GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

広島県内の話題・景観

1/18(月)には、また気晴らしに鞆・常石方面を走行でした(^.-)☆(3)

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 何枚か「沖の観音」周辺を画像に納めましたので、浦崎半島南岸を向島方向に走行してみます事に…
 暫く海岸沿いを走行しておりますと、海の中に赤い鳥居が(^.-)☆
 宮島の厳島神社みたいですねぇ~鳥居前の護岸沿いに駐車スペースがありましたので、そこに駐めて鳥居を眺めてみますと、ふ~ん、「厳島神社」でありました(^_^)v

 ◆【尾道市浦崎の厳島神社】浦崎の海に浮かぶ大鳥居/広島県尾道市浦崎町

 --- 2017/01/20 備後カメラ部 https://bingo-fukuyama.com/archives/3236 ---

 ・海に浮かぶ大鳥居、厳島神社!!
 厳島神社と言えば宮島の厳島神社ですが、厳島神社は多数有ります。その中の一つ、尾道市浦崎にある厳島神社。情報があまり出て来ませんが、大鳥居の設立は昭和52年(1977)年7月。境内の石造常夜灯は昭和8年6月のようです。

 …と、WEB上で検索しますと、こんな記載がありました(^-^)//"

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(11)

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 豊浜大橋を画像に納めお別れしますと、次は夕闇迫ります豊島大橋です(^.-)☆
 夕焼け空を背景に、豊島大橋をパチリです。

 ◆豊島大橋

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 豊島大橋(とよしまおおはし)は、広島県呉市の豊島と上蒲刈島をむすぶ道路橋。2008年全建賞道路部門受賞、同年土木学会田中賞作品部門受賞。

 ・概要

 2008年11月18日供用開始。総事業費240億円。日本国内にある吊橋において、この橋は21世紀初竣工のもの。愛称はこの地域で古くから親しまれ県鳥でもあるアビから「アビ大橋」と付けられている。
 県の「安芸灘諸島連絡架橋」事業に伴い整備された橋であり、広島県道356号豊浜蒲刈線を構成する。通称「安芸灘3号橋」。上蒲刈島側に大浦トンネルが隣接している。なお道路名でも分かる通り、管理上の起点は豊島側つまり呉市本土側からみて反対方向になる。
 計画当初は安芸灘大橋と共に有料道路とする予定だったが、交通量予測と維持管理費・料金徴収にかかる人件費を勘案した結果デメリットの方が大きいと判断され、無料の一般道として開通することになった。この橋の開通により本州から愛媛県今治市の岡村島までの一連の安芸灘諸島が橋でつながることになり、整備した県は観光面のみならず特に救急医療面でのメリットを強調している。

 ・構造

 路線名 : 広島県道356号豊浜蒲刈線
 橋長 : 903.2m
 最大支間長 : 540.0m
 幅員 : 全幅員9.85m(車道6.0m・歩道2.0m)
 航路限界 : 50.0m
 橋梁形式 : 単径間吊橋
 主塔高 : 109.5m

 ・特徴

 この海峡には、桁下50m×可航幅540mと安芸灘大橋と同等の航路限界が設定された。そのため長大橋として架橋することが決まり、その中で吊橋に決定した。
 上記の通り、日本における21世紀初の吊橋となったこの橋において、コスト削減を前提とした最新の技術が用いられており、いくつか世界でも初の試みが導入されている。
 主ケーブルは一般的な5mm素線ではなく7mmを用いたエアスピニング工法。
 補剛桁・主塔のおける耐風安定性の工夫。
 ケーブル・補剛桁・主塔の内部を防錆対策として送気乾燥システムを導入。これは斜張橋である新尾道大橋で先行導入したものを、吊橋において世界で初めて導入したもの。また、堅固な地盤を利用して岩着式アンカレイジを採用したのも国内初のこととなった。

 …と、こんな「豊島大橋」であります。
 それでは、「安芸灘とびしま海道」の凡ての橋を画像に納めましたので、蒲刈大橋・安芸灘大橋を渡り「とびしま海道」とお別れです。
 今回は、ただ車で走行するのみでしたから、またいつの日か機会がありましたら再訪してみたいと思います(^-^)//"

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(10)

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 天満神社とお別れし、引き続き海岸沿いを走行しておりましたら、豊浜大橋が視界に…

 ◆豊浜大橋

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 豊浜大橋(とよはまおおはし)は、広島県呉市の豊島と大崎下島を繋ぐ橋。

 ・概要

 1992年11月供用開始。県の「大崎下島地区広域営農団地農道整備事業」により建設された農道橋である。本州と安芸灘諸島を8つの橋で結ぶ安芸灘諸島連絡架橋の一つであり通称「安芸灘4号橋」で、大崎下島広域農道の一部を構成する。
 欄干のレリーフに県鳥であるアビが細工されている。豊島側の橋の下が豊島漁港にあたる。また大崎下島側には日本一のジャングルジムがある架橋記念公園が整備されている。
 トラス橋であり、最大支間長240.0mは2014年現在で国内第9位の長さになる(境水道大橋と同位)。同年現在の県内においては蒲刈大橋に次ぐ県内第2位のトラス橋である。
 橋脚に関して、豊島漁港があるため狭い海峡に大きな橋脚を用いた場合、航路占有幅が大きくなり航行の妨げになることから、一般的な鉄筋コンクリート製橋脚では分厚くなるため薄くできる鋼製橋脚(ベルタイプ基礎)が採用された。また先に竣工した蒲刈大橋と全く同じ形式の橋であり工事にもその技術が活かされ、架橋工法や橋脚設置工法とも蒲刈と同じフローティングクレーンを用いた一括工法が採用されている。

 ・諸元

 橋長 : 543.0m
 最大支間長 : 240.0m
 幅員 : 車道5.5m + 歩道1.5m
 航路限界 : 23.0メートル
 上部工形式 : 3径間連続下曲弦プラットトラス橋

 ・架橋記念公園

 大崎下島側にある、豊浜大橋架橋を記念して整備された約3万m2の運動公園。
 見どころは高さ13.2m×幅15.5mある日本一のジャングルジムである。豊島瀬戸に面して作られており、登ると橋や海峡を一望できる。その他、多目的グランド、ゲートボール場、テニスコート、芝生公園が整備されている。無料駐車場は約20台分。

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(9)

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 岡村島から大崎下島に渡りますと、右廻りに海岸沿いを豊浜大橋方向に走行です。
 途中、「御手洗の町並み」を抜けましたけど、通過でなく散策しましたらイィ風情を楽しめましたのでしょうけど、時間が有りませんから通り抜けとなりました(^.-)☆

 ◆御手洗町並み保存地区

 ・江戸時代にタイムスリップ!日本遺産 御手洗の町並み

 江戸時代、風待ち、潮待ちの港町として栄えた御手洗は、平成6年重要伝統的建造物群保存地区として国から選定されました。
 土地が狭いため数度にわたって埋め立てられた御手洗は、大小の商家、茶屋、船宿、住宅、神社、寺院などが混在し、集落中心路、集落連絡路、集落生活路(小路)等が網の目のように巡っています。
 また大波止、石橋、高燈籠、石垣護岸、雁木等、港町の生活上必要な土木的建造物が当時のまま現存しているものもあります。
 御手洗地区は17世紀の中頃形成されて以来、江戸時代の約200年間を経て昭和初期に至るまで、瀬戸内海交通の中継港として、時代時代に応じた発展を示し、その痕跡を今も集落内に留めています。
 また、ここでは、地元の観光ボランティアガイドが、歴史や文化について分かりやすく案内をしてくれます。
 ※ ボランティアガイド(要予約:1週間前)約2時間 2,500円

 …と、こんな「御手洗町並み保存地区」のようです。
 また後日、機会を見つけまして訪れてみたいと思います(^-^)
 海岸沿いを走行しておりますと、神社が眼に入りましたので、ここで小休止となりました(^-^)//"

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(8)

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 海岸沿いを「岡村大橋」に引き返しておりますと、岡村大橋・中の瀬戸大橋・平羅橋の三つの橋が眼に入ります場所が…同時に三つの橋を眺めますには、この辺りが最適なのかも(^.-)☆
 岡村大橋に到着しますと少しだけ停車。ササッと何枚かパチリです。この橋の向こうは広島県、手前は愛媛県ですネ。
 もっと時間がありましたら、境界線上を跨いで画像に納めたいところですけど、それは叶いませんでしたネ(^-^)//"

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(7)

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 暫し「であいの館」からの眺望を楽しみますと、日が暮れませんうちに岡村島まで走行です。
 上蒲刈島 -- (豊島大橋) -- 豊島 -- (豊浜大橋) -- 大崎下島 -- (平羅橋) -- 平羅島 --(中の瀬戸大橋) -- 中ノ島 -- (岡村大橋) -- 岡村島 と走行し、岡村島の最東端にと到着です。
 このまま岡村島を一周し岡村大橋まで戻ろうとしますけど、最東端から先の道は狭そうで、車一台がヤッと走行可能な状況なのかも分かりません。
 はてさて、どぅしたものか…と、まずはこの最東端からの景観を数枚パチリ。
 ここからは来島海峡大橋がキレイに眼に入りました(^.-)☆

 そぅしておりましたら、若者の女性二人がヤッて来まして、GONsan同様に先に進もうか…引き返そうか…と思案中。結局、GONsanが画像に納めています間に引き返して行かれましたネ。
 で、GONsanはどぅしたものか…
 その内に地元の方らしき方が来られましたので、「このまま先へ、車での走行は可能ですか?」と尋ねますと、「走れるけど、ズッと狭い道だから、前方から車が来れば擦れ違いは不能…」との事。
 嫁さんもGONsanも三流ドライバーですから、そんな道でしたらとても走れません。
 躊躇なく引き返す事となりました(^-^)//"

