GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

広島県内の話題・景観

〝ジェンダー川柳〟…仲々笑えます\(^o^)/

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 本日、広島県のホームページを覗いておりまして眼に入りましたけど、うん、うん、〝ジェンダー川柳〟ですか…受賞作品には、さすがに笑えます(^.-)☆

 ◆【受賞作品決定!】ちぃと もやもや ジェンダー川柳コンテスト

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/42/gendersenryu.html ---

 【12/5】授賞式にて受賞作品を発表しました!?<速報>

 「男だから」「女だから」など、性別による思い込みや決めつけで「もやもや」したことを募集したこのコンテスト。応募総数1,649句の中から、受賞作品が決定し、エソール広島で授賞式を行いました。
 受賞者の皆様、おめでとうございます!

 ★最優秀賞
 ご飯まだ? 帰った時刻 同じだよ(奏来さん、10歳代)

 ★優秀賞
 「手伝うよ」 じゃのぉて一緒に やりますじゃ(家事育児は当事者さん、30歳代)
 色眼鏡 押し付けられて 押し付けた(よもさんさん、70歳代)

 ★審査員賞
 理系です 「女なのに?」は 余計です(進め理系女子さん、40歳代)
 早帰宅 見送る上司の 子は3歳(きのこさん、40歳代)

 ★県民共感度No.1賞(一般投票第1位)
 ご飯まだ? 帰った時刻 同じだよ(奏来さん、10歳代)

 WEB上で〝ジェンダー川柳コンテスト〟で検索してみましたら、こんな記事もありました。

 ◆「ご飯まだ?」 父のひと言に「もやもや」 高2のジェンダー川柳

 --- 朝日新聞デジタル(地域) ---

 性別による決めつけへの「もやもや」を表現しようと、広島県が初めて実施した「ちぃともやもや ジェンダー川柳コンテスト」の授賞式が5日、広島市内であり、最優秀賞に武田高校(東広島市)2年の長尾奏来(そら)さんの句が選ばれた。1,649句の中から受賞した句は、県の啓発活動などで活用するという。
 「ご飯まだ? 帰った時刻 同じだよ」
 共働きの両親を持つ長尾さんは日ごろから、くつろぐ父が母にかけるひと言が気になっていたという。審査員長を務めた県立広島大の上水流(かみづる)久彦教授は「気持ちをストレートに表していて、家に帰って座ってテレビをつけている父親へ鋭い刃物をぱっと見せるような句」と高く評価した。
 審査員の選考とは別に、入賞した30句から最も共感する句を選ぶ一般投票でも、663票中82票を集めて1位となった。長尾さんは「みんな同じことを思っていることにびっくりした。大人になる頃には、男性も女性もお互いをもっと尊重できる社会になってほしい」と話した。
 このほか、優秀賞には「『手伝うよ』 じゃのぉて一緒に やりますじゃ」と「色眼鏡 押し付けられて 押し付けた」の2句、審査員賞には「理系です 『女なのに?』は 余計です」と「早帰宅 見送る上司の 子は3歳」の2句が選ばれた。(黒田陸離)

 ふん、ふん、〝ちぃともやもや ジェンダー川柳コンテスト〟は、今年初めて実施されたのですネ。
 笑える受賞作品ですけど、耳に痛さも感じますネ(^-^)//"

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(16)

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 鷺港に到着しますと、待合室で飲み物を頂き暫し休憩となりました。
 高速船がヤッて来ますまで、皆さんそれぞれ、お土産屋さんを覗いたり周辺の景観を眺めたり…と、フリータイム。
 鷺港駐車場の桟橋寄りには、〝映画「裸の島」と宿祢島〟の案内板が…佐木島に上陸時には眼を通しておりませんでしたので、改めて拝見です。

 ◆映画「裸の島」と宿祢島

 宿祢島は、三原市沖に浮かぶ周囲400メートルの小さな無人島です。
 三原市名誉市民の映画監督新藤兼人氏(1912(明治45)年~2012(平成24)年)は、この島を舞台に映画「裸の島」を撮影しました。映画は、孤島に暮らす家族がたくましく生きる姿を瀬戸内の四季を通じて描く、セリフのないモノクロ映画です。厳しい生活の中、前を向いて生きるという姿は、その当時の新藤氏の独立プロ「近代映画協会」の厳しい経営状況を反映していました。
 佐木島の人たちの全面的な協力を受けて、映画は1960(昭和35)年に完成、翌年モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞し、世界70ヶ国に配給され、感動の渦を巻き起こしたのです。2002(平成14)年、国は新藤氏の偉大な功績に対し、文化勲章を贈りました。
 2013(平成25)年、宿祢島は競売にかかることになりました。新藤兼人と映画「裸の島」を愛する会が映画文化遺産として、現状のまま保存・継承するために結成され、全国の映画ファンに寄付を募りました。約800名の賛同により、この島を購入、2015(平成27)年には三原市へ寄贈されました。島の頂上には、寄付に協力した映画人、映画ファン、三原市民の名前を彫った8基のモニュメントが設置されており、その中にはオスカー俳優のベニチオ・デル・トロ氏の名前もあります。
 三原市は、宿祢島を映画「裸の島」とともに市民の貴重な財産として、大切に継承し、後世に伝えていきます。

 --- 三原市 ---

 乗船時間が近付いて来ますと、ヤッて来ました時と同様に、桟橋では〝さぎしまを愛するボランティアガイド〟の土田会長sanがご挨拶。そして、乗船時には皆さんで手作りの『さぎしまへ またきてね』と綴られました横断幕でお見送り(^.-)☆
 佐木島滞在は、丁度、6時間でありましたけど、お世話頂きました皆様とのお別れは、チョッと寂しい気持ちにも…
 高速船が出航しましても、いつまでも桟橋で手を振って貰いまして、申し訳ない気持ちにも…
 次回、また佐木島を訪れます機会が有りますのか否か、分かりませんけど、そんな機会がありましたら、須波~向田港の航路で訪れまして〝第五北川丸遭難者慰霊碑〟--〝大平山〟--〝塔の峰千本桜〟--〝向田港〟のコースでウォーキングを楽しみますのもイィかも分かりません。
 〝さぎしまを愛するボランティアガイド〟の皆さん、大変お世話になりまして、有難うございました(^-^)//"

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(15)

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 瀬戸内を右手に眺めながら進んでおりますと、三原の沿岸部を背景に宿祢島が…この辺りからですと、よく見えます(^-^)
 そして、眼が向きましたのが、この畑。ビニールで覆われた樹木らしきモノに眼が止まりましたけど、これは何に覆っておられますのでしょうネ…
 今から冷たい時候へと向かって行きますから、保護しておられますのかも…
 ブロック塀に並べられました置物…これも楽しいですネ。
 そぅしていますと、ヤッと鷺港が見えて来まして、いよいよこの〝さぎしま一周ウォーク〟もオシマイに近付いて来ました。
 スタート地点の鷺港に到着です(^_^)v

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(14)

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 穏やかで青々とした美しい瀬戸内に眼を向けていますと、周辺にはこじんまりとした建物が散在です。これらの建物は別荘なんですねぇ~イィ景観です(^.-)☆
 右手の美しい海を横目に進んでいますと、〝志呂谷花見園「道祖神の丘」〟の石碑が…
 この丘に上がって行きますと、こんな石碑がありますようです。

 ◆道祖神

 昔から、村境・峠など路傍に祀られている神である。
 禍・悪霊を防ぐ村の守り神で、縁結び旅の安全をつかさどる。
 婚姻や出産・子孫繁栄・長寿の神として信仰されている。
 そこで桜花咲き、夫婦島を眼下に望むこの丘に、双体道祖神を祀り男女和合の聖地とする。
 本邦唯一無二男女和合の聖地
 志呂谷花見園道祖神の丘
 世話人 平木正明 新開稔 平木豊彦 河本吉重 平成29年4月8日

 こんな〝道祖神の丘〟を通過し暫く進んで行きますと、まるで外国を思わせますモダンな住宅が…この建物も別荘のようですネ。
 ここには、ペットとして飼われているのでしょうけど、独り寂しくポニーが(^.-)☆
 仲々人懐っこくて、カメラを向けましたら近寄ってくれましたネ。何にも与える食べ物が有りませんので、誠に申し訳ないですm(_ _)m
 ガイドさん曰く、この別荘の住人は毎週末にヤッて来られますようで、ポニーの食べ物は、日常、近隣の方がお世話されていますとか(^-^)
 大変可愛いぃポニーでありました(^-^)/
 ポニーとお別れし、〝さぎしま青年の家〟近くまでヤッて来ますと、昼食後にウォーキングスタートから1時間半経過ですので、道路脇の木陰で休息となりました。
 10分ばかり休憩後に、ウォーキングは再開です。少し進みますと「番外二十番 大瀧寺」の祠が…

 ◆八十八カ所お大師めぐり

 --- http://sagishima.info/experience/eighty-eight/ ---

 島の人々は信仰心が篤く、元禄の頃(1688年)より、多くの人が四国巡礼をしてきました。
 しかし、島に住む人々にとっては、四国への巡礼は容易なことではありませんでした。そこで、島内に小さな規模にはなりますが八十八か所の霊場を設け、四国八十八か所巡りと併せて日常的に巡礼できる島内八十八か所を巡礼するようになって来ました。
 島内八十八か所は大正(1912~1925年)の初め頃に設けられ、順番に番号が付されています。
 1番は須ノ上地区の石鎚山真言宗鷺浦教会から始まり、向田地区-佐木地区へと島を一周して、88番は須ノ上地区で終わっています。
 結婚式が各自宅で行われていた昭和30年(1955年)代までは、八十八か所のお大師さんが若い衆(青年)によって、祝儀の家に運ばれ祝うという風習がありました。
 これは、お嫁さんの腰がその家に座るようにという願いからのようです。
 結婚式が終わるとその家の人によってお大師さんが戻されましたが、戻す場所が変わってしまうなど、現在では順番が設置のされた頃とは違ってきているようです。
 お大師参り(お大師講)は、旧暦の3月21日と11月21日に行われてきましたが、今は1月の第3日曜日と5月3日(祝)に行われています。
 当日は「お接待」といって、お菓子や食事などがお大師講の方々によってふるまわれています。
 八十八か所全部を徒歩で巡拝しますと、15km、5~6時間はかかります。

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(13)

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 拝殿・本殿の周りをグルッと廻って境内に戻って来ますと、境内端の建物の軒下に鬼瓦が二体置かれております。
 ガイドさんのお話しでは、老朽化の拝殿を建て替えした際に、拝殿の底地からこの鬼瓦が出て来ましたとの事。で、廃棄する訳には行きませんから、ここに保存している…との事でしたような(^-^)
 WEB上で、〝亀山八幡神社〟についてもっと検索してみますと、こんな記載も…

 ◆亀山神社

 --- http://sagishima.info/guidemap/guidemap-14/ ---

 1124年に丸山朝臣源歳国(まるやま あそん みねもとのとしくに)が、京都石清水八幡宮の御分霊を勧請(かんじょう)されたとの説があります。
 社紋は石清水八幡宮と同じ「左三つ巴」の紋が使われています。広い石段と両サイドの34基の燈籠は、非常に立派です。
 向田地区は明治時代(1868年~1912年・神仏分離)以降、神道が多く、神社が信仰の中心であったことが伺えます。

 ◆Vol4 弓を射ることで邪を払い、1年の無事と豊年を祈願する 亀山八幡神社『御弓神事』

 --- 三原市公式note 2022年1月1日 00:00 https://mihara-city.note.jp/n/n7bcb51af481c ---

 開催時期 例年2月11日(祝)
 特徴 恵方と逆の方角に設置した的に弓を射ることで邪を払い、1年の無事と豊年を祈願する行事

 須波港から瀬戸田行きのフェリーに揺られて20分。佐木島の南西部にある向田港に着くと、すぐに広島県文化財にも指定されている磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)が見えます。
 それを右手に見ながら、道路のお地蔵さんを辿っていくと、向田地区の亀山八幡神社(かめやまはちまんじんじゃ)があります。
 亀山八幡神社は弘安(こうあん)10年(1287年)に京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)より御分霊(ごぶんれい)を勧請(かんじょう)して祀ったのが始まり。毎年2月11日の祝日に開催される御弓神事(おゆみしんじ)は三原市の無形民俗文化財にも指定されています。

 ・芸予諸島に見られる厄払いの神事
 弓を使った祈祷は、広島県、香川県、愛媛県の沿岸部の神社に多く見られる神事で、佐木島にある亀山八幡神社もその一つ。御弓神事では、1メートル四方の大的と、その横に直径40センチの小的を用意します。
 的の位置は毎年異なり、その年の恵方と逆の方角に的を設置して、これを射ることで邪を祓い、豊年と一年の無事を祈るのだとか。
 「矢を射ることは、その年の厄払いの意味合いがあるので、的は絶対にはずせません。練習もしますし、その日は相当なプレッシャーですよ。」
 そう話すのは亀山八幡神社の宮司になって15年の山田 修さん。以前は糸碕神社で20年務められていたそうです。宮司の山田さんが射るのは小的で、その後、大的に総代、世話役、頭屋の順に射ち、一般参拝者も矢を射ることが出来ます。

 ・神社の竹で作った手作りの矢
 弓で射る矢とは別に、その年一年のお守りに、神社にある竹林の竹を使った矢も配られます。この矢は毎年交代制で神社の祭事のお世話をする頭屋(とうや)が一本一本手作りしています。祈祷(きとう)された矢は参拝者が持ち帰り、一年間家で飾られたあと、節分祭で神社に返して焼納し、また御弓神事で新しいものをもらいます。

 ・地域に根ざした神社
 実は向田地区は神道の家が多く、地域の冠婚葬祭も亀山八幡神社が担っているのだとか。それは、向田の庄屋だった西原庄蔵氏が、維新後の神仏分離の流れの中、率先して村内に神道を広め、神社を改築したことも理由の一つ。
 西原庄蔵(にしはらしょぞう)は、1832年に佐木島の西にある割石島(わりいしじま)との間の干拓に着工し、1834年には扇浜塩田(おうぎはまえんでん)を完成させるなど、多くの偉業をなした人物で、その功績に対し神社境内に西原庄蔵翁頌徳碑(にしはらしょうぞうおうしょうとくひ)が建てられており、毎年10月に「頌徳祭(しょうとくさい)」が行われています。そんな歴史のある亀山八幡神社は地域に根ざした神社として愛されています。

 ◆西原庄蔵翁顕徳碑

 --- https://ameblo.jp/hidsrod/entry-12476130493.html ---

 天保元年(1830)当時の庄屋であった西原庄蔵氏が6年の歳月と私財を投じ、流れの速い割石島との海峡を埋め立てるという難工事を行い、扇浜塩田を造成しました。

 …と、〝亀山八幡神社〟に関しては色んな記載がありますけど、「西原庄藏翁頌徳碑」に関しましては〝んっ!?〟のGONsanです。
 既に、先に、
 『◆西原庄藏翁頌徳碑--西原庄藏翁頌徳碑は、日本の教育者である西原庄藏翁を讃えるために建てられた頌徳碑です。この頌徳碑は、広島県広島市南区にある広島大学の本部キャンパス内にあります。』と綴りましたけど、う~ん、〝日本の教育者である西原庄藏翁〟とは、同姓同名の別人でしたようですネ(^-^;
 WEB上で検索しましたら、〝西原庄藏翁頌徳碑〟で〝日本の教育者である西原庄藏翁〟が出て来たものですから(^-^;

