初に注目された遺構(石塁)です。しかし、その石塁が屋嶋城のそれであることを証明する明確な資料はありませんでした。平成21年から発掘調査で、7世紀後半頃の須恵器(平瓶(へいへい))が出土しました。これにより、この遺構が屋嶋城を構成する施設であることが明確になりました。

 --- 当日貰った〝備陽史探訪の会〟資料より ---

 ◆蘇る屋嶋城(やしまのき)

 「日本書紀」にその名が記されていたにも関わらず、長らくその実態が不明で、幻の城でした。1998年1月、屋嶋城を探索していた平岡岩夫氏がこの場所で正面の石積みを発見されました。この発見を契機に、高松市教育委員会による発掘調査が開始され、2002年、城門遺構の発見によってついに屋嶋城が実在したことが照明されたのです。発掘調査によって、高さ6メートルにも及ぶ巨大な城壁も築かれていたことが分かりました。
 左手に見える階段を設置している場所が城門で、2.5mの段差を設けて敵の侵入を阻む構造となっています。当時は、梯子などで出入りをして、有事の際には梯子をはずしていたと考えられます。城門の石積みの真ん中ほどに開いた穴(水口)からは雨が降ると水が流れ出ます。
 2007年から開始した整備工事により往時の姿を取り戻した屋嶋城は、国防の危機に瀕し、城づくりに携わった人々、防衛を担った人々の往時の思いを我々に語りかけてくれるでしょう。

 ・修復
 石積みは、1350年と言う長い年月によって、大部分が崩落し、かろうじて残っていた所も非常に危険な状態でした。そのため、城門と城壁の保存のため修復に着手しました。
 まず、石工さんが丁寧に石積みをいて一石ずつとりはずしして行きました①。その後、石積み方法を研究するため、実験的に城壁の一部を復元し②、当時の城壁の形や施工技術の検討を重ねました。そして、古代の石積み修復にとりかかりましたが、試行錯誤の日々で③、特に城門の角の石は慎重に据えていきました④。城門の床下には石組みの排水溝があり、城門前面の真ん中ほどに開いた穴は水口(排水溝の出口)を復元したものです。崩落していたため当時の姿を想定し、何度もやり直し最も苦心した箇所です。
 石積みの石材は安山岩で、淡い茶色の石が石積みに利用されていたもので、黒もしくは灰色の石が新たに加工して補ったものです。

 --- 現地説明板より ---

 城門跡の見学を終えますと、屋嶋城跡とお別れで、屋島寺経由でバスの待ちます駐車場へ。
 屋島寺は、見学と言いますよりも、駐車場への近道として通り抜けとなりました(^-^)
 遊歩道からは山門(仁王門)、四天門をくぐると鐘楼、本堂、宝物館が並んでいますけど、山門脇には、こんな説明板が…

 ◆屋島寺

 当寺は唐僧鑑真(がんじん)和上過海大師が開創の基を開き、その弟子恵雲律師空鉢(くうはつ)と号した人が初代の住職となったと伝えられ、初めは律宗であったが、弘法大師が真言宗に改めた寺で、四国八十八ヶ所の八十四番の札所であります。本尊千手観音は、平安時代前期の作であり、本堂は鎌倉時代の末頃の建築で、共に重要 文化財に指定されています。
 書院裏には名園雪の庭があります。鐘楼の釣鐘は鎌倉時代の初め貞応(じょうおう)二年に鋳(い)たものです。
 なお、源平合戦の遺物など陳列した宝物館があり、狸(たぬき)で有名な蓑山(みのやま)明神の社もあります。

 --- 山門脇の説明板より ---

 WEB上で『屋島寺』を検索しますと、こんな記載も…

 ◆屋島寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 屋島寺(やしまじ)は、屋島の南嶺山上(香川県高松市屋島東町)にある真言宗御室派の寺院。四国八十八箇所霊場の第八十四番札所。
 本尊真言:おん ばさら たらま きりく
 ご詠歌:梓弓(あずさゆみ)屋島の宮(みや)に詣でつつ 祈りをかけて勇む武夫(もののふ)

 ・歴史

 律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。ここから1kmほど北の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。その後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947年~57年)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。

 明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である。
 江戸時代初期まで本土と離れた島であったが、寛永14年(1637年)高松藩主・生駒高俊により陸続きとなった。その後、藩主・松平頼重が旧跡を惜しんで、正保4年(1647年)本土との間に水路(相引川)が復元された。

 ◇伽藍

 山門(仁王門):二王像が安置。
 四天門:向かって前に増長天・持国天、後に多聞天・広目天の四天王像(東大寺型)が安置。
 東大門:駐車場からの入口。
 本堂
 大師堂:大師像を拝顔できる。
 三体堂:鑑真が祀られていて拝顔できる。
 千体堂:中央に千手観音、その背後に千体仏。
 熊野権現社
 蓑山大明神:祭神は日本三大名狸に数えられる屋島太三郎狸、蓑笠をつけた老人の姿で現れて弘法大師を案内したとされる。
 宝物館:有料で拝観可能、本尊など多くの仏像が安置されている。
 鐘楼堂
 本坊
 御成門
 庭園:宝物館の中からガラス越しに眺めることができる。白い凝灰岩が露出してるため雪の庭という。
 瑠璃宝の池(血の池):弘法大師がお経と宝珠を納めて池にしたとの伝説がある。その後、源平合戦の武士たちが血の付いた刀を洗ったことから血の池と呼ばれるようになった。
 可正桜:1665年(寛文5年)に高松藩士松平半左衛門が植えた7株のうち枯れずに残った1株を移したもの。
 源平屋嶋合戦八百年祭供養碑:寿永4年(1185年)早春に繰り広げられた合戦の戦没者を800年後の昭和60年に弔ったもの。
 句碑:芭蕉「夏艸やつはものどもの夢の跡」が四天門の右前にあり、その前に「濱風尓(に)かしげ傾(かし)げて遍ろ笠」がある。梶原芭臣「松に月古き景色を時雨け里」と刻まれた球石を龍が銜える石碑が本坊の右前にある。
 歩き遍路は山門を通り、四天門を通って正面に本堂、本堂の手前を右に進むと右手に納経所、正面に大師堂がある。車遍路は東大門から入って行くことになり、千体堂、三体堂、大師堂の順になる。

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 それでは、皆さんに付いて、城門跡に下りてみます事に。
 う~ん、この位置から城門までは、結構高さがありますネ。2.5mの段差ですから、確かに容易には敵が侵入出来ないですねぇ~平時では、ここに梯子を設け、それを使用し出入りしていましたのでしょうネ(^-^)
 城壁に眼を向けてみますと、丸にプラスを記載したモノが数ヶ所貼り付けられておりました。
 何でも、これは『反射プリズム』と言って、城壁の測量時に使用しますとか…
 『反射プリズム』をWEB上で検索してみますと、

 ◆ケーエステック㈱〝反射プリズム〟

 ・反射プリズム
 今日は反射プリズムについてです。
 反射プリズムとはトータルステーションや光波距離計で距離を測るのに必要なアイテムです。
 これはシールタイプの反射プリズムです。スタッフの裏面の決まった高さに貼って横断測量等にも利用できます。

 …との事で、GONsanには理解しがたい難解な内容で綴られておりました。
 要するに、将来、復元しました城壁にズレが生じても困りますから、シールタイプの反射プリズムを使用して、定期的に測量しチェック。城壁の崩れを事前に防止します為に、〝シールタイプの反射プリズム〟を貼付しておられますようであります(^.-)☆
 う~ん、技術の進歩で、近年は色んなモノが有りますねぇ~便利になりましたネ(^_^)v
 でも、この仕組みに尽きましては、GONsanには、ちんぷんかんぷん(^-^)//"

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 〝屋嶋城城門跡〟へと到着しましたので、まずは説明板に眼を通してみましょうか…

 ◆ありし日のたかまつ

 屋島が島だったことを皆さんはご存知でしょうか。今からは想像もできませんが、ここから見える景色は入海でした。右手のサンポート高松から南東方向に海が湾入し、琴電長尾線の林道駅のあたりから東に向かって海岸線が走っていたと考えられています。古くはこの屋島の皆川の辺りが「たかまつ」と呼ばれた地域で、様々な記録によれば、ありし日の屋島周辺は「たかまつ」の玄関口だったことが分かります。きっと屋島の麓を様々な船が行き交っていたことでしょう。
 皆さんも、いにしえの人々が見た古・高松湾の情景を想像してみてください。

 ・屋嶋城(やしまのき)とは
 663年の白村江の戦いでの敗戦後、国防の危機に際して、中大兄皇子は倭国(当時の日本の呼称)を守るために、九州から瀬戸内海にかけて山城を築かせました。屋嶋城はその一つで、日本の史書である『日本書紀』にその名が記されています。

 柵沿いの城門を見下ろせます場所にも説明板が…これには、こんな記載がありました。

 ◆屋嶋城城門

 屋嶋城の実在を確定されたのは城門の発見でした。
 正面に見える城門の外側には2.5mの段差【懸門(けんもん)】があり、敵が容易に侵入できなくなっています。さらに、城門の扉から城内へと入ってくると手前の岩盤に行く手を阻まれ、向かって右側へ向かうしかありません。これは、城内への侵入を妨げるのに加えて、この周辺で警備する兵士が敵に横(死角)から攻撃するのに適した構造【甕城(おうじょう)】になっています。
 このような防御に優れた構造は、当時の朝鮮半島にあった城づくりの技術を用いたもので、百済の人たちが城づくりに関わったことを伝えてくれるものです。

 角柱を設置している箇所が、門の柱穴が見つかった場所です。城門の構造を示す遺構は多くが流失しており、具体的な門の扉の位置や構造を明らかにすることはできませんでした。そのため、発掘調査で確認できた柱穴や想定される城壁の高さ、城門の幅、床面の構造をもとに、大野城跡(福岡県太宰府市・大野城市・宇美町)、金田城跡(長崎県対馬市)や鬼ノ城(岡山県総社市)等の他の古代山城との比較から、往時の姿を想像しました。
 本来は柵の辺りに出入りのための扉があったと考えています。また、斜め左前方には一辺約1.2mの隅丸方形状に掘られた用途不明の穴も見つかりました。

 WEB上には、その他にも色んな記載がありますので、二つばかり拾ってみますと、

 ◆屋嶋城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 屋嶋城(やしまじょう/やしまのき、屋島城)は、香川県高松市の屋島に築かれた、日本の古代山城である。伊予総領(伊予など複数の国を管轄した軍政官)の管轄下で築かれたとされている。
 城跡は、1934年(昭和9年)11月10日、国の史跡と天然記念物に指定された「屋島」の指定範囲に包含される。屋嶋城敷地跡には四国遍路84番札所の屋島寺がある。

 ・概要

 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は、日本の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている。瀬戸内海の島に築かれた古代の屋嶋城は、667年(天智天皇6年)、高安城・金田城とともに築かれた。また、屋嶋城は、政権基盤の宮都を守る高安城、国土領域を守る最前線の金田城とともに、瀬戸内海の制海権を守る重要なポイントとされている。
 屋島は江戸時代までは陸から離れた島であったが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ、陸続きになった。全体の大きさは南北5キロメートル・東西3キロメートル、南嶺の標高は292.0m・北嶺の標高は282m、山頂は平坦で、端部は急崖で囲まれた台地の地形で、南嶺と北嶺は細い尾根で接続されている。
 屋嶋城は、南北嶺の山上全域が城跡とされている。山上の外周7キロメートルのほとんどが断崖で、南嶺の外周4キロメートルの断崖の切れ目に城壁が築かれている。山上からは山下の様子が明確に把握でき、メサの地勢を有効に活用した城で、懸門(けんもん)構造の城門の存在が判明したのは国内初のことであった。この懸門の存在は、大野城・基肄城と同様に屋嶋城の築城においても、百済からの亡命者が関与したことが窺える。

 浦生(うろ)集落の砂浜が広がる海岸から谷筋を登れば山上に通じた道があり、標高100メートルの山中に谷を塞いだ、長さ約47m×基底部幅約9mの石塁と台状遺構(物見台)がある。この遺構は大正時代に発見され、山上の石塁が発見されるまでは、屋嶋城の唯一の遺構であった。山上の城は断崖を利用して城壁は築かれなかったとされ、山上に遺構が見当たらない。また、考古学の視点では未実証で、多くの研究者が実態の不明な山城に位置づけていた。2009年の調査で、7世紀後半代の城跡遺構であることが判明した。

 屋嶋城は二重防御の城である。浦生地区の遺構は、進入路を塞いだ遮断城で、大野城と水城・鬼ノ城と水城状遺構と同類とされている。
 城門は懸門構造に加え、城内側は甕城(おうじょう)であり、通路は北側に直角に曲がる。門道は階段状で、城内から城外に向かって暗渠の排水路が設置され、通路の両側の柱穴の検出により建造物(門扉)の存在が実証された。
 城門遺構の全長45m×高さ6mの石塁などが復元された。城門は幅5.4m×奥行10m、入口の高さ2.5m(段差)である。城門の南側は、内托式の城壁で、高さ6mの城壁がある。城門の北側は、夾築式の城壁で、北端は断崖に接続され、長さ10m×高さ5m×幅10mである。城門遺構の見学路などが整備され、2016年3月19日、一般公開となる。
 南嶺山上の北斜面土塁は、斜面を利用し、幅約2m×長さ約200m×高さ約2mの石積みの背面に盛り土をした、内托式の土塁である。