 ◆岡村島

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 岡村島(おかむらじま)は、瀬戸内海の中部にある関前諸島の島である。ミカンなどの果樹栽培と漁業が盛ん。愛媛県今治市だが安芸灘とびしま海道にて、本州広島県呉市と陸路でつながっている。

 ★地理・自然
 今治港の北西約17キロの位置にあり、大下島、小大下島ととも関前諸島を形成している。東に小大下島、西に大崎下島(広島県)がある。大崎下島との間の御手洗瀬戸に中ノ島、小島がある。集落は島の南東部でフェリーの寄航する岡村港のある岡村に集積し、今治市関前支所(旧村役場)もこの集落にある。

 ★架橋
 岡村島は、日本本土(北海道・本州・四国・九州・沖縄本島)と橋で繋がっている島の中では熊本県の樋島・下須島・通詞島(ともに7橋)と並んで一番橋を渡る回数が多い(しまなみ海道を除く)。さらに、所属する県庁までの通過架橋を比較すると17橋という桁違いの橋数を誇る。
 (岡村島)→岡村大橋→(中ノ島)→中の瀬戸大橋→(平羅島)→平羅橋→(大崎下島)→豊浜大橋→(豊島)→豊島大橋→(上蒲刈島)→蒲刈大橋→(下蒲刈島)→安芸灘大橋→(本州)→新尾道大橋→(向島)→因島大橋→(因島)→生口橋→(生口島)→多々羅大橋→(大三島)→大三島橋→(伯方島)→伯方橋→(見近島)→大島大橋→(大島)→来島海峡第一大橋→(アンカーブロック4A)→来島海峡第二大橋→(馬島)→来島海峡第三大橋→(四国)
 このほか、北接する広島県の離島大崎上島への架橋(安芸灘諸島連絡架橋8号橋)、大下島などを経由してしまなみ海道沿線の大三島に架橋する構想(関前諸島架橋構想)がある。

 ★歴史
 古くから斎灘の海上交通の要衝にあたり、平安時代から空海や菅原道真らが立ち寄ったいわれがある。戦国時代には村上水軍の城砦が築かれた。江戸時代中期には隣島の大崎下島の御手洗港などとともに潮待ち港として栄え、1740年(天文5年)には島南端の観音崎に灯明台が築かれた。
 江戸時代に宮浦村と里浦村とが合併して岡村となり、松山藩に属していた。天保9年に隣島の小大下島を二分してその一部を岡村と合する。1890年(明治23年)に岡村島と大下村の合併により越智郡関前村となる。明治時代中頃から柑橘類の栽培がはじまり、大正時代にはみかんの島として知られるようになった。村役場がこの島に置かれるなど、関前諸島の中心として機能してきた。昭和の大合併は離島という特性のため、経験しなかった。

 ★行政
 ・愛媛県今治市に属する。
 ・1890年に岡村島と大下村の合併により越智郡関前村となる。
 ・2005年1月16日に今治市と合併して同市の一部となり、現在に至る。

 ◆岡村大橋

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 岡村大橋(おかむらおおはし)は、広島県呉市の中ノ島と愛媛県今治市の岡村島を繋ぐ道路橋。

 ・概要

 1995年8月完成。元々は広島県と愛媛県の合同事業「大崎下島地区広域営農団地農道整備事業」により建設された農道橋であり、現在は呉市と今治市が管理している。本州と安芸灘諸島を8つの橋で結ぶ安芸灘諸島連絡架橋の一つであり通称「安芸灘7号橋」、大崎下島広域農道の一部を構成する。なお、岡村島は本州つまり広島県とは橋で繋がっているが、愛媛県側とはつながっておらず交通手段はフェリーのみである。
 この橋の中間が県境であり、道路にそれが表記されている。なお海上の県境を跨ぐ農道橋としては、この橋が日本唯一のものである。この橋の下が大崎下島御手洗港と大崎上島沖浦漁港を結ぶフェリー航路である。
 大崎下島広域農道「安芸灘オレンジライン」にある平羅橋・中の瀬戸大橋・そして岡村大橋のうち、中の瀬戸と岡村は全く同じアーチ橋であり、ほぼ同じサイズの橋である(平羅橋が違う理由は当該項目参照)。2012年公開のアニメーション映画『ももへの手紙』にこの2つの橋がモデルとなったアーチ橋が登場する。

 ◆中の瀬戸大橋

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 中の瀬戸大橋(なかのせとおおはし)は、広島県呉市の平羅島と中ノ島を繋ぐを繋ぐ道路橋。

 ・概要
 1998年10月完成。元々は広島県の「大崎下島地区広域営農団地農道整備事業」により建設された農道橋であり、現在は呉市が管理している。本州と安芸灘諸島を8つの橋で結ぶ安芸灘諸島連絡架橋の一つであり通称「安芸灘6号橋」、大崎下島広域農道の一部を構成する。
 大崎下島と岡村島の間にある平羅橋・中の瀬戸大橋・岡村大橋の3橋含めた大崎下島広域農道は「安芸灘オレンジライン」の愛称で呼ばれる。この中で、中の瀬戸大橋は1995年先に完成した岡村大橋と全く同じ種類のアーチ橋であり、架設工法も同じである。2つのアーチ橋の違いは、中の瀬戸の方が全体的にやや大きく、それに伴い橋脚が1基多いことである(岡村大橋の諸元、および平羅橋が違う理由は当該項目参照)。2012年公開のアニメーション映画『ももへの手紙』にこの2つの橋がモデルとなったアーチ橋が登場する。

 ◆平羅橋

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 平羅橋(へいらばし)は、日本の本州と安芸灘諸島を8つの橋で結ぶ安芸灘諸島連絡架橋のうち、大崎下島と平羅島を繋ぐ道路橋である。

 ・概要
 1995年(平成7年)8月1日開通。県の大崎下島地区広域営農団地農道整備事業つまり大崎下島広域農道として整備された農道橋であり、完成後に呉市に移管したものである。
 安芸灘諸島連絡架橋のうち、本土側から5番目にあたることから「安芸灘5号橋」とも呼ばれる。その8橋のうち一番小さい橋であり、唯一のコンクリート橋である。

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(6)

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 次に向かいましたのが、下蒲刈島~上蒲刈島を結びます「蒲刈大橋(無料)」です。渡り口の蒲刈大橋下に駐車場がありましたので、とりあえずここで小休止。
 駐車場前にお土産屋sanがありましたので、嫁さんはそちらでお土産を物色。その間にGONsanは周辺の景観を何枚かパチリです(^.-)☆
 買い物を終え嫁さんが戻って来ますと、手には帰路の安芸灘大橋の回数券を一枚(^.-)☆
 いゃぁ、全く知りませんでしたけど、安芸灘大橋を利用し、島内で1,000円以上の買い物をしましたら、帰りの橋代を助成して貰えますようであります。
 後で知りましたけど、『2012年4月から安芸灘諸島内での指定施設で1,000円以上買い物をした場合に帰りの通行料を助成する「安芸灘大橋有料道路回数通行券助成事業」を展開している』との事でありました。
 ここでお土産物を求めて助かりましたねぇ(^_^)v

 それでは、上蒲刈島にと渡ります。
 蒲刈大橋を渡りますと「であいの館」が…

 ◆蒲刈大橋

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 蒲刈大橋(かまがりおおはし)は、広島県呉市(旧安芸郡蒲刈町および旧安芸郡下蒲刈町)の上蒲刈島と下蒲刈島を結ぶ道路橋。

 ・概要
 1979年10月開通。県の「蒲刈地区広域営農団地農道整備事業」により建設された農道橋である。本州と安芸灘諸島を8つの橋で結ぶ安芸灘諸島連絡架橋の1つであり通称「安芸灘2号橋」、蒲刈広域農道の一部を構成する。上蒲刈と下蒲刈を結ぶ唯一の橋である。
 竣工当時は農道橋としては国内最長であった。2014年現在でトラス橋としては国内第7位の支間長にあたり、トラス橋としては広島県最大の橋にあたる。
 施工は石川島播磨重工業(現IHI)で、架設はフローティングクレーンを用いた大ブロック一括架設工法を用いた、トラス橋として初施工例となった。また橋脚施工に際し、ニューマチックケーソンと一体化したものを仮設ヤードで組みFCで運ぶ、橋脚付き設置ケーソン工法を採用している。

 ・構造
 橋長 : 480メートル
 最大支間長 : 255.0メートル
 全幅 : 8.0メートル
 幅員 : 車道6.5メートル + 歩道1.5メートル
 橋種 : 3径間連続下曲弦プラットトラス橋
 橋格 : 1種橋(TL-20)
 海面からの高さ : 23.0メートル

 ◆であいの館

 --- http://www.kamagari.com/ ---

 ・上蒲刈島入口のお土産物屋さん
 蒲刈大橋を渡り、上蒲刈島に入ったところにある休憩所(道の駅の様なイメージ)です。お土産物等ここで買う事が出来るほか、ドライブの途中の休憩にとても良いと思います。ここからは、蒲刈大橋の様子を見る事が出来、瀬戸内海の島々も見え、写真等をs撮るにも良い場所と思います。