 それでは、〝亀山八幡神社〟とお別れですけど、石段を下り鳥居へと下っておりますと、鳥居の前方方向に青々とした瀬戸内が…そぅそぅ、こんな記載もありました。

 ◆島の記憶 30 -- 佐木島・亀山八幡神社 --

 --- https://blog.shimaproject.jp/?p=9233 ---

 創建1129年の亀山八幡神社。約半世紀前までは、ここから塩田が見えたと聞く。
 水田、塩田、芋、タバコ、除虫菊に柑橘畑。生活の糧と共に変化しただろう眺望に感慨を覚えた。

 …との事で、50年ばかり前までは、この鳥居から少し上辺りから塩田が眺望出来ましたようであります(^.-)☆
 それでは、また、ウォーキングがスタートです。亀山八幡神社からは、峠を越え佐木島東部の海側へと向かいます。峠の上り口辺りには墓地が存在で、立派なお墓が…
 〝岩田家先祖之墓〟と刻まれていますけど、とにかく立派。島の名士の一族の方々のお墓なんでしょうねぇ~
 峠を上りきりますと、前方が開けて青々とした瀬戸内が(^_^)v
 対面に見えます海の向こうは、三原市木原町辺りかも(^-^)//"

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 〝鷺浦コミュニティセンター〟を出ましてからノンビリとしたウォーキングでしたけど、13分で〝亀山八幡神社〟に到着です(^.-)☆
 〝さぎしまウォーキングガイド〟によりますと、

 ◆亀山八幡神社
 弘安10年(1287)須波の住人正五位上丸山相模守源歳国が京都石清水八幡宮より御分霊を勧請して祀られています。

 …と、こんな神社であります。
 石段を上がり鳥居をくぐりますと、右手に〝西原庄藏翁頌徳碑〟が…〝西原庄藏翁〟の説明はガイドさんからありましたのでしょうけど、GONsanは後尾を歩いておりまして聞こえなかったかも(^-^;
 で、WEB上で「西原庄藏翁頌徳碑」を検索してみますと、

 ◆西原庄藏翁頌徳碑
 西原庄藏翁頌徳碑は、日本の教育者である西原庄藏翁を讃えるために建てられた頌徳碑です。この頌徳碑は、広島県広島市南区にある広島大学の本部キャンパス内にあります。

 …との事で、この佐木島ご出身の偉人なのでしょうねぇ~
 周辺を見廻しますと、説明板が…「西原庄藏翁」の説明でなく「御弓神事」の説明板でありました。

 ◆三原市無形民俗文化財 御弓神事

 指定日:平成20年5月19日
 保存団体:鷺浦町向田野浦 向田区

 御弓神事は、例年2月11日(かっては1月11日)に、亀山八幡神社の初祈祷の中の行事として行われる。魔を払い、豊年と一年の無事を祈る行事である。神事に用いる大的・小的・矢などは、その年一年間の神事の主担当である頭屋(当屋)となる組が中心となって作り準備する。当日は、拝殿にて初祈祷が行われ、これが終わると境内にて、その年の恵方の逆の方向に設置された的に、宮司・総代・世話役・頭屋の順に弓を射る。弓祈祷は、芸予諸島を中心とした愛媛県・広島県・香川県の沿岸部の地域で盛んで、県内では、尾道市百島、福山市沼名前神社などで行われている。

 --- 三原市教育委員会 ---

 そして、また石段を上がりますと境内で拝殿が…
 それでは、まず、拝殿を右廻りで拝見してみますことに(^-^)//"

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 磨崖和霊石地蔵の周辺にも説明板が設けられておりますので、眼を通してみますと、新旧二つの説明板の記載内容が、微妙に異なりますので苦笑です(^-^)
 磨崖和霊石地蔵の〝寸法〟に、微妙な差異が(^-^;

 ◆広島県重要文化財 磨崖和霊石地蔵

 昭和50年4月8日指定
 所在 三原市鷺浦町向田港

 磨崖和霊石地蔵は、向田港の入江の入口にあり、満潮時には地蔵の肩あたりまで潮に濡れる。海中の花崗岩の巨岩は、幅4.7m、高さ2.7m、厚さ4.0mで、西の面に地蔵菩薩が刻まれている。
 像は高さ25cmの七弁蓮華座に座し、舟型光背の輪郭を約15cmの深さに彫りくぼめ、その中に結跏趺坐を肉厚に刻み出している。
 この像は、正安二年(1300)仏師念心の刻銘があり、一部に波浪による摩滅もみられるが、精密な刻跡をとどめている。
 坐高 95cm

 -- 三原市教育委員会 --

 ◆広島県重要文化財 磨崖和霊石地蔵

 指定 昭和50年4月8日
 所在 三原市鷺浦町向田野浦

 磨崖和霊石地蔵は、向田港の入江の入口にあり、満潮時には地蔵の肩あたりまで海に浸かる。花崗岩の巨岩は、幅4.9m、高さ2.5m、厚さ3.7mで、海に向かって西の面に地蔵が刻まれている。
 像は高25cmの七弁の蓮華座に座し、舟型光背の輪郭を約15cmの深さに彫りくぼめ、その中に、地蔵菩薩を肉厚に刻み出している。
 この像は、全体的に波浪による摩滅がみられるが、正安二年(1300)仏師念心の刻銘があり、当時の瀬戸内海地域の歴史を示す貴重な文化財である。

 -- 三原市教育委員会 --

 まぁ、GONsanには大勢に影響ありませんから、どっちでも構わないのではありますが(^-^)
 磨崖和霊石地蔵を充分拝見致しましたので、次は〝鷺浦コミュニティセンター〟でランチタイムとなりました(^.-)☆
 地元の皆様の力作であります郷土料理…大変美味しく戴けました(^_^)v
 昼食後は、鷺浦コミュニティセンターで暫し休息。そして、ウォーキング再開で〝塔の峰千本桜〟入口から〝亀山八幡神社〟へと向かいます。
 その途中、ミカン畑に眼を向けますと、いくつかのミカンが割れておりました。「今年は異常な暑さで、割れるミカンが多い…」とガイドさん。佐木島に限らず、今年は我が家でもそぅでした。
 週に一度は用水路からポンプで水やりをしておりましたけど、あまりの暑さで、我が家でもいくつかのミカンが割れておりました。今までこんな事はありませんでしたけど、それほどまでに今夏の暑さは異常でしたのでしょうねぇ~
 峠を越えて亀山八幡神社方向へ下っておりますと、民家の軒先に昔懐かしい〝ウルトラマン〟の石造が(^-^)
 もぅ随分昔に、瀬戸田に出掛けました際、数多くのウルトラマンの石造を眼にしました記憶が有りますけど、瀬戸田で求められましたのかも…
 既に24~5年ばかり昔の事となりますけど、嫁さんの弟家族が福井から広島にヤッて来ました時に瀬戸田を案内し、記念に残るお土産として、ウルトラマンの石造を求めておりましたから、ヤケに懐かしさが(^-^)//"

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(10)

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 ガイドさんの説明もありましたけど、WEB上にも色んな方が「磨崖和霊石地蔵」に関して綴っておられますので、それに眼を通し知識を深めてみたいと思います。

 ◆広島県の文化財 - 磨崖和霊石地蔵

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-202030480.html ---

 ・【解説】
 波打際の花崗岩に彫刻された磨崖式半肉彫の像で、頭部のうしろに円光背(えんこうはい)を浮き彫りにし、衣を通肩(つうけん)に、胸に瓔珞(ようらく)をかけ、蓮台上に結跏(けっか)している。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠をのせている。像の左右には花瓶を浮き彫りにし刻銘があるが、潮と風雨にさらされて銘文は判読しにくくなっている。他の石碑に移刻された銘文によると、「于時正安二庚子年九月日大願主散位平朝臣茂盛幹縁道俗都合七〇余人仏師念心」とあり、造立の縁故を知りうる。なお、正安2年は西暦1300年に当たる。
 ※ 瓔珞(ようらく)…珠玉をつづった首飾り

 ◆磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)

 --- 満潮になると首まで浸かるお地蔵さん https://www.sora-michi-minato.jp/spot/213 ---

 ・700年前に建造!?
 磨崖和霊石地蔵は、佐木島向田港フェリー到着場のすぐ横の海中に鎮座しています。波打際の独立した巨岩の中央の蓮華座の上に舟形の輪郭を彫り沈め、その中に地蔵坐像が彫られています。
 頭部のうしろに円光背を浮き彫りにし、右手に錫杖を持ち,左手に宝珠をのせています。 またこの像の左右には、花瓶を浮き彫りにし、その周辺に願文が刻んであり、正安2年(1300)仏師念心の刻銘があります。
 ・佐木島は石仏の宝庫
 佐木島は島の至る所に石仏が祀られています。道路わき、山中の道端など、石仏の表情を辿っていくだけでも楽しいひと時です。

 ◆磨崖和霊石地蔵

 --- Sagishimaさぎしま http://sagishima.info/guidemap/guidemap-09/ ---

 鎌倉時代(1300年)に平茂遠が願主となり、仏師念心により造立され、県の重要文化財に指定されています。
 通称「和霊石地蔵さん」と呼ばれています。高さ2.7m幅4.7mの花崗岩に浮き彫りにされた座像は、満潮になると肩まで沈み、干潮になると全身が現れる全国でも類を見ないお地蔵さんです。
 そこに刻まれた文字は「東西南北各1町(約110m)において殺生禁断の地とし、また、お地蔵さんの大神通力をもって、人々があらゆる悪い境遇に落ちないようにお守りください」という文言が刻まれています。磨崖和霊石地蔵尊は、現実界のみならず冥界(めいかい)においても永遠に大悲をもって救済してくださる尊いお地蔵様です。
 毎年、7月の終わりの土曜日の潮がひいた夕方から法要がおこなわれ、お地蔵さんへお参りをしています。夜店なども出て、夏の夜の楽しい行事となっています。機会がありましたら、是非、お出かけください。

 ◆磨崖和霊石地蔵

 --- https://tabi-mag.jp/hm0435/ ---

 広島県三原市鷺浦町、波打際の花崗岩に彫刻された広島県の重要文化財に指定される地蔵尊が、磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)。石碑に移刻された銘文から正安2年(1300年)に刻まれた地蔵尊だということがわかります。干潮時には波打ち際から、満潮時には向田港から見学可能。

 ・向田港近くの岩に刻まれた地蔵菩薩坐像

 刻まれる石は、高さ2.5m、幅4.9m、厚さ3.7mで、半肉彫りで刻まれる地蔵尊坐像は、像高88cmで、広島県立歴史博物館にレプリカが展示されています。
 干満差の激しい瀬戸内海のため、満潮時には首まで海水に浸かるので、見学には潮の満ち引きに注意が必要。
 頭部のうしろに円光背(えんこうはい)があり、胸に瓔珞(ようらく=魔除けの装身具)を掛け、蓮台上に結跏(けっか=座禅の正しい姿勢)しています。
 右手に密教法具の錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ=災難を除き、濁水を清くする、霊験を表す宝の珠)をのせています。
 「于時正安二庚子年九月日大願主散位平朝臣茂盛幹縁道俗都合七〇余人仏師念心」と刻まれ、正安2年(1300年)、平茂盛が願主となり、仏師・念心により造立されたことがわかっています。
 さらに東西南北各1町(110m四方)では殺生を禁じることなどが刻まれています。
 仏師・念心は、米山寺・小早川家墓地の石造宝篋印塔(国の重要文化財)の制作でも知られる鎌倉時代の名仏師です。
 今も「和霊石地蔵さん」と親しまれ、7月下旬の土曜、干潮時に法要が執り行なわれています。
 ちなみに、和霊地蔵と呼ばれるようになったのは近世のことで、伊予・宇和島(愛媛県)に承応2年(1653年)創建の和霊神社の信仰の影響を受けて、和霊石(割石)地蔵と呼ぶようになったため。
 もともとは、鎌倉時代、法然の唱える浄土教の台頭に対抗するために、南都六宗(三論・成実・倶舎・法相・華厳・律の六宗)が民衆救済の一環として地蔵信仰を積極的に取り入れ、西国に地蔵信仰が広がったことが背景にあります。

 ◆磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)

 --- ひろしま文化大百科 http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=724 ---

 三原市佐木島向田野浦の波打際にある高さ約2.7メートル、幅約4.7メートルの巨岩に半肉彫(はんにくぼ)りされた地蔵菩薩坐像(ぼさつざぞう)である。右手に錫杖を持ち、左手に宝珠(ほうしゅ)をのせる。
 満潮時には、像の肩のあたりまで海中に没する。
 左右の花瓶(けびょう)に刻まれていた銘文(めいぶん)は、風雨にさらされて判読できなくなっているが、他の石碑に移刻されたものから、主旨を要約すると、東西南北各1町を未来にわたり殺生禁断(せっしょうきんだん)とした。
 造立は釈尊円寂(しゃくそんえんじゃく)2251年にあたる正安(しょうあん)2年(1300)に、散位平朝臣茂盛(しげもり)が大願主となり幹縁道俗(かんえんどうぞく)70余人を集めて行った。仏師は念心(ねんしん)である。
 近世に伊予宇和島(愛媛県)の和霊(われい)神社の信仰の影響を受けて、当像を和霊石(割石)地蔵と呼ぶようになったとされる。
 瀬戸内海の岬の地蔵の中では最も古く、地蔵信仰の海への広がりがうかがわれる。芸備地方の在銘石造物の中でも古い部分に属する。また美術的にみても、彫法は密で秀麗な姿の像である。以後内海各所で造られる地蔵像の原型といっても過言ではないと思われる。

 ◆磨崖和霊石地蔵

 --- https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/nazo/nazo27.html ---
 --- 謎を秘めた仏たち 川尻祐治 ---

 磨崖仏は三原市鷺浦(さぎうら)町の佐木島(さぎしま)とよばれる周囲12kmの島の海岸部にあり、満ち潮ともなると、海中に沈んでしまうという特殊な環境下の石仏である。したがってその全容は干潮の時のみ拝見できる。
 この島には鷺港(須波-すなみ)と向田港(向田野浦-むこうたのうら)があるが、二つの港への船便は少なく、しかも港は島の北端と南端にあって、これを結ぶタクシーもないという。三原に行けば何とかなると、簡単に考えて来てしまったが、行賢像の所在確認に手間取ったことを思うと不安になった。善根寺の見学の帰り、三原のホテルに入る前、三原港のフェリー乗り場に立ち寄り、佐木島までの船便と和霊石地蔵の所在地、潮の満ち引きを確認した。
 切符売り場の女性に尋ねてわかったことは、明日の満潮は昼頃で、午前中は潮が引いているということ。佐木島の向田経由瀬戸田行きの一番船は、7時5分に出るということ。しかし幸せなことに、明日の日曜日は、島でトライアスロンの大会が開かれ、臨時便が多数出航するという。磨崖仏の所在はハッキリとしないが、これに乗船することにした。明日の朝食は抜き。