 山上からは、西方約28キロメートルの香川県の五色台と岡山県の鷲羽山に挟まれた、備讃瀬戸の海路が遠望できる。また、讃岐城山城(さぬききやまじょう)と鬼ノ城(きのじょう)も視野に入る。
 島内には、北端に長崎鼻(ながさきのはな)古墳、北嶺山上に千間堂(せんげんどう)跡、東岸の入江(屋島湾)一帯は源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島古戦場、北端の岬に高松藩が築いた砲台跡などがある。
 四国にある古代山城は、屋嶋城・讃岐城山城・永納山城(えいのうざんじょう)の三城である。
 屋嶋城の城門遺構は、瀬戸内海国立公園に指定された屋島(屋島園地)に所在する。

 ◆甦った幻の古代山城『屋嶋城』

 --- https://setouchifinder.com/ja/detail/16258 ---

 屋島(やしま)は源平合戦の舞台として全国的に名が知れている歴史スポットですが、それよりも遥か昔の時代に城が築かれていたことをご存知ですか?
 屋嶋城(やしまのき)は『大化の改新』で有名な中大兄皇子(後の天智天皇)が唐と新羅の侵攻に備え、対馬・九州から瀬戸内海沿岸にかけて築かせた古代山城のひとつ。
 667年に築かれたことが『日本書紀』にも記されていましたが、その実体はよく分からず長らく謎に包まれた城でした。
 しかし、1998年に屋島の南嶺山上部において石積みが発見されたことを契機に発掘調査が行われ、2002年の城門遺構の発見によって屋嶋城が実在していた事が証明されました。
 調査結果に基づいて進められていた城門遺構整備事業も完了し、2016年3月19日から一般公開されています。
 屋島山上にある駐車場から南方へ約15分ほど散策道を歩いていくと、屋嶋城の城門遺構が見えてきます。
 屋嶋城は断崖絶壁を最大限利用した古代山城で、城壁の9割程は天然の崖でした。地形的に敵の侵入を受けやすい場所にはこのような石積みの城壁と門を築いて防備を固めたのです。
 調査によって高いところでは6mにもおよぶ巨大な城壁が築かれていたことが分かりました。淡い茶色の石が発掘された石積みの現物で、黒もしくは灰色の石が新たに加工して補ったものです。

 …と、こんな〝屋嶋城跡〟であります(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(27)

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 展望台から古戦場の眺望を終えますと、また散策続行で、屋嶋城城門跡へと向かいます。
 旧ホテル「甚五郎」玄関横には、石森延男sanの句碑が…

 ◆石森延男 句碑

 碑 主--石森延男(1897年から1987年)

 ・所在地:屋島東町1831-5(屋島山頂談古嶺の旧ホテル「甚五郎」玄関横)
 ・碑文:「ある明月の夜、教え子たちとこの山にのぼる きみたちも虫を歌って月はるか あれから四十年 思い出をこめて ゆかりの人たち この碑を建てる」
 ・建立年月日:昭和41年
 ・備考:札幌市出身。教育者・児童文学作家。大正13年8月~15年3月まで高松師範学校で教師をしていた。この教育文学碑は、当時の教え子だった生徒たちが「石森先生の思い出」という作文集を発行して石森に贈る際、ともに建てられたもの。宮脇町に住んでいた石森は、栗林公園にもよく訪れたと随筆を残している。

 ◆石森延男

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ・来歴・人物

 北海道札幌市に、歌人で「われらが愛する北海道」の作詞者でもある石森和男の長男として生まれる。中央区南6条西9丁目に生誕地の碑がある。
 東京高等師範学校卒。在学中より詩作や口演童話に携わる。愛知県や香川県で中学校教師ののち、1926年から大連の南満洲教科書編集部に勤務し、『国語読本』を編集。満州唱歌の制作にも深く関わった。
 1939年、文部省図書監修官となり、国民学校教科書を編纂、戦後、最後の国定教科書を編纂する。そのかたわら1926年頃から児童文学の創作をし、日中戦争当時の満州国を舞台にした少年小説『咲出す少年群』(1939)で第3回新潮文学賞、北海道のアイヌを主人公とした『コタンの口笛』(1957)で未明文学賞、産経児童出版文化賞、『バンのみやげ話』(1962)で第1回野間児童文芸賞受賞。昭和女子大学教授をしながら国語教科書編纂を続けた。
 1981年に今江祥智、尾崎秀樹、河合隼雄、栗原一登、阪田寛夫とともに児童文学季刊雑誌『飛ぶ教室』の編集委員となり、同誌を創刊。主要著作をまとめた『石森延男児童文学全集』全15巻がある。日本児童文学学会初代会長。
 藻岩山ロープウェイ乗り場の隣に、石森父子を顕彰する「石森文学広場」がある。

 …と、こんな方のようであります。
 満開のツバキを横目に進んで行きますと、今度は、〝エドマンド・ブランデン〟の詩碑が…傍らの説明板には、こんな記載がありました。

 ◆屋島を訪ねて -- 1949・2・7 --

 --- A First to Yashima Edmund Blunden エドマンド・ブランデン ---

 まこと長い屋根のように、強者らが霊鎮まるこの丘は平地の上にかさむる。神の築くところ、冬の動風の中に
がっしりと立つ、緑と白銀の鎧に身を固めて。
 遅いわれわれの足どりもより高い斜面をいくつか踏みためて、巨松の下闇に白い梅が松明をかざす寺院の前にたどり着く。ここで武士道栄えし頃の名工と詩人達が立像と象徴と古字の言葉で巡礼人に話しかける。さらに行けばここにも亦土産店や茶店や街路がある。
 やがて、高い青空にかかる幻の月に見まもられつつ、展望台に立てば、突如眼前に開く新しき驚き、髣髴(ほう
ふつ)の青海原に無言の波が小皺を寄せ、飛ぶ雲が濃紫の班点を落している。
 あゝ(死の鎌と漏刻を持つ)時の老神よ、青と紫にかすむ彼方、大自然のなした鶏冠と王冠の何という拡がりと
力強さぞ。
 このながめ時空の中にありやといぶかる。と、頭上の深淵で鳥が輪を描く、その両翼に一刷の雪をつけて。

 詩碑について
 本詩碑は、昭和29年10月21日に完成し、同11月1・2両日高松市で開催された英語教育研究会四国大会に続き、屋島の現地で除幕式を行ったものである。
 詩は、大正13年から昭和2年まで東大文学部で英文学を講じ、第二次世界大戦後には英国の文化使節として特派された英国詩人エドマンド・ブランデン氏が、昭和24年2月7日夫人と共に屋島を訪ね、その印象を求められるままに、栗林公園内の掬月亭で書き下ろしたものである。
 詩碑の訳文は、同氏の東大在職時代に教えを受け、当時香川県英語教育研究会長・高松第一高等学校長であった故岡崎 隆によるものである。(詳細は、昭和29年10月23日付朝日新聞参照)
 -- 平成2年11月 英国祭佳日に記す --

 ◆エドマンド・ブランデン

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 エドマンド・チャールズ・ブランデン(Edmund Charles Blunden, 1896年11月1日 - 1974年1月20日)は第一次世界大戦の従軍体験を題材にした詩で知られるイギリスの詩人・文芸評論家。

 ・経歴

 ロンドンに生まれたブランデンは、4歳のときに教師をしていた父の転勤で、ケント州のヨールディング村に転居、当地で12歳までの幼少期を過ごしている。1909年、ブランデンは、400年の伝統を誇るパブリック・スクール、クライスツ・ホスピタル(Christ's Hospital)校に入学、古典を専攻したブランデンはラテン語を学ぶ日々を過ごす一方で、クリケットやラグビーにも熱中、文武両道というにふさわしい学生生活を送っていたという。

 第一次世界大戦勃発の翌年にあたる1915年、クライスツ・ホスピタル校を卒業したブランデンはオックスフォード大学クイーンズ・コレッジの奨学金を獲得後、ロイヤル・サセックス連隊に志願、イープルの戦いやソンムの戦いなどに従軍し、その勲功により、ミリタリー・クロスを受章している。ブランデンの戦争体験は、数々の戦争詩という形で文学的に結実し、特に1928年に発表された散文、『大戦微韻』(Undertones of War)はブランデンの従軍体験を題材にした作品でもっとも世に知られたものとなっている。彼の戦争詩はジーグフリード・サスーンやウィルフレッド・オーエンのそれとは異なり、戦場の生々しい描写というよりは戦場の風景を描いた作品が多いのが特徴といえよう。-- 以下、略 --

 …と、こんな人物であります(^.-)☆
 少し先には、こんな説明板も…

 ◆屋島の鳥

 日本で記録されている野鳥は、約500種です。このうち屋島周辺では約130種が観察されていますが、水辺、海岸部で約70種、この山間部では、約60種です。
 野鳥は、一年中ほぼ一定の地域に住んでいる留鳥の仲間や、春に日本にやってきてヒナを育てる夏鳥の仲間、秋に日本にやってきて冬を越す冬鳥の仲間があって、季節により違った種類の鳥を見ることができます。屋島は中国地方から四国に渡来するコースになっています。
 警戒心が強く、動きがすばやいので、野鳥を観察するには細心の注意が必要です。

 ・比較的見られる鳥

 *留鳥--①ウグイス②メジロ③キジバト④シジュウガラ⑤キジ⑥コガラ⑦イカル⑧トビ⑨ミサゴ⑩ヒヨドリ⑪ホオジロ
 *夏鳥--⑫サシバ⑬オオルリ⑭ホトトギス
 *冬鳥--⑮シロハラ⑯ツグミ⑰ジョウビタキ
 番号を見て名前をおぼえて下さい。mmは本体の大きさを示しました。

 途中、立ち止まり、説明板に眼を向けながらのノンビリとした歩行でしたけど、どうやら〝屋嶋城城門跡〟へと到着のようですネ(^-^)//

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(26)

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 展望台へと向かっておりますと、途中、散策道の左側に小さな池が…屋島案内図には〝血の池(瑠璃宝の池)〟と記載がありましたけど、皆さん、別段、池を覗き込む訳でもなく素通りです。勿論、GONsanも(^-^)
 〝血の池(瑠璃宝の池)〟につきましては、WEB上にこんな記載が…

 ◆瑠璃宝の池(血の池)

 屋島寺伽監草創のおり弘法大師が「遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門」と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。ところが竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。
 また、源平合戦のとき壇の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。-- 高松市(血の池脇の案内板より) --

 …と、こんな記載で、う~ん、せっかくですから立ち寄り、画像に納めれば良かったですねぇ~残念(^-^;
 そして少し先で、2~3名の方が右側の脇道へ…んっ!?何があるのでしょう?
 GONsanも向かおうとしますと、「単なる墓地だった…」と戻って来られましたが、古そうなお墓がありましたので、確認されましたのかも…
 そんな余裕が有るのなら、さっきの〝血の池(瑠璃宝の池)〟に立ち寄れば良いのに…と、ブツブツ独り言のGONsanでした(^-^)
 展望台の三叉路角地には、荒れ果てました〝政府登録国際観光旅館 甚五郎〟の建物が…

 ◆心霊スポット ホテル甚五郎

 --- https://haunted-place.info/4661.html ---

 下半身のない上半身だけで這いずり回る霊が出ると言う噂や、誰もいないのに何かの気配を感じたり、お札のような物が貼られた部屋があり、何か霊的な理由があるのではないかと囁かれている。
 しかし、このホテルで騒ぎになるような目立った事件や事故などは無いようで、周囲の霊が集まって来ているのかもしれない。内部は綺麗な所もあるため、ホームレスが住み着いていた痕跡もあるようだ。

 ・ホテル甚五郎の基本情報
 1960年(昭和35年)に開業したホテル。源平合戦で有名な屋島は、瀬戸大橋開通と同時に観光地として発展していた。
 2002年(平成14年)には訪れる人が激減し倒産し廃業した。周辺物件もまとめて廃墟化してしまいゴーストタウン化している。建物は屋島ドライブウェイからもはっきりと見える。

 ◆政府登録国際観光旅館

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 政府登録国際観光旅館(せいふとうろくこくさいかんこうりょかん)とは、1949年(昭和24年)12月24日に施行された国際観光ホテル整備法(昭和24年12月24日法律第279号)に基づき、観光庁長官が登録を行った旅館やホテルのこと。全国に登録された旅館が1,996、ホテルが1,127ある。(平成16年度 総合政策局観光地域振興課調べ)下記の要件を満たしたものが承認される。

 ・要件

 <洋室>
 机、いす、クローゼットまたはその代替品を備え、椅子式の生活とベッドでの睡眠に適していること。
 浴室は自由にシャワーの温度を変えられること。
 トイレは水洗式かつ洋式便器であること。
 シリンダー錠(または同等の錠前)、電話機を備えていること。
 ロビーが指定面積以上であること。
 食堂では洋食の朝食が提供でき、椅子と机があること。
 外国語(主に英語)表記が準備されていること。
 外国語(主に英語)が話せるスタッフを雇うこと。

 <和室>
 大体は上記の洋室と同様だが、次のような違いがある。
 床の間、踏込み、クローゼットがあること。
 適当な冷暖房設備があること。

 …と、〝ホテル甚五郎〟で検索してみますと、その他に色んな記載がありましたネ(^.-)☆
 展望台からは、暫し〝屋島の戦い〟の舞台となりました「源平屋島合戦史跡」を眺望です。正面に見えますのが〝五剣山(八栗山)〟ですネ。

 ◆五剣山(高松市の山)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 五剣山(ごけんざん)は香川県高松市にある山。

 ・概要
 一つの峰を剣と呼んで、西から一ノ剣、二ノ剣、三ノ剣、四ノ剣、五ノ剣と山上に5つの大きな峰があるためこの名前がついた。また、地元では八栗山(やくりさん)とも呼ばれる。五の剣は1707年(宝永4年)の宝永地震で割れている。
 これらの剣の山頂にはいくつもの祠が点在し、四ノ剣の中腹には岩窟があり修験道の行場となってる。 かつてはこれらの剣へ登れたが現在は岩が風化し脆く危険なため、南側中腹にある八栗寺本堂の左から石段で上がったところにある中将坊大権現堂からさらに上へは入山禁止とされている。そのため標高375mの最高点は四ノ剣であるが、366mの山頂表示がニノ剣にあり、四等三角点のある366.09m地点は一ノ剣の西端に位置している。また、八栗寺の多宝塔の右側にも登山口があったが入山禁止の立札がある。また、山中にある「岩越の大日」は空海が彫ったとされる約3mの摩崖仏で上部の黒い層と下部の砂の層の間の真っ白い層に彫られている。
 八栗寺は、四国八十八箇所の第八十五番札所で、山号が五剣山である。また山麓では日本三大花崗岩として有名な庵治石が採石され、墓石などの高級石材として加工されている。

 そして、観光案内図には、五剣山と屋島の間の狭い海峡で繰り広げられた源平合戦で、那須与一が見事に扇を射貫いた〝那須与一扇の的〟の位置表示も(^_^)v

 ◆屋島の戦いをわかりやすく解説。「扇の的」って何?