 ここでも暫し立ち寄りです。

 ◆上蒲刈島

 上蒲刈島(かみかまがりじま)は、瀬戸内海の中部にある蒲刈群島の島。蜜柑などの果樹栽培が盛ん。
 呉市の東、本州からわりと近い瀬戸内の離島 上蒲刈かまがり島へ、蒲刈大橋を渡ってすぐ南に「であいの館」という観光施設がある。2005年3月建立。安芸郡蒲刈町は、2005年に呉市に編入された。

 ◆蒲刈蜜柑発祥の地

 蒲刈蜜柑の歴史は古く、室町時代に信州(長野県)より移住してきた木村道禎(向浦の福島屋二代目の子、俗名木村太郎兵衛)が、天文6年(1535)に讃洲(香川県)より苗木を求めてきて、蒲刈島の串山(向垣内)と、刈浜にあった清光山光明寺の境内に栽植した。これが芸州(広島県)における蜜柑栽培の最初である。そののち、永禄年間(1558~69)に下蒲刈島に増殖され、寛文2年(1662)に田戸、宮盛、大浦に移植された。(「広島蜜柑」より)
 当時の蒲刈蜜柑とは小蜜柑のことで、はかり蜜柑ともいわれ、枡で量って売買していた。販路は、下は博多、上は姫路のあたりまで、山陰では中国山地を越えて蒲刈蜜柑がやってこなければ正月が来ないと言われていた。
 であい岬公園整備にあたり、ここに蒲刈蜜柑発祥の碑を建立する。

 --- 平成17年3月建立 蒲刈町長 柴崎 龍雄 ---

 ◆蒲刈ふるさと自然のみち

 平成8年に環境庁の事業として、全国で3ケ所が採捉された「ふるさと自然のみち」のうちの1つで、「身近な体験をしてもらおう」というコンセプトのもとに整備された遊歩道です。訪れた方に適したコースをアドバイスし、その時期に見られる植物や鳥などの紹介するウォーキングセンターがあります。遊歩道には野鳥観察所、展望台、トイレ等の付帯設備も充実しています。

 ・蒲刈ふるさと自然のみち コース案内図
 ふるさと自然のみちは、都会の近くにあって、自然やなつかしい田園の風景が残されている所を舞台にして、人と自然の共存の方法を考えたり、自然とふれあいながら休養したり、体を鍛えたりするために設けられた道です。

 ・島の生活を支えた農産物
 平地が少なく、水も豊富でないこの島では、米など穀物の栽培が難しく、温暖な気候を利用してミカン栽培が始まりました。
 蒲刈ミカンの愛称を持つ葉ミカンは天文6年(1535)にもたらされ、下関から姫路、山陰方面にまでその名が知れわたりました。今でも老樹が実を付けています。宝永7年(1710)には大三島からサツマイモがこの向地区にもたらされ、これを契機として人口は爆発的に増加しました。

 --- 蒲刈町・広島県・環境庁 ---

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(5)

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 「見戸代緑地」内の散策を終えまして、2番目の「蒲刈大橋」へと向かっておりますと、途中に『←天神鼻公園・丸谷城跡(まるやじょうせき)』の案内表示が…
 で、道路脇のチョッとしたスペースに車を駐め、案内表示に従って「天神鼻公園・丸谷城跡」へと向かって行きますと、途中で行き止まりと言うか手入れしてありません山道へと(^-^;
 う~ん、天神鼻公園・丸谷城跡に向かいますには、このルートではなく海岸沿いを入って行きますようでありました。
 …と言う訳で、今回はパス(^-^)
 後日、WEB上で「天神鼻公園・丸谷城跡」を検索してみましたら、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆天神鼻公園

 --- https://tabetainjya.com/archives/cat_15/post_4517/ ---

 安芸灘大橋を渡り、大崎下島に入ったところにある大津泊庭園と天神鼻公園。海に向かって歩いて行ける散歩道がとても気持ちよく、時間を忘れそうです。
 大津泊庭園(おおつどまりていえん)は、広島県呉市川尻町から安芸灘大橋を渡ってすぐの所、下蒲刈島(広島県呉市下蒲刈町)の大きな公園。天神鼻公園は、大津泊庭園の海側に細長く伸びている半島部分を指します。

 ◆丸屋城(蒲刈城)

 --- https://proto.harisen.jp/siro1/kamagari-maruya-jou.htm ---

 古くから瀬戸内海交通の要衝であった下蒲刈島・三ノ瀬の北側の天神鼻という岬に築かれた海城。南北朝期、下蒲刈島に進出した蒲刈多賀谷氏によって築かれたのが始まりとみられ、近世編纂の『芸藩通志』にも「多賀谷式部景茂、始めて城く」と記されている。

 ・蒲刈多賀谷氏の水軍基地
 蒲刈多賀谷氏は、同族の倉橋多賀谷氏や呉衆、能美氏らとともに「三ヶ島衆」と呼ばれ、芸南における大内水軍を構成していた。丸屋城は航路の要衝を押さえる機能とともに、同氏の水軍基地を担っていたと思われる。

 ・尼子氏に降伏
 大永三年(1523)六月、出雲の尼子経久は安芸に侵攻し、安芸国人たちを糾合して同国における大内氏の重要拠点・東西条鏡山城を攻略する。尼子勢はさらに黒瀬川沿いを南下して蒲刈城(丸屋城)を攻撃。蒲刈多賀谷氏も降伏したとみられる。多賀谷氏の「譜録」は、多賀谷興景について、蒲刈城で尼子氏と戦って戦死したとし、父の景時については「尼子家に属し、後大内氏家に属す」としている。

 ・蒲刈多賀谷氏の衰退
 その後、城主であった多賀谷氏の勢力は衰退し、天文年間には竹原小早川氏の勢力が蒲刈に及んでいる。主家・大内氏の衰退が決定的となった厳島合戦の後、多賀谷武重は毛利氏から所領を安堵されている。以後、蒲刈多賀谷氏は毛利氏の警固衆として活動するが、多賀谷元重が朝鮮出兵後、仕えていた毛利秀元から長門の知行地を得て長府に移る。
 『芸藩通志』も、丸屋城最後の城主を元重としており、元重の長府移住にあわせて丸屋城も廃城になったとみられる。

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(4)

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 白崎園から海岸沿いに眼を移しますと、大きな駐車場が…マップで確認しますと「見戸代緑地」の記載が…
 安芸灘大橋を渡りました最初の島が「下蒲刈島」なんですけど、とりあえず「見戸代緑地」に向かってみます事に(^.-)☆
 チョッとした緑地公園で、ここからは安芸灘大橋がバッチリです。数枚パチリとなりました(^_^)v

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 ◆安芸灘大橋~優れた美観と機能性を備えた わが国最大の県道吊橋~

 本州四国連絡架橋群を除き、都道府県道に架かる橋の中では、わが国最大の吊橋です。
 本土と下蒲刈島の間を流れる「女猫の瀬戸」に架かり、橋長1,175m、主塔の高さ119mの壮観な姿をもって美しい景観をつくっています。多島美と調和する姿かたちの、技術力が駆使された長大吊橋であり、優れた橋梁建築として「土木学会田中賞(作品部門)」を受賞しています。

 こんな安芸灘大橋を渡りますと、スグに「←白崎園」の案内表示板が…
 何台か駐車可能なスペースがありましたので、とりあえずここに駐車。「白崎園」を散策です(^.-)☆

 ◆白崎園~安芸灘の魅力に触れる憩いの空間~

 園内には、ひときわ目を引くモニュメント、猫之瀬戸を歌った碑などが来島者を出迎えます。
 休憩所、トイレ、駐車場を備え、つつじ園(約40品種)があり散策を楽しむことができます。

 ◇モニュメント
 「生 土・火・知・空・水」
 白崎園でひときわ目をひく2本の塔は、男性と女性で、生命が強く空に向かって伸びていく様子を表しており、底盤は、大地、波(突起)春蘭などを表しています。
 全部で約3,500枚の手作りの陶板を張り付けたもので、下蒲刈町の赤土、みかんの木を灰にして作った釉薬、そして昔から交流のあった中国大陸の土などが使用されています。(陶芸家・今井眞正氏制作)

 ◇頼山陽歌碑
 広島ゆかりの江戸時代の学者で思想家の頼 山陽(らい さんよう)が、「猫之瀬戸」の様子を詠った漢詩が刻まれています。

 ・漢詩の意味
 遙遙の船旅、行く手には今、朝日が昇っている。
 心に明日は母に会えるな、などと思っているうち 朝霧がだんだん晴れて、小舟は織りなす綾波に揺られながら 猫之瀬戸を通った。

 ・頼 山陽
 頼 山陽(1780-1832)は江戸時代後期の学者で、父は広島藩儒頼春水、少年時代から詩文の才を示し、十七歳のころには早くも歴史書の執筆に興味をもった。
 21歳の年、脱藩して罪を得、邸内に閉居された。しかし、このことがかえって思いのままに読書し、著作に励む機会となり「日本外史」、「新策」の初稿が成った。
 32歳のときに京都へ転居、その後全国を遊歴し、文人、学者と交わり多くの詩を残した。また、書にも励みて、多くの逸品を残している。
 この詩は、天保元年(1830)6月21日、乗甫(頼春風の養子)と共に、竹原から広島に行く途中、橋下の猫之瀬戸を通ったときに詠まれたものである。