 翌日、港近くのホテルを6時半出発。港までは徒歩10分足らず、待合室の売店で弁当を買い朝食を済ませる。向田経由瀬戸田行きの船は定時に出発。そういえば、海に沈む仏は佐木島の隣り、因島にも巨岩に刻まれた「鼻の地蔵」とよばれる石仏がある。こちらは尾道から車でいける。高速艇の乗客は七、八人。フェリーよりはるかに早い。天気は今一すっきりとしない。
 三原港の桟橋が見えなくなったと思ったらもう向田港に到着。瀬戸内の波の穏やかな海、わずか15分足らずの乗船であった。驚いたことに、土地の人に聞いてもその所在が分からず、気をもんだ磨崖仏の刻まれた巨岩が、桟橋の直ぐ脇の砂浜に見えていた。案ずるより生むがやすしの諺を実感した。

 江戸時代、佐木島は安芸国豊田郡、広島藩領に属した。全島広島系花崗岩の島で、島名は神功(じんぐう)皇后が鷺の群れをみたことから起こったといわれている。和霊石地蔵のある向田野浦は、島の南部にあり、穏やかな入り江に面している。
 磨崖仏は割石地蔵磨崖仏ともよばれているが、近年は磨崖和霊石地蔵と書かれる。和霊石の意味は分からないが、石に大きな亀裂があることから、割れた石、割石の地蔵が変化したと思われる。
 海縁を走り島を一周する県道から砂浜に降りると、高さ約2.7m、幅約4.7m、奥行き約4mの花南岩の独立岩があって、海に向き、陸に背を向けて西面する地蔵菩薩の像が半肉彫とされている。波打ち際には乱石積みの石垣による、結界が設けられ、周囲が地蔵の清浄な浜であることを物語っている。
 像は高さ150cmの龕状に浅く彫り窪めた光背の中に、錫杖と宝珠を執り、高さ25cmの蓮華座に結跏趺坐している。像の前に各々二基の石造花立てと灯籠が置かれている。
 地蔵本体は95cm、膝張75cm、頭長27cm、面幅20cmあり、肩の辺りから、波の侵蝕により石質が変化し、下が黒ずんでいる。意思的な目、大きな耳、胸飾、衣文など細部に至るまで丁寧に刻み、作者が本格的な仏師であることを物語っている。像の左右には華瓶と蕾をつけた三茎の蓮華が、これも浅く彫りこんだ龕の中に、半肉彫りとされている。さらに像の右、華瓶の上を四角く浅く彫り窪め、「現在未来人天衆、吾今應懃付嘱汝、以大神通方便□、勿令堕落諸悪□」と四行にわたって発願の趣旨を陰刻している。

 さらにその脇に、大きく「釈圓寂二千二百五十一年、□時正安二年九月□日、大□主 □位平朝臣茂盛、幹縁道俗都合七十余人、佛師念心」(石仏 日本の美術 久野健 小学館)と陰刻している。
 しかしこれらは七百年もの間の風浪によって磨滅が進み、読むこと難しい。
 「…大□主□位平朝臣茂盛…佛師念心」の部分は、「大願主散位平朝臣茂平…佛心念心」(日本の石仏 山陰・山陽編 瀬戸内の石仏 岩道王宣)とも読まれており、正安二年(1300)に造像されたことが知られる。
 作者念心は、小早川茂平が創建した三原市米山寺、小早川家墓地の石造宝篋印塔(国重要文化財)の制作者としても知られ、この地方で活躍した石工の仏師と考えられる。江戸の頃になって活躍する尾道の石工との関わりはないと考えられる。

 発願者散位平朝臣茂盛は、沼田川東岸に古高山城を築き、三原地方に勢力を張った、沼田、竹原の両小早川氏の祖小早川茂平で、木像の発願者は茂平と考えるのが自然であろう。
 小早川氏は、頼朝の旗揚げの際に功労のあった、土肥実平の子遠平が、沼田荘の地頭職に任じられたことから、一族を挙げて当地に移り、小早川を名乗るようになった。沼田荘の地頭職は遠平から養子景平、そして景平の子茂平に受け継がれた。
 その茂平が海中に没する岩をなぜわざわざ選んで、地蔵菩薩の造像を発願したのか。あるいは念心が、潮が満引きし、制作日数にも相当の年月が必要と思われる最悪の制作環境の中で、これだけ大きな像の制作になぜ取組んだのか。当時の人々の宗教心を、深く掘下げなくては答えが出ないであろう。
 見学が終わった頃、桟橋にトライアスロンの選手を乗せた臨時便のフェリーが到着していた。これを逃すと次の便が何時来るのか分からない。午後のスケジュールが大幅に狂ってしまう。慌てて乗船すると、乗客は我々五人だけだった。

 …と、色んな方々が綴っておられまして、こんな〝磨崖和霊石地蔵〟であります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(9)

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 また、ウォーキングが続きます。
 〝備後と安芸の国境〟からノンビリと歩いておりますと、左手に〝塔の峰千本桜入口〟の案内板が…WEB上で検索してみますと、サクラの時期には、こんな感じで大変綺麗な景観ですネ(^_^)v

 ◆塔の峰千本桜

 --- さぎしまウォーキングガイド ---

 小高い山の一面に、桜の木が1,000本以上植えられており、満開の時期には桜色のトンネルができあがります。地域の運動により植樹が続けられ、「全国育樹活動コンクール」で林野庁長官賞を授与されました。
 春には小高い山の一面に、千本を超える桜が咲き誇ります。以前はみかんの畑でした。「美しい自然のあるふるさとを守ろう」との地域の運動により、平成4年(1995年)から数年かけて植樹が続けられました。地域全員で取り組んだ活動に対して、「全国育樹活動コンクール」で林野庁長官賞を授与されました。その後、植え続けられて現在では1,200本以上になっています。
 毎年、4月初旬「向田さくら祭」が行われ、桜の木の下で海を眺めながら楽しいひとときを過ごします。最近では木も大きくなり、観光会社のツアーの花見客が訪れるようになっています。

 ◆塔の峰千本桜(とうのみねせんぼんざくら)

 --- 三原観光navi https://www.mihara-kankou.com/sightseeing/1035 ---

 塔の峰は、向田港から歩いていける小高い山。その山の一面に桜の木が植えられています。桜が満開の時期には、塔の峰を1周する道に桜色のトンネルができあがります。景色の美しい頂上にも簡単に歩いて登れ、桜と海の景色が一緒に楽しめる場所でのんびりと。この塔の峰千本桜は、地元を美しくしたいという地域の活動により、平成4年から植樹が続けられ、「全国育樹活動コンクール」で林野庁長官賞を授与されました。

 …と、こんな〝塔の峰千本桜〟のようであります(^_^)v
 そして、少し先の右手には、何やら建物が…入口壁面には「三菱重工労働組合・三原製作所支部 寄贈 平成26年3月31日 三菱重工労働組合 三原支部」の銘板が(^.-)☆
 ふ~ん、三菱重工労組から寄贈された建物で、今では「サギ・セミナー・センター」として利用されていますようであります。

 ◆サギ・セミナー・センター

 三原市サギ・セミナー・センターは、瀬戸内海の離島「佐木島」にある宿泊研修施設です。青少年教育を目的とした施設ですが、一般の方もご利用いただけます。
 佐木島観光やスポーツ合宿、各種研修にどうぞご利用ください。

 ◇サギ・セミナー・センターの利用について
 利用者のみなさんには、新型コロナウイルス感染症への対策として、次のことを守っていただきますようお願いします。

 【基本的注意事項】
 ・発熱や、軽度であっても咳・咽頭痛などの症状があるなど体調の悪い方は入館を控える。
 ・必ずマスクを着用する。
 ・入館時や利用中は、手指のアルコール消毒、こまめな手洗いをする。
 ・館の利用中は、人と人との間に十分な間隔(約2m)を確保する。
 ・会議室や宿泊室では、換気を心がける。
 ・ごみは、袋に入れて縛るなどして、各自で持ち帰る。
 ・食事の際は、会話を控え,短時間で済ませるよう心がける。
 ・食堂、浴室、ロビーなどの利用を、多人数にならないよう制限する場合がある。
 ・来館までの移動の際にも、できる限り密集・密接・密閉を避ける。

 〝サギ・セミナー・センター〟から少し先には、『向田港(フェリー乗り場)』の案内表示が…ヤッと向田港に到着です。
 向田港の左手には、〝鷺浦コミュニティセンター〟の建物が。向田港の駐車場には、「トライアスロン界の登竜門」の大きな表示が(^.-)☆

 ◆向田港

 --- http://sagishima.info/2021/05/ ---

 2021/05/01よりフェリー航路・高速艇時刻表が変わりました。
 ・2021年5月7日:お知らせ
 2021/5/1より、佐木島に着くフェリー航路が 須波港~向田港~沢港 に変更になりました。
 車での乗船時などフェリーご利用の際は、三原港ではなく須波港からになりますので、お間違いないようご注意ください。
 三原~鷺港の高速船は引き続き運行していますが、時刻表が一部変更になっています。

 ◆鷺浦コミュニティセンター

 ・センターの目的
  鷺浦コミュニティセンターは、佐木島、小佐木島の総合的な振興発展を図るために、
 1.いろいろな集会や会議
 2.グループ・サークルによる自己啓発・生涯教育などの学習や生産研修活動
 3.生活改善,保健・福祉活動などの暮らしの向上に役立つ催し など、様々な目的にそって、多くの皆さんが集い、気軽に使える市域総合施設です。

 ◆トライアスロンさぎしま大会

 周囲約12kmの佐木島を舞台に行なわれる歴史ある大会です。スイムは向田港湾内を、バイクとランは多少のアップダウンが心地よい島内外周道路を走ります。
 島の人たちのおもてなしの心が、ふるさとに帰ったときのように、あたたかく感じられる大会です。
 毎年8月下旬の日曜日に開催しています。島の多くの人々がボランティアで参加し、鉄人と共に島が燃える一日です。水泳1.5km、自転車42km(島4周)、マラソン10km(島一周)

 ふん、ふん、佐木島に車で来ます時には、須波港~向田港間のフェリーを利用しますようですネ。
 向田港桟橋横では、本日の〝佐木島一周ウォーク〟の目的の一つで有ります『磨崖和霊石地蔵』を見学です。〝磨崖和霊石地蔵〟近くの道路脇には「広島県重要文化地蔵」を説明した石碑が…

 ◆広島県重要文化地蔵

 昭和50年4月8日指定
 所在地 三原市鷺浦町向田港

 磨崖和霊石地蔵には、地蔵の肩あたりまで潮に濡れる海中の花崗岩の巨岩は、幅4.7m、高さ2.7m、厚さ4.0mで、西の面に地蔵菩薩が刻まれている。
 像は高さ25cmの七弁蓮華座に座し、舟型光背の輪郭を約15cmの深さに彫りくぼめ、その中に結跏趺坐を肉厚に刻み出している。
 この像は、正安二年(1300)仏師念心の刻銘があり、一部に波浪による摩滅もみられるが、精密な刻跡をとどめている。
 坐高 95cm

 -- 三原市教育委員会 --

 そして、「広島県重要文化地蔵」を説明した石碑に並んで、歌碑らしき碑も…
 『青柳へ 遠眼指しの 地蔵尊 匠』と刻まれておりますけど、ガイドさんの説明はありませんでしたネ…
 〝磨崖和霊石地蔵〟に関しては、WEB上に色んな記載がありますけど、その中から一つ抜粋です。

 ◆磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)

 --- http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=724 ---

 三原市佐木島向田野浦の波打際にある高さ約2.7メートル、幅約4.7メートルの巨岩に半肉彫(はんにくぼ)りされた地蔵菩薩坐像(ぼさつざぞう)である。右手に錫杖を持ち、左手に宝珠(ほうしゅ)をのせる。
 満潮時には、像の肩のあたりまで海中に没する。
 左右の花瓶(けびょう)に刻まれていた銘文(めいぶん)は、風雨にさらされて判読できなくなっているが、他の石碑に移刻されたものから、主旨を要約すると、東西南北各1町を未来にわたり殺生禁断(せっしょうきんだん)とした。
 造立は釈尊円寂(しゃくそんえんじゃく)2251年にあたる正安(しょうあん)2年(1300)に、散位平朝臣茂盛(しげもり)が大願主となり幹縁道俗(かんえんどうぞく)70余人を集めて行った。仏師は念心(ねんしん)である。
 近世に伊予宇和島(愛媛県)の和霊(われい)神社の信仰の影響を受けて、当像を和霊石(割石)地蔵と呼ぶようになったとされる。
 瀬戸内海の岬の地蔵の中では最も古く、地蔵信仰の海への広がりがうかがわれる。芸備地方の在銘石造物の中でも古い部分に属する。また美術的にみても、彫法は密で秀麗な姿の像である。以後内海各所で造られる地蔵像の原型といっても過言ではないと思われる。

 …と、こんな〝磨崖和霊石地蔵〟でありますが、早速、見物させて頂きます(^-^)//"

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(8)

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 そぅしていますと、〝備後と安芸の国境〟までヤッて来ました。
 この国境について、ガイドさんから説明を受けていますと、先ほど通過して行きました御神輿が戻って来ましたネ(^.-)☆
 GONsan達が歩いておりまして追い越されました辺りに住居が一軒ありまして、そこまでが〝佐木地区〟なんでしょうけど、本来ならそこでUターンとなりますようです。が、道幅の関係でUターン出来ず、少し先まで走行しUターン(^-^)
 で、引き返して来ている…と、ガイドさんのお話しでした(^.-)☆
 国境には、こんな説明板が設置されてありました。

 ◆備後と安芸の国境の説明文

 旧きは
 ここは 備後と安芸の国境

 -- 二分されたさぎしま --
 延宝5年(1677)佐木島の北半分と小佐木島は三原城主、浅野氏分に、南半分の向田野浦村は広島本藩の所管となり、備後国と安芸国となった。須波村属佐木島と向田野浦村では、国境の争いが度々起きた。

 -- 山境の争い --
 延宝年間、須波・向田両村の山境の件につき喧嘩続出、数度の出入りに及び、十年に近い紛争となった。天和3年(1683)、佐木の住民が幸神社を500メートル佐木寄りの現在地に遷座したと伝えている。貞享元年(1684)の出入りは熾烈を極め両村の在方役人は悉く御役御免となった。
 このことの解決のために郡代より三名が調停役に命じられ和議が図られ貞享2年(1685)、向田・佐木の山境の紛争が決着した。