 --- https://nihonshimuseum.com/ichi-no-tani-yashima-dan-no-ura/ ---

 屋島の戦いは1185年3月、讃岐国の屋島(現在の香川県高松市)にある屋島で起こった戦いです。
 一ノ谷で敗北した平家軍は、源氏と比較して有利であった水軍の力が有効に活用できる周囲が海に囲まれた屋島に内裏を作り、万全の体制で源氏を迎え討つつもりでいました。平家はあくまで得意な水軍の力を使い海から進んでくる源氏軍を討ち負かす作戦を立てていました。
 戦いの指揮を任されたのは源義経。義経は摂津水軍などを味方につけて暴風雨の中で屋島に向けて出陣します。悪天候の中での出陣に、梶原景時ら周囲の諸将は反対しますが、敵の意表を突く事が大事と考えたのか義経は悪天候の中にも関わらず屋島に向け出陣します。悪天候の中で勝浦(現在の徳島県徳島市)という場所に到着した義経軍。勝浦から屋島に向けて進軍します。
 屋島はまさに海に囲まれた島です。多くの船団を擁した平家は海からの攻撃には相当な準備が出来ていたと思われます。そこで義経は軍を2つに分けて周囲の陸地に放火します。周りが火に覆われた様子をみた平家軍は、源氏の大軍が、海ではなく陸から平家を攻撃し、平家を挟み撃ちしようとしていると考え、混乱状態になります。平家は、屋島から海に避難しようとします。

 義経は、自分たちの軍勢がいかにも大軍であるがごとく浅瀬を渡る馬にも水しぶきをあげさせるなど多くの奇策を使います。諸説ありますが、屋島攻略時には源氏の軍勢はおよそ150騎程度だったそうです。正確な数字か否かは不明ですが、わずかな兵と義経の奇策で混乱する平家は源氏と比べて、平家軍を統率する棟梁が欠如していたのかもしれません。
 この時、活躍したのが那須与一(なすのよいち)です。夕方の休戦状態の際、平家側から小舟が出てきて竿にかけられた扇を弓矢で射ろと挑発します。義経は那須与一にこれを射ろと命じます。与一は失敗したら源氏の名誉が失われる事なり、自害もやむ無しと覚悟しながら引き受け、見事大役を果たしました。このエピソードは「扇の的」と呼ばれ、平家物語の名シーンの1つでもあり絵にもなっています。
 しばらくして海に逃げた平家は、引き返し戦う兵もいましたが結局、戦局を変えるほどには至りませんでした。梶原景時ら源氏側の大軍の上陸が迫った事もあり、平家は屋島を去る事となります、自慢の水軍を有効に活用したとは言い難い結果となりました。

 …と、こんな〝屋島の戦い〟でありますけど、こぅして古戦場に眼を向けておりますと、当時の様子が偲ばれ、胸の中で合掌です。
 それにしましても、古戦場を眼下に眺望します、この廃墟ホテル。かっては、観光客の皆様で大変な賑わいでしたのでしょうけど、現在のこの惨状に眼を向けますと、場所が場所だけに、栄華を極めた平家一族と重なりまして、複雑な想いも生じますGONsanなのでありました(^-^)//"

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 〝久本古墳〟の見学を終えますと、次は、今回のバス例会の最後の訪問地〝屋嶋城城門跡〟に向かいます。
 〝屋嶋城城門跡〟をWEB上で検索してみますと、高松市公式ホームページに詳細な記載が…

 ◆屋嶋城(やしまのき)

 --- https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/chosa/yashimajo/index.html ---

 唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を再興するため日本は救援軍を朝鮮半島へ派遣しましたが、西暦663年8月、白村江の戦いで両国連合軍に大敗しました。これを契機として、唐・新羅の侵攻に備えて対馬から太宰府周辺・瀬戸内海沿岸に作られた朝鮮式山城の一つが屋嶋城です。日本書紀の天智天皇6(西暦667)年11月の条に

 「倭國高安城(やまとのくにたかやすのき)、讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)、對馬國金田城(つしまのくにかなたのき)を築(つ)く」(※倭國→現在の奈良県、對馬國→現在の長崎県対馬市)

 との記載がありますが、長らくその実体はよく分かりませんでした。平成10年2月に南嶺山上部近くの西南斜面において石積みが発見されたことを契機にして、南嶺北斜面・南斜面で確認されていた土塁と関連することが分かり、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、山上部付近の斜面に断続的ながら古代山城屋嶋城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明しました。約14年におよぶ発掘調査によってその全体像が少しずつ分かりかけています。これまでの成果や現在進めている城門遺構保存整備事業の進捗状況について紹介いたします。

 ・屋嶋城のあらまし
 屋島は名前のとおり、古代において島でした。屋島は瀬戸内海の中でも備讃瀬戸の東限に位置し、畿内に抜ける海上ルートにおける要所で、特に、唐・新羅の大船団を迎え撃つには非常に重要な場所だったと言えます。
 屋嶋城の城壁は山上を全長7キロメートルに渡ってめぐらしていたと考えられていますが、そのほとんどは断崖絶壁で、人工的に城壁が築かれていたのはそのうちの約1割程度です。そのため、自然地形を最大限に活用した古代山城と言えます。
 屋島は北嶺と南嶺と呼ばれる2つの山から構成されていますが、城壁などの遺構は南嶺のみで確認されています。また、北嶺と南嶺の間の西側には大きな谷があり、標高100メートル付近に山上の城壁とは別に城壁が築かれています。
 確認されている遺構のうち、最も残りの良いものが城門地区と浦生地区です。これらの発掘調査等の成果について詳しく紹介します。

 ・謎の古代山城を掘る
 屋嶋城跡の継続的な発掘調査は平成11年度から始まり、これまで14年間に渡って実施してきました。その結果、謎の古代山城屋嶋城の様々な情報を得ることができ、その実像が見え始めています。
 ここでは、近年の調査で多くのことが分かってきた城門地区、浦生地区などを中心に、発掘調査によって解明されてきた『日本書紀』に記載された屋嶋城について紹介します。

 ・浦生地区
 浦生地区の城壁(石塁)は早くからその存在が知られており、屋嶋城の遺構として紹介されてきました。しかし、それを裏付ける明確な資料はありませんでした。山上の調査の進展に伴い、平成21年度から発掘調査を開始したところ、7世紀後半頃の須恵器(平瓶(へいへい))が出土したことで初めて屋嶋城を構成する施設であることが明確になりました。
 城壁のほかに、城門や水門に推定されている箇所があるほか、雉城(ちじょう)と呼ばれる城壁から張り出した物見台のような遺構が残っています。周辺には石が多量に散乱しており、これらの遺構の表面は石積みであった可能性が考えられます。
 現在、調査を継続的に行っており、今後の調査が期待されています。

 ・その他の遺構
 このほかに、古代山城を考える上で重要な遺構としては、倉庫などの建物跡、貯水池、水門などを挙げることができます。
 貯水池としては血の池(瑠璃宝池)など数箇所でその候補地があり、水門としては南水門、北水門などがあります。城壁も南嶺の各所に残っており、特に北側斜面には土段と呼ばれる平坦な場所が道路状に残っています。屋嶋城に関する調査は、まだ始まったばかりでまだまだ多くの謎が残されており、これからの調査に期待が寄せられています。屋島の山上やその周辺に関連の未発見の遺構が眠っているかもしれません。

 ・甦る屋嶋城
 平成19年度から発掘調査で発見された城門と城壁の一部を修理復元するため、整備工事を実施しております。
 工事は城門南側の城壁から着手し、平成20年度に落石を回収、平成21年から平成22年度に石垣解体工事を実施、平成23年から平成24年度に城壁復元工事を実施しています。平成22年度には城壁復元工事を実施するために、試験的な城壁復元を実施し、様々な検討を行いました。解体、検討、復元という過程を経て、城壁復元工事が終了しました。
 現在は自由に見学することができます。今後も現地見学会を開催する場合は広報などで事前にお知らせしますので奮って御参加ください。

 …と、こんな記載が。
 駐車場に到着でバスから下車。屋島寺を横目にノンビリと展望台方向に向かいます。
 観光客もそれなりに多く、散策道脇の紅葉も大変キレイでありました(^-^)//"

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 石室から出ますと、GONsanも古墳の上に上がってみます事に…
 この古墳も盗掘に遭っていますのでしょうから、墳頂と言うか天井部分の石はありませんで、上から石室内が見下ろせます(^-^)
 石棚も、上からですと、よく分かります。
 墳丘から下りますと、古墳の周囲を見てみます事に。こぅして古墳廻りを見ておりますと、墳丘の盛土は、かなり流出してしまっている状況がよく分かりますネ(^-^)//"

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 古墳の中に入ってみますと、両袖式の横穴石室で、奥壁には石棚が付いております。
 石棚付石室は、和歌山県や九州北部に多く分布するとの事ですけど、GONsanは初めて石棚付石室の中に入りました。石棚の上には何が置かれましたのでしょうねぇ~
 石棚の上に副葬品を置くと言う訳ではなく、この石棚は、棺を庇状に覆う役割とされたようですねぇ~
 古墳から出まして、古墳の後方(北方)に眼を向けますと、台形の屋島が(^-^)//"

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 〝旧恵利家住宅〟の見学を終えましたら、丁度、集合時間が到来です。
 〝みろく自然公園〟を後にしますと、次は〝久本古墳〟へと向かいます。場所的には、屋島の南方のようであります。
 バスが入れませんから、古墳近くで下車し、周辺の田園風景に眼を向けながらノンビリと歩行となりました(^.-)☆
 久本古墳に到着しますと、古墳脇に説明板が…

 ◆久本古墳

 --- 史跡 昭和50年3月13日 高松市指定 ---

 久本古墳は、横穴式石室をもつ円墳である。
 石室全長10.8Mで、遺体を埋納する玄室は、長さ4.5m、高さ3.3m、通路に当たる羨道部は、長さ6.3m、高さ2.1mである。
 北方の山下古墳とともに巨大な横穴式石室をもつ巨石墳である。周辺に大きな勢力と高度な文化をもった集団が存在したといえよう。
 玄室奥に、県内唯一の石棚がみられる。棚の下には、遺体を安置する陶棺が置かれていた。
 石棚は、和歌山県・徳島県の古墳に多く見られ、広範囲にわたる文化交流がうかがえる。仏教文化の影響が色濃い承台付銅鋺が、県下で初めて出土している。須恵器が多量に副葬されており、古墳名が六世紀末に築造され、七世紀初頭まで追葬が行われていたことが判明している。
 久本古墳には「祭礼などのとき、塚が膳・埦を貸してくれていたが、村人が壊すなどの不始末を起こし返さなかった後は、塚はもはや膳・埦を貸してくれなくなった。」という〝埦貸しの伝説〟が伝えられている。

 --- 高松市教育委員会 ---

 WEB上で〝久本古墳〟を検索してみますと、こんな記載も…

 ◆久本古墳

 -- 更新日:2019年1月18日 --

 ・史跡
 指定区分  市指定史跡
 指定年月日 昭和50年3月13日
 所在地   新田町

 ・解説
 墳丘の盛土はかなり流出してしまっているが、直径36メートル、周溝を含めた直径は46メートルを測る円墳であることが判明している。石室は全長10.8メートル、玄室長4.6メートル、幅2.6メートル、高さ3.5メートル、羨道長6.2メートル、幅1.6メートル、高さ2メートルを測る両袖式の横穴石室で、奥壁には石棚が付いている。この石棚の直下の奥壁に沿って土師質の亀甲型陶棺が納められていた。副葬品には、須恵器、土師器、鉄鏃のほか、承盤(しょうばん)付銅椀があり、6世紀末から7世紀初頭頃に築造されたと考えられる。
 石棚付石室、土師質亀甲型陶棺、承盤付銅椀はいずれも県内唯一のものである。石棚付石室は和歌山県や九州北部に多く分布するものであり、その伝播には紀氏およびその同族関係氏族との関連性が関わったとする説がある。また、土師質亀甲型陶棺は奈良県に類例があり、久本古墳の陶棺も奈良県からの搬入品である可能性が高い。本来仏具として使用される貴重な銅椀を有することからも大和朝廷との関係も注目される。
 なお、「村の祭事には塚(古墳)が膳や椀を貸してくれたが、あるとき村人が借りた膳椀を返さなかったところ、以後貸してくれなくなった」という民話が残っており、地元では「椀貸塚」とも呼ばれている。

 ◆久本古墳

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 久本古墳(ひさもとこふん)は、香川県高松市新田町にある古墳。形状は円墳。高松市指定史跡に指定されている。
 本項目では久本古墳の北にある山下古墳についても解説する。