 ◇つつじ園(約40品種)
 4月中旬~5月上旬にはたくさんのつつじが見ごろを迎え、園内を鮮やかに彩ります。

 ◇四季彩花プランター
 季節ごとに咲く花が、訪れる人の目を楽しませます。記念撮影や憩いのお供にいかがでしょうか。

 ◇園路
 海に浮かぶ島々の眺望と植栽により四季折々の景観を楽しみながら散策できます。園路には、石柱パーゴラ(日陰棚)や、あずまやがあります。

 ◇休憩所
 日本家屋造りの休憩所が、歴史ある島々の町並みに調和し、癒しを与えてくれます。催しの広報スペース、トイレ、自動販売機、ベンチ、水飲み場があり、旅の行き帰りで憩いのひとときを過ごせます。

 ◇駐車場
 普通車用8台、大型車用2台、身体障害者用1台の駐車スペースをとっています。とびしま海道の地図と観光案内板がありますので、旅の参考にご覧ください。

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(2)

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 ◆安芸灘とびしま海道スタンプラリー

 安芸灘大橋開通20周年記念
 安芸灘とびしま海道スタンプラリー ~うみのうえビューン!~

 広島県道路公社が管理している『安芸灘大橋』が2020年1月18日に開通20周年を迎えました。
 開通20周年を記念して、スマホアプリ限定のスタンプラリーを、10/1から12/31までの間、開催します。特賞は県民の浜ペア宿泊券、A賞・B賞はとびしま海道の特産品が当たります!
 ふるってご参加ください。

 ~開催場所~ 安芸灘とびしま海道の島々

 ・チェックポイントは10か所
 ・5スタンプ集めると応募権が1回
 ・何口でも応募可能
 ※10か所のチェックポイントのうち「三之瀬御本陣芸術文化館」「松濤園」のスタンプをゲットして、さらに入館された方にはポストカードをプレゼント!

 「いまどこ+」のアプリのダウンロードの方法やスタンプラリーの詳しい内容については、https://tobishimasp.jp/ をご覧ください。
 新型コロナウイルスの感染予防対策は、しっかり行ったうえで、スタンプラリーにご参加くださいますよう、よろしくお願いいたします。
 その他、ご不明な点がございましたら、広島県道路公社 維持管理課 管理係(電話082-504-7533)までお問合せください。

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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(1)

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 不動院での参詣を終え福山への帰路は、何にも予定が有りませんので、久し振りにノンビリと呉線沿いを竹原市方面に走行します事に(^.-)☆
 呉市内を抜け、広・川尻辺りにヤッて来ますと、「安芸灘大橋」の標識が…
 そうですネ…せっかくの機会ですから安芸灘大橋を渡り「安芸灘とびしま海道」の全線を、一度、走行してみましょうか(^-^)
 で、運転中の嫁さんに、「とびしま海道を走ってみる?」と尋ねますと、「どっちでもイィけど…」との事でしたから、「安芸灘大橋」を渡ってみます事に。

 ◆安芸灘とびしま海道

 瀬戸内海に浮かぶ島々を、庭園をわたる飛石(とびいし)にたとえて名付けられた「安芸灘とびしま海道」。朝鮮通信使や参勤交代大名の寄港地として栄えた下蒲刈島「三之瀬地区」、伝統的な建造物が残る大崎下島「御手洗地区」はおすすめの立ち寄りエリアです。

 ◇「安芸灘とびしま海道」って?

 ・飛び石の島々を連絡架橋で結ぶオーシャンロード

 呉市の南東に位置する下蒲刈島から愛媛県今治市の岡村島を7つの橋で結ぶ「安芸灘とびしま海道」。島々が庭園を渡る飛び石(とびいし)をイメージさせる連絡架橋ルートです。本州と下蒲刈島を結ぶ安芸灘大橋は有料ですが、ほかの橋はすべて無料のため島々を巡るにはドライブが最適!安芸灘とびしま海道エリア内にある指定施設で合計1,000円以上利用すると、安芸灘大橋の回数通行券と交換できます(安芸灘大橋を現金での利用の場合)。

 ・海の関所として栄えた港

 下蒲刈島の見どころは島の東部に位置する三之瀬地区に集まっています。ここは鞆の浦(福山市)とともに瀬戸内海で2ヶ所あった海の関所の一つ。大名や公家などが宿泊する本陣があった場所です。今でも当時を偲ばせる「三之瀬御本陣芸術文化館」「松濤園」「御番所跡」など、数多くの史跡が残っています。他にも「蘭島閣美術館」やお茶室などの文化施設があり、散策におすすめのエリアです。ビーチに隣接する宿泊施設「コテージ梶ヶ浜」では炭や薪を使った昔ながらの生活体験ができ観光客に人気です。

 ・「重要伝統的建造物群保存地区」に選定

 御手洗地区は江戸時代に天然の良港として栄え、その賑わいは昭和まで続いていました。現在も明治、大正、昭和時代の建物が残っており、その町並みはまるでタイムスリップしたかのような雰囲気。千砂子波止や高燈籠、船を結ぶ柱などが当時のまま現存しています。まず、御手洗地区の地図やパンフレットがある「潮待ち館」に立ち寄ってから散策しましょう。町を見下ろせる高台に設けられた「歴史の見える丘公園」からは瀬戸内海に点在する島々が一望。大崎下島は2012年に公開された映画『ももへの手紙』の舞台となっている、架空の島「汐島」のモデルになった趣のある島です。(平成6年には文化財保護法によって御手洗地区の町並みが「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。)

 ・のんびり、ゆったり、島の魅力を体感

 上蒲刈島の南東に位置する「県民の浜」では海水浴をはじめシーカヤックなどのマリンスポーツが楽しめます。敷地内では古代土器による「藻塩作り」などの珍しい体験が可能。特産の藻塩を使用した「藻塩アイス」「藻塩めん」は人気です。手付かずの自然がそのまま残り、穏やかな風情を醸し出す豊島。漁業町として知られ、一本釣りしたタチウオは鮮度がよく傷が少ないため、「豊島のタチウオ」ブランドとして注目されています。愛媛県の岡村島の港は潮待ち港として知られ、弘法大師や菅原道真が中国に渡る際に立ち寄ったとされています。南端にある「ナガタニ展望台」からは大三島や大島など、瀬戸内しまなみ海道の島々が一望できます。

 ・初心者の方でも走りやすいコース

 「安芸灘とびしま海道」の楽しみ方のひとつにサイクリングがあります。安芸灘大橋の本州側の起点から、愛媛県の岡村島までの距離は最短ルートで約30km。この区間はサイクリングロードとして整備されています。アップダウンが少ない地形のため、初心者の方でも走りやすいと評判。また、交通量が少なく、信号も数少ないため、瀬戸内の多島美と潮風を満喫しながら、快適なサイクリングが楽しめます。

 ◆安芸灘大橋

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 安芸灘大橋(あきなだおおはし)は、広島県呉市の本州側と下蒲刈島を結ぶ道路橋および橋を中心とした道路。「安芸灘大橋有料道路」の有料橋である。1999年全建賞道路部門受賞、同年土木学会田中賞作品部門受賞。

 ・概要

 2000年1月供用開始。安芸灘諸島を8つの橋で結ぶ安芸灘諸島連絡架橋事業により架橋した道路橋の一つであり通称「安芸灘1号橋」、うち唯一の有料橋である。広島県道74号下蒲刈川尻線の一部を構成し、うち広島県道路公社管理分がこの有料道路にあたる。
 道路含めた総事業費は487億円、うち110億円を賄うため2030年1月まで償還を行う予定である。
 橋としては、2014年現在で国内9位の吊橋で、広島県では因島大橋に次いで県内2位にあたる。都道府県が整備した一般県道の吊橋ではこの橋が日本最長。

 ・通行料金

 料金所は呉市本州側の川尻町にある。2014年現在、ETCレーンは整備されていない。歩行者および自転車は無料。回数券も存在する。
 広島県道路公社が管理する2路線のうち、2014年現在の普通車1回分通行料は広島熊野道路が200円であるのに対し安芸灘大橋有料道路は720円となっている。安芸灘諸島の島民にとってこの橋は生活道路としての機能も担っているため、この高い通行料は広島県議会予算委員会や呉市議会で議題に挙がっている。これに関連して、2012年1月から2014年3月まで回数券100回券の通行1回あたりの料金を現金で通行する場合の約6割程度に引き下げ交通量の変動を調査する社会実験が行われ、2014年4月からの通行料金はこの社会実験の料金に消費税分が加算されて正規料金となっている。
 2012年4月から安芸灘諸島内での指定施設で1,000円以上買い物をした場合に帰りの通行料を助成する「安芸灘大橋有料道路回数通行券助成事業」を展開している。

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10/25は、嫁さんに同行し広島の安国寺(不動院)にお参りでした(^.-)☆(5)

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 嫁さんに同行し、その度にこぅしてパチパチ画像に納めていますGONsanなんですけど、ソロソロこの辺で退散です。
 次回、また嫁さんに付いて訪れますのは、いつになりますか分かりませんけど、51歳でお亡くなりの嫁さんの友人…早や18年経ますのですねぇ…

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10/25は、嫁さんに同行し広島の安国寺(不動院)にお参りでした(^.-)☆(4)

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 嫁さんの友人の墓前で手を合わせました後で、GONsanはついでに安国寺恵瓊・太閤秀吉公のお墓にも参詣です。
 安国寺に来ます度に立ち寄っておりますけど、お二人とも偉大な歴史的人物ですから(^.-)☆

 ◆安国寺 恵瓊

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる安国寺恵瓊の名は、住持した寺の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。
 毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説だが、異説もある。