 -- 海藻の争い --
 文政12年(1829)、海藻の争いがあった。海上の境界は陸上の村境の延長線上と設定されているが、境界線の延長方向が問題となり紛争が起き、争いは長年続いた。
 明治22年(1889)、市町村制が施行され向田野浦村と須波村属佐木は合併、一つの行政区域、鷺浦村とになった。

 --- 2015年12月 郷土史家:山下博巳 制作:元気さぎしま協議会 ---

 永年続きました紛争も和議により決着。その際に交わされた〝覚書〟の内容が、説明板の下に記載されておりますけど、何と綴られていますのか、GONsanにはよく分かりません(^-^;
 事細かな取り決めがありましたのでしょうネ(^-^)/
 この国境から少し進んだ路傍には、〝第五北川丸遭難慰霊地蔵〟が…そして、この慰霊地蔵の左側の道を上がって進みますと〝第五北川丸遭難者慰霊碑〟がありますのでしょうけど、残念ながら〝さぎしま一周ウォーク〟のコースに入っておりませんから…

 ◆第五北川丸遭難慰霊地蔵。
 第五北川丸(総トン数39トン)は、昭和32年(1957)4月17日瀬戸田港から尾道港へ帰途の佐木島西海岸沖で座礁、転覆し113人の方が亡くなった第五北川丸沈没事故。この犠牲者を追悼する地蔵さん。

 それではまた、〝第五北川丸沈の海難事故〟をWEB上で確認してみます事に。

 ◆第五北川丸沈没事故

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 第五北川丸沈没事故(だいごきたがわまるちんぼつじこ)は、1957年に発生した海難事故である。
 舵を甲板員見習に任せたために操船を誤り、暗礁に座礁・転覆した事により発生した事故。定員の3倍を超える乗客を乗せたうえ、救命胴衣も定員の半分しか用意しておらず、死者・行方不明113名を出す惨事となった。

 ・事故の概要

 1957年4月12日は穏やかな天気であり、「西の日光」といわれる生口島(当時:広島県豊田郡瀬戸田町、現在:広島県尾道市瀬戸田町)・耕三寺には大勢の団体参拝客や花見客が訪れていた。
 午後0時半に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船であった第5北川丸(総トン数39t、旅客定員77名、船員7名、合計定員84名)が出航した。
 この客船は、定員が84名であったにもかかわらず、235名(うち子供12名)という旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていた。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船であり、乗員5名のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習(事故により死亡)に任せていた。生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置された)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没してしまった。
 付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す惨事になった。
 海難審判(1959年3月26日・言渡)では、操船を未熟かつ資格のない甲板員見習にまかせた船長の職務上の過失に加え、老朽木造船に安全性を省みずに多くの乗客を乗せるなど運航会社による運航管理が不適当であったとして責任があるとされた。

 ・その後の経過

 事故後、現場近くの地元住民らが中心となり、現場近くで毎年4月に慰霊祭を開催してきたが、慰霊会を執り行っていた地元佐木島の住民及び遺族が高齢化してきたため、節目となる五十回忌にあたる2006年4月8日の法要を最後に遺族に対して参列呼びかけをしなくなった。しかし、地元住民により慰霊祭は毎年続けられており、事故から60年目を迎えた2017年4月12日の慰霊祭には約20人が集まった。

 ◆第五北川丸遭難者慰霊碑(だいごきたがわまるそうなんしゃいれいひ)

 -- 事故現場を臨む丘の上にある慰霊碑 --
 昭和32年4月、佐木島西海岸沖での座礁により113人の方が亡くなった、第五北川丸沈没事故。この犠牲者を追悼するため、事故現場を臨む丘の上に慰霊碑が建立されています。地元では、有志によって参道の整備や慰霊碑周辺の樹木の剪定や清掃が行なわれ、事故のあった毎年4月12日に慰霊祭を行なっています。参道には慰霊祭に満開となる桜が植樹されています。

 …と、こんな海難事故でしたようであります(^-^)//"

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(7)

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 向田港方向に進んでおりますと、左手に「第五十九番 薬師瑠璃光如来」「藤見園」。これらを横目に進みますと、また、左手に三重の塔を備えた立派なお寺が…何にも表示がありませんから、何と言うお寺なのか…建物右側には「天御通法昇命」と刻まれた石柱。その隣りに、お上人らしき方の像が…
 そして少し進んで行きますと、鳥居の奥に、どなたかの立派なお墓が…お墓の前の石柱には「天御通法昇大人命」と記載です。
 鳥居が設けられていますと言う事は、先ほどの建物は〝お寺〟でなくて〝神社〟なのかも…でも、三重の塔がありますし…ガイドさんの説明がありましたのかどぅか…随分縦長で皆さん歩行ですから、皆さんを集めて説明される訳でもありませんし…何にも分からないまま、単に眺めながらのウォーキングも結構辛いものではありますねぇ~
 そぅしていますと、後方から、御神輿と氏子の皆様を乗せた軽四トラックが(^.-)☆
 佐木島を三つの地域に分けますと、〝佐木地区〟〝須ノ上地区〟〝向田地区〟となりますのでしょうネ…と言う事は、この日は丁度、〝佐木地区〟の秋祭りでしたのでしょうねぇ~せっかくですから、パチリです(^-^)//"

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(6)

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 長浜海岸では、皆さん、思い思いに休息です。
 GONsanは、砂浜に広がっています植物に眼を向けておりますと、『ハマゴウ』の標識が…
 ズッと一面に、この〝ハマゴウ〟が連なっているのかと思いましたら、途中から種類が異なりまして、今度は『ハマボウフウ』の標識です。
 〝ハマゴウ〟〝ハマボウフウ〟とは、どんな植物なんだろう?…と思っていましたら、掲示板が設けられ、そこには説明文が(^-^)

 ◆さぎしまの植物
 ハマゴウ(浜香) クマツヅラ科ハマゴウ属

 本州、四国、九州に分布し、海岸の砂地に生える落葉低木です。
 佐木島長浜海岸では、十数本ですが、須ノ上地区の海岸には群生があります。
 茎は長く、幾本にも枝分かれしながら砂の上や中を這って伸び、根をおろしていいきます。広がった茎の先からは、断面が四角形の枝が30cmほど立ち上がります。葉は対生し、裏面には灰白色の軟毛が密生しています。
 7~9月、枝の先に円錐花序をだし、青紫の花を多数付けます。
 花の長さは1.5m、秋には直径5~7mmの球形で淡黒色の硬い実が熟します。
 株全体に香気があり、葉茎を線香や染料に、果実を薬用にしたそうです。

 ◆さぎしまの植物
 ハマボウフウ(浜防風) セリ科ハマボウフウ属

 海岸の砂地に生える多年草です。
 日本各地に広く分布していますが近年減少し、佐木島でも十数株が細々と生育するだけです。砂に埋もれながら、厚くて光沢のある2回3出羽状複葉の葉を四方に広げます。株の高さは低く5~10cmほどです。5月中旬から茎の先端に小さな白花を密につけます。
 若葉や葉柄は刺身のつまとして使われたり、いろいろに調理されて食用とされてきました。現在では、栽培によって賄われています。
 和名は、薬用とした中国産のボウフウ(防風)の代用として、根を使っていたことによるといわれています。

 暫しの休息を終えますと、またウォーキング再開です。
 長浜海岸近くには、「太平山(たいへいざん)登山道入口」と「屋外トイレ」が…〝太平山〟への登り口はいくつかありますのでしょうけど、その一つ(幸神登山口)が此処のようですネ(^.-)☆

 ◆太平山

 佐木島の最高峰で、高さ267.5m。登山ルートは3つあります。2016年11月、離島の100名山に選ばれました。
 3ルートの登頂目安(休憩は含まれていません)
 ・幸神口→みはら賭→千畳敷→頂上(計約50分 1.6km)
 ・向田口(35分)→二本松(15分)→頂上(計50分 1.7km)
 ・須ノ上口(25分)→観音さん(20分)→頂上(計約45分)

 太平山登山口から少し先には、神社が…〝さぎしまガイドマップ〟には、〝幸神(さいのかみ)〟と記載です。

 ◆幸神
 通称「サイノカミ」と呼ばれている神社です。
 祀られているのは猿田彦の尊(サルタヒコノミコト)で道祖神、庚申(こうしん)さんとも呼ばれている道の神様です。
 昔この地は、南は安芸、北は備後の国境でした。この境に外界からの疫病など災いをもたらすものを、この境にて侵入を防ぐ信仰があり祀られたのだそうです。

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(5)

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 〝まみいの家〟から少し先に進みますと、海岸沿いに石碑が…
 近付きまして見てみますと、「鷺浦町土地改良区七瀬農道整備事業記念碑」と記載されてありました。「施工年度 昭和47年4月~50年3月31日」とも。
 この記念碑の右隣りには、コンクリート造りの小屋が…案内して頂いたボランティアガイドさんのお話しでは、当時の小学生の生徒さん達の、登下校時の避難所・待機所と言っておられましたような(^-^)
 GONsanは、周辺の景観に眼を向けながら写真にも納めながらの歩行ですから、皆さんに追い付きました時には、大概、ガイドさんの説明は終わっております。ですから、多分、そのような事でしたような(^-^;
 海岸沿いの、この農道の峠を越えまして、山際に眼を向けますと、羊さんが…
 微動だにしませんから、置物かも…ですが、ズームを効かせてよくよく見て見ますと、う~ん、本物のようですネ(^.-)☆
 飼育場らしき小屋には、『海のまきば』と記載ですから、本物の羊さんのようですねぇ(^_^)v
 青々として美しい瀬戸内に眼を向けながら皆さんの後方を歩いておりますと、こじんまりとした住居が何棟か…使用されて無いようですけど、ちゃんと手入れはされております。
 ガイドさんのお話しでは、これらの建物は凡て別荘との事でありました。5~6棟はありましたか…
 太陽光発電所、マリンパーク海賊を横目に、到着しましたのが〝長浜海岸〟であります。

 ◆長浜海岸
 西向きに本土が見え、夕日がすばらしい海岸です。
 この海岸の砂浜は大変に広くて長く、瀬戸内海の多くの島の中でも、自慢できる素晴らしい砂浜です。海水浴や砂浜ウォーキングにも最適で、近くに公衆トイレも設置されています。
 瀬戸内海の多くの島の中でも自慢できる素晴らしい砂浜です。

 …と、WEB上には、こんな記載が(^-^)
 ここで、暫し休息です。長浜海岸から正面(西方)方向の三原市幸崎に眼を向けますと、今治造船広島工場のドックが(^.-)☆
 参加者のお一人の背中に眼を向けますと、背中に〝呉爾羅〟の記載です。〝呉爾羅〟とは、何なんでしょう?
 呉市から参加された方なのだろうか?…と、スマホで検索してみますと、ふ~ん、〝ゴジラ〟は漢字で〝呉爾羅〟と書くのですねぇ~知りませんでした(^-^;
 相変わらず無知のGONsanですから、自分自身に苦笑です(^-^)//"

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(4)

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 「佐木島灯台⇒」の案内表示を横目に直進しますと、「裸の島・らくがき黒板 MEMORIAL COTTAGE」の表示が…これは何なんでしょう?
 WEB上で検索しますと、こんな記載が…

 ◆「らくがき黒板」自由活発な子ども活写
  <生きて・映画監督 新藤兼人さん(1912年~)>

 --- 2009/08/28(最終更新:2020/2/12) 中国新聞デジタル ---

 「裸の島」を撮りたいと思って三原を出たり、入ったりしていたとき、文化活動をしていた佐藤光男さん(旧かもめ信金理事長、1998年死去)から話が出ましてね、「らくがき黒板」を映画にしないか、ということなんです。
 それは広島大付属三原小(三原市館町)の青木博先生(故人)が取り組んだ教育実践です。教室の後ろにもう1つ黒板を掛けて子どもたちが希望とか不満とか、自由に書いていいという内容(59年6月、単行本を出版)でした。
 子どもたちに自由に発言させることが、そのころ新しい教育として注目されていた。「裸の島」の足がかりに三原で1つ仕事をするのはいいんじゃないか、創作活動としても面白いと思った。
 映画「らくがき黒板」は三原市や広教組の協力で59年3~4月に撮影された。広島大付属三原小や三原市内の大藤酒造、沼田大橋、筆影山などでロケされた。城下町風情を残した当時の街並みを写している。
 青木先生の役は俳優(加地健太郎さん)を入れて、実際の教え子(3、4年生での出来事を5年の終わりから6年初めに撮影。約40人)全員に出演してもらった。それまでやったことがない試みだからこちらも冒険でね。
 「らくがき黒板」があるような教室だから自由活発だった。本当にてこずった。付属三原小にライトを持ち込み、教室で青木先生が授業をやるかたちを撮った。そうしたらそんなことはやってないよ、とか意見が出たりして(脚本を変えたことも)。
 みんなが1つの方向に向かっていくとはどういうことか、友だちとはどういう関係かがテーマだった。青木先生は穏やかな人でね、撮影をずっと見てもらった。子どもたちは今、三原市の中核になっている。僕たちにも記念になる仕事だった。
 撮影中は民家に泊まって、まちの人がよく協力してくれた。三原にいる間、沖合の宿弥(すくね)島(「裸の島」を撮影した無人島)を意識していた。「らくがき黒板」の撮影が終わると、ライトなどを大藤酒造に預けて、「裸の島」で使う予定の、桜が咲いている映像を撮ったんですよ。
 三原の人情に触れた新藤さんはその後もたびたび訪れた。69年には大藤酒造の敷地内にセットを組み、サスペンス映画「かげろう」を製作。殿山泰司さんをモデルにした2000年製作の「三文役者」でも一部を三原市沖の佐木島で撮影している。

 …と、こんな記載がありましたけど、映画「らくがき黒板」の撮影記念に残されましたモノなのかも…
 そして、〝大野浦海水浴場〟入口には、こんな案内板が…

 ◆佐木大野浦自然海浜保全地区

 この地区は、いつまでも海水浴などに利用できる浜辺としておくため、自然海浜保全条例に基づいて指定したものです。
 指定年月日 昭和55年8月1日
 瀬戸内海は、われわれが祖先から継承した尊い風土である。
 ここは、海の幸と白砂の浜、そして緑濃い里にはぐくまれた豊かな人間の営みがあった。
 天与の美しく清らかな自然を守り育てることが、われわれの共通の責務である。
 (瀬戸内海環境保全憲章より)

 この地区で、地形の変更や土石の採取などの行為をしようとするときは、届出が必要です。
 詳しい事は、尾道農林事務所におたずねください。
 --- 広島県 ---

 ◆宿祢島(すくねじま)

 佐木島の沖に浮かぶ、周囲約200メートルの小さな無人島です。島の名前のとおり、大和時代の伝説や、古くは旧石器時代の石器が出土するなど、歴史的な島でもあります。
 この島を舞台に制作された映画が、「裸の島」(1960年~)です。大手映画会社が全盛の頃、高い芸術性と制作の自由を求めて設立された新藤兼人監督を中心とする独立プロ「近代映画協会」が、厳しい制作状況下で、最後の仕事として臨んだ作品です。俳優は、殿山泰司、乙羽信子の2人、スタッフは全部で13人、予算は500万円、佐木島での合宿方式と、当時の映画界では異例のことばかりでした。
 後にこの映画は、モスクワ国際映画祭でグランプリを獲得。世界七十数カ国で公開され、全世界に感動を巻き起こしました。
 新藤監督は、2002年に文化勲章を受章、また、2003年には三原市の名誉市民に推挙されました。この一連の出来事は、新藤監督とともに、島民、三原市民の喜びであり、誇りとなりました。

 -- 2008年3月 フィルム・コミッションみはら 事務局:三原市観光文化課 ℡0848-67-6014

 …と、こんな記載がありました。
 そして、〝さぎしまウォーキングガイド〟には、こんな記載も(^-^)

 ◆大野浦海水浴場
 日本初の海浜セラピー基地として人気上昇中!