 ・概要
 香川県中部、高松平野東部の立石山西麓に築造された古墳である。これまでに墳丘は大きく削平を受けているほか、1975年(昭和50年)・2002年度(平成14年度)に発掘調査が実施されている。
 墳形は円形で、直径36メートルを測る。墳丘周囲には幅10.5メートル(南側)・5メートル(西側)の周溝が、その外側に幅3.5メートルの周堤が巡らされ、周溝を含めた直径は46メートル、周堤を含めた直径は53メートルを測る。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。石室全長10.8メートルを測る大型石室であり、石材には安山岩の巨石が使用される。石室奥壁に石棚を付すという特徴を有し、石棚下には土師質の亀甲型陶棺が据えられる。石室内は盗掘に遭っているが、発掘調査では副葬品として多量の須恵器のほか、承盤付銅椀・鉄鏃・土師器が検出されている。
 この久本古墳は、古墳時代終末期の6世紀末葉-7世紀初頭頃の築造と推定され、7世紀後半頃までの祭祀が認められる(埋葬回数は1回か)。いずれも香川県内では唯一となる、石棚付石室・土師質亀甲型陶棺・承盤付銅椀の点で特色を示す古墳になる。周辺では巨石墳として小山古墳(非現存)・山下古墳(後述)の築造も知られるほか、後背丘陵上では群集墳が営造されており、久本古墳・小山古墳・山下古墳の3基は一帯の首長墓(綾公氏や秦氏の墓か)と想定される。また当地の豪族と、北方における屋嶋城築城との関連性の点でも注目される。
 古墳域は1975年(昭和50年)に高松市指定史跡に指定されている。

 ・来歴
 1975年(昭和50年)
 石室・墳丘の保存整備に伴う調査:第1-2次調査(久本古墳発掘調査団、2004年に報告書刊行)。
 3月13日、高松市指定史跡に指定。
 2002年度(平成14年度)、市道改良に伴う調査:第3次調査(高松市教育委員会、2004年に報告書刊行)。

 ・埋葬施設
 埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り。
 石室全長:10.8メートル
 玄室:長さ4.6メートル、幅2.6メートル、高さ3.5メートル
 羨道:長さ6.2メートル、幅1.6メートル、高さ2メートル
 石室の石材には安山岩の巨石が使用される。石室(および墳丘)の構築に際しては高麗尺(1尺=約35.6センチメートル)の使用が推測され、玄室の奥壁が墳丘の中心として基準になる。玄門部の立柱石は内側に張り出し、その上部には楣石を置くという九州系横穴式石室の特徴を示す。また羨門にも立柱石が認められ、羨道部は複室構造の前室のような形態を取る。羨門立柱石は鑵子塚古墳(観音寺市)でも知られ、関係性が指摘される。
 また玄室には、奥壁に接する位置に石棚を付し、石棚を有する石室としては香川県では唯一の例になる。両側壁にかけて渡した一枚石(長さ約3メートル・幅1.5メートル・厚さ0.5-0.6メートル)を棚とし、床面から棚下は1.7-1.8メートルを測る。石棚の多い九州・紀伊地方では石棚を奥壁・両側壁に組み込むのに対し、中国・四国地方では石棚を両側壁のみに組み込んでおり、本古墳も後者の例に属する。棚下では後述の土師質陶棺が据えられることから、この石棚は棺を庇状に覆う役割とされる。
 玄室内の石棚下には土師質陶棺が据えられており、確実な土師質陶棺の出土としては香川県では唯一の例になる。亀甲型陶棺であり、突帯幅は1.5-2センチメートルと狭いものになる。当該時期の陶棺は大和地方に集中し、本古墳の陶棺も狐塚2号横穴(奈良県奈良市)の陶棺と似ることから、大和地方との関係性が指摘される。

 …と、こんな〝久本古墳〟であります(^-^)//"

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 〝軒原庄蔵氏像〟まで下りて来まして、「んっ!?…」と眼が止まりましたのが、像の裏側の説明板。像を拝見しています時には気付きませんでしたけど、うん、うん、裏側に説明板がありましたネ(^-^)
 説明番には、

 ◆治水の功労者 軒原庄蔵

 富田中村の庄屋軒原庄蔵は、水不足に困る弥勒池の貯水増のため、三ツ石山の岩盤を掘り抜き、砕石谷からの導水に成功し多くの農民を救った。
 隧道工事は、田面村の工事監督多田信蔵(霞岳)、富田中村の数学者萩原栄次郎の協力を得て、安政2年(1855年)から安政4年にかけて、長さ105間(191m)の石穴を貫通させる難工事であった。
 この画期的な工事を完成させた功績により、高松藩から郷侍格に取り上げられた。
 後、明治2年(1869年)満濃池のゆる石穴工事を命じられ、明治3年30間余(約56m)の石穴を完成させ、讃岐の治水に貢献した。このため、満濃池の恩人とあがめられ、満濃池畔の松崎神社に合祀されている。
 明治23年63歳でふる里に没した。

 大川町歴史民俗資料館の落成を記念し、その遺徳を顕彰してこれを建立する。
 --- 平成2年3月吉日 大川町 ---

 …と、こんな記載がありました(^.-)☆
 昼食をとりました広場まで下りて来まして、周辺を見廻しましても人影はありません。皆さん、何処へ…
 そぅしておりましたら、〝重要文化財 建第1812号 旧恵利家住宅〟の案内表示が眼に入りましたので、向かってみます事に(^-^)
 旧恵利家住宅前の広場に立ち見廻しますと、6~7名の方々のお姿が…ふ~ん、ここにおられましたか(^-^)
 早速、GONsanも〝旧恵利家住宅〟を見学です。

 ◆重要文化財 建第1812号 旧恵利家住宅

 --- 指定年月日 昭和46年6月22日(文部省告示第165号) ---

 ・概要
 旧恵利家住宅は、17世紀にさかのぼる県下最古の農家住宅で、周囲を瓦葺きの庇とせず軒先まで茅で葺き降ろす形式が建築年代の古さを物語っている。

 ・歴史
 この建物は山あいの新名と言う集落にあり、かって村の百姓役であった藻玉氏のものと言われている。藻玉氏は判明している先祖が、元禄12年(1699)に亡くなっている旧家で、その後、江戸後期にその所有が恵利氏に移ったとされている。

 ・構造
 旧恵利家住宅は桁行7間、梁間3間半の寄棟造、茅葺の建物で背面に桁行1間半、梁間2間半の角屋が突出する。間取りは広い土間と、それに沿って板敷きの広間が並び、上手は座敷と納戸になる。現状の角屋は当初からあったものではなく、納戸を拡張したものである。なお、恵利氏は納戸を〝奥〟と呼び、また、新名にあった当時、床は竹を半割にして敷き詰め、これを竹座と呼んでいた。

 ・規模
 平面積112㎡(33.9坪) 軒面積144㎡ 屋根面積254㎡
  
 …と、案内板によりますと、こんな〝旧恵利家住宅〟であります。
 当時の農家住宅としましては、仲々の豪邸でしたのかも(^-^)//"

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 歴史民俗資料館内の見学を終えますと、今から40分間の自由行動となります。
 この間に、各自昼食タイムです。
 皆さん、弁当持参ですから、思い思いに〝みろく自然公園〟内の適当な場所へ。GONsanは、藤棚下のテーブルへ(^-^)
 日差しがありませんこの時期なんですけど、風が有りませんから冷たさも無し。とても、行楽日和とは言えませんけど、持参弁当は美味しいものでありました(^.-)☆
 昼食を終えますと、皆さん、三々五々、〝みろく自然公園〟内を散策です。GONsanは、再度、〝みろく自然公園〟の案内マップを確認の上、スグ近くの展望台に上がってみます事に…
 展望台に向かっておりますと、どなたかの銅像が…台座には〝軒原庄蔵氏像〟と刻まれています。ふ~ん、水利土木功労者の〝軒原庄蔵〟sanですネ(^.-)☆
 歴史民俗資料館内に、こんな説明書きがありましたネ。

 ◆水利土木功労者・軒原庄蔵

 文政11年、富田中村に生まれる。当時の庄屋・軒原庄蔵は漏水甚だしい「みろく大掛井」の惨状に苦慮し、玄光谷より三ツ石に至る山底の掘り抜き導水を企画、安政2年ようやく許可を得て、東西双方より昼夜3年の掘り抜き工事を実施。庄蔵の卓越せる技術によって安政4年、105年間に及ぶ石穴が完通した。
 この偉業により富田中村の田は永久に水利の便益をうける事となった。文政5年、弥勒池普請成就の功により郷侍格(ごうふかく)を申しつけられた。なお、工事監督した田面村の多田信蔵(画家霞岳)、更に地勢の高低を測定して両穴の連結を方向付けた富田中村の算数学者、萩原栄次郎があった事を忘れてはならない。
 その後、明治2年8月、高松藩より満濃池穿さく工事御用を任命され明治3年3月、30間5尺余の穿さく工事に成功した。その土木技術のすばらしさは、さぬき溜池史にさん然と輝いている。明治23年、63歳で逝去された。

 …と、こんな方でありまして、仲々立派な方でしたのでしょうねぇ~
 この銅像の後方には、イノシシ捕獲用の箱罠が…う~ん、ここでもイノシシが出没しますようですネ。
 展望台に到着しますと、どなたもおられません。チョッとした広場で確かに展望台が設けられてはおりますけど、眺望は今一。
 即、下山となりました(^-^)//"

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 こぅして展示品に眼を向けておりますと、どれも皆、懐かしさが…自然と、幼少時に眼にしました光景に想いが向かってしまいます。
 でも、中には、全く分からないモノも…この古めかしい〝小川式挽場機 裏穴貝釦(ボタン)型付機〟に眼が止まってしまいましたけど、これは、何なんでしょうねぇ~
 WEB上で検索してみましたら、有る事は有るのですけど…
 〝製造工程/奈良・川西町にある高級貝ボタン【川西ボタン倶楽部】〟のページが出て来まして、この会社で、よく似た古めかしい機会を使用しておられます。よく分かりませんけど、きっと、高級貝ボタンの型付け作業に使用していました機械なのでしょうねぇ~

 ◆川西ボタン倶楽部
 -- http://web1.kcn.jp/kawanisityou-syoukoukai/process.html --

 ・オートメーションではなく、人の手による細かな作業が、高品質の川西ボタンを生み出す。
 手挽き--ボタンの型付け作業は、通常15mmまでのものは機械で、それ以上のものは職人による「手挽き」で行う。回転するチャックにボタンを入れ、職人の感覚や音を頼りに削り方を調整する。
 変形加工--ボタンは丸いものだけでなく様々な形状や切込みがあるものもある。専用の機械を駆使し、職人の感覚を頼りにひとつずつ丁寧に加工している。

 ・数多くの工程を経て、天然素材のボタンが生まれる。
 ブランク--当初は原貝を直接輸入し日本で刳り抜いていたが、近年は現地で刳り抜いたもの(ブランク)を輸入している。そのため「刳り場」という工程はなくなった。
 摺り場--ブランクはでこぼこしているため、回転している砥石で平らにする作業。微妙な色の見比べやボタンの厚み調整などを行う重要な工程の一つ。
 挽き場--「型付け」とも呼ばれる。ボタンの表面に膨らみや溝などの型を付ける工程。使用する刃物(バイト)の調整も重要で、行える職人は稀少。
 穴明け--ボタンに穴を明ける工程で、2つ穴・4つ穴はポピュラーだが、近年は細い穴や間隔の狭い穴などがデザイン性としてトレンドとされている。
 化車(がしゃ)--ボタンのカドに丸みをつけ、小割や筋をとる工程。化車(がしゃ)と呼ばれる箱の中にボタンと水・磨き粉を入れて約3~6時間回転させ、周りのバリを取り除く作業。
 艶出し--テッポウと呼ばれる桶の中に熱湯とボタンを入れ水溶液(塩酸や硫酸)を点滴のように垂らしながら、およそ1時間回転させる。ボタンの表面を少しずつ溶かしながら艶を出す。
 ロウつけ--伊保田(いぼた)ロウというロウを付着させたモミや小麦などを、ボタンと一緒に「モミ化車」でさらに1時間程度回転させる。ロウが貝ボタンになじみ手触りがとても良くなる。
 選別--通称「よりわけ」と呼ばれ、良品とキズやカケのある欠陥品とを選別する。経験を活かした眼力と指先による確かなチェックを経て良質なボタンが市場に届けられる。

 …との事で、高級貝ボタン製作の過程では、人の手による細かな作業が続きますようですねぇ~

 ◆しゃちほこ
 鯱の起源は、鴟尾(古代の宮殿・寺院の主要建物の大棟両端につけられた1対の棟飾瓦)と考えられます。
 鯱とは想像上の生き物で、大変強い海獣だそうです。
 鯱が屋根に上がった理由は、雷雨を呼ぶ生き物とされていて、燃えやすい木造建築に対するお守り的な意味がありました。

 ◆鬼瓦
 大棟または下棟の端に用いられる飾瓦。
 奈良時代には軒平瓦(軒先に葺く平瓦)と同じ蓮華文や獣面様が併存したが、鎌倉時代以降に角のある立体的な鬼の形に変化して、一般に鬼瓦と呼ばれるようになった。
 鬼瓦は、魔物を怖がらせて家から追い払う魔除けの意味もあったと思われます。

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 ◆原動機自転車

 昭和27年頃より普通の自転車にガソリンタンクのついた原動機自転車が流行した。
 しかし、背が高く、故障も多かったので間もなく完成車としてオートバイ・スクーターなどが登場。大川町では昭和33年には329台、昭和41年には1,358台とまたたくまに普及した。
 因みに、自転車は、明治22年(1889年)富田村西村、根本伊太郎がおろしたのが最初で、鑑札許可願が出されている。