 ・生涯

 出自が安芸武田氏の一族であることは確定しているが、生年・父親には諸説があり、前者は天文6年(1537年)とも天文8年(1539年)ともいわれる。また後者については武田信重(光広)を父とする説と、信重の父である伴繁清を父とする説とが存在する。

 ・東福寺時代

 天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となる。恵心は毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなった。僧としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついた。慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力している。このほか方丈寺、霊仙寺といった寺院を再興し、大内義隆が建立した凌雲寺仏殿を安国寺に移築するなどした。

 ・毛利家臣時代

 一方、毛利氏が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となる。大友宗麟との多伏口の合戦において博多の町衆に堀70日分の工事を命じるなどの活動が散見される。永禄11年(1568年)の大友家との合戦では恵瓊も従軍し、諸豪族を毛利側の味方とするために渉外を行い貢献した。
 元亀2年(1571年)6月には毛利元就の書状を携えて上京し、室町幕府将軍・足利義昭に対して大友家・浦上家・三好家との和議の斡旋を依頼したが、義昭が三好との調停に難色を示し不調に終わった。しかし、翌元亀3年(1572年)には三好を除いた大友・浦上との講和については義昭が了承し、再度上京して10月には大友・浦上両家との和議の斡旋に成功した(『萩藩閥閲録』)。

 天正元年(1573年)、織田信長によって京都を追放された義昭はいったん枇杷庄(現京都府城陽市)に退いたが、本願寺顕如らの仲介もあり、三好義継の拠る若江城へ移り、11月5日には和泉国の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この会談には毛利氏使者として恵瓊も参加した。しかし、義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂、このとき、恵瓊は義昭が西国に来ないよう要望している。
 天正4年(1576年)に足利義昭が備後国鞆に移ってきたあとも、宇喜多直家と断交し織田信長と結ぶべきと主張していたが受け入れられなかった(『巻子本厳島文書』)。
 天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)最中に本能寺の変が起き、織田信長が横死した。このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめた。
 天正11年(1583年)8月22日、毛利輝元の家臣に送った手紙で老母の罹病を理由に恵瓊が境目についての会合に不参加を表明している。公務を投げ出しても母を看取り、その危機を救うのが一般的な当代の母子の実像であった。
 また、本能寺の変の事実判明後の7月、講和交渉が再開した際には和睦が成らず毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包・吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしいとも願い出ている。結局、両名を人質として出すことと引き換えに、毛利氏の領国は認められた。恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得た。

 ・秀吉近臣時代

 天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となった。恵瓊本人の禄ではないが、安国寺にも天正19年(1591年)1万1,000石の寺領が与えられている。
 また、恵瓊は秀吉の側近も兼ねることとなり、天正13年12月7日には九州征伐に先立ち黒田孝高・宮木宗賦とともに大友氏・毛利氏の和睦締結、九州諸将への指示伝達のため九州に派遣されるなどしたほか、秀吉の命令で行なわれた検地、厳島神社の千畳閣など作事の奉行を務めている。武将としても小田原征伐に兵を率いて参陣し、天正18年(1590年)3月には脇坂安治、長宗我部元親と共に清水康英が守る下田城を攻め、1ヶ月の籠城戦の後これを陥落させている。このとき内陸の横川に対して制札を出し、水軍将兵の同地での乱暴狼藉を禁じている。

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10/25は、嫁さんに同行し広島の安国寺(不動院)にお参りでした(^.-)☆(3)

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 ◆安国寺不動院の概要

 --- https://tesshow.jp/gallary/hiroshima/temple_higashi_fdoin.html ---

 真言宗寺院の不動院は、新日山安国寺と号します。不動院の創建年代等は不詳ながら、平安時代の創建と推定されています。その後足利尊氏・忠義兄弟が国内各地に建立した安国寺として建て直され、室町時代には安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄、武田氏と大内氏との戦乱で焼失したしまった当寺を、安国寺恵瓊が再建したといいます。安国寺恵瓊が関ヶ原の合戦で敗死し、寺運は衰えたものの、入国した福島正則が、自身の祈祷僧宥珍を当寺に入寺させ、不動明王を本尊とした真言宗寺院として不動院と称したといいます(現本尊は薬師如来像)。当寺の本堂(金堂)は、安国寺恵瓊が山口から移建したもので国宝に指定されている他、楼門や鐘楼など数多くの文化財を有し、広島県真言宗教団の別格本山寺院です。

 ・安国寺不動院の縁起

 不動院の創建年代等は不詳ながら、平安時代の創建と推定されています。その後足利尊氏・忠義兄弟が国内各地に建立した安国寺として建て直され、室町時代には安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄、武田氏と大内氏との戦乱で焼失したしまった当寺を、安国寺恵瓊が再建したといいます。安国寺恵瓊が関ヶ原の合戦で敗死し、寺運は衰えたものの、入国した福島正則が、自身の祈祷僧宥珍を当寺に入寺させ、不動明王を本尊とした真言宗寺院として不動院と称したといいます。

 ◇境内掲示による不動院の縁起

 ・新日山安国寺不動院の歴史

 新日山安国寺不動院は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。
 ただ金堂内に安置されている本尊薬師如来座像が定朝様式であることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。
 しかし、戦国時代の大永年間(1521-27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
 当寺を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備士、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
 毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺院全体を不動院と称するようになりました。正則公の治世は二十年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて、明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。
 原子爆弾投下に際しても地理的条件が幸いして災禍を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。(境内掲示より)

 それでは、お墓の方に向かってみます(^-^)//"

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10/25は、嫁さんに同行し広島の安国寺(不動院)にお参りでした(^.-)☆(2)

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 墓前にお参りします前に、まずは境内内を一巡です(^.-)☆

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10/25(日)は、嫁さんに同行し広島市の安国寺(不動院)にお参りでした(^.-)☆(1)

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 10/24(土)でしたか…「明日、命日だから友達の墓参りに広島へ行くけど、一緒に行かない?」と嫁さん。
 ふ~ん、珍しく嫁さんから声掛けが(^-^)
 いつも、GONsanが「○○へ行くけど、一緒に行く?」と尋ねますと、大概「行かない。独りで行ったら。」と嫁さんの返答。ですから、一度はGONsanも「行かない、独りで行ったら。」と言いたいところですけど、そこは大人の対応のGONsanですから、「うん、えぇよ(^-^)」と即答です(^.-)☆
 嫁さんの友達は、51歳で亡くなられましたから、早や18年を経てしまいましたネ。つぃ先日のような気もしますけど、月日の流れますのは実に速いものであります。
 …と言う訳で、10/25(日)は、嫁さんに付いて広島の安国寺行きとなりました(^-^)//"

 ◆不動院(新日山 安国寺 不動院)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 不動院(ふどういん)は、広島県広島市東区にある真言宗別格本山の寺院。

 ・概要
 本尊は薬師如来。山号は新日山。足利尊氏・直義兄弟が諸国に設けた安国寺利生塔の一つという(安芸国安国寺)。全国安国寺会会員寺院。

 ・歴史

 -- 中世 --
 開基は行基とも伝えられるが、創建年代や由緒については諸説ある。本尊薬師如来像の様式から平安時代には創建されていたと推察されている。足利尊氏、直義兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺で、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄した。
 しかし、戦国時代には戦火により伽藍が焼失し武田氏も滅亡したが、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊により復興された。関ヶ原の戦いで西軍に組した恵瓊は処刑され、毛利氏も転封後、福島正則が芸備両国の大名として入国し、正則の祈祷僧である宥珍が安国寺に入り住持となった。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本尊とし不動院と称した。後に浅野氏が国主として広島に入ると、浅野家歴代藩主の保護を受け明治に至った。

 -- 近世/現在 --
 第二次世界大戦中は牛田の住民のみならず中国軍管区司令部通信部など様々な機関の疎開先に指定されていた。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約3.90kmに位置した。爆風により金堂の屋根の一部が吹き飛び、本堂の柱の1本が中央から折れたものの、全体では倒壊は免れている。当日は市中心部から北へ避難してくる被爆者の受け入れ先として機能し、境内にはたくさんの負傷者で溢れかえった。
 1958年に金堂が国宝に指定された。1993年に広島市に現存する被爆建物リストに登録されている。

 ・文化財

 -- 国宝 --
 ・金堂(国宝)
 天井の墨書から天文9年(1540年)の建築と判明する。屋根は入母屋造、柿(こけら)葺き。2階建てのように見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、桁行3間、梁間4間(「間」は柱間の数を意味する)の身舎(もや)の周囲に裳階をめぐらす。裳階は正面側の奥行1間分を吹き放しとする。不動院は密教寺院であるが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床の一室とする点、中央を鏡天井とし、その周囲にぎっしりと組物が並ぶ天井の構成、桟唐戸、花頭窓、礎盤付き柱、扇垂木等に禅宗仏殿特有の形式が見られる。天井高は8.6メートルに達する。この堂は当初から不動院にあったものではなく、もとは山口市にあった禅宗寺院で大内氏の菩提寺であった凌雲寺にあった。それを天正年間(1573-1592年)、安国寺恵瓊が当地に移築したものである。原爆による大きな被害も受けず広島市内に現存する唯一の国宝である。

 -- 重要文化財(国指定) --
 ・鐘楼 - 永享5年(1433年)の建築。
 ・楼門 - 文禄3年(1594年)の建築。「楼門」と称するが、建築形式的には「楼門」でなく「二重門」(上層・下層境にも軒の張り出しをつくる)である。
 ・木造薬師如来坐像 - 檜材寄木造、平安時代後期
 ・梵鐘 - 高麗時代