 大野浦海水浴場からは、また、海岸沿いを左廻りに一周ウォークが続行です。
 暫く進みますと、今度は『海底水道管注意』『送水管破損事故 監視中 三原水道部』の大きな看板が(^.-)☆
 1978年(昭和53年)に、『小佐木島へ佐木尻川海岸から海底送水が始まった』ようであります。

 ◆小佐木島
 海岸は、ほとんど手付かずの自然が残っており、釣りや自然観察に最適な島です。人口5人です。(2022年3月31日現在)

 人口5人の小さな島ですけど、貴重な海底水道管ですから、日頃から破損事故が生じませんよう留意しておられますのでしょうネ(^_^)v
 暫く進んで行きますと、〝まみいの家〟と表示されました民家が…
 これは何なんでしょう?WEB上で検索してみましたけど、何にも出て来ませんでしたネ(^-^)//"

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(3)

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 鷺港の駐車場に設けられました〝さぎしまガイドマップ〟を見ながら、〝さぎしまを愛するボランティアガイド〟の土田会長sanが、本日のウォーキングコースをご説明です。
 説明が終わりますと、いよいよ「さぎしま一周ウォーク」がスタートです(^.-)☆
 まず向かいますのは、〝大野浦海水浴場〟のようですネ(^-^)/

 ◆みなと茶屋

 佐木島では、鷺港近くの空き家を「みなと茶屋」として整備し、島民などの食事場所として島民が運営しています。
 また、みなと茶屋は、島民のコミュニケーションの場として、また、島に訪れる観光客の食事場所、観光案内所、特産品の販売場所としても利用されています。船の待ち時間などに、ちょっとひと休みしてみませんか。

 ・営業日--火、水、土、日曜日
 ・営業時間--飲物:10時30分~14時30分、食事:11時~14時
 ・メニュー--うどん定食(うどん、おにぎり2個、1品、漬物)500円、肉うどん定食 550円、肉うどん 350円、わかめうどん 300円、きつねうどん 300円、カレーうどん 350円、カレーライス 400円、おにぎり1個 100円、コーヒー 150円、ココア 150円、アイスコーヒー 200円、定食付コーヒー 100円、定食付アイスコーヒー 150円、その他季節限定のオススメもあります。

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(2)

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 高速船乗船まで、未だ暫く時間がありますので、港湾ビル待合室に掲示の〝瀬戸内周遊ルート〟を眺めたり、頂いたパンフレットに眼を通しておりますと、A.M.9:00頃でしたか…高速船が到着です。
 乗客が降りられますと、入れ替わりにGONsan達が乗船です(^.-)☆
 9時過ぎに高速船は鷺港に向け出航です。わずか15分程度の乗船ですから、GONsanは客室には入らずデッキから穏やかな瀬戸の海を眺望となりました。
 出航して間もなく、まず眼に入りますのが〝宿祢島〟ですネ(^.-)☆

 ◆宿祢島(宿禰島)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 宿禰島(すくねじま)は、広島県三原市沖に浮かぶ無人島である。「禰」の異体字である宿祢島や、宿彌島(宿弥島)の表記もある。
 新藤兼人監督『裸の島』の舞台である。

 ・地理

 周囲約400m、敷地面積約0.74ha。お椀状の島で中央の高さが約20m。住所は鷺浦町須波で佐木島に属することになる。
 現在は無人島。山頂に『裸の島』の碑が設置されている。
 島への定期船は存在していない。観光の際の連絡先は佐木島の鷺浦コミュニティセンター。

 ・歴史

 この島の頂上付近で先土器時代の石器が発見されている。
 また頂部は「宿禰島古墳」という古墳であるとされている。三原には神功皇后が三韓征伐の際に立ち寄った糸碕神社など古代神話の伝承にまつわるものがいくつかある。それらの伝承の一つに、佐木島に大鷦鷯の尊(仁徳天皇)を祀り、そしてこの島に歴代天皇の忠臣であった武内宿禰の陵(墓)が建てられたと伝えられる。島の名前「宿禰」はここから来ている。
 この島の存在がクローズアップされたのは、1960年新藤兼人監督作品『裸の島』の舞台となったことである。映画は国際的に評価され、そのロケ地として観光客が訪れている。
 1960年代ごろまでは男性一人が暮らしていた。
 長らく民有地であったが、地権者の財産管理をめぐる問題で島の競売が決まり、「裸の島」ゆかりの地として残したいという意向から新藤監督の次男が募金を呼びかけて約300万円を集めたが、2014年2月にアパート賃貸業者が約800万円で落札。落札者との交渉の結果、新藤サイドが買い取り同年4月に三原市に寄贈された。

 …と、こんな記載がWEB上にありますけど、『2014年2月にアパート賃貸業者が約800万円で落札』されましたのは、確か福山市にお住まいの方だったように思います(^-^)
 そぅしていますと、佐木島灯台が…頂いたパンフレットによりますと、

 ◆佐木島灯台(恋する灯台)
 2017年6月、日本ロマンチスト協会から「恋する灯台」に認定されました。

 との事であります。WEB上には、こんな記載もありました。

 ◆『恋する灯台』佐木島灯台が立地する広島県三原市を「恋する灯台のまち」として認定
  日本ロマンチスト協会会長が天満祥典市長を表敬訪問、認定証を贈呈<お知らせ>

 --- 2017.07.20 https://uminohi.jp/news/koisuruhiroshima/ ---

 一般社団法人日本ロマンチスト協会(本部:長崎県雲仙市愛野町、会長:波房克典)は、全国各地の団体と協働し海へのムーブメントをつくりだす日本財団「海と日本プロジェクト」の一環として、 灯台をロマンスの聖地として再価値化する「恋する灯台プロジェクト」を実施しています。このたび、『恋する灯台』に選ばれた灯台が立地している広島県三原市を「恋する灯台のまち」として認定し、日本ロマンチスト協会会長 波房克典が天満 祥典 市長を2017年7月25日(火)に表敬訪問し、認定証を贈呈します。

 「恋する灯台プロジェクト」では、『恋する灯台』の立地する自治体を「恋する灯台のまち」として認定し、『恋する灯台』を地域の活性化に役立てるサポートをいたします。「恋する灯台のまち」として認定することによって、地域が主体となって観光を盛り上げていく流れを起こしてまいります。

 【表敬訪問 概要】
 日時:2017年7月25日(火)10:00~10:30
 会場:三原市役所 3階 第一応接室 広島県三原市港町3-5-1
 プログラム内容:
 日本ロマンチスト協会会長波房克典 開会のご挨拶、趣旨説明
 「恋する灯台のまち」認定証贈呈
 フォトセッション

 佐木島灯台『恋する灯台』選定理由
 瀬戸内海の佐木島にある灯台。島の北側にあり、フェリーで港に近づくと見えてくる小柄な姿が愛らしい。四季折々の花々が楽しめる島だが、一番の名所は“塔の峰千本桜”だ。小高い山一面に千本を超える桜が植えられており、満開の時期に生まれる桜色のトンネルは圧巻だ。また、四国八十八ヶ所霊場のミニコース「佐木島八十八カ所」がある。お遍路の「同行2人」は弘法大師との旅連れを意味するが、佐木島では恋する2人で未来を祈願しながら巡るのがオススメだ。

 <お問い合わせ>
 「恋する灯台プロジェクト」運営事務局
 HP:http://romance-toudai.uminohi.jp/
 メール:toudai@japan-romance.com

 丁度、所要時間15分で〝佐木島〟に到着です。桟橋では、今回の〝さぎしま一周ウォーク〟の主催者の皆様が、華やかな横断幕で迎えて下さいましたネ(^-^)//"

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9/24(日)は、〝さぎしま一周ウォーク〟に参加のGONsanでした(^.-)☆(1)

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 中国新聞sanの、こんな記事に誘われて、9/24(日)は〝さぎしま一周ウォーク〟に参加となりましたGONsanです(^.-)☆
 当日は、A.M.8:50に三原港へ集合ですから、久し振りにJRを利用し出掛けます事に。
 幸いに、福山駅(07:46) -- 三原駅(08:20)がありますので、5分前からホームで待機。JR山陽本線の利用は随分久し振りですから、ホームから福山駅南口に眼を向けまと、何となく新鮮な気持ちにも(^_^)v
 頭上のハトsanもパチリです(^.-)☆
 乗車時間「34分」で三原駅に到着で、三原駅にヤッて来ますのも実に久し振り。直近では〝三原神明市(みはらしんめいいち)〟で訪れましたけど、もぅ何年前になりますでしょうか…
 三原駅の南口も、何となくキレイになりましたような…せっかくですから、暫し駅南口の景観を楽しみます事に(^.-)☆
 三原と言えば、そぅですネ、まずは〝やっさ踊り〟が頭に浮かびます。やっさ踊りの像には、こんな説明文が…

 ◆やっさ踊りの由来

 源頼朝(1147-1199)の重臣土肥実平、小早川遠平(?-1237)父子は、惣追捕使としてこの地に西下し、以来四百年にわたり小早川氏の沼田川流域繁栄の基をつくりました。
 永禄10(1567)年、十七代小早川隆景(1533-1597)は、三原湾に浮かぶ島々を連ねて名城三原城を築きました。
 この城落成の祝いに酒に酔った人びとが、老若男女を問わず「ヤッサ ヤッサ」と踊り狂ったことから「やっさ踊り」というようになりました。
 歌詞は即興で、踊りは游行上人のひろめた念仏踊りの流れを素朴に継承していますが、時代と共に地唄はやり唄などの影響をうけ、踊りの身なりも変化して、三味線かね太鼓笛なそのリズムに乗った自由奔放な踊りとなり、宴の席や精霊供養のため踊りつがれて現在に至り、いまでは市民の心意気を代表する踊りとして年々盛大になってきています。

 -- 昭和55(1980)年4月 --

 以前には、この説明文の上部に〝日本セメント株式会社製作〟と記載されていましたような…う~ん、記憶が定かでありません(^-^;
 それでは、国道2号線方向の三原港にと向かってみます。
 途中、〝タコ〟のモニュメントと言うかオブジェが…そぅでしたネ、三原は「タコ」の名産地でしたネ。でも、この「合格ダコ」とは、何なんでしょう?
 WEB上で「三原の合格ダコ」を検索してみましたら、

 ◆三原の名産タコも応援!オクトパス合格ダコ

 --- https://j-town.net/2015/02/10200245.html?p=all ---

 広島県の三原といえば、瀬戸内海で育った新鮮なタコの名産地です。そんなタコにかけて、JR三原駅では、受験生を応援するスペースが設けられています。
 願いを書いた絵馬を、大きなタコの像の前の机の上に「置くとパス」する、「オクトパス」ということで、この時期は、受験生やその家族などが願掛けに訪れます。このコーナーは、2015年で5回目となり、絵馬は前年の倍の2万枚が用意されています。
 また、駅前の商店街にも、石で造られた様々な表情のタコのオブジェが点在しています。触るとご利益があるかもしれません。タコパワーで受験をパスしましょう。(ライター:haruhana)

 …と、こんな記載がありました。
 〝タコ〟は英語で〝octopus〟ですから、『置くとパス』には、チト苦笑(^-^;
 国道2号線手前から地下道を抜け、西方に出ますと、スグに三原港です。三原港湾ビルの入口付近に、今回の〝さぎしま一周ウォーク〟の受付が(^-^)
 受付で、参加費2,000円を支払い「さぎしまウォーキングガイド」「さぎしまガイドマップ」「磨崖和霊石地蔵」…等のパンフレットを頂き、「本日の参加者数は?」とお尋ねしますと、「22名です…」との事でありました。
 それでは、高速船の乗船券を求めて自販機に(^-^)//"

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本日午後の福山市、激しい雷雨と突然の雹…恐かったですネ(^-^;

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 本日・午前中の10時前から、畑の一角にあります高くなり過ぎましたグミの木の枝を、伐採と言うか剪定のGONsanでした。
 グミの木は、多分、2m程度の高さがイィのでしょうけど、そこまで短くしようとしますと大変ですので、可能な限り剪定のGONsan。
 3m程度の高さまで切りましたので、今回は、ここまで(^-^)
 時間を確認しますと、12:30でしたから、ランチタイムとなりました。
 昼食後には、暫し、国会中継でテレビを前となりましたが、昼食時に、テレビ画面に『福山市に雷雨・竜巻・雹』の注意情報のテロップが(^-^;
 その時点で空を見上げますと、まだ晴天ですから、引き続き国会中継に眼を向けておりました。
 そぅしていますと、P.M.2:30頃でしたか…次第に空が暗くなり、今にも雷雨が始まりそうな気配です。
 急いで気象情報を確認しますと、

 ◆広島県竜巻注意情報 第5号

 --- 2023年10月27日 午後1時40分 気象庁発表 ---

 【目撃情報あり】
 広島県南部で竜巻などの激しい突風が発生したとみられます。広島県南部、北部は、竜巻などの激しい突風が発生するおそれが非常に高まっています。空の様子に注意してください。雷や急な風の変化など積乱雲が近づく兆しがある場合には、頑丈な建物内に移動するなど、安全確保に努めてください。落雷、ひょう、急な強い雨にも注意してください。

 【注意情報対象地域】
 広島市中区、広島市東区、広島市南区、広島市西区、広島市安佐南区、広島市安佐北区、広島市安芸区、広島市佐伯区、呉市、竹原市、三原市、尾道市、福山市、府中市、三次市、庄原市、大竹市、東広島市、廿日市市、安芸高田市、江田島市、府中町、海田町、熊野町、坂町、安芸太田町、北広島町、大崎上島町、世羅町、神石高原町

 この情報は10月27日14時50分まで有効です。(共同通信社)