 ◆踏車や数珠車

 讃岐の農業はおだやかな気候と肥沃な土地条件に恵まれて発展したきた。しかし、稲作にとって最も大切な灌漑水には恵まれず、毎年、水の不足を心配し、水の確保と水の上手な使い方について先人は汗を流し、智恵を絞ってきた。このことは県下にある18,620ヶ所の溜池の数と各地にある水利慣行や、雨乞い、水げんか、番水(水ブニ)、引水(共同で水を水田まで引く)、夜水(夜不寝番で潅水)、どびん水(旱ばつのときに「ドビン」に水を入れ稲株にかける)、線香水(線香に火を付けて、くい入る長さによって潅水の時間を測る)、むくち(田植えのとき荒起して潅水後、牛鍬で再度、耕して土を練り、水保ちをよくする)など水不足に因むことばや作業が、その歴史を物語っている。
 潅漑用の農具では古くは「淀車」「踏車」「はね釣瓶」などが使用された。淀車は深井戸や湧水池などから水を汲み上げるときに利用したものであり、別名「数珠車」とも呼ばれた。直径1.4m、幅0.9mの木製の車を2人で足を踏み付けて回し、車にかかった鎖状につながった十数個の汲桶が井戸の水を汲み上げて、桶に流し込み潅漑する。この淀車は明治初期では大型の揚水用具であり、一般には桶を1つはね木に付けて、2人で汲み上げた「ハネ釣瓶」が使われた。
 踏車は寛文年間(1661年~1672年)大阪の京屋七兵衛により考案され、安永(1772年)のころに諸国に普及している。踏車は揚水の高さが30~35cm程度で、小川からの揚水に利用した。階段状になっている羽根板の外縁を1人で踏み下へ回し、羽根板で水を前方にかき出すようにしている。

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 ◆Ⅲ 弥生人の墓

 古墳時代になると各地に前方後円墳を代表とする古墳が豪族や王の墓として築造されますが、弥生時代には既に大規模な墳丘をもつ墓が出現しいます。
 さぬき市でも弥生時代後期から各地で弥生墓が発見されていますが、
  家族墓(極楽寺墳墓群)
  支配者の墓(奥10号墓、奥11号墓)
  乳幼児の墓(森広遺跡、寺田遺跡)
など、様々な性格の墓が見られ、また墓の立地場所は、
  丘陵上に築造されたもの(奥10号墓、奥11号墓)
  平野に築造されたもの(森広遺跡、尾崎西遺跡、陵遺跡)
  墓域を形成するもの(古枝6号遺跡)、など様々で
  墓域を形成しないもの(寺田遺跡土器棺墓)など様々で有るのが特徴です。
 大規模な墳丘をもつ墓は支配者の墓と推測されますが、
  竪穴式石室を設けたもの(奥10号墓、奥11号墓)
  前方後円形の墳丘になっているもの(森広遺跡、尾崎西遺跡)
 古墳の葺石のように墳丘斜面に石材を使用しているもの(尾崎西遺跡、陵遺跡)などがあり、次の古墳時代の古墳へと発展していく要素を既に弥生墓の中に見ることができます。

 ◆巴形銅器

 明治44年(1911)5月、現在の森広天神境内東側を開墾作業中、地下約30cmの深さから8点の巴形銅器が一括して発見されました。森広遺跡の名前を広く学会に知らせた銅器であります。
 巴形銅器はその特異な形態から、スイジ貝を模したものとか太陽を表現したものといった推測がなされていますが、実態は不明です。
 弥生時代に属するものは全国でも22個しか発見されていない貴重な遺物であり、そのうち8個は、本町で発見されました。
 出土したものは、截頭円錐形(せっとうえんすいけい)の本体に左回りに旋回する7本の脚状の突起を付けたものです。形態的にみて頭部の径が大きく器高の低い3例と、頂部の径が小さく器高の高い5例の2種類に分類することができます。
 出土状況から一括して埋納したものと考えられています。
 これらは、現在すべてが東京国立博物館に所蔵されていますが、寒川町制施行40周年を記念して、複製品が作成されました。

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 ◆条里制と南海道

 --- http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/kodai.html ---

 田地は6町四方に区画され、一辺を条、他辺を里と呼び田地は南条南里南坪で表示されました。1町は一辺約109mの方形区画になります。各地に見られる碁盤目状になった土地区画は条里制の痕跡であることが多く、香川県内でも発掘調査によって複数個所で7世紀段階での存在が明らかになっています。さぬき市内でも条里制の区画は明瞭に残されています。
 次に律令国家は地方組織として全国を畿内・七道に行政区分しましたが、香川県では南海道に属します。そして中央と地方を結ぶ交通制度として官道(駅路)が整備され、約16㎞ごとに駅家(うまや)を設ける駅制が敷かれました。さぬき市内では官道は東西に直線的に延びており、近世以降の讃岐往還、長尾街道に多くは継続していったと考えられています。駅家は香川県では東から引田、松本、三谿、河内、甕井、柞田の6駅があり、松本駅はさぬき市あるいは東かがわ市が想定されていますが未だ場所は断定できていません。
 古代の官道は幅9~12mの直線道であったと考えられています。
 三木町白山からさぬき市大川町富田西までは今でも直線道路が見られ、古代南海道が推定されます。
 ところが富田西から東にかけては直線道が残されていません。近世の幹線道である讃岐往還は南に曲がっています。
 南海道を一直線として復元すると東は八剣池付近になり、途中には千町遺跡があります。
 三木町白山からさぬき市富田西へと続く直線道をそのまま東に延長すると千町遺跡の近くを通ることになります。千町遺跡では東西方向の溝が検出されており、溝の中からは7世紀後半の須恵器・土師器が出土しています。南海道を直線道として考えるならば南海道に関連する遺構であるのかもしれません。

 ◆条里制

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 条里制(じょうりせい)は、日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。ある範囲の土地を1町(約109m)間隔で直角に交わる平行線(方格線)により正方形に区分するという特徴がある。

 ◇条里の仕組み

 ・方格線
 条里を区分する方格線は、南北方向および東西方向に設定されている場合が多いが、地域・地形により傾いている例も少なくない。たとえば南北方向が7度傾いているとき、東西方向も直交するように7度傾いているのが通常である。
 連続した土地で方格線がずれている場合もある。たとえば郡ごとに方格線の傾きが異なると、平地の郡境で条里地割にはっきりとした食い違いが見られる。
 班田図などには、水面や山地など、田地以外にも方格線が引かれている。しかし、田のない地域を含めた全国を方格線で網羅していたわけではない。あくまで田のある土地においてそれぞれ独立して方格線が引かれている。その範囲内にある山の位置を条里で呼ぶことで、田地の位置関係もわかりやすくなっている。

 ・基本単位(坪)
 条里の基本単位は約109m四方の正方形である(菱形や長方形の場合もある)。古代日本では約109mは1町(=60歩)に当たり、約109m四方の面積も同様に1町と呼ばれていた。この1町四方からなる基本単位を「坪(つぼ)」又は「坊(ぼう)」と呼称した((現在でも使用される坪とは異なる)。
 坪の中は10等分に地割りされており、この区画は「段」と呼ばれた(地割方法は長地型と半折型に大別される)。

 ◆Ⅵ 古代文化の変化 そして古墳の終末へ

 6世紀の古墳時代後期に入ると、さぬき市内の古墳は事例が少なく実態が不明瞭になります。
 そして6世紀後半頃から従来の竪穴式の埋葬施設にかわって横穴式石室が一般化し、新しい埋葬儀礼が展開します。
 横穴式石室は死者をおさめる玄室と墳丘外部とを結ぶ羨道からなり、追葬を行う家族墓としての性格が窺えます。
 また、小型古墳の爆発的な増加が見られ、亀島古墳群のような群衆墳が数多く営まれるようになります。これは支配者層のみならず有力農民層までが古墳をつくるようになったことを意味します。
 6世紀後半は、さぬき市の各地に横穴式石室を埋葬施設にもつ小古墳が見られ、7世紀前半頃まで追葬と古墳築造が継続します。
 ところが7世紀後半になると急速に事例が減少します。
 この頃、日本は中央集権国家をめざし政治改革を行いました。
 この大化の改新によって地方社会も大きく変容していきます。
 その一つが古墳の終末でした。豪族たちは権威を示すものを古墳造営から寺院建立に移行させていきます。

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 ◆さぬき市の中世石像物

 鎌倉時代になると供養塔として五輪塔、宝篋印塔などの石像物が造立されるようになります。一般的に鎌倉~南北朝時代は大型ですが、室町時代になると小型化し数が増大する傾向があります。その背景には供養塔を造立する階層が広がったと、墓石としての供養塔の使用が増大した事が考えられます。
 さぬき市内でも各所に見られますが、他地域に比べて石幢が多いのが特徴になります。
 また、香川県の場合、中世段階の石像物の石材はその多くが軟質の凝灰岩を使用していましたが、さぬき市内では火山で採石される火山岩が著名です。

 ◆雨滝城跡

 所在地:大川町富田中216番地の1 他
 所有地:大川町 他

 ・概要

 雨滝山は大川・寒川・津田三町に跨り、海抜253m、この頂上に長禄年間(1458頃)安富山城守盛長が城を構え、以来築後守盛正、筑前守盛方、肥前守盛定と相次ぎ、天正11年(1583)長宗我部元親勢の侵攻に遭って降伏落城した。
 本遺構は、瀬戸の海を扼する要衝にあり、天然の要害地形を巧みに取り入れて普請された典型的連郭式山城である。山頂本丸跡を中心に、東方二段・西方五段・北方五段、三方尾根上に削平地が形成されている。昭和57年、本丸を含め七郭、昭和45年に西第五郭部、計八郭の発掘調査が行われた。南第二郭を除き、すべての郭に礎石が検出され、建物遺構の存在が裏付けされている。各部をつなぐ犬走り・掘切・土塁等の遺構も明らかとなった。
 出土した遺物としては、土師質土器・備前焼甕・中国製陶磁器・古瓦(いすれも破片)・坩堝(るつぼ)・鉄滓・小柄・短刀・透し彫り鍍金金具・輸入銭(唐・北栄銭)・貝・王石・焼けた壁土等で、注目すべき山城解明に貴重な資料を得ている。
 安富氏は応仁の乱に武将として出陣、乱後は西讃の香川氏とともに細川氏の守護代として讃岐を二分して東讃を管轄した。平素の居館は雨滝山麓の城山、その他石田、津田側などにあったと推定されている。

 --- 大川町教育委員会 ---

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 ふ~ん、〝さぬき市歴史民俗資料館〟は、最初に入りました建物の後方にも資料館がありまして、こちらに入館は有料でありました(^.-)☆
 が、公営ですから入館料は、『一般100円、大・高校生70円、小・中学生50円』と低料金ではあります(^_^)v

 ◆史跡(国指定)富田茶臼山古墳

 茶臼山古墳は、大和朝廷ができる前、5世紀頃に、大和連合からの規制のゆるんだ時期に造られてもので、この地方では勢力の最も強い豪族の古墳である。
 古墳は、西向きで全長約139m、三段に築かれ、高さは約16m、後円部直径約87mの規模を持つ四国最大の古墳である。平成元年8月に行われた確認調査の結果、周囲に幅5~20m、深さ1~2mの濠左右対称に盾形でめぐらされていたことがわかった。
 古墳の墳丘や濠から、円筒埴輪・家型埴輪や葺石(ふきいし)などが発見されているが、服飾品は不明。埋葬施設は竪穴式石室であろうと推測される。
 前方後円墳としてのこの古墳の規模は大きく、ほぼ完全な形で保存され、5世紀の謎を解く鍵を秘めているところに特徴があり、今後の調査が期待される。

 ◆明治維新後の理平焼

 10代理兵衛は1864年から1866年京都の3代高橋道八の元で修業し、乾山写しの色絵手法を習得した。明治3年に藩の保護が無くなると、名を理兵衛から理平に改名し、色んな道を模索し始める。
 明治27年から香川県監獄署にて呉須で絵付けされた半磁器に特徴ある茶器など、また敷瓦や土瓶等の技術指導を行う。その後、煉瓦生産にも手がけた。明治33年には理兵衛焼の古地である栗林公園北口に登窯を再興した。
 11代理平は大正5年には陶器組合「讃陶舎」を設立して、新たな時代に合った伝統技術の再生に尽力した。
 12代理平福寿は、昭和19年32歳の若さで中国で戦死、その子克美は2歳だった。克美(13代紀太理平)は京都工芸所で久保駒太郎に2年間師事、さらに、粟田口の伊東陶山のもとで4年間修行した。

 ◆富田焼

 (1)陶郷としての富田

 讃岐の「焼きもの」は、理兵衛と源内焼の二系統に大別することができる。そのいずれもが「富田」に関連して発展している。
 約三百年前、京の陶工森島作兵衛は、讃岐高松に招かれて、理平焼を興すがこの時、富田丸山の陶土を用いて作陶している。また、その後、五代目理兵衛弥助が一時期高松から富田吉金に窯を移して作陶した。これが、富田焼の始まりである。
 天明年間には、平賀源内の弟子赤松松山が吉金で製陶し、この時は異国風の陶器のほか「南京染付」と呼ばれる「磁器」を焼いていることが注目される。
 この後を受けて富永助三郎を総帥とする多くの焼物師が、茶碗から土管まで多種多様な日曜雑器を焼き、更に享保年間には斎藤要助が南川横井に斎藤焼を興した。
 天保年間には、富永庸八が美術工芸品として富田焼を焼き、その作風は尚八に継がされている。また吉金窯が廃窯となったのち一部の陶工達は、その技術を生かして土瓶の製造を始めている。これが「吉金どびん」となった。
 大正期には、地元で茶碗会社と呼ばれた、香川県製陶会社が創立されて日用器としての富田焼俄作られ、その後は同社に関係していた藤田広一・向井南洋などが個人窯を築いて富田焼を焼いている。
 戦後は田中富八から紀太理光を経て現在に至っている。
 製陶には、よい陶土、豊富な燃料、水車のあめの水、そして優れた陶工達などの条件に恵まれなければならず、大川町富田は、これらの製陶条件に恵まれた讃岐の陶郷であった。