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ふ~ん、弦2本の琴もありますのですネ(^.-)☆

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 GONsanの歳ともなりますと、身近な人が次から次にとお亡くなりに…
 つぃ先日は、町内の親しくして頂きました方がご逝去…その数日後にはGONsanの従兄のお嫁さんが亡くなってしまいました。
 生者必滅会者定離…定めとは言いましても、実に哀しいものであります。
 昨夜の通夜から我が家に戻ってきますと、従姉からLINEで、こんなメッセージが…

 
先程は、お疲れ様でした。10月2日の中国新聞に、葛原のお月見会の記事が写真付きで載ったのですが、子供たちも3人だけ、大人も高齢者と病人が増えて淋しい限り。
 私も、あの日に二弦琴を弾く心境ではなかったのですが、余りにも少ないので参加しました。新聞があれば見てください。…と、こんなご連絡。

 
10/2(金)に中国新聞朝刊記事に掲載…とは、この記事ですネ。
 ここ近年は、本屋sanで書籍を求めての読書とはスッカリ疎遠となってしまいましたGONsanで、情報源は、WEB上の情報と中国新聞の朝刊記事のみなんです。
 ですから、朝刊は毎日、結構時間を費やし隅から隅まで眼を通しておりますので、勿論、この記事も眼にしておりました。が、演奏しておられます方のお一人が、従姉とは想いもよりませんでしたよ(^-^)
 ふ~ん、そぅでしたか…ステージ上の左からお二人目が従姉ですねぇ~
 「
二弦琴」は、2本の弦のみで色んな音が出るのですか…
 水呑学区の文化祭等で「大正琴」の演奏は何度か拝見しておりますけど、今まで「
二弦琴」の演奏は拝聴の機会に恵まれておりません。
 機会がありましたら、一度、聴いてみたい…こんな気持ちが生じましたネ(^.-)☆
 永年、琴を嗜んでおります従姉ですけど、
二弦琴も奏でていますとは聴いておりませんでしたし…まぁ、GONsanなんぞは「二弦琴」すら眼にした事はありませんから(^-^)

 
歳を重ねて行きますと色んな制約も出て来まして、仲々自分の思うようには動けませんけど、出来る範囲内で地域活動への前向きな従姉の取り組み…イィですねぇ~
 今後もお元気に、地域の皆様と楽しく日々を過ごされますよう、ご祈念申し上げたいと思います(^-^)//"

 ◆二弦琴

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 二弦琴(にげんきん、二絃琴)とは、ツィター属の弦楽器の一種。二本の弦を同音に調律するのが特徴である。
 日本における二弦事の一番古い形は八雲琴で、明治期にこれを改良・分岐した東流(二絃琴)、更に大正期に東流を改良・分岐した大正琴、これらとは別の流れである竹琴が知られている。

 八雲琴は文政3年(1820年)に伊予国の中山琴主が出雲大社の神託を受けて作ったものとされ、当初は出雲琴・玉琴とも呼ばれた。
 元々は竹を2つに割って作ったが、今日では杉や桐の板で作られ、表板には竹を模した3つの節を、裏板には2つの響穴を刻んでいる。また、表板の表面には31か所の徽と呼ばれる目印が記され、徽に刻まれた31文字を読むと「ヤクモコトツホハウエヨリシタマテヲワカノミソチニナラヒキメヌル(八雲琴(の)壺(=目印)は上より下までを和歌の三十一(文字)に倣ひ決めぬる)」となる。
 胴の長さは約109cm、幅は11.5cm(尾部)~12.4cm(頭部)ある。頭部に開けられた2個の孔から絹糸で出来た2本の弦が出て、尾部に開けられた1個の孔を通して転軫に巻き付ける。転軫とは糸巻きのことで弦の張力調整機能を持つ。
 実際の演奏は琴を琴台に載せ、左手中指にはめた転管で弦を抑え、右手人差指にはめた竜爪を弾いて演奏した。琴主の没後は、大岸元琴(琴主の実弟)・村田友琴・黒田琴翁によって三派に分かれて明治に隆盛を迎えるが、大正以降は衰微して今日に至っている。

 大岸元琴の弟子で囃子方であった藤舎廬船(長唄家元としては初代藤舎呂船)は明治の初めに裏板を設けず、表板の裏側を船形にくり抜いた新しい琴を開発して新たな流派を創設して「東流」と称した。
 廬船が囃子方であったことから、歌舞伎の世界で用いられ始め、三味線とも組み合わされて演奏された。大正の初めには森田吾郎が更なる改良を行って大正琴を発明した。
 竹琴は明治の初めに盲目の地歌箏曲家であった葛原勾当が発明したもので、八雲琴とは別の系列に属する。

 …と、WEB上で検索しますと、こんな『
二弦琴(にげんきん)』のようであります(^-^)/"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(18)

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 さほど広い駐車場でもありませんから、ヤッて来られる方・お帰りになられる方々の誘導で、駐車場担当の方も大変です(^-^)
 GONsan達が退散時には、幸いに駐車場内も余裕がありましたので、スムーズに出る事が出来ましてラッキー(^.-)☆
 帰路もまた芦田川沿いの土手を河口方向に南下です。
 途中に、損壊したままの沈下橋が…2018年(平成30年)7月の西日本豪雨災害の爪痕なのでしょうけど、このまま、もぅ復旧はされないのでしょうか…丁度、丸2年経過しておりますけど…

 そろそろ梅雨明けも間近いのでしょうけど、福山市内も本日夜から明日の朝にかけて激しい降雨が予想されております。この降雨が過ぎ去りますと、梅雨明けとなりますのかも分かりません。
 どぅか、何にも被害が出ませんまま梅雨明けを迎えたいものであります(^-^)//"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(17)

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 神宮寺の山門を少し下りますと、苗の販売所が…あじさい祭りの期間中、苗の販売を行っておられますようですネ。
 今年は、新型コロナウイルス感染防止の為、バザーや写真撮影会は中止のようですけど、苗の販売は、6/30(火)まで行われるとの事でありました。

 参道をズッと下って行きますと鳥居が存在です。
 せっかくですから、鳥居まで下って1枚パチリ。鳥居には「南宮大明神」と記載がありましたネ(^-^)//"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(16)

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 今から紫陽花・南宮神社巡りをされます方々も、おられますようですネ(^.-)☆
 GONsan達は駐車場へ…
 駐車場へ向かっておりますと、途中に山門が…ここが神宮寺の正門です。もともと南宮神社から別れた寺なので、この門の前が神社への参道になりますネ(^-^)//"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(15)

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 神社下の紫陽花へ遊歩道を進んで行きますが、先ほどまで何人かの方々がおられましたけど、誰もいなくなりましたので、難なく嫁さんの場所確認。
 時間を確認しますと、あと15分程度で正午。うん、うん、皆さん、こんな時間ですからソロソロお帰りのようですねぇ~
 神宮寺・南宮神社・孝霊天皇御陵・紫陽花…と、一通り拝見しましたので、私達も駐車場へと向かいます事に…

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(14)

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 孝霊塚を画像に納めましたので、嫁さんも待っていますでしょうから「孝霊天皇御陵、寳筐印塔(ほうきょういんとう)、石人」とお別れです。
 南宮神社境内近くまで戻り、神社下の紫陽花へ(^-^)/"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(13)

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 境内から東に下ると「四ッ堂」と「休憩所」が有りましたけど、これはスルーで歩きながらパチリ(^.-)☆
 そして、休憩所の先に孝霊塚の看板が存在です。これには、

 ◆孝霊塚

 古い宝筐印塔の立つ“俗称”孝霊塚は、南宮神社の主祭神である孝霊天皇の御陵と言い伝えられている。
 即ち天皇が譲位の後、此の所を仙洞として住まはれて崩御されて築かれた説と、御子吉備津彦命が、四道将軍として吉備国に御滞在の頃、御父の孝霊天皇を偲ばれて、御分霊を祀る御領を築かれた説との二説がある。

 …と、こんな記載でありました。
 看板から山道を少し進みますと休憩所、その先が孝霊塚でありました。
 途中、先客のご家族連れが楽しそうに賑やかに下りて来られました。擦れ違いの際に、南宮神社鐘楼方向に眼を向けましたら、う~ん、まだ、紫陽花を観賞していますようでありました(^.-)☆
 孝霊塚の下側には、「孝霊天皇御陵、寳筐印塔(ほうきょういんとう)、石人」案内表示板が…
 この案内表示板には、こんな説明がありました(^.-)☆

 ◆孝霊天皇御陵、寳筐印塔(ほうきょういんとう)、石人

 備陽六郡史に「神宮寺上に古き寳筐印塔有、是を孝霊帝の御墓といひ傳う、其の後に圖のごとくに山有、是陵ならんか」と記されています。(圖とは、この文の前に掲載されている地南宮神社 神宮寺一帯を書いた地図でその中に孝霊帝御墓がありそこに小山が書かれている。)
 又元禄地検帳(神宮寺郷土館に展示)にもこの御陵が社地として記載されています。
 寳筐印塔は、文字がはっきりしないので、不明な点はありますが中世に天皇供養のためにつくられたもので非常に価値ある重要な文化財であります。
 又石人は、殉死者を表したものと思われます。

 --- 府中商工会議所 ---

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(12)

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 神社の境内に鐘楼がありますのは大変珍しいのですけど、明治新政府の神仏習合の際に、鐘楼のみ神社の境内に取り残されましたとか(^-^)
 案内表示板には、こんな記載が…