 …と、こんな注意報ですからもぅビックリ。
 グミの木の枝切りをし、午後、もぅ少し小さく切り、米袋に詰め、ゴミ出しの準備しようと放ったままでしたから、急いで後片付けに追われていますと、降雨開始です。
 雨足は次第に激しくなり雷も(^-^;
 もぅ激しい雷雨開始で、久々に外にいますのが恐いのなんの(^-^;
 おまけに、風も強風。
 急いで軒下に逃げ込みましたけど、もの凄い雷の音、そして激しい降雨と強風。おまけに、雹まで落ちて来ましたから、もぅお手上げ。
 雹はスグに止みましたけど、雷雨は当分続いておりました。稲光と同時に激しい雷音ですから、これが結構恐いです(^-^;
 こんな状態が1時間近く続きましたでしょうか…雷雨が治まり空も明るくなりますと、ヤレヤレでしたネ(^-^)

 空模様も落ち着きましたので、外に出ますと、また晴れ間が(^-^)
 せっかく切りました枝も濡れていますので、米袋への詰め込みは、明日に延期です。
 WEB上で、福山市周辺の状況を確認してみましたら、こんな記載が…

 ◆【動画で見る】激しい雷雨に雹(ひょう)も…大気の状態が非常に不安定 午後もあちこちで 広島県に「竜巻注意情報」も発表

 --- 2023/10/27(金) 12:19配信 RCC中国放送 ---

 上空にこの時期としては強い寒気を伴う気圧の谷が通過しているため、広島県内は大気の状態が非常に不安定となり、あちこちで雷雨となっています。
 また内陸部を中心にあちこちで雹(ひょう)が降っています。RCCに視聴者から寄せられた画像でも、家の庭先が雹で白くなっている様子が確認できます。
 また、動画で紹介している雹は北広島町芸北地区で撮影されたものです。
 ビー玉サイズの雹が降って辺り一面が白くなっている様子がわかります。
 先ほど、広島地方気象台は広島県北部に加えて南部にも「竜巻注意情報」を発表しました。
 夕方にかけて発達した積乱雲が流れこみ、局地的に突風が吹いたり急な雷雨となったりするおそれがあります。空の変化に注意して、発達した雲が近づいてきた場合は屋内で過ごすなどしてください。レーダーなどをうまく活用してください。

 ◆広島で竜巻目撃情報 関東の平野部でもカミナリ 大気の状態不安定で急な雨・落雷注意

 --- tenki.jp ---

 きょう27日は全国的に大気の状態が非常に不安定となっていて、広島県福山市では竜巻などの激しい突風が発生したとみられます。関東の平野部でも落雷が観測されていて、このあとも急な強い雨や落雷などに注意が必要です。

 ◇広島で竜巻目撃情報

 日本付近の上空には、上空約5,500メートルでマイナス21℃以下のこの時期としては強い寒気が流れ込んでいます。北日本から西日本にかけて広く大気の状態が非常に不安定になっていて、あちらこちらで雨雲が湧いています。特に北陸や近畿、中国地方、九州では、局地的にカミナリを伴って雨脚が強まっています。
 広島県福山市神村町では、午後0時52分ごろ、竜巻などの激しい突風が発生したとみられます。
 石川県輪島市では午前10時36分までの1時間に57.0ミリの非常に強い雨を観測し、午後2時30分現在、輪島市に土砂災害警戒情報が発表されています。
 また、鹿児島県阿久根市では、午後0時46分までの1時間に32.5ミリの激しい雨を観測しました。

 ◇関東の平野部でも落雷 今夜も大気の状態不安定

 午後になって、関東地方の平野部でも局地的に雨雲やカミナリ雲が湧いてきています。午後2時30分現在、千葉県や茨城県の一部で落雷を観測しています。また、東京都や埼玉県、栃木県でも雨雲がかかっています。
 このあとも、北日本から西日本の広い範囲で大気の非常に不安定な状態が続く見通しで、このあとはさらにあちらこちらで急な雨や雷雨がありそうです。

 …と、こんな記載で、夕方のニュースでも報道されておりましたけど、福山市神村町では〝竜巻などの激しい突風〟が発生しましたようです。
 県立松永高校の体育祭では、観客の女性が、飛ばされたテントで負傷されましたようであります。
 幸いに、我が家周辺では、特に被害も無かったようですけど、激しい雷雨に怖さを感じましたのは、何年振りになりますでしょうか…ピカッと光って、間髪入れず激しい雷音ですから、外におりましただけに、本当に恐かったですねぇ~

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先日・日曜日(9/17)に放映の〝元就〟で山野町が…イィとこですネ(^.-)☆

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 先日・日曜日(9/17)、テレビを前にしますと、RCCの〝元就〟を放映中。丁度、始まったばかりで興味深く視聴です(^.-)☆
 ふ~ん、「やまごん出没の地点」ですか(^-^)懐かしいですねぇ~1980年頃ですから、既に43年ばかり昔の事となってしまいましたけど、ここに〝やまごん〟が出没しましたのが、当時の「ヒバゴン」と同一の〝謎の類人猿〟として随分話題になりましたけど、以降は、〝ヒバゴン〟も〝やまごん〟も目撃されておりませんから、既に亡くなりましたのかも(^-^)
 番組では、最初に「山野峡大田ワイナリー」が登場です。こちらのワインは、〝G7広島サミット2023〟でG7首脳や代表団に提供され、一躍、話題となりましたネ(^_^)v

 ◆ヒバゴン

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ヒバゴンは、日本に生息すると言われている、類人猿型の未確認動物のひとつ。1970年代に、広島県比婆郡西城町油木・比婆郡比和町・庄原市(2023年現在は市町村合併により全域が庄原市)の中国山地にある比婆山連峰において目撃された。また、類似する個体が北海道旭川市でも目撃されている。
 ヒバゴンの名称は比婆山(ひばやま)からきている。中国新聞庄原市局長の宮尾英夫が命名した。

 ・特徴
 類人猿型であり、二足歩行が可能である。
 体中が黒もしくは濃い茶色の毛で覆われている。
 尻の左半分の毛が白がかっている。またサルのようなタコ(尻の毛の生えていない部分)が無かったという。
 顔は逆三角形と報告されている。
 目はギョロ目で大きくつりあがっている。
 背丈は1.5m程度と小柄な大人くらい。ずんぐりむっくりしている。
 体格から推定される体重は85kg程度。
 足のサイズは27cm程度。
 目撃された個体は単一らしく、片足を引きずっていた。
 歩く際に、鳴き声と思われる音を発する事がある。
 イルカのような鳴き声。

 ・目撃史
 1970年(昭和45年)7月20日:油木地区のダム付近をトラックで走行中の男性が、道路を横切り林の中に消えた怪物を目撃。姿形はゴリラに似て、子牛ほどの大きさがあったという。
 1970年(昭和45年)7月23日:同地区の農家に住む男性が、大人の背丈ほどの全身が黒い毛で覆われ、頭部が異様に大きく、顔は人間に似ている怪物と遭遇。以後、ダムを中心に3キロ四方で同様の怪物の目撃例があいつぐ。
 1970年(昭和45年)12月:吾妻山で、雪原に怪物のものとみられる足跡が発見される。12月だけでも合計12件の目撃報告があった。
 1974年(昭和49年)6月20日:庄原市川北町須川の市町境に位置する山間の道で、全身毛むくじゃらで身長1.6メートルほどの怪物を男性が目撃。胴は人間の2倍ほどもあり、怪物は男性の乗った車にびっくりしたような仕草で、林に姿を消した。
 1974年(昭和49年)7月15日:比和町で、女性が自宅の目の前を通っている県道に茶色の体毛の、足は人間のような1.6メートルの「大ザル」が立っているのを目撃。歩き方もサルそっくりだったといい、女性はヒバゴンを「年をとった大ザル」と思ったという。
 1974年(昭和49年)8月15日:庄原市濁川町で目撃された際、写真撮影に成功したとされる。撮影した男性は、県道付近で道路の真ん中あたりで四つ足になったり、二本足で立ったりして歩いている怪物を目撃。車で近づくと怪物は山の中の柿の木に飛びつき、その瞬間を撮影した。怪物は約1.5メートル、全身ネズミ色の毛で覆われており、首の周りは白かった。怪物は山に逃げる際に近くの田んぼに「足跡」を残していた。ただし、写真は不鮮明で、専門家はサルかクマではないかとコメント。ヒバゴンの目撃者も写真の生物について「(写真に写っているのは)ヒバゴンではない。サルだ」と否定的であった。
 1974年(昭和49年)10月11日:写真が撮られた現場近くの濁川町の県道で目撃された。これを最後にヒバゴンの目撃報告は途絶えてる。

 ◇ヤマゴン

 1980年(昭和55年)10月20日午前6時40分頃、広島県福山市山野町田原の県道において、農作業を終えた男性が乗用車で帰宅中に身長1.5メートル、黒色の顔で腹部を除いて全身灰褐色の毛で覆われたゴリラのような怪物と遭遇した。怪物は山に逃げる際、四つ足になり5メートル下の原谷川の土手をすべり降り、川を膝までつかりながらものすごいスピードで渡りきり、川から上がるとサルのように木々をつたいながら山中に消えていったという。
 1981年(昭和56年)には山野町田原のヘルスセンター前の県道で30センチほどの「足跡」が見つかっている。1980年の目撃よりも4年前に地元のタクシー運転手が怪物を目撃しており、当時は注目されず地元紙に小さく載るだけであったが、山野町は一連の目撃証言と足跡発見に「観光資源」として注目。ヒバゴンに倣い「ヤマゴン」と命名した。
 ヤマゴンについては比婆山にいたヒバゴンと同一個体であり、比婆から山野町まで移動したのでは?とも推測された。実際、最初の目撃者が記憶を元に描いたヤマゴンのスケッチをヒバゴンの目撃者に見せたところヒバゴンと同じであると答えたとされる。ヤマゴンもヒバゴン同様、1980年の目撃を最後に消息は途絶えている。

 福山市山野町…イィところですねぇ~
 そぅそぅ、番組内に出て来ました山野町に設置されました周辺を案内します観光マップ、この地名が一部誤記入で、「誤:鳥串」→「正:島串」に訂正されないまま現在に至っていますのが、これまたイィですねぇ(^-^)//"

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7/22(土)は「ダム探検ツアー」に応募し、孫達と灰塚ダムを見学でした(^.-)☆(08)

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 気泡が発生しています所が〝曝気設備〟ですネ。ハイヅカ湖の水を循環させて水質を守っているとの事。
 ダムの内部見学でも、湖からのダム見学でも、孫達は担当者の方の説明に興味深く耳を傾けておりましたけど、ボート上からの見学の方が楽しかったのかも…
 ダム湖巡視を終えスタート地点へとボートが戻っておりますと、湖上では、お二人の男性が釣りを楽しんでおられます。
 ダムや湖では、こんなボートをよく見掛けます。イスに腰掛け、移動時には足で漕いで進んでおられます。こんなプレジャーボートは、何と言うのでしょうネ(^-^)//"

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7/22(土)は「ダム探検ツアー」に応募し、孫達と灰塚ダムを見学でした(^.-)☆(07)

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 ダムに近付きますのには、この流木等のゴミ進入防止柵の真ん中辺りから入りますけど、開閉は、ボートの船首部分で押して入るようですネ(^.-)☆
 この小さなボートがヤッと通れます幅でありました(^-^)

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7/22(土)は「ダム探検ツアー」に応募し、孫達と灰塚ダムを見学でした(^.-)☆(06)

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 ダム内部の見学を終えますと、次は、場所を移動し、11:00からの〝ハイヅカ湖上巡視体験〟です。
 灰塚ダムまでヤッて来ました道を2.6kmばかり戻りまして〝才ノ峠広場〟へと向かいます。車で約5分の所要時間でありました。
 〝才ノ峠広場〟へ到着しまして湖畔に下ります道を、そのまま車で下りて行きますと駐車場が整備されてありました。
 そこにはテントを設置し、受付が…
 当初、「ダム探検ツアー」に応募時には、きっと多くの方達が訪れるものと思っておりましたが、意外に参加者は少なく、到着し受付を済ませますと早速乗船です。
 出航しますと、スグにハイヅカ湖の開けた場所中央部に噴水が…
 この噴水は、ボートの船頭sanのお話しによりますと、貰いましたパンフレットにも記載がありましたけど、

 ◆貯水池の水質を守るために、こんなことをしています
 ダムの底から気泡を発生させたり、水を打ち上げたりする事で、ハイヅカ湖の水を循環させて、アオコの原因となる植物プランクトンが異常発生する事を抑えるように努力しています。

 …との事でありました(^.-)☆

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7/22(土)は「ダム探検ツアー」に応募し、孫達と灰塚ダムを見学でした(^.-)☆(05)

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 色々と見学して来まして、ヤッて来ましたのが〝環境用水放流設備〟です。
 パンフレットによりますと、

 ◆灰塚ダムの放流設備

 洪水の時に水を流す「洪水吐」とダム下流の川の環境を守るために使う「環境用水放流設備」と「選択取水設備」があります。

 ・常用洪水吐
 ゲートは無くいつも穴は開きっぱなしですが、ダムに入って来る水の量よりも少ない量を流すようになっています。このような洪水の調整の方法を「自然調節方式」と言います。

 ・環境用水放流設備
 ダムによる河川環境への影響を出来るだけ少なくするための放流を行う設備です。春先や洪水の後などに一時的に流す水の量を増やして、川底に溜まった砂を流したり、石についたコケを洗い流すことで、アユが食べる新しいコケを作り出します。

 …との事で、先ほどダムを正面に見上げました際に、ダムの中央の上側が〝常用洪水吐〟で、その下側の中央に位置しますのが、今、私たちがいます〝環境用水放流設備〟であります。

 ◆灰塚ダム<3/3>

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ・目的

 ダムの目的は洪水調節、不特定利水、上水道供給の三つである。
 洪水調節については土師ダムと共に「江の川上流ダム群」として上下川の計画高水流量(計画限界の洪水流量)を百年に一度の基準で計画し、毎秒1,150トンの流量をダムによって毎秒400トンに軽減(毎秒750トンのカット)させる。そして土師ダムや堤防整備と併せることで江の川本流の洪水量を島根県江津市において毎秒10,700トン(毎秒3,500トンのカット)に減らす。
 不特定利水については、上下川・馬洗川・江の川流域の農地へ供給する慣行水利権分の農業用水を安定して供給するほか、3河川の河川環境を保全させるための流量維持を図る。1997年(平成9年)に河川法が改正され、「河川環境の維持」が治水・利水に並ぶ重要な法目的に掲げられた。これ以降全国のダムに環境維持のための放流設備が設置されたが、灰塚ダムの場合は河川環境維持専用のゲートがダム中央部に設置された。定期的にフラッシュ放流を実施し人工的に洪水を起こし、河川に固着する藻などを洗い流し渕や瀬を維持させることで河川環境を自然の状態に維持させることを目的としており、主要放流設備として設置されるのは全国でも珍しい。
 上水道供給は三次市と庄原市を対象地域とし、それぞれ日量10,000トンと日量5,000トンを供給する。これらの目的により三次市を洪水から守り、渇水に耐えられる上水道を供給する。そして以前は流量が不安定だった上下川や馬洗川の水量を維持し、河川生態系と河川環境を保全する重要な役割を担っている。