 (2)窯跡と陶片

 古くから焼き物が盛んであった大川町内には大小の窯跡が各所に残っている。なかでも次の三つの窯跡は代表的なものである。

 ①吉金窯跡=この窯跡は、JR神前駅近くの三次山東面にあり、富田焼を代表する大規模なもので、長い間、多くの陶工達によって数多くの作品が焼成されている。昭和43年3月の発掘調査によって判明した窯は、八房の焼成室を持つ全長40m、高低差9mの登り窯である。現在県指定の史跡となっている。
 ②斎藤窯跡=南川横井の滝の宮神社の参道南側にあったが現在は木材搬出道になり残っていない。窯の大きさは、未調査のため不明であるが吉金窯の半分程度と推定される。この窯も吉金窯と同じものを焼いておりその分窯である。
 なお、この窯が注目されるのは操窯に関する詳細な記録が代々、斎藤家に保存されていることである。
 ③平尾窯跡=筒野の五井池西岸の平尾家の前庭にも登り窯跡がある。昭和47年大川町教委による発掘調査で三房の焼成室が確認されるとともに刻銘のあるものなど多くの陶片が出土している。

 ・陶片
 窯跡の近くに「物原」とか「灰原」とかと呼ばれるところがあって、ここには不備な製品や窯道具、灰などが捨てられている。ここから出土する陶片によって作風、年代などを知る事が出来ることから焼きもの研究上重要である。
 例えば展示の陶片を参照して頂けば解るように、吉金窯跡出土の陶片は、各種の日用雑器や染付磁器、源内焼との関係を示す異国風の素焼片などがあり、更に記録のあるものとして理兵焼の印や「富田」「氏山」などがあり、窯道具には、○○、岩、などがあり共同窯の性格がうかがわれる。

 ◆富田焼きの由来

 --- http://www.rikoukita.com/profile.html ---

 四国高松から東へ約五里、阿讃山麓の丘陵地帯に位置する大川町富田は良質の陶土を産し、江戸時代、焼きものの里として栄えたところであった。
 もともと讃岐は、古くから製陶の盛んな国として知られ、正倉院の記録によれば、すでに奈良時代から特産物として、朝廷に焼きものが納められている。
 江戸時代には、讃岐お国焼として、理兵衛焼、源内焼、冨田焼、屋島焼、讃窯などが名声を高めた。
 なかでも理兵衛焼は、高松藩祖 松平頼重公が京都より招いた森島作兵衛が、慶安二年、紀太理平衛と改名し創窯。富田の陶土を用いて、優美な色絵陶器を焼成した。
 吉金3享保三年、四代目理兵衛 が富田に窯を持ち、富田印の美しい色絵陶を残した。
 天明、寛政年間に、このあとを受けて、平賀源内高弟の赤松松山が、南京染付を中心とした富田焼を焼成し、ついで化政期から天保年間にかけて、富永助三郎が多くの焼物師たちを指導しながら日用雑器を大規模に焼いている。
 県指定史跡「冨田焼吉金窯跡」は、この時期のものである。
 昭和五十一年春、理平焼十三代の実弟・紀太理光が、始祖ゆかりの富田の地に陶房を築き、富田焼吉金窯を再興した。

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 それでは、〝さぬき市歴史民俗資料館〟へ入館です。
 入るとスグに大川町の模型図が…

 ◆水利土木功労者・軒原庄蔵

 文政11年、富田中村に生まれる。当時の庄屋・軒原庄蔵は漏水甚だしい「みろく大掛井」の惨状に苦慮し、玄光谷より三ツ石に至る山底の掘り抜き導水を企画、安政2年ようやく許可を得て、東西双方より昼夜3年の掘り抜き工事を実施。庄蔵の卓越せる技術によって安政4年、105年間に及ぶ石穴が完通した。
 この偉業により富田中村の田は永久に水利の便益をうける事となった。文政5年、弥勒池普請成就の功により郷侍格(ごうふかく)を申しつけられた。なお、工事監督した田面村の多田信蔵(画家霞岳)、更に地勢の高低を測定して両穴の連結を方向付けた富田中村の算数学者、萩原栄次郎があった事を忘れてはならない。
 その後、明治2年8月、高松藩より満濃池穿さく工事御用を任命され明治3年3月、30間5尺余の穿さく工事に成功した。その土木技術のすばらしさは、さぬき溜池史にさん然と輝いている。明治23年、63歳で逝去された。

 ◆『弥勒石穴』

 --- 木学会四国支部 土木紀行 No.84 ---
 (http://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou84.pdf)

 ・弥勒石穴

 土木学会がまとめた「日本の近代土木遺産」(改訂版)には、日本各地に散在する重要な土木構造物が、2,800件まとめられています。
 香川県の項を開くと50件あまりの構造物等が記載されていますが、その分布を見ると高松市より西(西讃地域)がほとんどで、東部(東讃地域、ここでは小豆島を除く)にあるものは、口船隧道(東かがわ市)、津田川橋(さぬき市)、鴨部川水系の砂防堰堤群(さぬき市)の3件しかありません。
 これは西讃地域の人口が多く、道路や鉄道などの社会基盤整備や渇水対策が早くから進んだことが影響していると思われます。しかし東讃にも近代土木遺産からは漏れているものの、地域社会の発展に寄与した歴史的土木構造物はあります。
 ここではその1つ「弥勒石穴」を紹介したいと思います。石穴とは隧道(ずいどう)、トンネルの事です。なお弥勒石穴が「日本の近代土木遺産」から漏れているのは築造期が江戸時代末期であるためだと思われます。

 ・香川のため池と川の問題

 「弥勒石穴」は、香川県さぬき市内の「みろく自然公園」内にあるため池の1つ、弥勒池の最上流端、香川県さぬき市大川町富田中3519-1地先にあります。
 香川県は雨が少ないので、ため池が各所にありますが、谷部を利用したため池は背後の集水域が狭いため、水がなかなか貯まりません。弥勒池もそのようなため池です。
 そこで対策として近隣の河川から掛井(導水路)を作って河川水を貯める工夫をするのですが、ここに香川県特有の地形・地質的障害が立ちはだかります。
 香川県の川を観察すると面白いことに気づきます。それは平野部では河道に水がほとんど流れていないのに山間部では水が豊富に流れているということです。例えば高松市街西部を流れる香東川下流の河道は砂漠とも言えるような光景が多く、普段、表流水はほとんどありません。しかし並行する国道193号を南下して塩江温泉付近の山間部まで来ると、これが同じ香東川なのか、と水量の豊富さに驚きます。
 普通の川は下流の水量が上流より多いのですが、香川県を流れる川の多くは下流よりも上流の水量が多いのです。これは讃岐平野、特に山間部出口が透水性の高い砂で覆われていることが主な原因です。山間
部では川底は岩盤が露出していることから分かるように、表流水は川底をしみ込まずに流れることができますが、山間部を出ると川底が浸透性の高い砂地になるため、表流水はあっという間に漏水(浸透)して地下水になってしまいます。

 ・大掛井工事と石穴工事

 弥勒池の東を流れる津田川は讃岐の典型的な川の1つで、表流水の多くが山間部出口で地下水になるような川です。1828(文政12)年に有馬胤滋によって津田川・砕石(われいし)から弥勒池まで全長2.6kmの大掛井(導水路)が完成しても、漏水が多く十分な水が弥勒池に届かなかったことも多かったようです。弥勒池、津田川、砕石の位置関係は末尾の図1を参照して下さい。現在であればコンクリート等を使って水が地中に浸透しないようにもできますが、昔はそのような材料はありません。また掛井の高低差にも問題があったようで、水が池にうまく入らなかったこともあったようです。
 大掛井が完成してから20年間ほどの弥勒池は『器あれど盛る水なし』と言われる状態でした。こうした有様を憂慮した富田中村の庄屋である軒原庄蔵は、弥勒池と津田川を隔てる尾根の地下に石穴(隧道、トンネル)を通して導水すれば水不足が解消できるのではないかと考えました。尾根部の地下は固い岩盤なので大掛井のように漏水する心配が殆どなくなるほか、水路の距離が短くなるので、水路の勾配を大きくとることができて水が通りやすくなるという利点もあったようです。
 1855(安政2)年に高松藩に願い出たところ「石穴掘抜方御用掛」に任命され、弥勒池南にある三つ石山の岩盤を東西双方から掘り進めました。この大工事では“数学者”萩原栄次郎が地勢の高低を測量して両穴の連結を方向付け、“画家”多田信蔵が工事監督を務めたそうで、高い技術を持つ2人の協力なくては実現できませんでした。
 実際の堀作業は金右衛門と奥次の2人の石工が請け負い、昼夜12人交代で進めたそうです。手ノミ一つで掘り抜く大工事でしたが、1857(安政4)年に長さ百五間(約190m)の石穴が無事貫通し、ようやく水不
足から脱しました。
 この弥勒石穴は平成12年2月に国指定登録有形文化財(建造物)に指定されています。軒原庄蔵は1890(明治23)年に63歳で逝去されました。
 「弥勒石穴」は「みろく自然公園内」のキャンプ場脇にあります。公園内の案内板にも示されていますので迷うことなくたどり着けます。実際の石穴を見ると断面がとても小さいことに驚き、窮屈な姿勢での
掘り抜き工事は大変な重労働であったことが推察されます。

 ◆据風呂

 -- へそ風呂と鉄砲風呂 --

 据風呂は移動可能で、玄関左の縁側などによく見られたそうです。現在のように各家庭に風呂場と浴槽が普及する以前には、もらい風呂の習慣を経験する人も多かった。
 家庭用の風呂のはしりであるヘソブロは、燃焼施設を桶の下側にはめ込んだ据風呂で、燃焼部に触れてよく子供が火傷をした。
 江戸後期以降には結い桶の下部に筒型の焚き口通風穴を、上部に煙突を出し、湯船に格子を設けた鉄砲風呂が江戸を中心に広がった。
 江戸では担い風呂といって、風呂桶を移動しながら入浴させる銭湯もあった。

 ◆行火(あんか)
 行火は、一人用の置き炬燵で、持ち動かせる暖房器具の一つです。火入れにおこした炭か豆炭を入れ、粘土でできた素焼きの器の中に入れます。そのまま手や足をあてたり、行火に布団をかけ、布団に入れ温まりました。

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 〝道の駅「みろく」〟とお別れしますと、次に向かいますのが「さぬき市歴史民俗資料館」です。

 ◆さぬき市歴史民俗資料館

 みろく自然公園の中にあるこの資料館は、四国最大の富田茶臼山古墳、ため池を造り守った人達、昔の生活について等、周辺地域の特色ある考古や歴史、民俗資料をわかりやすく系統的に展示しています。

 ・基本情報
 住所 -- 〒761-0902 香川県さぬき市大川町富田中3286
 電話番号 -- 0879-43-6401
 営業時間 -- 9:00~16:30(閉館17:00)
 定休日 -- 毎週水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
 料金 -- 一般100円、大学・高校生70円、小中学生50円 (※団体割引あり)
 ※ 当ページ記載の料金は、令和元年10月1日時点の料金です。
 駐車場 -- みろく自然公園内
 ウェブサイト -- 公式サイトを見る(http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/index.html)

 ◆さぬき市歴史民俗資料館の魅力に迫る!!

 --- https://www.city.sanuki.kagawa.jp/eetoko/shiryo-kan/ ---

 みろく自然公園内にあるさぬき市歴史民俗資料館には、さぬき市にある四国最大規模を誇る富田茶臼山古墳をはじめとする古墳からの出土品やふる里の貴重な歴史民俗資料が収集・整理され、見る人にわかりやすく系統的に展示されています。 管理人の豊田さんに案内していただきました。

 ・全国でも22個しか出土されていない巴形銅器が8個も!
 ふる里の今昔がわかる江戸末期の庄屋宅を復元した「伝習館」。 弥生・古墳文化時代や奈良、平安時代の出土物など資料を展示した「考古」。 中世山城、雨滝城跡発掘調査出土資料などの「歴史」。 近世以降の伝統的な生活用具・生産用具などを収集し、展示した「民俗」。 寺小屋以降の教育資料がある「教育」。 以上の5つのテーマで常設展示されています。

 ・体験者より一言
 *体験した松木さん
 さぬき市内には四国最大級の前方後円墳・茶臼山古墳をはじめ多くの古墳があります。 歴史民俗資料館では多くの出土品、昔の農耕具が展示されています。資料館の奥にはオート三輪K-360もあり、昭和の古き良き時代に浸ることができますよ。
 *体験した土岐さん
 映画でしか見たことがないような生活道具に囲まれて、タイムスリップ! 実際に手に取って体験することもでき、歴史の勉強にも最適です。

 …と、こんな〝さぬき市歴史民俗資料館〟であります(^-^)//"

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 周辺の田園風景に眼を向けながら、ノンビリと道の駅に向かいます。見廻しておりますと、紅葉が大変キレイです(^_^)v
 ヤッと〝みろくふれあい市場〟まで戻って来ました。
 市場には、『がんばって営業中!』の看板が…でも、これは、どぅいぅ意味なんでしょうねぇ~「コロナに負けず頑張っています」と言う意味なんでしょうか…それとも、「諸物価高騰の中、低価格で頑張っています」と言う意味なのかも…
 それを確認する間もなく、皆さんトイレに急行です。行ける時に行っておきませんと(^-^)//"

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 〝弥勒菩薩〟とお別れしますと、〝みろく通池公園〟の周囲を廻るようなルートで〝道の駅「みろく」〟へと戻ります。
 〝みろく通池公園〟の一角には、こんな竣工記念碑の碑文が…