 ◆南宮神社の鐘楼

 鐘楼は神仏習合時代の名残りで、当社が大社であったことを示している。方一間切妻造り、箕甲本瓦葺、四方吹き放ちの形式の鐘楼は、全国的にもかなり古い遺構であり、四本の角柱を内転びに建ててあり、虹染形頭貫と台輪を設け、下部に二本の貫を入れて、軸部を固めている。
 初代の鐘楼は、福島政則が広島に持ち帰ろうとして尾道沖で沈没。二代目は安政二年(一八五五年)ペルリー来朝の際、外国船に対する海防の目的で、幕府の命により、鐘楼を大砲に改鋳する事になり徴発されました。由来、一五〇年程、梵鐘の無い鐘楼となっていましたが、神社に鐘楼があるのは、全国で二百余り社、うち広島県は当社を含み二社で珍しいとされている。三代目の梵鐘として京都の岩澤鋳造㈱にて鋳造し、平成十六年七月に釣り下げることが出来たのである。

 …と、こんな記載がありました。
 南宮神社から退散しようとしましたら、こんな案内表示『孝霊天皇御陵伝説地 ⇒』が有りましたので、案内表示に従って進んでみます事に。
 でも、「孝霊天皇」とは、どんな方なのでしょうネ。

 ◆孝霊天皇

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 孝霊天皇(こうれいてんのう、正字体:孝靈天皇、孝安天皇51年-孝霊天皇76年2月8日)は、日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日-孝霊天皇76年2月8日)。『日本書紀』での名は大日本根子彦太瓊天皇。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。

 ・略歴

 日本足彦国押人天皇(孝安天皇)の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。26才で皇太子となる。
 父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。それまでの山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する。翌年の1月に即位。即位2年、磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、倭国香媛らを妃にしている。倭国香媛との間には御間城天皇(崇神天皇)の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命、疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。即位76年、崩御。

 WEB上で検索しますと、こんな方のようですけど、第三皇子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)が伝説上の桃太郎のモデルであると言われているようですネ。
 『孝霊天皇御陵伝説地』で検索しますと、WEB上にはこんな記載もありました。

 ◆神宮寺と市宮神社と孝霊天皇御陵伝説地

 南宮神社は備後ゆかりの孝霊天皇とその皇子吉備津彦命を主たる祭神とする大社で創建は、大同2年(807)です。現在の建物は寛文9年(669)の建立で市指定文化財になっています。神宮寺は市宮神社の別当寺で、寺が宮から分離した時、鐘っき堂だけは神社に残したので、今でも神社の境内に鐘楼があります。神宮寺には県の重要文化財である鎌倉時代の春日版600巻の「大般若経」と絹本暑色釈迦十六善神 があリ郷土館に展示してあります。寺のすぐ裏山に孝霊天皇御陵伝説地といわれる古墳かあります。
 --- 府中商工会議所 ---

 ◆南宮神社の別当寺

 --- 2008年07月01日 https://blog.goo.ne.jp/rit3918/e/aec671dc6a53ccce02c8cb840485a488 ---

 “あじさい寺”の神宮寺は、面白い寺だった。裏山にある南宮神社の別当寺だったそうで、その境内にお寺の鐘楼があるのだ!
 本来なら、明治新政府の施策で神仏を分離させられる筈だったのだが、何故か鐘楼だけ神社の境内に取り残されたらしい。
 説明文を読むと、
 初代の梵鐘は、広島藩主・福島正則が広島へ持ち帰ろうとして尾道沖で沈没し、2代目は、1855年のペリー来朝の際、外国船に備えて大砲に改鋳する為に徴発され、それ以来平成16年に至るまで梵鐘が無かったと言う。
 流石に明治新政府も、空っぽになった鐘楼を「境内から移動しろ!」とはいい難かったのだろうか?今となっては定かではないが、いずれにしても150年も梵鐘の無い鐘楼はさぞや寂しかったであろうと同情する!

 孝霊天皇を祀った南宮神社の近くには孝霊塚という古墳もあった。
 古墳には宝筐印塔(供養塔)が立っていて、孝霊天皇の御陵(天皇のお墓)と言い伝えられているそうだ。
 息子は四道将軍として山陽道を制圧した吉備津彦命で、備前・備中・備後にある吉備津神社の祭神として祀られている。父子共に神話の世界の人達で、実在したかどうかについてははっきりしないらしいのだが、こうして神社に祀られていると嘗て実在した人物と感じてしまう。
 宗教とは不思議なものだ!

 ・(南宮神社)
 主祭神は第7代孝霊天皇などで創建は807年。昔は新市の吉備津神社と肩を並べる備後三大社のひとつであった。神社に鐘楼があるのは神仏習合時代の名残りで、広島県内には二社、全国でも二百余社しかなくて珍しい。

 ・(孝霊塚)
 孝霊天皇の御陵と伝えられる古墳で、孝霊天皇が退位後、仙洞(退位した天皇の御所)として住んでいたが、死後そこに御陵が築かれた…と言う説や、息子の吉備津彦命が四道将軍として吉備国に滞在中、孝霊天皇を偲んで分霊を祀る御陵を築いた、と言う説がある。

 それでは、「孝霊天皇御陵伝説地」に向かってみます事に(^-^)//"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(11)

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 本殿内の御神像は拝観不能ですけど、案内表示板には、こんな記載が…

 ◆南宮神社御神像

 平成24年、東京国立博物館学芸員による御神像調査が行われ、平安時代に作成されたものと判明、平成25年4月東京国立博物館において開催された国宝大神社展に出展され、丸体の御神像は全国的にも珍しく、大評判となりました。
 平成25年12月吉日 南宮神社 総代会

 …と、こんな記載がありました。
 WEB上で「南宮神社 御神像」と検索してみますと、こんな記載も…

 ◆木造神像・木造随神立像の概要

 ・名称(よみがな) -- 木造神像(11軀)・木造随身立像(4軀)(もくぞうしんぞう・もくぞうずいじんりゅうぞう)
 ・指定種別・種類 -- 国指定重要文化財・彫刻
 ・所在地 -- 広島県府中市栗柄町2980
 ・所有者 -- 宗教法人南宮神社
 ・公開状況 -- 非公開

 備後国府の南方に位置する南宮神社に伝来した11躯の神像と、二組の随身像である。
 神像は本殿内に御神体として安置されていたもので、像高や作風などから男神その1~4と女神その1~3、女神その4・5と童子形、男神その5に分けられる。そのうち男子その1~4と女神その1~3は同じ作者の手になるとみられるが、年齢や身分を区別しており神格の違いを造り分けているものとみられる。神像製作の有様を考察するうえで注目される。
 随身立像は、随身門に安置されていた左右一対の神像二組で、その1・2の製作年代は12世紀後半と考えられ、中国・瀬戸内地方では古例に属する。その3・4は、その体勢や衣文表現に写実味があり、製作年代は13世紀前半から半頃と考えられる。
 本神像群は平安末期(12世紀後半)から鎌倉前期(13世紀前半)にかけての製作とみられ、多様な特徴を具えるのに加えて、出来栄えも一定の水準以上で、詳細な製作事情は不詳ながら近在の備後国府の関与があったと考えられる。当地方の神像彫刻を考えるうえで重要な作例と評価される。

 本殿の床下には、こんな案内表示板も…

 ◆府中市指定有形文化財 南宮神社 本殿

 --- 昭和58年12月6日指定 ---

 祭神=孝霊無天皇 伊弉諾・伊弉冉神金山彦を主祭神として14柱を祀る。
 大同2年(807年)の創建で、大昔は宮内の吉備津神社と肩を並べる備後三大社一つであったとも伝える。
 現在の本殿は、寛文9年(1669年)の造営と考えられ、正面5間、側面3間で入母屋造りである。大規模な5間社は県内に例が少ない。特徴として向拜は千鳥破風・唐破風付。
 内部は身舎柱が立ち仏堂的な建築様式である。近くには神仏習合を物語る別当の神宮寺があり、また、境内に鐘楼が残っている神社は珍しく、往古は非常に隆昌を誇った神社である。

 --- 府中市教育委員会・南宮神社 ---

 本殿右側には、再築のため比較的新しい四体の神社が…左から右に「塞之神」「市杵島神社」「出雲神社」「貴船神社」が存在です(^.-)☆

 ◆市杵島神社

 ・市杵嶋姫神を祀る。
 ・通称・宮島さん。

 安芸・厳島神社より勧請された神社です。もともとはここから200mほど離れた地に鎮座し明治時代初め頃までは、秋祭りの御旅所として賑わっていたそうです。が、神輿が担がれなくなると次第に忘れ去られて衰退…そんな経緯を経て、2000年に地元の有志によってこの地に移転再建された。

 ◆貴船神社

 ・水波能売神を祀る。

 もともとは、南宮神社・末社の筆頭である二宮として、栗柄・土生・僧殿・府川・高木・中須という6村の崇敬社だったそうです。当時は、平井の城平という地に祀られていた。しかし、1716年建立の本殿の破損が激しく、また同所に再建することが困難だったため、2004年にこの地に移転再建された。


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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(10)

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 石段を上がって行きますと、スグ正面に本殿が…

 『本殿は正面五間、奥行三間の巨大な堂だ。ぱっと見には、八幡造か権現造の拝殿のように見えるが、この堂には背後に別の建物はなく、これ自体が本殿なのである。寺とも神社ともつかない建物だ。』…と、WEB上に綴っておられます方が…
 うん、うん、確かに背後に続く建物はありません。こぅぃぅ神社も珍しくはありますネ(^.-)☆

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(8)