 ・ハイヅカ湖

 ダム湖であるハイヅカ湖は一般公募によって決められた名称である。ダム湖がカタカナ表記であるのは、アイヌ語が湖名に付けられる北海道を除けば全国でハイヅカ湖ほか数箇所だけであり、極めて珍しい。試験的に貯水を行う試験湛水中、満水となってダムの非常用洪水吐きから一斉に放流された際には、わずか一週間という短い間に県内外から二万人もの観光客が訪れている。
 ハイヅカ湖には二箇所の小堰堤が設けられている。一つは上下川に建設された知和堰堤、もう一つは田総川に建設された川井堰堤である。川井堰堤は台形CSGダムで建設されている。これら二つの小堰堤の目的はダムの宿命でもある堆砂の防除に加え、ダム湖上流部の水量を貯水で維持させることで湖岸の乾燥化を防止するという目的を持っている。特に知和堰堤上流には「知和地区環境総合整備計画」に基づき知和ウェットランドが建設された。
 これは知和堰堤によって形成された水域を利用して湿地や水辺を人工的に整備し、両生類・昆虫・水生植物の生育を促すという目的で建設された。ダム周辺の環境整備の一環であり、併せて鳥類の飛来を促して新たなる自然環境を創造することを最終目標とした。その効果は既に建設中よりあらわれ国の特別天然記念物で絶滅危惧種であるコウノトリが飛来した。二年連続で飛来したが何れも別の個体であったことが判明している。現在はバードウォッチング用の観察小屋などが整備されている。
 このほか湖畔には水際まで下りて遊べる才の峠広場や日本モーターサイクルスポーツ協会の認定コースにもなっている灰塚ダムトライアルパーク、きさ安田パークゴルフ場、田総の里スポーツ広場といったレクリェーション施設、3,000本のモミジが植えられたモミジ山や大谷植物園もある。ダム本体も開放されており、直下流の灰塚ダム記念公園からエレベーターでダム頂上まで行くことが出来る。なお、エレベーターに通じるトンネルは、治安対策の観点から常時広島FMが放送されている。

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7/22(土)は「ダム探検ツアー」に応募し、孫達と灰塚ダムを見学でした(^.-)☆(04)

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 ダム下を見学後には、展示ギャラリーを眺めながらダムの内部に戻ります。

 ◆灰塚ダム<2/3>

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ・補償

 灰塚ダムは1965年よりダム建設に必要な情報を収集するための予備調査が開始されたが、ダム計画が知られてすぐに地元三良坂町・吉舎町・総領町の住民が猛烈な反対運動を繰り広げた。蜂の巣城紛争や八ッ場ダム(吾妻川・群馬県)、大滝ダム(紀の川・奈良県)に匹敵する激しい反対運動により、ダムは予備調査から完成まで41年の長い年月を費やした。日本の長期化ダム事業の一つである。

 ・猛烈な反対運動

 1965年4月に建設省は予備調査を開始したが、ダム建設によって332戸の住居と177haの農地が水没することから水没予定地の灰塚地区を中心にたちまち反対運動が持ち上がり、同年9月5日に「灰塚ダム反対期成同盟会」が結成された。「同盟会」はその後吉舎町や総領町の住民が加わり拡大、翌1966年9月2日には「灰塚ダム建設反対同盟会」と改組された。こうした地元住民と軌を一にして三良坂町などの町議会もダム建設反対決議を採択し、建設省との全面対決姿勢を露にした。
 この間建設省はダム地点の調査はおろか、地元に全く足を踏み入れられない状況となった。1972年7月豪雨による三次市の大水害、それに続く江の川水系工事実施基本計画策定によって灰塚ダムは正式な事業となったが地元町議会と水没予定地の住民はダム建設反対の意思を変えず、1974年の実施計画調査(ダムの型式や規模を決めるための諸調査)にも反対決議を採択して建設省との交渉を拒絶した。この後建設省は地元に入ることが許されないまま、1981年(昭和56年)までの7年間完全なこう着状態が続いた。なお、同時期に着手された江の川本流の土師ダムは実施計画調査から補償交渉、本体工事、そして完成といった全ての段階を灰塚ダムの予備調査期間内に済ませている。

 ・運動の転機~代替地~

 こう着状態が約7年続き、地元広島県も事業の停滞を懸念して仲介に乗り出した。1982年(昭和57年)には当時の広島県知事がダム予定地に赴いて現地視察を行い、広島県庁にダム対策班を設置して交渉の落とし所を探る一方、建設省と三良坂町など地元との間の仲裁を図った。これ以降三良坂町なども態度を軟化させ、ダム対策特別委員会を設置して水没住民の意向調査を行うなどした。その中で1983年(昭和58年)に三良坂町が水没住民に対し、ダム湖畔に代替住宅地を提供する案を呈示したことにより、膠着していた事業が動き出した。
 代替住宅地による補償とは、集落をダム近くの土地に丸ごと移転させ、コミュニティの維持を図る補償方式である。当然土地・住宅は補償の一環として提供される。特に大規模なダム事業で実施されることが多く、井川ダム(大井川・静岡県)・宮ヶ瀬ダム(中津川・神奈川県)・徳山ダム(揖斐川・岐阜県)などで実施されている。広島県内では温井ダム(滝山川)で施工が開始されていた。灰塚ダムでも複数の候補地を選定してここに住民を集団移転させることで、故郷を遠く離れず生活再建を行うことが出来る対策を呈示したことで住民も対応を軟化。1984年(昭和59年)実に10年目にして実施計画調査が着手され、翌1985年(昭和60年)には「同盟会」は「灰塚ダム建設対策同盟会」と改組され、将来の生活再建に向けた真剣な話し合いが建設省と行われた。

 ・生活再建へ

 1988年(昭和63年)に「生活再建地事業の基本方針」が住民に提案され、翌1989年(平成元年)に事業は発足した。これは三良坂町に灰塚生活再建地(のぞみが丘)、吉舎町に安田生活再建地(ひまわり)、総領町に稲草生活再建地(田総の里)を建設して水没住民を集団移転させるという大造成計画である。1991年(平成3年)には水源地域対策特別措置法(水特法)の対象となり、灰塚ダムは水没戸数や面積が特に大きいことから補償金額のかさ上げや生活再建への優遇措置が図られる「法九条等指定ダム」に指定された。こうしたソフト&ハードの整備により、1992年(平成4年)11月24日に「同盟会」との補償交渉が妥結した。
 1993年(平成5年)にのぞみが丘の開村式が行われ、翌1994年(平成6年)までにひまわり・田総の里も完成。湖畔に三箇所の代替住宅地が整備された。水没戸数332戸の内、のぞみが丘に142戸、ひまわりに13戸、田総の里に39戸、その他13戸と合計207戸がダム周辺に定住し新生活の第一歩を踏み出した。最大の代替地であるのぞみが丘には小学校や寺社も移転したが、地元で「えみきのじいさん」と呼ばれる樹齢500年にもなるムクノキも一緒に移植された。
 最後まで交渉が難航した江の川漁業協同組合と田総川漁業協同組合による漁業権補償は1999年(平成11年)妥結し2001年(平成13年)より本体工事が開始され、試験湛水を経て2006年(平成18年)11月18日に全事業が竣工。計画発表から41年に及ぶダム事業の長い歴史は完結した。竣工式には地権者240名も参加している。

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7/22(土)は「ダム探検ツアー」に応募し、孫達と灰塚ダムを見学でした(^.-)☆(03)

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 ダム湖(ハイヅカ湖)を見下ろしますと、ボートが2隻。11:00からの〝ダム湖巡視体験〟では、GONsan達もこのボートでダム湖巡視体験ですネ。
 定刻に〝ダム探検ツアー〟がスタートです。 この時間の参加者は、GONsan達ともぅ一家族(ご夫婦とお子様)の総勢8名でありました。
 ダムの中央にあります建物の中に入りますと、エレベーターでダム下へ。まずは、下からダムを見学です。

 ◆灰塚ダム<1/3>

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 灰塚ダム(はいづかダム)は、広島県三次市、一級河川・江の川水系上下川に建設されたダムである。
 国土交通省中国地方整備局が管理する高さ50.0mの重力式コンクリートダムで、上下川及び合流先の馬洗川(ばせんがわ)・江の川の治水と三次市への上水道供給を目的とした特定多目的ダムである。ダムによって形成された人造湖はハイヅカ湖と命名された。

 ・地理

 上下川は江の川の主要な支流である馬洗川に合流する河川である。石見銀山街道の宿場町で、古い町並みで有名な上下付近を水源として北西に流路をとり、ハイヅカ湖で田総川を併せてダム地点を通過し、馬洗川に合流する。馬洗川はその後三次市中心部において庄原市より流れ来る西城川を合わせると直ぐに江の川に合流する。ダムは上下川と馬洗川の合流点からすぐ上流に建設された。
 建設当初の所在地は双三郡(ふたみぐん)三良坂町であったが、平成の大合併によって三次市三良坂町となった。またハイヅカ湖は三次市吉舎町と庄原市総領町にまたがるが、これらの地域も平成の大合併以前はそれぞれ双三郡吉舎町と甲奴郡(こうぬぐん)総領町であった。ダム名の由来は水没地域の中心地であった「灰塚」地区に因んでいる。

 ・沿革

 「中国太郎」と呼ばれ、中国地方最大の河川である江の川は流域の大部分が山地であり、平地は三次盆地や河口部の江津市などわずかであった。そのわずかな平地に耕地が開発され、人口が集中していった。特に三次盆地は備後北部の交通の要衝であり、江戸時代には広島藩の支藩である三次藩も置かれた。五万石の城下町として発展をしていた三次市であるが、大雨の際には度々洪水による被害を受けていた。これは三次盆地の地形的要因によるものが大きい。
 三次盆地は江の川とその支流が一同に合わさる土地である。西南方向から江の川が流れ、ヘアピン状に大きく蛇行して西方向へ流路を変える。このヘアピン状の蛇行部に向かって北から神野瀬川、東から馬洗川が合流する。さらに馬洗川には江の川の合流直前に西城川が合わさる。
 このようにして三次盆地に中国山地南部・東部・北部の三方向から一斉に河川が合流する上に合流後は急激に川幅が狭くなることから、大雨が一旦降れば一挙に濁流が三次盆地に押し寄せ、盆地はさながら湖のような惨状となる。こうした江の川の治水を図るため、1953年(昭和28年)から建設省中国地方建設局(現・国土交通省中国地方整備局)は堤防建設を主体とした河川改修を直轄で実施した。だが1965年(昭和40年)6月~7月に掛けて江の川は二度にわたる大洪水をひき起こし、三次市を始め流域に大きな被害を与えた。
 この洪水を機に、江の川の治水を万全なものとするために建設省は江の川本流、高田郡八千代町(現・安芸高田市)に土師ダムの建設を1966年(昭和41年)より開始した。三次市までの洪水調節を図り、堤防整備などと併せて江の川下流の洪水流量を軽減しようとした。ところが1972年(昭和47年)7月、中国地方全域の河川を暴れさせた「昭和47年7月豪雨」は江の川流域、特に三次市に過去最悪の被害を与えた。馬洗川の堤防が決壊して中国山地北東部に降った雨が一挙に三次市内に流れ込み14,000戸が床上・床下浸水の被害を受け、22人の尊い人命が失われた。このため江の川本流のみならず、上流部最大の支流である馬洗川流域における根本的な治水対策が求められた。
 一方、三次市や庄原市は古くから人口の密集する地域であったが、上水道は地下水や江の川からの直接取水によって賄われていた。だが次第に人口増加によって需給のバランスが崩れ、渇水になると容易に水不足に陥った。土師ダムは広島市への上水道供給を目的としており、江の川から新たに水を取水するのは慣行水利権の関係上不可能であった。その慣行水利権者である流域の農家も、渇水期には必要な取水量が確保できず農業も深刻な被害を受けていた。こうした観点から水資源供給の整備も不可欠となった。
 以上の理由から土師ダムに続く江の川水系の河川総合開発事業が計画され、1973年(昭和48年)に策定された「江の川水系工事実施基本計画」において馬洗川流域の多目的ダム計画が正式な事業として採択された。これが灰塚ダムであり、「江の川総合開発事業」として1974年(昭和49年)より事業が着手された。

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7/22(土)は「ダム探検ツアー」に応募し、孫達と灰塚ダムを見学でした(^.-)☆(02)

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 とりあえず、受付を済ませますと、灰塚ダムのパンフレットを貰いましたので、探検ツアー開始までの待機時間を利用し、まずは事前勉強です(^-^)
 そして、管理支所周辺をブラブラと…
 この灰塚ダム建設で、200戸ばかりのお宅が転居を余儀なくされましたのでしょうけど、嫁さんの学生時代の旧友が、ダム建設で近隣の高台へ転居。
 そして、もぅ何年前になりますでしょうか…毎年届きます賀状の住所が〝三次市三良坂町灰塚…〟に変わっておりました。ご両親が高齢に向かい、郷里に帰られましたのでしょうネ…
 ダム建設に伴います転居は200戸と聴いておりましたけど、このパンフレットでは〝332戸〟と記載されておりました。この方々は、新たに整備されました三つの地域に転居されましたようですネ…
 当時の様子を想像しながら想いを馳せ、眼に入ります景観にカメラを向けますGONsanなのでありました(^-^)//"

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7/22(土)は、「ダム探検ツアー」に応募し、孫達と灰塚ダムを見学でした(^.-)☆(01)

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 7/17(月)の中国新聞朝刊に「灰塚ダムを見学しよう」の記事掲載が。
 申し込みは無料で先着順との事ですから、とりあえず〝GONsan・嫁さん・孫達2人・母親〟の5名で申込用紙を送信で参加確定。
 後は、孫達親子が行くかどぅか…
 嫁さんに、「孫達、行くかなぁ~」と尋ねますと、「暑いから私も気乗りしないし、孫達家族も行かないのでは…」と、冷たいお言葉。で、孫達に連絡しますと「気乗りしないけど、婆ちゃんも行くのなら行ってもイィ」と、可愛くない返事が(^-^;
 「爺ちゃんが行くのなら、行ってもイィよ」でしたら可愛いぃのですけど、結局、母子3名は、家でゴロゴロしてるよりイィかも…と、気乗りしないまま行く事とはなりました(^-^)
 で、当日は、A.M.8:00に我が家を出まして孫達を迎えに行き、一路、灰塚ダムへ。
 所要時間は1時間半を予測しておりましたけど、灰塚ダム管理支所西側の駐車場到着は、A.M.09:13でありました。ふ~ん、意外と早く到着ですネ(^.-)☆
 GONsan達の見学時間は、〝灰塚ダム探検ツアー:10:00~〟〝ダム湖巡視体験:11:00~〟ですから、今から30分少々待機です。
 ダム下を覗いてみましたら、9:00にスタートされた方達が歩いておられましたネ(^-^)//"

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興味なさそうな孫達を連れて、7/22(土)は、灰塚ダム行きとなりました(^.-)☆