 ◆竣工記念碑

 --- 県営ほ場整備事業 大川地区 ---

 本地区は、大川町のほぼ中央部に位置し二級河川津田川と爛川に囲まれた平坦な水田地帯と、津田川より北側の山麓地帯、及び本村川両岸に広がる棚田地帯から成っている。
 耕地は狭小で不整形、耕作道路も狭く、大型機械の搬入が困難で耕作に多大な労力を必要としていた。また、地区の用水系統は九つの井椻と四十余のため池で、これらが入り混じり複雑な水利慣行を形成し、水路は用排兼用の土水路が主で、用水管理に多くの労力を必要としていた。
 そこで受益者各位の熱意と関係機関の協力によりほ場の区画形状を整備し、安定的な補給水を香川用水で確保するとともに、パイプラインにより水利を統合し、水管理の合理化、土地利用の効率化、労働生産性の向上を図るため、県営ほ場整備事業に昭和六十三年度着手し、十年余の工事期間を経て竣工するに至った。
 ここに、後世この地に住む者がこの碑の前に立つ時、この事業の意義を慮るとともに、更に地域の向上発展に寄与せられんことを願い碑文とする。

 …と、こんな記載でありました。
 富田茶臼山公園の東側に位置しますこの〝みろく通池公園〟も、それなりにイィ公園なんでしょうけど、立地的に利用度は今一の感も…ですが、整備は行き届いておりましたネ(^-^)//"

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 後円部の墳頂の東側には石段がありまして、これを下って行きますと、降りたところの左側に祠が存在し、中には弥勒菩薩が祀られておりました。

 ◆西岡の弥勒菩薩

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 さぬき市指定有形文化財(彫刻)。
 富田茶臼山古墳の後円部東側に祀られる弥勒菩薩の石仏。鎌倉時代後期から南北朝時代の間の作と推定される。かつて古墳そばの池から出土し、のち現在地に移し祀られたという。昭和47年8月22日指定。

 ◆西岡の弥勒菩薩(みろくぼさつ) --さぬき市指定文化財--

 --- 祠内の説明板より ---

 この石仏は弥勒菩薩と言い伝えられ、石材は火山の凝灰岩(ぎょうかいがん)が使用されています。頭部が欠落しているため別のものが置かれ、膝も二つに割れていますが大型であること、法衣(ほうえ)が表現されていることから鎌倉時代後期~南北朝(約700年前)にかけて作られたと考えられています。
 言い伝えによると約300年前、この下にある「通り池」(現在は通池公園になっています)を掘った際、この本尊の石仏が出たのでおまつりされるようになりました。現在の場所に移される前は、通り池の西に庵がありそこに安置されていました。その後、現在地に移され地元の方が毎日交代でお世話をされ、今も大切に守られている貴重な石造物です。(さぬき市教育委員会/さぬき市文化財保護協会)

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 それでは、前方部から後円部に向かいます。
 後円部の墳頂に有りますのが〝妙見神社〟ですネ。
 後円部の傍らに説明板が設けられていますので、眼を通してみますと、

 ◆史跡 富田茶臼山古墳(とみだちゃうすやまこふん)

 --- 平成5年7月26日指定 ---

 富田茶臼山古墳は、5世紀前半に造られた四国最大の前方後円墳です。
 平成元年に行われた確認調査によって、全長は139m、後円部の直径91m・高さ15.7m、前方部の長さ48m・幅77m・高さ11.8mの大きさであり、四国最大の古墳であることが改めて分かりました。また、墳丘は三段に築かれ、古墳の周囲に周濠が巡らされていることも分かりました。さらに、墳丘や周濠から円筒埴輪や形象埴輪などが発見されました。
 この古墳の西側も平成5~8年にかけて調査が行われ、三基の陪塚(ばいちょう)が確認されました。陪塚とは、大型の古墳を主墳とし、それに従属するように同じ時期に計画的にその周囲や隣接地にある小型の古墳です。陪塚の大きさは一辺14~24mあり、三基とも四角い形をした方墳です。
 これらのことから富田茶臼山古墳は、四国を代表する首長墓であることが分かります。

 --- さぬき市教育委員会 さぬき市文化財保護教会 ---

 …と、こんな記載がありました。この説明板の左下には、富田茶臼山古墳平面図と3基の陪塚位置図の記載も。
 富田茶臼山古墳の後で〝さぬき市「歴史民俗資料館」〟向かいましたけど、そこで貰いましたパンフに眼を通しますと、

 ◆四国最大の富田茶臼山古墳の謎

 《ミステリーⅠ》大川町に、なぜ巨大古墳がつくられたのだろうか…?
 ①前方後円墳とは…
 古墳には、前方後円・前方後方・円・方などいろいろの形があります。このような形のちがいや、古墳の大きさによって豪族の地位や、力の大きさをあらわしていました。
 これらのうち、前方後円墳はもっとも力の強い豪族にあたえられたものです。
 ②中国・四国・九州地方の各県ナンバーワン前方後円墳の大きさくらべ
 造山(岡山)--全長360m、女狭穂塚(宮崎)--全長174m、富田茶臼山(香川)--全長139m、岩戸山(福岡)--全長138m、大塚(鹿児島)--全長137m、亀塚(大分)--全長120m、北山(鳥取)--全長110m、渋野丸山(徳島)--全長90m、三ツ城(広島)--全長84m、相の谷1号(愛媛)--全長82m
 ③東讃地方の古墳時代
 4世紀の東讃地方には、小豪族がたくさんいました。5世紀になると、これらの勢力は消えてしまい、かわって巨大な富田茶臼山古墳がつくられました。ほうむられた人は、大川郡を治めていた大豪族であったと考えられています。

 《ミステリーⅡ》どのようにして巨大古墳が造られたのだろうか…?
 ①古墳の場所を決める
 民衆に力を見せつけるために、むらに近い小高い丘の上に場所が決められました。
 ②古墳を設計する
 完全に左右対称にの形につくるため、正確に設計し測量していました。
 墳丘に盛った土がくずれないように、斜面の角度も計算されていました。
 ③つくる人を集める
 測量、天文、土木技術など高度の知識を持った少数の人々と、実際に土を掘ったり運んだりする、肉体労働にあたるたくさんの人々が集められました。
 ④いよいよ工事にかかる
 設計図通りに正確に巨大な古墳を造るためには、高度な土木技術が必要でした。
 また、工事に使われた人々の苦労はたいへんなものだったと思われます。
 ・盛られた土の量--約4万㎡(11tダンプカーで約7千台分)
 ・使われた埴輪の本数--まわりにぐるっとめぐらしたので、しめて約2千本。
 ・工事にかかわった延べ人数--約10万人(当時大川郡の人口は、約千人~2千人と推定)
 ・工事に要した費用--およそ5億円~10億円。
 ・第一次発掘調査で(1990年8月)で分かったこと
  *古墳の形・造り方--墳丘も、堀も左右対称。3段に造られている。
  *古墳の大きさ--長さ139m、高さ15m。
  *古墳が造られた時期--5世紀前半。
  *埴輪の立て方--格段の平坦なところに、ぐるっとめぐらされている。

 《ミステリーⅢ》ますます古代のロマンが広がる、富田茶臼山古墳…
 ①前方部を真西に向け、正確に3段筑成されている。
 ②円筒埴輪がきちんとならべられている--第一次発掘調査による埴輪列の発見。
 ③復元整備すると…
 元の姿に整備された兵庫県神戸市にある「五色塚古墳」。

 …と、こんな説明が記載されておりました(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(7)

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 富田茶臼山古墳の南側に到着し、まずは前方部に向かいます。
 この古墳は東西に主軸で、前方部が西側に、後円部が東側に位置します。

 ◆富田茶臼山古墳

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 富田茶臼山古墳(とみだちゃうすやまこふん/とみたちゃうすやまこふん)は、香川県さぬき市大川町富田中(とみだなか)にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
 四国地方では最大規模の古墳で、5世紀前半(古墳時代中期前半)頃の築造と推定される。

 ・概要

 香川県東部、長尾平野東縁の低丘陵縁部に築造された大型前方後円墳である。地元では墳丘上の埴輪に由来して「千壺山」とも称される。現在は墳頂に妙見神社が、後円部東側に弥勒菩薩が祀られている。墳丘北側の一部は県道10号線の建設のため削られているほか、墳丘の一部では開墾・住宅建設による改変を受けているが、その他の部分では概ね良好に遺存する。これまでに1989年度(平成元年度)に古墳域の、1993-1996年度(平成5-8年度)に周辺域の発掘調査が実施されている。

 墳形は前方後円形で、前方部を西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は139メートルを測るが、これは四国地方で最大規模になり、第2位の規模の渋野丸山古墳(徳島県徳島市、105メートル)に比べても大きく傑出する。墳丘表面では埴輪(円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形埴輪・家形埴輪、推計3,000本)のほか、葺石(2段目・3段目のみ)が検出されている。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされているほか、南側・北側には周庭帯も有し、周濠を含めた古墳の全長は163メートルにも及ぶ。埋葬施設は不明であるが、明治期に後円部墳頂で土俵を設置しようとした際に石室の天井石が掘り当てられたと伝えられ、竪穴式石室の存在が推測される。なお、前方部側では陪塚として方墳3基も認められている。

 この富田茶臼山古墳は、古墳時代中期前半の5世紀前半頃(一説に5世紀初頭頃)の築造と推定される。讃岐地方の古墳の主丘(円部)の大きさは、古墳時代前期中頃までで直径30-40メートル程度(高松茶臼山古墳・猫塚古墳)であったが、前期後半の快天山古墳(丸亀市)で直径60メートル程度、中期前半の本古墳で直径90メートル程度と大きく飛躍する。同時に、本古墳に至ると前期古墳の地域色も薄れて畿内色を強めており、ヤマト王権から支援を受けた一方で王権への系列化が進んだ様相を示す。東讃地域に限ると、古墳時代前期には津田湾周辺における津田古墳群の営造が知られるが、それら古墳群の消滅と呼応して富田茶臼山古墳が出現しており、ヤマト王権と強く結び付いた富田茶臼山古墳の被葬者が東讃地域を基盤として強い勢力を有したことを示唆する。合わせて、当地は古墳の北側に古代南海道が推定される交通上の要衝になることから、沿岸部の海路(津田湾)から内陸部の陸路(南海道)への意識の移行を見る説も挙げられる。

 古墳域は1993年(平成5年)に国の史跡に指定されている。

 ・来歴

 延享2年(1745年)の『三代物語』に、「茶臼山」として日本武尊の墓に比定する説の記載。
 文政11年(1828年)の『全讃史』に、「仁徳帝陵」や「茶臼山」として、「茶臼山城」として記載。
 明治期、後円部墳頂での土俵設置の際に石室天井石を確認。
 1989年度(平成元年度)、発掘調査(旧大川町教育委員会)。
 1993年(平成5年)7月26日、国の史跡に指定。
 12月18日、県営圃場整備事業に伴う試掘調査(旧大川町教育委員会)。
 1994年度・1996年度(平成6年度・8年度)、個人住宅建設に先立つ発掘調査(旧大川町教育委員会)。

 ・陪塚

 富田茶臼山古墳の陪塚(陪冢)としては、次の方墳3基が知られる。いずれも後世に削平を受けて現在は地面にほぼ表出しないが、1993-1996年度(平成5-8年度)の発掘調査で確認された。
 1号陪塚(北緯34度15分37.11秒 東経134度14分32.76秒)-- 長方形で、長辺16メートル×短辺14メートル。葺石・円筒埴輪が検出されている。
 2号陪塚(北緯34度15分34.41秒 東経134度14分33.65秒)-- 長方形で、長辺24メートル×短辺20メートル。墳丘は2段築成。葺石・円筒埴輪が検出されている。
 3号陪塚(北緯34度15分33.18秒 東経134度14分34.37秒)-- 方形(推定)で、一辺20-24メートル。円筒埴輪が検出されている。葺石は不明。
 これら古墳3基の築造企画には富田茶臼山古墳本体の築造企画との一致が見られ、富田茶臼山古墳の築造当初からの計画的配置が推測される。

 ※ 陪塚

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 陪塚(ばいちょう・ばいづか、陪冢とも)は、日本の古墳時代に築造された古墳の様式。
 大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳であり、なおかつ大型の古墳と同一の時代に、その周囲に計画的に付随するように築造されたとみなされるものを指す。中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために築造されたものもあると考えられている。

 …と、こんな「富田茶臼山古墳」であります(^.-)☆

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(6)

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 〝道の駅「みろく」〟に到着しますと、ここでバスから下車。歩いて「富田茶臼山古墳」へと向かいます。

 ◆道の駅「みろく」

 ・駐車場 -- 大型4台、普通50台、身障者用2台
 ・問い合わせ先 -- 0879-43-0550
 ・営業時間 -- ベーカリー、乳製品等(物産館) 9:00~17:00
 ・定休日 -- 水曜日

 道の駅「みろく」は、さぬき市大川町のほぼ中心に位置し高松と徳島を結ぶ主要幹線道路〝高松長尾大内線(県道10号線)さぬき東街道〟沿いにあります。緑地公園、情報室などがあり、人々に憩いの場としてご利用いただけるよう誕生しました。観光インフォメーションで、市内のみどころ・物産品などの情報を提供しています。

 …と、こんな道の駅ではありますけど、時間の関係で、ここはバス駐車場として利用するのみのようでした(^.-)☆
 〝高松長尾大内線(県道10号線)さぬき東街道〟を跨ぎます歩道橋を進んで行きますと、前方の正面方向に、こんもりとした山が…ここが「富田茶臼山古墳」のようであります(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(5)