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 皆さん思い思いにカメラを向けて楽しんでおられます(^.-)☆
 中には、難解な構図でカメラを構えておられます方も…GONsanも真似して同じ場所からカメラを向けてみるのですけど、凡人のGONsanには、どぅ撮ってイィものやらサッパリ(^-^;
 その内に、南宮神社入り口の石標にヤッて来ました。手前には「遊歩道入口↗」の案内標識も…
 どちらに進もうか…と暫し思案のあげく、先に「南宮神社」に進みます事に(^-^)//"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(7)

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 本堂を通り過ぎ、一旦、境内から外の山道へと進みます。
 境内から出ますと二つ目の蓮池が…この蓮池に沿って「順路」の標識に従って進行です。色んな紫陽花がありますし、種類によっては、非常に大きな花を付けており見応えがありますネ。良く手入れもされておりました(^_^)v
 直進しますと、山の上には「南宮神社」が(^-^)//"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(6)

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 紫陽花を背景に、そして、愛犬をモデルに撮りまくっておられます方がおられましたけど、これも拝見しておりますと仲々楽しい光景です(^.-)☆
 ご持参の椅子を片手に、気に入った場所にセット。その椅子にチャンとイィ子してワンchanがポーズを取っています様子は、大変微笑ましい光景でもありました(^-^)//"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(5)

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 お寺の庭は、庭園らしく黒松などが植えてありますが、あじさいも庭のあちらこちらに存在です(^.-)☆
 神宮寺には、何でこんなに紫陽花が…との疑問も生じますので、WEB上で調べてみましたら、こんな記載が…

 ・府中市役所(広島県)

 --- 2015年6月11日 ---

 あじさい寺で有名な神宮寺の住職さんいわく、「あじさいはお辞儀をするけぇ、あいさつしとるみたいでええなあ」ということであじさいを植えられたそうです。
 ご近所の方が「神宮寺あじさいを育てる会」を結成され、月に2回集まって、草取りや看板設置、遊歩道の作業などされています。作業を呼びかける「あじさいニュース」というチラシは128号になっていました。
 あじさいは、湿気があって、お昼から日が陰るような場所がいいそうです。なので、あちこちに色んな種類の木が植えてあり、その木の陰にあじさいが咲いています。
 木の香りと、ひんやりとした空気、やさしいあじさいで心を癒してください。
 あじさい祭りは7月4日まで。駐車場代が300円必要です。
 あじさいは見頃を迎えています。府中市観光協会のHPはこちら→http://fuchu-kanko.jp/?page_id=680

 …と、こんな記載でありました。そんな経緯で(^-^)

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(4)

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 蓮池の廻りを一周しましたので、お寺の中に入ってみましょうか…
 んっ!?…拝観料がいるようですねぇ~500円を払って入門です。確か、300円の駐車料金も払いましたような…いゃ逆でしたか…駐車料金が500円で、拝観料が300円/一人でしたかも…う~ん、どちらでしたか覚えていません(^-^;
 お寺としましては、年に何度かの稼ぎ時なのでしょうから、まぁイィのですけど(^.-)☆

 神宮寺をWEB上で検索してみますと、こんなお寺のようであります。

 ◆神宮寺(あじさい)

 ・所在地 -- 〒726-0023 広島県府中市栗柄町2987番地
 ・お問合せ先 -- 神宮寺(あじさい寺) 電話:0847-45-5118

 80種3,000株のあじさい(市の花)が咲き誇る神宮寺(じんぐうじ)は、別名『あじさい寺』として知られています。毎年6月中旬から下旬にかけては『あじさい祭り』が開催されています。また、境内には地元栗柄町で発掘された土器や昔の生活用具等を展示した資料館もあります。

 ◆神宮寺の由来

 --- 神宮寺と南宮神社と孝霊天皇御陵伝説地 ---

 南宮神社は備後ゆかりの孝霊天皇とその皇子吉備津彦命を主たる祭神とする大社で創建は大同2年(807)です。
 現在の建物は寛文9年(1669)の建立で市指定文化財になっています。神宮寺は南宮神社の別当寺で、寺が宮から分離した時、鐘つき堂だけは神社に残したので、今でも神社の境内に鐘楼があります。
 神宮寺には県の重要文化財である鎌倉時代の春日版600巻の「大般若経」と絹本著色釈迦十六善神があり郷土館に展示してあります。
 寺のすぐ裏山に孝霊天皇御陵伝説地といわれる古墳があります。
 -- (広島県府中商工会議所から引用) --

 ・入園料金について -- 当園は、入園無料です。
 ・お車でお越しのお客様は、駐車料金をお願いします。
  一般車両(普通乗用車・軽四等)=300円
  大型車両(マイクロバス以上) =500円

 ◆神宮寺

 南宮神社の参道にある別当寺。(広島県府中市栗柄町)
 神宮寺、南宮神社の参道の途中にある寺。
 かっての南宮神社の一部だった寺。「神宮寺」というのは、神仏習合時代に神社の中にある寺を指す一般名詞であって、固有名詞ではないのだが、神仏分離時に固有名詞を付けずにそのまま一般名詞が名前になってしまったのだろう。

 …と、こんな「神宮寺(あじさい)」のようであります(^-^)//"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(3)

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 GONsanの前を歩かれますお姉さん…立ち止まってはパチリ、そして数歩進んでは、またパチリ(^.-)☆
 その後をノンビリと歩きますGONsanなんですけど、そのお姉さんの立ち止まりました場所に行きますと、GONsanもまた同じアングルでパチリ(^-^)
 暫くこんな繰り返しが続きました。うん、うん、この方とGONsanは、撮りたい被写体が似ていますようでしたネ。

 小さな滝の左側には『四葩(よひら) (紫陽花 あじさい) 平成12年6月 竹下陶子』と刻まれた小さな石標が設置されてありました。いゃぁ、お姉さんがカメラを向けておられなければ、GONsanは見落とすところでありました(^-^;
 嫁さんは好き勝手にスマホで撮っていますようですから、GONsanは暫くこの方の後方で同じような画像を撮りながら歩いてみたいと思います(^-^)//"

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6/20(土)は、府中市「あじさい寺(神宮寺)」を散策でした(^.-)☆(2)

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 それでは、散策開始です。駐車場の上に小さな蓮池が…皆さんカメラを向けておられますので、蓮池を見廻しながらGONsanもパチパチと(^.-)☆
 蓮池の傍らに、どなたかの句碑が…句碑には、こんな俳句が刻まれておりました。

  球たれて 喜ぶ寺の 四葩とて 陶子

 「四葩」とは何と読み、何だろう…「陶子」とは、何者?…で、早速、WEB上で検索してみましたら、うん、うん、こんな方でありました(^_^)v

 ・日本伝統俳句協会の竹下陶子(たけしたとうし)先生の句碑
 毬たれてよろこぶ寺の四葩とて(句碑の俳句)

 ・竹下陶子(たけしたとうし)[基之]
 現住所:広島県 所属結社:青芦会 出身県:島根県 生年月日:大正12年11月4日生
 俳歴略歴:昭和16年ホトトギス初入選。虚子、年尾、汀子先生に師事。
      昭和48年ホトトギス同人。青芦会主宰。造化随従、花鳥諷詠を貫徹。

 ・竹下陶子(たけした とうし) 芸術文化分野 福山市
 俳人、公益社団法人日本伝統俳句協会顧問
 永年にわたり、俳人として優れた活動を行うとともに、公益社団法人日本伝統俳句協会顧問等を務め、地域文化の振興に貢献している。

 ・「四葩」は「紫陽花」のこと?
 --- 2017-06-08 21:32:43 https://ameblo.jp/muridai80/entry-12282002316.html ---

 ブログ仲間のコメントに「ぜひ『プレバト』を見なさい」とあったので、今日、午後七時から、テレビの「プレバト」を視聴しました。面白くて笑うことが多かったのですが、疑問に思ったことを一つだけ書いておきます。
 「紫陽花(あじさい」)の別名として、「四葩(よひら)」という言葉が季語として二人の句に出てきましたが、夏井先生はまったくこの言葉には触れませんでした。
 確かに、「あじさい」より「よひら」の方が、一音少なく、経済的で他に一音まわせるではないかと夏井先生は言いそうですが(あるいは、夏井先生の季語集にその語があるのかもしれません)、俳句を知らない私にとっては「難解季語」です。
 そこで、あり合わせの辞書で調べました。
 「よひら」を「紫陽花」の別名としているのは、『日本国語大辞典』と『広辞苑』などいくつか見つかりました。
 しかし、この「よひら」を「四葩」と書いているのは、『広辞苑』と『三国』のみでした。それも『広辞苑』は「四片」の後に加えてです。
 「葩」の音は、「は」です。
 私の調べた範囲では、『諸橋大漢和』にも、この文字「葩」を「ひら」と訓読みするとは書いてありませんでした。他の学習に使う漢和辞典いくつかも、その「ひら」という「訓」はありませんでした。
 どうして、俳句を作る連中は、「紫陽花」という素晴らしい日本語を捨てるのか、そして、「四片(よひら)」ならまだしも、わざと「四葩(よひら)」というのか、いささか呆れています。
 あえて、繰り返します。「葩」という文字に「ひら」という「訓」はありませんよ。
 私にコメントを寄越した人曰く、「俳句は季語を除くと、残りは言葉のゲームですよ」とのこと。
 私は「ゲーム」をしている暇はありません。諦めました。

 …と、こんな色んな記載が。こんな世界に疎いGONsanなんではありますけど、毎週『プレバト』は楽しんでおりますので、大変参考になりました(^-^)//"

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