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 7/17付け中国新聞朝刊の〝灰塚ダム見学〟記事掲載で、早速、翌日には見学申込手続きを終えましたGONsanです。が、孫達が喜んで行きますかどぅか…これが問題。
 申し込み後、母親に電話し、孫達の意向を依頼。
 翌日、確認しますと、弟の方は「行ってもイィけど…」で、姉の方は関心無さそうですけど「婆ちゃんも行くのなら、行ってもイィ」との事で、どぅにか、GONsan・嫁さん・母親・孫2人の5人で出掛ける事とはなりました。
 それにしましても、ダム見学の機会は、そぅ何度もあります訳でも無いのに、孫達2人の関心の低さには少々ガッカリ。ダムまでの道中で、シッカリ教育しておかなくちゃあ(^-^)
 とは言いましても、嫁さんも、母親も、どぅでも良さそうな反応ですから、内心困惑のGONsan(^-^;
 結局、GONsan独りのみが、〝行きたい派〟のようですねぇ~
 現地に到着し、いざ見学がスタートしますと、多少は、ダムへの関心度が変化しますかも…是非、そぅであって欲しいものですけど、さて、どぅなんでしょうねぇ(^-^)//"

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中国新聞販売所sanから〝みろくの里チケット〟ゲット(^.-)☆

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 先月のいつでしたか…中国新聞折り込みチラシの中に、こんなご案内が(^-^)
 〝みろくの里チケットプレゼント!!〟のご案内で、抽選では無く『先着順』との事ですから、即時、E-mailで応募のGONsan。
 応募締め切りは「7月9日(日)」でしたけど、本日、早速、郵便受けに入っておりましたネ(^.-)☆
 今日は新聞の休刊日にも拘わらず、わざわざ応募先に本日配布されましたのでしょうねぇ(^_^)v
 せっかくのプレゼントですから、早速、孫達に届けようかと(^-^)
 でも、孫達一家は、みろくの里の年間パスポートを持っていますのかも…それとも、ここ2~3年はコロナ禍でしたし、それに、もぅ高学年ですから〝みろくの里〟とは疎遠になっていますかも…さて、どぅなんでしょうねぇ~
 とりあえず、孫達に確認してみます事に。
 もし、孫達が年間パスポートを持っており不要のようでしたら、久し振りにGONsanが出掛けてみますのもイイかも(^-^)//"

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(19)

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 これらは、備陽史探訪の会より頂きました当日の資料です(^.-)☆

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(18)

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 「史跡・寄倉岩陰遺跡」の見学を終えますと、本日の行程は凡てオシマイです。後は、バスに乗って帰るのみ。
 帰路では、トイレ休憩で「『道の駅』遊YOUさろん東城」に立ち寄りです。
 ここでは、ニコニコ観光㈱sanより、『やっぱ広島じゃ割・地域観光支援割クーポン』のクーポン券が、一人当たり2枚(2,000円)配布されておりましたので、GONsanもこれを使用して、何かお土産を求めます事に(^.-)☆
 今まで、嫁さんを放って独りでアチコチ出掛けていますGONsanではありますが、お土産を手にしての帰宅は一度も無かったなぁ(^-^;
 でも、今回は、初めてお土産が\(^o^)/
 それに、唐櫃古墳を訪れました際に、農家で頂いた「カボチャ」もありますし(^_^)v
 コロナ禍と言う事もありますし、備陽史探訪の会の「バス例会」には久し振りに参加のGONsan。確か、前回は昨年の9月に参加して以来でしたような…約1年振りの参加となりましたけど、それなりに楽しい探訪でありました。
 来年もまた、日程を考慮しながら、バス例会に参加してみようかと(^-^)//"

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(17)

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 上帝釈の駐車場に到着しますと、紅葉を求めて帝釈峡をされます大勢の観光客の皆様が(^.-)☆
 大概の方々は、「白雲洞」・「雄橋」に向かわれますけど、GONsan達は、白雲洞への遊歩道入口を『← 史跡 寄倉岩陰遺跡 0.2km』の標識に従い左折です(^.-)☆
 寄倉岩陰遺跡への案内標識と一緒に、「管釣り LURE FISHING SHOP、HANDMADE LURE & ROD、Ryo Lure Craft、Fishing Area TAISYAKU」の案内表示も…
 『管釣り』とは、何なんでしょう?…ふ~ん、「管釣り=管理釣り場」との事ですけど、GONsanには『管理釣り場』と言われましても意味不明(^-^;
 そのような事はさて置きまして、「管理釣り場」を横目に進んで行きますと、程なく『史跡 寄倉岩陰遺跡』に到着となりました。

 到着しますと、まず眼に入りますのが、大きな「寄倉岩陰遺跡」の説明板であります。
 この説明板には、こんな記載が…

 ◆史跡 寄倉岩陰遺跡

 この遺跡は、帝釈川北岸の山麓の石灰岩の岩陰に位置する。遺跡の規模は、岩陰に沿って幅30m、奥行15m以上に及ぶものと推定される。昭和38年から41年にかけての発掘調査により、縄文時代より鎌倉時代にわたる多量の遺物を含む文化層が厚く堆積することが明らかとなった。とくに、縄文時代の遺物包含層はきわめて厚く、晩期(今から約2,500年前)から早期(今から約12,000年前)にいたる各種の遺物が順次堆積している。また、縄文時代後期から晩期ごろと思われる人骨も多数出土しており、その埋葬法もきわめて特異である。この遺跡は包含層の一部を完掘せずに保存区として残しており、エポキシ樹脂を注入し硬化させ、更に正面部分のみを残し埋め戻している。
 大規模な岩陰遺跡として、とくに縄文時代全般の推移をうかがい得る点で学術上きわめて価値が高い。

 …と、こんな記載がありました。
 WEB上で「史跡・寄倉岩陰遺跡」を検索してみますと、こんな記載もありました。

 ◆広島県の文化財 - 寄倉岩陰遺跡

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-106120090.html ---

 【解説】
 帝釈峡の石灰岩地帯では、昭和36年(1961)の調査以降石器時代の岩陰・洞窟遺跡が多数分布することが明らかとなった。なかでも寄倉岩陰遺跡は、帝釈始終地区の東端、帝釈川左岸に位置し、西面した石灰岩の岩陰にそって、長さ30m、幅15m以上の規模をなしている。縄文時代から鎌倉時代(1192~1332)にわたる遺物を出土しているが、とくに縄文時代(紀元前約1万年前~紀元前300年頃)の文化層が厚く、縄文時代早期から晩期にいたる各種の遺物が、きちんとした層序をなして出土しており、中四国地方の縄文土器編年の基準となる重要な遺跡である。縄文時代後期末から晩期にかけての文化層では、約50体にのぼる人骨が集積された状態で検出されている。

 ◆寄倉岩陰遺跡(よせくらいわかげいせき)

 広島県庄原市東城町
 指定年月日:1969/04/12

 ・史跡名勝天然記念物
 帝釈川北岸の山麓にある石灰岩の岩陰にそって全長30メートル、幅15メートル以上におよぶ岩陰遺跡である。繩文時代から鎌倉時代にわたる多量の遺物が堆積しているが、とくに繩文時代の遺物包含層はきわめて厚く、早期より晩期にいたる各種の遺物が順次堆積している。また、繩文時代後期から晩期ころと考えられる人骨も多量に出土している。

 ◆寄倉岩陰遺跡(よせくらいわかげいせき)

 -- 国指定史跡ガイド「寄倉岩陰遺跡」の解説 https://kotobank.jp/word/%E5%AF%84%E5%80%89%E5%B2%A9%E9%99%B0%E9%81%BA%E8%B7%A1-1445286 ---

 広島県庄原市東城町にある集落跡。1961年(昭和36)の調査によって、帝釈(たいしゃく)川北岸の山麓にある石灰岩地帯には、石器時代の岩陰・洞窟遺跡が多数分布することが明らかになった。この中で寄倉岩陰遺跡は最大規模で、石灰岩の岩陰に沿って全長30m、幅15m以上にわたる。縄文時代から鎌倉時代にかけての多量の遺物が堆積しているが、とくに縄文時代の遺物包含層は厚く、早期から晩期にいたる各種遺物が層をなして出土している。これらは中国・四国地方における縄文土器の編年の基準遺跡とされ、1969年(昭和44)に国の史跡に指定された。また、縄文時代後期から晩期ごろと考えられる人骨約50体が集められた状態で発見された。現在、遺跡は保存施設が設けられ、堆積層の一部を見学できる。遺跡は帝釈峡の鍾乳洞の白雲洞(はくうんどう)や石灰岩の雄橋(おんばし)などにも近い。中国自動車道東城ICから車で約20分。

 ◆広島県東城町の寄倉岩蔭遺跡

 --- http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/yosekura.html ---

 帝釈峡遺跡群は広島県の北東部一帯に所在し、瀬戸内海や日本海から直線距離で約60km離れた中国山地南斜面の高原に位置している。
 帝釈峡の石灰岩地帯で、昭和36年に帝釈馬渡岩陰遺跡の発見が糸口となって、石器時代の岩陰遺跡・洞窟遺跡が多数分布することが明らかとなり、現在までに53の遺跡群が確認されていると云う。
 石灰岩地帯にある洞窟・岩陰の遺跡は、人骨・動物骨など自然遺物の遺存状態が良好で、且つ各時期の遺物包含層が整然と連続して堆積している。
 洞窟・岩陰は天然の廂で、雨・露を防ぐ絶好の場所であり、廂の前面に柱穴列が検出された例もあり、草葺の住居としていたと見られる。内部には灰・炉跡・敷石・石列・貯蔵穴などが見つかっていると云う。

 寄倉よせくら岩陰遺跡は、帝釈川北岸の山麓にある全長約30m・奥行き約15m・地表面下10m以上にわたる、帝釈峡遺跡群の中で最大の岩陰遺跡と云われている。
 本遺跡は縄文から鎌倉時代にわたる複合遺跡で、特に縄文時代は早期から晩期に至る13層に及ぶ文化層から多量の遺物が整然と層序を成して出土したと云う。
 又縄文後期末から晩期にかけての文化層からは多数の人骨が出土しており、縄文時代の墓葬に新しい資料を提供している。
 このようなことから本遺跡は、昭和44年に国史跡に指定された。

 本遺跡は帝釈峡入口近くの帝釈川左岸にあり、昭和38~41年にかけて4次にわたる発掘調査が実施された。
 その後40年ほどの風雪は当時の面影を残していないが、発見された遺構の中で、特に注目されたのは埋葬人骨群。岩壁南寄りの2ヶ所に人骨が集積された状態で発見され、全部で46体分の人骨が確認されている。
 未調査・保存区には更なる人骨が埋葬されていると見られている。
 人骨群は某大学に保存されたまま、未だ詳しい分析は行われていないが、頭骨と四肢骨が分離されている点、抜歯の痕跡、赤色顔料の付着、幼児骨の一局集積状態、石剣の柄頭を伴った人骨など、興味深い謎が多い。
 集積された埋葬人骨群から意図的に集められた改葬或いは二次葬と考えられ、地域集落の共同墓地であったかも知れないと云う。

 ・縄文後期の中津式土器及び中期の里木式土器
 これらの復元土器を含め土器の層位的出土例から、中国山地地域の土器編年が組み立てられると云う。
 土器の中には、胎土の中に植物繊維を混ぜた早期後葉の東日本系新型土器も見つかった。
 この他九州系土器も出土しており、当地は南に瀬戸内海・北に日本海を控え、海が果たした文化交流・交易が窺い知れる。

 ・いろいろな形の石鏃と黒曜石製の石刃・剥片
 鋭利な切先・刃部を必要とする石鏃・石刃などの石材には、X線分析の結果、石鏃は香川県産サヌカイト、黒曜石は隠岐島産など遠隔地から入手している。大分県姫島産の黒曜石も見つかっている。
 ここにも瀬戸内海と日本海に通じる地理条件を十分に活かした、生活の知恵が垣間見える。中国・四国地方の文化交流圏に位置していると云える。

 …と、「寄倉岩陰遺跡」に関しまして、色んな記載がWEB上にありましたネ(^-^)//"

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(16)

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 「鬼橋野路古墳」の見学を終えますと、時悠館入口・バスの駐車場方向へと下山です。次は、今回の探訪の最後の訪問地「史跡 寄倉岩陰遺跡(よせくらいわかげいせき)」に向かいます。

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(15)

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 時悠館内の展示物を拝見後には館外に出まして、館長sanのご案内で、「鬼橋野路古墳(おんばしのろこふん)」を見学です。
 時悠館を出ますと壁面に「帝釈峡まほろばの里」の案内図が…ふ~ん、ここには、野外ステージ・炊事棟も整備されましたオートキャンプ場のようですねぇ~
 時悠館から5~10分程度歩きまして、「鬼橋野路古墳」に到着です。付近に設置されました説明板に眼を通しますと、

 ◆鬼橋野路古墳(おんばしのろこふん)

 --- 庄原市史跡 指定年月日 平成21年3月26日 ---

 遺跡名:鬼橋野路古墳(復原)
 所在地:広島県比婆郡東城町大字帝釈未渡字鬼橋野路1207
 建築年代:古墳時代(6世紀末頃)
 古墳の規模:北東側に周溝を有する。直径約15m。墳高は石室入口から約2m。東側の同溝底から0.8mの円墳である。
 出土遺物:須恵器の短頚壺および蓋、長頚壺、平瓶、蓋の破片、土師器の皿、坏、鉄釘、及び多量のスラグ。
 調査:遺跡整備による現状復原を目的とし平成6(1994)年10月11日から平成7(1995)年3月24日迄発掘、学術調査を実施。

 ---【鬼橋野路古墳発掘調査報告書(1996東城町教育委員会)抜粋】---

 ◆庄原市史跡 鬼橋野路古墳(おんばしのろこふん)

 指定年月 -- 平成21年3月26日
 所 在 地 -- 庄原市東城町帝釈未渡字鬼橋野路1207番

 帝釈川と名越川に挟まれた鬼橋野路の東側の台地、標高501.6mに位置しむ、台地の南向き緩斜面を利用し構築されている。主体部は、南に開口した横穴式石室である。墳丘盛土は、地山を削平した土砂や周溝を掘り下げた土砂で構築したものと思われる。
 北東側に周溝を有する直径約15m、墳高は石室入口から約2m、東側周溝底から0.8mの円墳である。周溝は、北側の尾根を掘り下げ、幅0.8m~1.0m、深さ約0.2m、断面はU形である。主体部の内部全体は、凡て石灰岩で構築された横穴式石室であり、地山をL型に削平した平坦面に構築されている。全長7m、幅は奥壁0.8m・入口付近1.2m、高さ1.2mである。
 出土遺物は、須恵器の短頸壺・平瓶・壺の破片、土師器の皿・坏、鉄釘及び多量のスラグが出土した。

 --- 平成22年3月 庄原市教育委員会 ---

 …と、こんな記載がありました(^-^)//"

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