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 四国最古級という事が分かって来ています「うのべ山古墳」ですけど、この古墳の発掘はまだされておりませんとの事。
 未発掘とは予算の関係も有るのかもわかりませんけど、盗掘もされていませんでしょうから、将来の発掘調査が楽しみではありますねぇ~でも、いつまでも未発掘のままなのかも(^-^)
 そもそも古墳は、時の権力者のお墓ですから、見栄えも随分考慮し造られているでしょうし、この「うのべ山古墳」も、海辺から見える方向部分だけ大きく造られており、後円部の裾も広げてあるようですからチョッと笑えます(^-^)
 そもそも、「前方後円墳」の〝向き〟は特に無いようですから、後円部が東西南北のいずれに向こうと構わないのだと思うのですけど…
 古墳ド素人のGONsanが勝手にそぅ思っているだけかも分かりませんので、チョッとWEB上で確認です。
 うん、うん、こんな記述がありましたネ(^.-)☆

 ◆Yahoo! JAPAN 知恵袋
 --- https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1275376312 ---

 ・2011/11/13 17:57
 前方後円墳の向きってありますか?写真だと円の部分が大体北から西にかけて向いてるのですが…
 出来るだけ詳しくお願いします

 ・ベストアンサー
 -- オニイサンさん 2011/11/13 19:13 --
 日本の墳墓の中で、前方後円墳の場合は特に固有の方角を向いているのが特徴です。従って「向きってあります」。固有の方角が其処に葬られた故人の命日をメモリアルしていました。従って、固有の方角が決め手になります。
 ところが、ニュースや観光ガイドとか歴史書では、有名な古墳を写真にします。しかしそのような写真を見れば、形だけで肝心の方角が殆ど明示されていません。
 写真を撮る場合は、円の部分を軸にしたほうが「様になる」と即断しての事です。従って其れを見た私たちは、一般市販の地図の上が北なので、写真の場合も「上が北だろう」と想像する事になります。しかし実際に各地の古墳を調べて行けば、決して「円の部分が大体北から西にかけて向いてる」ケースだけでは有りません。
 実際は各々が360度の方角の中の特定の方角を黙示しています。
 更に詳しく云えば、1年が366日ありますから366度の角度で固有の命日を地形に築きあげて黙示したのが古来太陽信仰の日本の葬法であり、墳墓の様式でした。
 ただ現在の日本の考古学は西洋史観による埋蔵文化財と云う見方が基本の為、太陽の位置や角度については無関心であり、特に現在の物質万能科学信仰の人たちは、「方位は迷信であり非科学的だ」と誤信しているために此の回答も無視される事でしょう。
 でも古墳には各々個別の方位が有った事実を知れば、埋葬された被葬者が誰かが明確に判明するのですから面白いですよ!!

 …と、こんな記述が。
 分かったような分からないような〝アンサー〟ですけど、要するに『向き』は自由と言う事なんでしょうねぇ~
 この後で向かいます「富田茶臼山古墳」も、東西南北に関係なく、当時の街道から眼にして見栄えの良い感じで造られていますようであります(^.-)☆
 それでは、この辺で〝うのべ山古墳〟とお別れで、次は〝富田茶臼山古墳〟に向かいます(^-^)//"

 ◆富田茶臼山古墳

 古墳時代前期後半になると、津田湾沿岸部における首長墓の築造活動は終焉します。入れ替わるように、中期初頭に内陸部に出現したのが、富田茶臼山古墳です。全長139m。四国最大の古墳です。
 津田古墳群においては、前期中ごろから徐々に畿内地域の影響が強くなり、そして、富田茶臼山古墳ではさらに発展します。畿内の巨大古墳とは以下の共通点が指摘されています。
 ①三段に築造された墳丘。②周庭帯と周濠の存在。③陪塚(三基の方墳)の存在です。墳丘からは円筒埴輪、朝顔型埴輪、形象埴輪等が発見されています。埋葬施設については未調査です。
 富田茶臼山古墳は南部から下ってくる尾根の先端を利用して墳丘を築造しています。通常は尾根の主軸を墳丘の主軸として築造するのですが、この古墳は尾根の主軸と墳丘の主軸が直交しています。古墳の側面(北側)を意識した造りになっています。これは三基の陪塚の位置関係からも伺えます。
 なお、後円部登り口横に、弥勒菩薩の石仏が祀られています(西岡の弥勒菩薩)。かって古墳そばの池から出土し、のち現在地に移し祀られたそうです。鎌倉時代後期から南北朝時代の間の作と推定されています。さぬき市指定有形文化財(彫刻)に指定されています。

 -- 当日貰った〝備陽史探訪の会〟資料より --

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(4)

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 〝後円部〟の裾には説明板が…説明板には、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆四国最古級の前方後円墳 うのべ山古墳

 「うのべ山古墳」は、今から約1750年前の3世紀後半につくられた四国最古級・津田湾最古の前方後円墳です。
 この古墳の特徴は、土の代わりに石を積んでつくられた「積石塚」と呼ばれる珍しい古墳で、全長は37mあります。
 積石塚の古墳は、古墳時代前期と呼ばれる古い時期につくられた古墳としては、香川県と徳島県の一部にしかない珍しい特徴をしています。
 その中でも「うのべ山古墳」は香川県の東の端にあり、一番低い所につくられています。他の積石塚古墳の中でも最も特徴があり、津田湾古墳群では最古の前方後円墳です。

 --- さぬき市教育委員会 さぬき市文化財保護協会 ---

 それでは、古墳に上がってみます。
 〝前方部〟にはロープが張られ進入禁止。かなり墳丘が痩せ細っています。
 〝後円部〟には葺き石がゴロゴロで、まさに積石塚であります。〝後円部墳頂〟に立ちますと、ここも石だらけ(^-^)
 WEB上に「うのべ山古墳」を検索してみますと、こんな記載がありました(^-^)//"

 ◆松田先生と行く!!さぬき市古墳巡りツァー

 --- さぬき市再発見ブログ 遊びの達人  ---
 (http://sanuki-asobinin.seesaa.net/article/343511638.html)

 ★始まりました---!!松田先生と行く!!さぬき市古墳巡りツアー

 さぬき市を一緒に走りまわるうち…そこそこで目にするたくさんの古墳の看板に洗脳されてきた〝あそ達メンバー〟
 「さぬき市の古墳って…そんなに面白いの…?」
  面白いですっっ!
 「じゃ~行こ--!」
 そして決まった、この古墳ツアー。
 案内して下さるのは、松田朝由先生(大川広域行政組合)。
 数々の古墳や遺跡、埋蔵物などを研究されてきた松田先生は、さぬき市出身。小さい頃からとにかく石が好きで…今では石の町【牟礼町】に住んじゃうくらいの石博士でもあります。

 そんな松田先生と行く・・まず1か所目の古墳は…ココ!「うのべ山古墳」。
 津田古墳群のなかでも一番最初に造られたと言われる、この古墳は様々な石を積み重ねて造られた積石塚と呼ばれるもの・・・一見、角が丸い大きな石が目立ちますが、これは、海の波などで削られ、丸くなった石だそうです。
 古墳の周辺は「塩出」と呼ばれる地名。古墳時代当時は、このうのべ山古墳の近くまで海水が入っていたと想像されます。なので、古墳周辺から持ってきた石だということが分かりますね。
 香川の石と言えば・・・何と!昔から超有名・ブランド石だったそうです!!!
 「香川県の石は、権力の中心であった畿内や、九州の方の古墳造りにも使われているんですよ」
 「しかも、その古墳を造る時期も畿内に遅れる事なく!!!」「それって・・・もしかしたら、香川がトレンドの先を行ってたかもしれないって事?!」
 やるね!!香川、うどん以外にブランド石!

 そして・・・古墳全体を見渡してみると・・・
 こんな感じ!!前方の方は木に覆われていて、ほとんど見る事ができませんが・・・それでも、後円部に立って見渡すと・・・小っちゃい、しっぽのような前方部を感じることができます。しかも・・・かなり低い!!!
 …ということは、古墳時代前期・・・しかも、古墳出現期!!!
 四国最古級という事が分かって来ています。そして・・・この古墳の発掘はまだされておりません。
 「海辺に建てられる墓は、女帝の墓が多い」とも言われてますが・・一説には、渡来人の墓の可能性も・・・?
 また、この「うのべ山古墳」は、海辺から見える方向部分だけ、大きく作られており、後円部の裾も広げてあるんです。
 海からくる来客に、より大きな印象を与える為では?…と考えられています。
 う~ん・・・ますます発掘してみたくなる神秘の場所です。

 この古墳を守ってきている方々にお話しを伺いました。
 【うのべ会の代表を務める川渕さんご夫婦と、同じくうのべ会の宮崎さん】
 この、うのべ山古墳の魅力に惹きつけられ、古墳を綺麗に守っていこうと活動されて7年目のみなさん。寒川町にお住まいの皆さんは、もっともっと地元、津田の方にも、うのべ山古墳を知ってもらいたいと言います。その為に、古墳まつりを開催したり、地元小学生を招いて分かりやすく説明するなどの活動を続けて来られました。
 そして今・・・想いが一つとなり始め、みんなで古墳を守ろうと、地元の方の協力が増えてきたという事。
 古代より・・・想いがつながってきているんですね!!!

 古墳まつりの様子はここ(http://sanuki-asobinin.seesaa.net/article/298412338.html)をクリック。
 毎年10月に行われている「うのべ山古墳まつり」は、今年は5月19日の第3日曜日に開催される予定だとか。今年はご家族揃って、この古墳まつりに参加されてみては、いかがですか。

 …と、こんな記載が(^-^)/"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(3)

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 「うのべ山古墳」近くの広場というか駐車場で、バスから下車し、ここからは徒歩で「うのべ山古墳」へ。
 当日貰った〝備陽史探訪の会〟の資料によりますと、こんな古墳であります。

 ◆津田古墳群&うのべ山古墳

 香川県さぬき市にある津田古墳群は、津田湾沿岸部を中心に古墳時代前期初頭から中期初頭にかけて築造されまして。当初は、当地域の強い特徴が認められましたが、前期中ごろから、畿内地域の影響が認められるようになりました。成立期に独自性のあった古墳が畿内地域の影響を受けた古墳に変わっていく過程がわかる貴重な古墳群です。また、戦前からの発掘調査の記録等が残されており、学史的にも重要な古墳群です。2013、14年に、前方後円墳6基と円墳3基が国史跡に指定されました。
 うのべ山古墳は津田古墳群を構成する、全長37mの前方後円墳です。その特徴は、①前方部は撥(バチ)型に広がり、後円部より低い。②四国東部の前期古墳でよくみられる積石塚である。③墳丘から発見された土器(壺型土器)は前期初頭のものである。(弥生時代の集落遺跡(森広遺跡)からも発見されている)
 これらの事から、うのべ山古墳は前期初頭(3世紀末)に築造され、地元色の強い、香川県下でも最古級の古墳と考えられています。埋葬施設は未調査ですが、その地元色の強さから南北方向の主軸と直交する、東西南北の竪穴式石室と考えられています。

 「うのべ山古墳」に到着しますと、まず眼に入りますのが〝後円部〟です。葺き石がゴロゴロしており、いかにも積石塚らしい感じであります。
 後円部墳頂を見上げますと、ここも石だらけ。墳頂には小さな祠が存在しますけど、これは江戸時代のモノでありますとか(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(2)

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 バスは、与島を通過です。その際に、車窓から与島と道路で繫がりました鍋島灯台をパチリです。
 穏やかな瀬戸内に浮かびます鍋島…イィ景観です。そして、そのズッと後方の三角の島が大槌島ですネ(^.-)☆
 瀬戸大橋を渡りますと坂出に到着で、坂出JCTから高松自動車道を〝さぬき市〟方向へ。〝さぬき市〟に入りますと〝津田の松原SA〟で二回目のトイレ休憩となりました。
 この間を利用しまして、GONsanは、「津田の松原(県立琴林公園)」、今から向かいます「うのべ山古墳」方向を眺望です。
 「うのべ山古墳」周辺には「けぼ山古墳」とか「一つ山古墳」も有るのですけど、近くまでバスでの走行は難しいようで、今回は「うのべ山古墳」のみを訪れますとの事であります(^-^)//"

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(1)

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 11/20(日)は、『香川県東讃地域の古代山城と古墳を尋ねる』備陽史探訪の会バス例会に参加となりましたGONsanです(^.-)☆
 集合時間少し前に福山駅南口アイネス前に向かいますと、バスは既に待機しておりまして、10数名の皆様が乗車しておられましたネ。
 今回の「香川県東讃地域の古代山城と古墳を尋ねる」資料に眼を通しますと、本日の行程は、次のようであります。

 ◆行程
 <08:00>福山駅南口アイネス前集合&出発・福山東ICから瀬戸大橋を経由して香川県東讃地域へ・途中、鴻ノ池SA、津田の松原SAでトイレ休憩
 <10:30>うのべ山古墳(さぬき市、①)見学
 <11:20>富田茶臼山古墳(さぬき市、②)見学
 <12:20>さぬき市歴史民俗資料館(さぬき市みろく自然公園内、③)見学&昼食
 <14:00>久本古墳(高松市、④)見学
 <14:55>屋嶋城跡(高松市、⑤)見学
 <15:45>高松出発
 <16:45>鴻ノ池SA(お買い物&トイレ休憩)
 <18:15>福山駅南口到着予定

 …と、こんな行程でありました。
 定刻にバスは出発で、スケジュール通り、最初のトイレ休憩が瀬戸中央自動車道・鴻ノ池SAでしたけど、ここに立ち寄りますのは何年振りでしょう…久しく瀬戸大橋を渡っておりませんから(^-^)
 暫しの休憩後、またバスは走行。退屈凌ぎに、瀬戸大橋上から数枚パチリとなりました(^-^)/

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  • 朝のGG…新人のGONsanも、ヤッと一番出世です\(^o^)/
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  • 昨日夜(2/3)は〝追難節分会・厄除け星祭り〟で、お寺行きのGONsanでした(^.-)☆
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プロフィール

 ・名前 GONsan
 ・年齢 大人
 ・性別 男子
 ・地域 広島県福山市
 ・星座 牡牛座


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